

今回は江戸時代の三大改革のひとつ、享保の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!8代将軍・徳川吉宗がどんな改革をしたのか、なぜ行ったのか、一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「享保の改革」というと教科書に登場する堅いイメージですが、実は8代将軍・徳川吉宗は「米将軍」と呼ばれた庶民派の改革者でした。超倹約家で自ら木綿の着物を着て麦飯を食べ、時代劇「暴れん坊将軍」のモデルにもなった人物が、どのように幕府財政を立て直したのか——その全貌を解説します。
享保の改革とは?
- 実施者:8代将軍・徳川吉宗(1684〜1751)
- 期間:1716年〜1745年(享保元年〜延享2年)
- 目的:幕府財政の立て直し・政治の刷新(上米の制・足高の制・公事方御定書など)
享保の改革とは、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が1716年(享保元年)から1745年(延享2年)にかけて行った幕政改革のことです。江戸時代の「三大改革」のうち最初に行われたもので、財政難の打開・法制度の整備・有能な人材の登用など、幕府の根本的な立て直しを目指しました。
吉宗が将軍に就いたのは、7代将軍・家継が8歳という若さで亡くなり、徳川宗家の血筋が絶えてしまったことがきっかけです。御三家のひとつ、紀州藩(現在の和歌山県)出身の吉宗に白羽の矢が立ちました。幕府外から来た「よそ者」だからこそ、既存の慣例に縛られない思い切った改革ができたのです。

享保の改革って、誰がやったの?テストに出る?

超テストに出る!8代将軍・徳川吉宗だよ!1716年から約30年間行った改革で、「上米の制」「足高の制」「公事方御定書」などが超頻出ワードなんだ。「誰が・何年・内容」をセットで覚えよう!

享保の改革はなぜ行われた?その背景・理由
享保の改革が行われた最大の理由は、江戸幕府の財政が深刻な危機に陥っていたからです。吉宗が将軍に就任した1716年当時、幕府の金蔵はほぼ空になっていました。なぜそんな事態になったのでしょうか?
問題①:5代将軍・綱吉以降の財政悪化——「生類憐みの令」などで支出が増大し、金貨の改鋳(質を落として量を増やす)で幕府財政を乗り切ろうとした。その結果、激しいインフレが起きた
問題②:旗本・御家人の生活苦——幕府に仕える武士(旗本・御家人)の禄高は固定されていたため、物価が上がっても収入は増えず、生活が立ち行かなくなっていた
問題③:新田開発の遅れ・米の生産量の頭打ち——幕府の主な収入源は年貢(米)。しかし農地の開発が進んでいなかったため、収入増加が難しくなっていた
こうした複数の問題が重なり、幕府は「収入は増えないのに支出は増え続ける」という最悪の状況に陥っていました。6代・7代将軍の在位期間が短かったため、改革を推し進める余裕もなかったのです。

吉宗って、テレビの「暴れん坊将軍」のモデルなんですか?

そうだよ!吉宗は倹約家で、自ら木綿の着物を着て麦飯を食べたって言われてるんだ。紀州(現在の和歌山県)出身で、幕府の外から来たからこそ「しがらみなしで改革できる!」という強みがあったんだよね。

紀州から来た俺には幕府のしがらみがない。だからこそ、本当に必要な改革ができる!財政の建て直し、必ずやり遂げてみせる。
吉宗が将軍就任直後に発したのが「倹約令」です。大奥(将軍の後宮)の人員・経費を大幅に削減し、自らも質素な生活を実践しました。「上に立つ者が率先して範を示さなければ、下の者はついてこない」という考え方です。この倹約路線が、享保の改革全体の基調となりました。
吉宗の倹約ぶりは徹底していました。江戸城の大奥(将軍の後宮)への豪華な衣装や宴席を禁止し、不必要な奥女中を大幅に削減。みずからも木綿の着物と麦飯を実践し、幕府の重臣たちにも質素な生活を率先垂範しました。また、実学重視の観点から、家臣の青木昆陽に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を命じ、飢饉対策のための食料確保に取り組んだことでも知られています。
享保の改革の内容をわかりやすく解説
享保の改革には、数多くの政策が含まれています。大きく分けると、①財政を増やす・節約する施策と、②制度・法律を整備する施策の2本柱で構成されています。
以下では、特にテストで問われやすい6つの政策を順番に解説します。
■ 上米の制(あげまいのせい)
上米の制とは、1722年(享保7年)に実施された政策です。全国の大名に対して、1万石につき100石の米を幕府に上納させる制度でした。
その代わりとして、大名が江戸に滞在しなければならない期間(参勤交代の在府期間)が、従来の1年から半年に短縮されました。大名にとっては「米は取られるが、江戸での費用・移動費が減る」というトレードオフです。
📌 上米の制の数値(テスト頻出):1万石 → 100石上納(1%)。参勤交代の在府期間:1年 → 半年に短縮。1722年(享保7年)実施。1730年廃止(幕府収入が改善したため)。
上米の制によって幕府は毎年大量の米を確保でき、財政の一時的な安定に成功しました。しかし大名の負担は大きく、長続きはしませんでした。1730年(享保15年)に廃止され、在府期間も元の1年に戻っています。同年には大坂堂島米市場が幕府公認となり、米の全国流通が安定化に向かいます。
■ 足高の制(たしだかのせい)
足高の制とは、1723年(享保8年)に設けられた制度で、役職に就いている間だけ、その役職に必要な禄高に満たない分を加給する仕組みです。

足高の制って何?テストで「役職在職中に禄高を加給した制度は?」って聞かれた!

それが「足高の制」だよ!今でいう「役職手当」のイメージだね。役職についている間だけ給料が上乗せされて、役職を退いたら元の禄高に戻る。だから禄高が低い人でも、能力さえあれば重要なポストに就けるようになったんだ!
足高の制が生まれた背景には、江戸時代の身分制度の問題がありました。江戸幕府では「禄高が〇〇石以上でないとこのポストにはなれない」という規定がありました。そのため、実力があっても禄高が低い旗本は要職に就けない状況だったのです。
足高の制によって、有能な人材を禄高に関係なく重要ポストに登用できるようになりました。また、役職を退くと上乗せ分はなくなるため、幕府の財政負担を最小限に抑えられるという利点もありました。「人材を使う間だけコストをかける」という、非常に現代的な発想の制度です。
■ 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
公事方御定書は、1742年(寛保2年)に完成した江戸幕府の法典です。裁判の基準を成文化し、全国で統一した司法運用を可能にしたものです。
📌 公事方御定書の構成(テスト頻出):上・下2巻構成。上巻は従来の法令集、下巻は刑事裁判の量刑基準(103か条)。1742年(寛保2年)完成。一般公開はされず、奉行所のみに備え置かれた。
それまでの江戸幕府では、裁判官(奉行)の個人的な判断で刑罰が決まっていました。そのため、同じ犯罪でも担当者によって量刑がバラバラになる問題がありました。公事方御定書はこの問題を解決するため、「この罪にはこの刑罰」という基準を明文化したものです。
法の整備という点で、吉宗の改革の中でも最も長期的な影響を持った政策のひとつです。公事方御定書の内容は、明治時代の近代法整備にも参照されました。
■ 目安箱の設置・町火消の創設
1721年(享保6年)、吉宗は江戸城の評定所門前に目安箱を設置しました。身分に関係なく、誰でも直接将軍に意見・訴えを届けられる仕組みです。

庶民の声を直接聞かないと、正しい政治なんてできない。だから目安箱を置いたんだ。身分も何も関係ない。本当に困っていることを、直接わしに届けてほしい。
目安箱に寄せられた意見の中から実際に政策として実現した有名な例が、小石川養生所の設立です。町医者の小川笙船が「江戸の貧民には医者にかかるお金がなく、病気になっても治療を受けられない」と訴えたことがきっかけで、1722年(享保7年)に無料で診察を受けられる施設が設立されました。これは日本最初の公立病院的な施設とも言われています。
同じ頃、吉宗は町火消も創設しました。それまで消火活動は大名火消(大名の家臣が行う)や定火消(幕府直属の消防隊)が担っていましたが、江戸の人口増加に対応できなくなっていました。1718年(享保3年)に創設された町火消は、江戸の庶民(町人)を中心に組織された消防隊です。「い組」「ろ組」などの組が有名で、現代の消防団の原型となりました。
■ 新田開発
幕府の財政収入の主柱は年貢(農作物、特に米)です。収入を増やすには、米の生産量を上げるしかありません。そこで吉宗が積極的に進めたのが新田開発です。
河川沿いの低湿地の整備や干拓、荒れ地の開墾を奨励し、新たな農地の創出を進めました。享保年間の新田開発は規模が大きく、全国各地で数十万石規模の新しい農地が生まれたとされています。これによって幕府の年貢収入は着実に増加しました。
また、吉宗は農業技術の向上にも力を入れ、各地から農業に詳しい人材を集めて指導させました。さらに定免法(年貢の徴収率を一定期間固定する制度)を取り入れ、農民が増収に励む意欲を引き出す工夫も行っています。
享保の新田開発で特に象徴的なプロジェクトが、1728年(享保13年)に完成した見沼代用水です。武蔵国(現在の埼玉県)に広がる低湿地帯を大規模干拓し、総延長約60kmにおよぶ用水路を整備しました。幕府の勘定奉行・井沢弥惣兵衛が指揮した一大工事で、見沼新田として約1万石以上の水田が一挙に誕生しました。江戸に近い大規模穀倉地帯として、幕府の年貢収入を長期にわたって支えました。
享保年間(1716〜1736年)の新田開発の累計は約29万石に達したとも言われ、幕府の年貢増収に直結した実績を残しています。「収入を増やすには農地を増やすしかない」という発想で地道に成果を積み上げた、吉宗らしい実学的アプローチでした。
■ 米価問題と「米将軍」のジレンマ
享保の改革を語るうえで見落とせないのが、「米」をめぐる深刻な矛盾です。江戸幕府の財政収入の根幹は年貢(米)でした。米の価格が高ければ幕府・大名の収入は増えます。ところが江戸の庶民——職人・商人・日雇い労働者など——は米を買って食べる側です。米が高くなると生活が直撃します。
逆に米価が下がると庶民は助かりますが、農村の収入は減り年貢も減ります。このどちらを選んでも誰かが苦しむというトレードオフが、江戸幕府の財政を根底から縛っていました。

米の値が上がれば幕府は助かるが、江戸の民が苦しむ。下がれば民は助かるが、幕府と農村が苦しむ……どちらを選んでも誰かが傷つく。これほど悩ましい問題はなかった。
1730年(享保15年)に幕府が大坂堂島米市場を正式に公認したのも、この問題と深く関わっています。大坂堂島は全国最大の米流通拠点で、ここで形成される価格が全国の米相場を左右していました。幕府が市場を制度的に公認することで、米の価格形成を把握・管理しやすくする狙いがありました。
大坂堂島米市場は、全国の大名・豪商が米を売買する「江戸時代の先物取引市場」です。各地の大名は自領の年貢米を大坂に回送し(蔵米)、ここで換金していました。取引高は世界最大規模とも言われ、堂島でついた相場が全国の米価の基準となっていました。1730年の幕府公認により、米の全国流通が制度として整備されました。
こうした取り組みにもかかわらず、米価の安定は一筋縄ではいきませんでした。豊作になれば価格が暴落して農民の収入が激減する「豊作貧乏」、凶作になれば価格が暴騰して庶民が食べ物を買えなくなる——という問題が繰り返されました。

「米将軍」って良い意味のあだ名ですか?

「米のことしか考えていない将軍だ」という皮肉っぽいあだ名なんだよ。吉宗が米価を高く保とうとする政策を次々打ち出したから、「また米のことか……」と庶民がこぼしたのが由来とも言われているよ。財政のために米価を上げたい幕府と、安い米で生活したい庶民——この溝が「米将軍」という呼び名に込められているんだ。
■ 洋書輸入緩和(漢訳洋書の輸入解禁)
吉宗の改革の中で、あまり知られていないがとても重要な政策が「洋書輸入の緩和」です。江戸幕府はもともとキリスト教を禁じており、西洋の書物(洋書)の輸入を厳しく制限していました。
しかし1720年(享保5年)、吉宗はキリスト教に直接関係しない実用的な書物(農業・天文・医学・地理など)については、漢文に翻訳されたものの輸入を解禁しました。これにより西洋の科学・技術が日本に流入し始め、後の蘭学(オランダを通じた西洋学問の研究)の発展につながります。
吉宗自身もオランダ語を学ぼうとしたとされており、実学(実際の役に立つ学問)を重視する姿勢が伺えます。この判断がなければ、日本の西洋科学への扉はさらに長い間閉ざされていたかもしれません。

洋書の輸入を解禁したのも吉宗なんですか?鎖国していたのに意外です。

意外だよね!「役に立つ知識は使うべき」という吉宗らしい実用主義の現れだよ。この洋書解禁がなければ、杉田玄白の『解体新書』(1774年)も生まれていなかったかもしれない。蘭学の芽を吹かせたのも吉宗の一面なんだ!

享保の改革の結果・評価(成功した点・失敗した点)
約30年にわたって実施された享保の改革は、一定の成果を上げながらも、さまざまな問題点も残しました。「全体的に成功か失敗か?」と問われれば、財政面では部分的な成功、庶民生活への影響という点では評価が分かれるというのが正直なところです。
成果(メリット):幕府財政の改善 / 新田開発による石高増加 / 法整備(公事方御定書)の進展 / 人材登用制度(足高の制)の確立
限界(デメリット):米価の不安定による庶民生活の打撃 / 年貢率の引き上げ(農民負担増)/ 享保の飢饉(1732年)の発生

享保の改革は全体的に成功だったんですか?それとも失敗?

財政の立て直しには一定の成果があったけど、後の享保の飢饉(1732年)は改革の限界を示したんだよね。「良い点もあったが問題も残した」——三大改革の中では最も「マシな結果だった」という評価が多いよ!
後の寛政の改革(松平定信)や天保の改革(水野忠邦)は、いずれも大きな失敗に終わっています。それと比較すると、享保の改革は「三大改革の中で最も成功した改革」という評価が定着しています。
享保の飢饉(享保の乱)とは?
享保の改革が進む中、1732年(享保17年)に西日本を中心に深刻な大飢饉が発生しました。これが享保の飢饉です。

原因はウンカ(稲に寄生する害虫)の大量発生でした。ウンカが西日本の稲作を壊滅的に破壊し、九州・中国・四国・近畿地方を中心に大規模な飢饉が起きたのです。死者数は諸説ありますが、数万人から十数万人にのぼるとされています。
📌 「享保の乱」とは?:享保の飢饉に伴い、食糧不足に苦しんだ庶民が米問屋や富裕層を襲う「打ちこわし(一揆)」が各地で起きた。この打ちこわしを「享保の乱」と呼ぶことがある。教科書では「享保の飢饉」の表記が一般的。
飢饉に苦しむ庶民は、米を買い占めて高値で売りさばく米問屋に怒りを向けました。江戸でも「打ちこわし」(米屋などを集団で破壊する実力行使)が発生し、幕府は対応に追われることになります。
特に歴史的に知られているのが、翌1733年(享保18年)1月に江戸で起きた打ちこわしです。米を買い占めて高値で売りさばいていた米問屋・高間伝兵衛の家に、2,000人ともいわれる民衆が押し寄せました。これは江戸時代を通じて江戸で最初の本格的な打ちこわしとされており、改革の恩恵が庶民まで届いていなかったことを示す衝撃的な出来事でした。
享保の飢饉は、享保の改革の「光と影」をはっきりと示した出来事です。新田開発で農業生産力は上がっていたものの、天候・害虫など自然要因への対策は不十分だったのです。米価を高く保とうとした政策も、飢饉の状況では庶民の食糧不足をさらに悪化させる結果となりました。

享保の飢饉って、享保の改革の失敗ってこと?テストではどう書けばいい?

テストでは「享保の飢饉は享保の改革の限界を示した」と書くのがポイント!「完全な失敗」ではなく「改革の問題点を浮き彫りにした」というニュアンスだよ。飢饉の年(1732年)・原因(ウンカ)・地域(西日本)はセットで覚えておこう!
飢饉に直面した吉宗は、素早く行動しました。幕府の備蓄米を被災地に放出し、江戸でも米価の高騰を抑えるために米問屋への価格統制を命じています。一部地域では救済のための炊き出しも行われましたが、広域の被害を前に幕府の対応は十分とは言えませんでした。
享保の飢饉が明らかにしたのは、「米を財政の柱にする」という江戸幕府の仕組み自体に内在する矛盾です。豊かな収穫があれば米価が下がって幕府・農村が苦しみ、不作になれば庶民が飢える——この構造的問題は吉宗一人の力では解決できませんでした。「米将軍」と呼ばれた吉宗の奮闘も、最終的にはこの壁に阻まれる形となりました。
この経験を経て、吉宗の後を継いだ将軍たちは幕府財政の問題と向き合い続けることになります。吉宗の後に政権を握ったのが、あの田沼意次です。享保の改革の「農業・倹約路線」から田沼の「商業・重商主義路線」への転換は、享保の飢饉が大きなきっかけのひとつになったと言われています。
三大改革の比較(享保・寛政・天保)
江戸時代の「三大改革」とは、享保の改革・寛政の改革・天保の改革の3つをまとめた呼び方です。いずれも深刻化する幕府財政の立て直しを目的とした大規模な幕政改革でしたが、実施者・時代背景・手法・結果はそれぞれ大きく異なります。
テストでは「三大改革を古い順に並べよ」「実施者を答えよ」という出題が多いため、「享保→寛政→天保」の順番と「吉宗→定信→忠邦」の実施者をセットで暗記することが重要です。
| 比較項目 | 享保の改革 | 寛政の改革 | 天保の改革 |
|---|---|---|---|
| 時期 | 1716〜1745年 | 1787〜1793年 | 1841〜1843年 |
| 実施者 | 徳川吉宗(8代将軍) | 松平定信(老中) | 水野忠邦(老中) |
| 主な政策 | 上米の制・足高の制・公事方御定書・目安箱 | 寛政異学の禁・囲米・棄捐令 | 株仲間解散・人返し令・上知令 |
| 倹約令 | あり(質素・倹約を奨励) | あり(白河の清きに) | あり(厳格すぎて反発) |
| 結果 | 財政改善・享保の飢饉(限界も露呈) | 効果は限定的・6年で終了 | 失敗・水野忠邦が失脚 |
| 評価 | 三大改革の中で最も成功 | 厳しすぎると批判(「白河の清きに魚も住まれぬ」) | 最も短命・最も失敗 |
3つの改革に共通するのは「幕府財政の悪化への対応」という目的です。しかし時代とともに江戸の都市化・商品経済の発展が進み、「米中心の農業経済」という幕府の発想自体が時代遅れになっていきました。享保の改革が「農業生産力の向上と倹約」で一定の成果を上げたのに対し、寛政・天保は同じ路線をより厳しく追い求めた結果、庶民の反発を招いて短命に終わっています。
📌 寛政の改革との混同注意:「囲米(かこいまい)」は寛政の改革の政策。「上米の制」との混同に注意。また「棄捐令(きえんれい)」(旗本・御家人の借金を帳消しにした令)も寛政の改革のもの。享保の改革にはない。

三大改革を一言で言い分けるには?混乱しやすいんだけど…

「享保=吉宗が一番成功・上米と足高」「寛政=定信が少し成功・囲米と棄捐令」「天保=忠邦が一番失敗・株仲間解散」って覚えると整理しやすいよ!順番は「享・寛・天(きょう・かん・てん)」で語呂合わせで覚えよう!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「享保の改革=1716年・吉宗」「足高の制=役職在職中だけ加給」「上米の制=1万石に100石・在府半年」「公事方御定書=1742年・下巻103か条」の4セットを優先して固めよう。記述問題では「享保の飢饉は改革の限界を示した」という表現が加点ポイントになりやすい。三大改革の比較問題は「享・寛・天(きょう・かん・てん)」で順序を覚えること。

テストで一番聞かれるのはどこ?全部は覚えられないよ〜

優先順位をつけると①「享保の改革を行ったのは誰?」②「足高の制とはどんな制度か?」③「上米の制で大名が上納した量は?」の3問が最頻出!次いで「公事方御定書の完成年・下巻の内容」が記述問題によく出るよ!
よくある質問(FAQ)
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が1716年(享保元年)から約30年間行った幕政改革です。深刻な幕府財政の立て直しを目的とし、倹約令・増収策・制度改革の3方向から取り組みました。上米の制・足高の制・公事方御定書・目安箱の設置などが主な政策で、三大改革(享保・寛政・天保)の中で最も成功した改革とされています。
3つの改革はいずれも幕府財政の再建が目的ですが、実施者・時代・手法・結果がそれぞれ異なります。享保の改革(吉宗・1716年〜)は将軍自身が主導し、財政面で一定の成果を上げた最も成功した改革です。寛政の改革(松平定信・1787年〜)は老中が主導し、倹約と学問統制が中心でしたが6年で終わりました。天保の改革(水野忠邦・1841年〜)は株仲間解散など急進的な政策が失敗し、わずか2年で忠邦が失脚しました。三大改革の順番「享保→寛政→天保」と実施者「吉宗→定信→忠邦」は必ず覚えましょう。
1723年(享保8年)に設けられた制度で、役職に就いている間だけ、その役職に必要な禄高に不足している分を上乗せ(加給)する仕組みです。たとえば老中の役職には禄高3,000石以上が必要なのに、1,500石の旗本が就いている場合、在職中だけ1,500石が上乗せされます。役職を退くと元の禄高に戻ります。テストでは「役職在職中だけ禄高を加給する制度=足高の制」と一文で答えられるようにしましょう。
「完全な失敗」とは言い切れません。享保17年(1732年)に発生した享保の飢饉は、ウンカ(害虫)による西日本の稲作被害が原因で、自然災害的な側面もあります。ただし、吉宗の米価政策(米の価格を高くしようとする政策)が飢饉時の庶民の食糧不足をさらに深刻にした面もあり、「改革の問題点・限界を示した出来事」という評価が一般的です。テストでは「享保の飢饉は享保の改革の限界を示した」という書き方が適切です。
はい、テレビ時代劇「暴れん坊将軍」(1978〜2003年、テレビ朝日系)の主人公・徳川吉宗のモデルが、実際の8代将軍・徳川吉宗です。ドラマでは江戸の町に庶民として紛れ込み、悪を成敗する痛快な物語が展開されます。史実の吉宗は「倹約の将軍」として木綿の着物を着て麦飯を食べたとされる質素な人物であり、庶民目線で政治を行った点はドラマの描写と通じるものがあります。「米将軍」という二つ名は、米の価格政策を重視したことへの皮肉混じりの呼び名です。
上米の制は1722年(享保7年)に実施され、1730年(享保15年)に廃止されました。廃止の理由は、大名による上納米の財政効果が一定程度見込めるようになったことと、同年に大坂堂島米市場が公認されて米の流通が安定し始めたためです。また、参勤交代の在府期間を半年にするという優遇措置が大名側の不満の原因にもなっていたため、在府期間を元の1年に戻して上納米制度を廃止するという取引も背景にありました。
まとめ:享保の改革のポイント

以上、享保の改革のまとめでした!「三大改革の比較」や「徳川吉宗ってどんな人?」が気になる人は、下の関連記事もあわせて読んでみてください!
享保の改革の理解を深めるおすすめ本
享保の改革・徳川吉宗についてさらに深く知りたい方へ、入門書をご紹介します。
吉宗の人物像から享保の改革の全体像まで丁寧に解説した1冊。テスト勉強だけでなく、「なぜ改革が必要だったのか」を深く理解したい人にもおすすめだよ!
-
1716年(享保元年)徳川吉宗が8代将軍に就任・享保の改革開始
-
1721年(享保6年)目安箱を設置
-
1722年(享保7年)上米の制を実施・小石川養生所を設立
-
1723年(享保8年)足高の制を制定
-
1730年(享保15年)上米の制を廃止・大坂堂島米市場を公認
-
1732年(享保17年)享保の飢饉(ウンカによる西日本大凶作)
-
1742年(寛保2年)公事方御定書を完成
-
1745年(延享2年)享保の改革 終了(吉宗、将軍職を息子・家重に譲る)
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「享保の改革」「徳川吉宗」「享保の飢饉」「足高の制」「公事方御定書」(2026年5月確認)
コトバンク「享保の改革」「足高の制」「上米の制」「公事方御定書」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 江戸時代の記事をもっと読む → 江戸時代の記事一覧を見る




