『後漢書』東夷伝の内容を簡単にわかりやすく解説【金印、帥升の謎に迫る・・・!】

この記事は約5分で読めます。
スポンサーリンク

今回は、弥生時代の日本について書かれた貴重な史料の1つ後漢書ごかんしょ東夷伝とういでんについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

『後漢書』東夷伝とは?

『後漢書』東夷伝には、紀元57年に奴国なこくの王の使者が後漢ごかんの都である洛陽らくようにやってきて光武帝こうぶていから印綬を受け、紀元107年には倭国王帥升すいしょうたちが奴隷160人を安帝あんていに献上したことが書かれている。

この記事を読んでわかること
  • 『後漢書』東夷伝って何?
  • 『後漢書』東夷伝にはどんなことが書かれているの?
  • 『後漢書』東夷伝からわかることって何?
スポンサーリンク
スポンサーリンク

『後漢書』東夷伝とは?

後漢書は、5世紀に中国が宋だった頃、范曄はんようという人物が書いた歴史書です。

後漢書のうち、東夷伝という巻に紀元100年前後の日本の様子が書き残されていました。

後漢書の中の東亜伝の巻という意味で、『後漢書』東夷伝というカッコを使った変わった表記になっています。

スポンサーリンク

『後漢書』東夷伝の内容は?

原文と現代語訳をそれぞれ載せておきます。現代語訳は私がなんとなく訳したものなので、イメージ程度で考えてください。

原文

建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす

安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。

桓霊の間(147〜189年)、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。

現代語訳

紀元57年、倭の奴国が、貢物を持って後漢へやってきた。使者は自らを大夫と称した。奴国は倭の南方に位置し、光武帝は使者に奴国に官職を与えるための印鑑を授けた。

107年、倭の国王である帥升たちが、160人を献上して、安帝と会うこと願った。

霊帝の在位期間(147〜189年)、倭国は大いに乱れ、国々が戦いあって、国を治める者がいなかった。

これらの内容について、大事なところをピックアップして紹介していきます。

スポンサーリンク

金印の発見

1784年(江戸時代)、福岡県の志賀島しがしま「漢委奴国王」と書かれた金で作られた印鑑が土の中から発見されました。

「漢委奴国王」とは「漢の倭の奴の王」という意味。

この発見により、歴史に詳しい人たちはこんなことを思います。

漢・奴国・印鑑。

この3つのキーワードって『後漢書』東夷伝に書かれてる内容とドンピシャじゃね!?

金印の発見によって、『後漢書』東夷伝に書かれている奴国は、今の福岡市付近にあった国の1つであり、光武帝が奴国に与えた印鑑は金の印鑑(金印)だったと考えられています。

スポンサーリンク

国王「帥升」は何者?

一方で、107年に話で登場する国王「帥升」は、謎に包まれています。

様々な研究の結果、帥升は数ある倭の国のうち、面土国めんとこくという国の王だったのだろうと言われています。

しかし、国の名前はわかっても、その場所はまだわかっていません。(奴国と同じく、九州のどこかだろうと言われています。)

また、『後漢書』東夷伝には帥升「たち」と書いてあります。そのため、安帝に会いに行ったのは、帥升をはじめとした九州地方の諸国の王たちだったのでは?と言われています。

そして、奴国は後漢に認められて金印をゲットできたのに対して帥升たちの記述には金印をゲットした話が残されていません。

もしかすると、帥升たちは安帝に認められなかったのかもしれません。

『後漢書』東夷伝の記載も、帥升たちが安帝と会えるようお願いしている・・・ってところで筆が止まっていて、安帝に会えたかどうかも謎です。

スポンサーリンク

奴国はなぜ後漢に使者を送ったのか

ところで、奴国はなぜ後漢に使者を送ったのでしょうか。

海を渡ってアジア大陸に渡るというのは、難破・遭難リスクもある命がけの行為です。命をかけてまで後漢に訪れる価値はあるのでしょうか。

実は、奴国にとって後漢に訪れることには大きく2つのメリットがあったと考えられています。

  • 1 後漢の後ろ盾を得て、倭国内の争いを有利にしようと考えた。
  • 2 アジア大陸の技術の進んだ物を手に入れて、他国よりも有利な立場に立とうとした。

このうち一番の理由は、先ほどお話しした金印の話と密接に関係しています。

奴国は、後漢の光武帝から「倭の奴の国王」であることを認められ、その証明として金印を授かっています。

この金印が、倭の国同士の戦いでめちゃくちゃ使えました。

おいおい君、俺の国に攻め込んじゃっていいのか?

俺は光武帝から金印を授かっているんだぞ。俺が負ければ、後漢も黙ってないと思うけど、そんな俺のこと攻めちゃっていいのかな?^^

と、他の国に対してマウントをとることができました。

スポンサーリンク

倭国騒乱、卑弥呼登場へ

『後漢書』東夷伝には、147年〜189年にかけて倭国は乱れ、国々が争ったと書かれています。

倭国の争いは簡単には収まりませんでした。終わりの見えない戦いに困り果てた諸国の王たちは騒乱を鎮めるため、共同で一人の女性を女王として擁立しました。

その女王の名は卑弥呼ひみこと言います。(名前を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか)

倭国が乱れて卑弥呼が活躍した日本はどんな様子だったのか?実は、その様子は「魏志」倭人伝と呼ばれる別の史料に書かれています。

弥生時代の日本の様子が書かれている史書は3つあります。

弥生時代の日本がわかる3つの史料

の3つです。これらはいずれも、おおむね紀元1〜200年頃の日本について書かれているもので、内容には繋がりがあります。その繋がりを意識することで、弥生時代中期〜後期の日本の様子がスッキリとわかるはずです。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする

\Tiwtterでも歴史の話をツイートしてるよ!/

弥生時代
シェアする
もぐたろうをフォローする
まなれきドットコム

コメント

  1. 宮本治男 より:

    後漢書より考えても、古事記を正しく理解すれば、神武天皇の即位はどう考えても西暦250年頃となりそうです。