

今回は明暦の大火(振袖火事)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!江戸時代最大の大火事——その真相と、驚きの復興をまるごと学んでいこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「振袖火事」という名前から、振袖が燃えて火事が起きたと思っている人が多いのではないでしょうか。実は、振袖が直接の原因だったという歴史的記録は一切残っていません。それどころか、出火原因は今でもナゾのままなんです。
1657年(明暦3年)1月、江戸を襲った史上最大の大火——。死者は3万人とも10万人とも言われ、江戸の市街地の6割が焼失しました。江戸城の天守閣まで燃え落ちた、まさに東京大空襲に匹敵するような大災害でした。しかしこの大火が、のちの「江戸」という都市の姿を根本から作り直すことになったのです。

えっ、振袖火事なのに振袖は関係ないの?どういうこと?

それが実は、「振袖が燃えて火が広がった」というのは江戸時代に広まった伝説なんだ。歴史的な証拠はないし、出火原因は今もよくわかっていないんだよ。詳しくは次の章で解説するね!
明暦の大火とは?
- 1657年(明暦3年)1月18〜20日、江戸を襲った史上最大の大火災。別名「振袖火事」
- 死者3万〜10万人・江戸市街地の約6割が焼失・江戸城天守閣も焼け落ちた
- 復興を主導した保科正之が「天守再建より民の救済」を優先し、現在の東京の原型をつくった
明暦の大火とは、1657年(明暦3年)1月18日から20日にかけて江戸を焼き尽くした、日本史上最大規模の大火災です。別名「振袖火事」とも呼ばれます。
発生したのは、第4代将軍・徳川家綱の時代。当時、家綱はわずか16歳でした。江戸という都市がようやく発展してきた時期に、この大火が全てを一変させたのです。
火は3方向から江戸城に向かって燃え広がり、3日間燃え続けました。現在の東京の中心部にあたるエリアのほぼ全域が焼失したと言われています。

📌 基本データ:1657年(明暦3年)1月18〜20日 / 第4代将軍・徳川家綱の時代(当時16歳)/ 江戸三大火事のひとつ
江戸三大火事とは、明暦の大火(1657年)・明和の大火(1772年)・文化の大火(1806年)のことを指します。なかでも明暦の大火は規模・被害ともに群を抜いており、「江戸の歴史を変えた大事件」として歴史教科書にも必ず登場します。

1657年って、江戸幕府が開かれてからまだそんなに経ってないのよね?どんな時代だったの?

次の章では、「振袖火事」という名前の由来になった、江戸時代に広まったある伝説をご紹介します。
振袖火事の伝説──少女の恋が生んだ呪いの振袖
「明暦の大火」が「振袖火事」とも呼ばれるようになったのは、江戸時代の後期に広まったある伝説が由来です。歴史的な根拠はないとされていますが、あまりにもドラマチックな話なので、今でも語り継がれています。
■伝説の内容──3人の少女と呪われた振袖
伝説の内容はこうです。
江戸に住む商家の娘が、ある日、通りで美しい若い男性を見かけました。一目惚れした娘は、その日から恋の病に伏せるようになり、やがて亡くなってしまいました。形見として残されたのは、娘が大切にしていた一枚の振袖でした。
この振袖は古着屋に売られ、その後も転々と別の娘のもとへ。不思議なことに、振袖を手にした娘たちは次々と同じように恋の病にかかり、命を落としていきました。3人の娘が亡くなったと伝えられています。
恐れた人々は振袖を本妙寺(現在の文京区本郷・当時は本郷丸山にあった)に持ち込み、供養のために燃やそうとしました。ところが——振袖に火がつくと、突然の強風にあおられて炎が燃え広がり、やがて大火になってしまったというのです。

3人の少女が次々に亡くなって、同じ振袖が原因だったなんて…それはちょっと怖い話ね。ホラー映画みたい。

すごくドラマチックな話だよね!でもこれ、実は江戸時代の後半に広まった「都市伝説」みたいなものなんだ。当時の一次史料(古い記録文書)には、この振袖の話は一切出てこないんだよ。
■伝説と史実の違い──史料が語る真相
では、本当のことは史料にどう記されているのでしょうか。
明暦の大火を記録した最も重要な一次史料のひとつが、『むさしあぶみ』という書物です。これは大火から4年後の1661年(万治4年)に刊行された目撃談をもとにした記録で、大火の状況がリアルに描かれています。しかし、この『むさしあぶみ』には「振袖を燃やした」という記述はどこにも出てきません。
本妙寺が火元だったことは史実として記録されています。ただ、「振袖が原因で火がついた」という部分は、後世になって付け加えられた話と考えられているのです。
「振袖火事」という呼び名が定着したのは江戸時代後期のことで、大火から100年以上が経過してから広まったとされています。大火という凄まじい出来事に、人々がドラマチックな「なぜ」を求めた結果、生まれた物語と言えるかもしれません。
史料「むさしあぶみ」には、振袖の記述はない。本妙寺での出火は史実だが、「振袖を燃やして供養した」という部分を裏付ける当時の文書は確認されていない。「振袖火事」という名称は明暦の大火の規模の凄まじさを象徴する後世の呼び名として定着したと考えられている。なお、江戸後期の歌舞伎や草双紙にこの伝説が登場するようになり、広く知られるようになった。
次の章では、「振袖」ではないとすれば、本当の出火原因は何だったのか——謎に迫ります。
本当の出火原因は?3か所から燃え広がったナゾ
明暦の大火の最大の謎のひとつが、「なぜそれほど大規模な火災になったのか」という点です。実は、明暦の大火は1か所からの出火ではありませんでした。
史料によると、大火は3か所で別々に発生した火が合流・拡大したとされています。
出火①:本郷丸山・本妙寺(第1火・1月18日)
出火②:小石川・伝通院付近(第2火・1月19日)
出火③:麹町(第3火・1月19日)
■各火元の詳細と燃え広がり方
第1火は1月18日の昼頃、本郷丸山にあった本妙寺から出火しました。強風に乗った炎は瞬く間に周辺の町へと燃え広がり、その夜には江戸城の方向へと向かっていきました。
翌19日には、小石川の伝通院付近でも新たな火が発生(第2火)。さらに同日、麹町でも出火(第3火)が確認されました。これら3つの火が強風にあおられながら江戸城に向かって収束し、町を次々に飲み込んでいったのです。
1657年1月は、関東特有の空っ風が吹く季節でした。低温で乾燥した北風が江戸の町を覆い、火はあっという間に隣の家へ、さらにその隣へと燃え移っていきました。当時の江戸の建物はほぼ全てが木造で、しかも密集して建てられていたため、延焼を止めることがほぼ不可能な状況だったのです。
■失火説・放火説・幕府陰謀説——諸説を整理する
3か所で別々に出火したという事実は、当時から様々な憶測を呼びました。研究者の間では大きく3つの説が議論されています。
失火説(最有力):冬の乾燥した強風の中、不注意な火の扱いによる事故として出火したとする説。当時の江戸では日常的に小火が発生しており、木造密集地帯での大火はいつ起きてもおかしくなかったとされています。3か所同時の出火も、ある火が飛び火して新たな出火点を生んだ可能性が指摘されています。
放火説:江戸では大火前から放火事件が多発しており、意図的に火を放った犯人がいたとする説。しかし、確かな証拠は見つかっていません。
幕府陰謀説:江戸の都市改造を進めたい幕府が意図的に火を放ったとする説。大火後に広大な都市計画が一気に進んだことを根拠にした陰謀論です。ただし、これも証拠はなく、現在では否定的な見方が主流です。
⚠️ 諸説あり:出火原因は今も確定していません。「失火説」が最も有力ですが、放火説や陰謀説も研究者の間で議論されています。

3か所で燃えたって、偶然そんなことが起きるの?すごく不自然じゃない?

確かに不自然に見えるよね!だから「放火説」や「幕府陰謀説」が出てくるわけ。でも当時の江戸って木造密集地帯で、強風の中で一度火がついたら飛び火して別の場所に新たな火元ができることも多かったんだ。「3か所同時」も、最初の火が飛び火して2か所目・3か所目を生み出した可能性がけっこう高いんだよ。
いずれにせよ、出火原因は今も完全には解明されていません。次の章では、この大火がどれほどの被害をもたらしたのかを見ていきます。
江戸の6割を焼いた凄まじい被害
明暦の大火は、当時の江戸にどれほどの被害をもたらしたのでしょうか。数字で見ると、その規模の凄まじさがよくわかります。

被害①:死者数 3万人〜10万人(諸説あり。江戸の人口の2割前後)
被害②:焼失面積 江戸市街地の約6割。大名屋敷・寺社・庶民の家屋が広範囲にわたり全焼
被害③:江戸城天守焼失 1657年1月19日、江戸城の天守閣(五重)が焼け落ちた
死者については諸説あります。史料によって3万人・5万人・10万人と大きく異なっており、確定した数字はありません。ただ、当時の江戸の人口が50〜60万人程度だったと考えると、いずれの数字でも人口の数パーセントから2割近くが亡くなった計算になります。
今でいえば、東京大空襲(1945年)に匹敵するような、都市全体を焼き尽くした大惨事と言えるでしょう。
焼け落ちた建物は、武家屋敷・大名屋敷・寺社・庶民の家屋を合わせると数万棟にのぼります。江戸城の天守閣(五重)が焼け落ちたのは1月19日のことで、これは幕府にとっても大きな政治的ショックでした。

江戸城の天守閣が燃えるって、今でいうと国会議事堂や皇居が全焼するようなイメージだよ。それくらい政治的・象徴的な意味でも大事件だったんだ。
また、大火の中で逃げ遅れた人々が大勢命を落とした背景には、当時の江戸の地理的な問題もありました。隅田川に架かる橋がまだ少なく、川を渡って逃げることができなかった人々が、川に落ちて溺死したと伝えられています。橋がなかったことが、被害をさらに拡大させたのです。
📌 切り放ち(きりはなし)とは:延焼を防ぐため、火の進路にある建物を幕府の命令で強制的に取り壊すこと。今でいう「防火帯」の役割。建物を壊して火の通り道をなくす緊急措置でした。
また、「小伝馬町の牢屋が延焼の危機に瀕したため、囚人を一時解放した」という逸話も残っています。

「江戸の6割焼失」って、テストで死者数は何万人って答えればいいの?

テストでは「3〜10万人(諸説あり)」と幅で覚えておけばOK!特定の数字を断定するのではなく、「諸説ある」という点も把握しておくと記述問題で丁寧に書けるよ。「江戸市街の約6割焼失」と「江戸城天守焼失」はセットで必ず覚えておいてね。
このように、明暦の大火は江戸の歴史を一変させるほどの大惨事でした。次の章では、この危機的状況の中で幕府がどのような救済を行ったのかを見ていきます。
幕府の救済活動──16歳将軍・家綱の英断
大火が鎮まると、幕府はすぐさま被災者への救済に動きました。当時の将軍は第4代・徳川家綱——わずか16歳の若い将軍でした。
実際に救済策の采配を振るったのは、家綱を補佐する将軍後見人・保科正之です。保科正之は徳川3代将軍・家光の異母弟にあたり、家綱政権を支えた実力者でした。

■炊き出し・米の安売り
大火によって家を失い、食料も何も持てず逃げてきた被災者は数十万人にのぼりました。幕府はまず、被災者への炊き出しを実施しました。今でいう「災害支援の炊き出し」と同じで、食べ物を炊いて無料で配給したのです。
同時に、大火後に高騰した米の値段を抑える政策も打ち出しました。大火後は流通が乱れ、米価が急騰するのが常でしたが、幕府が米の安売りを命じることで、食料不足による二次被害を防ごうとしたのです。
さらに、被災者への救済金(金銭的支援)も支給されました。「幕府が民の生活を守る」という姿勢を示すことで、民心の安定を図ったのです。
■広小路・両国橋・寺社移転——江戸大改造の始まり
救済と並行して、保科正之は大火の再発を防ぐための都市計画改革にも着手しました。その中心にあったのが、次の3つの施策です。
①広小路(火除地)の設置:延焼を食い止めるための「火除け帯」として、道路を意図的に広げた場所を各所に設けました。※広小路:今でいう「防火帯」のこと。建物を建てず道幅を広くすることで、火が燃え広がるのを食い止める仕組みです。
②両国橋の架橋:大火のとき、隅田川を渡れずに逃げ遅れた人々が多数いたことを受け、隅田川に新たな橋を架けました。これが現在の両国橋の原型です。逃げ場を確保するという、命を守るための都市設計でした。
③城外への寺社移転:江戸城の近くに密集していた寺社を城の外に移転させ、建物の密集度を下げました。寺社の広大な敷地が空き地化することで、延焼の防波堤にもなりました。

天守を建て直すより、民の家を立て直すほうが先だ。徳川の威信は石垣では示せぬ。民が生きてこそ、国は成り立つ。

この保科正之(ほしなまさゆき)っていう人、実は徳川家光の異母弟で、若い将軍・家綱を支えた超有能な補佐役なんだよ。大火後の政策が今の東京の姿を作った、まさに「江戸を建て直した男」だね!
また、大火後の処置として注目されるのが、末期養子の禁止の緩和(1651年・大火の少し前から取り組まれていた)や、幕府の諸規制の緩和です。保科正之は大火後も引き続き、民生の安定を最優先とした政治を推し進めていきました。
なお、この保科正之の政策のなかで特に有名なのが「天守を再建しない」という決断でした。この決断の意味については、後半で詳しく解説します。次の章では、大火後の江戸の都市大改造の全貌に迫ります。
保科正之、江戸を作り直す──大火後の都市大改造
大火の直後から、保科正之は「火事に強い江戸」を作り直すための都市計画改革を本格的に推し進めました。H2-5で紹介した広小路・両国橋・寺社移転は、その出発点に過ぎません。大火後の江戸大改造は、現在の東京の骨格を作ったと言っても過言ではないのです。

今の東京の形が、この大火後の都市計画から始まったって本当?たとえばどんなところに残っているの?

たとえば「上野広小路」って地名、知ってる?あの「広小路」という名前は、この大火後に作られた防火帯(火除地)に由来しているんだよ。あと「両国橋」のある「両国」というエリアも、大火後に隅田川に橋が架けられたことで発展した場所だよ!あの火事がなければ、今の東京の地図は全然違う姿だったかもしれないね。
■広小路(火除地)——「道を広くする」防火革命
広小路とは、延焼を防ぐために意図的に道幅を広げた場所のことです。当時の江戸は木造家屋が密集していたため、ひとたび火が出ると隣から隣へと燃え移ってしまいました。
そこで保科正之は、大火の後、各地に「建物を建てない広い空き地・広い道」を設けることを命じました。これが火除地です。火の通り道を物理的に断ち切る発想で、当時としては非常に先進的な都市設計でした。
今の東京に残る「上野広小路」「末広町」「新橋広小路」などの地名は、この大火後の防火帯設置がルーツです。
■両国橋の架橋——「逃げ場」を作った命の橋
大火のとき、隅田川の東側(本所・深川方面)への橋がなく、逃げ場を失った人々が多数溺死しました。この反省を踏まえ、保科正之は隅田川に両国橋を架けることを命じました(1659年架橋・諸説あり)。
「両国」という名前は、橋の両端がかつての武蔵国と下総国という2つの国(令制国)にまたがっていたことに由来します。この橋が架けられたことで、隅田川東岸の開発が一気に進み、「本所・深川」という新たな江戸の市街地が誕生しました。
■城外への寺社移転——密集を解消する大作戦
大火前の江戸城周辺には、大きな寺社が密集していました。寺社の広大な建物が延焼の原因のひとつになったとも言われています。
保科正之は、江戸城の近くにある寺社を城外(現在の山の手や下町方面)へ移転させる計画を実施しました。寺社の跡地は空き地・武家屋敷・広小路などに転用され、江戸の都市構造が大きく再編成されました。
📌 移転した有名な寺社の例:浅草寺(現・浅草)や多くの霊廟寺・大寺院が城南・城東エリアへ移転しました。江戸城の周囲が整然と整備され、近世城下町の理想的な構造に近づいていきました。
もし幕府が天守再建を優先していたら、その費用(数万両と言われる巨額)が民の救済・都市計画ではなく「石と木の塔」に消えていたことになります。広小路の整備も、両国橋の架橋も、寺社移転も遅れていたかもしれません。保科正之の「天守よりも民」という判断が、江戸の近代的都市計画を早期に実現させたとも言えます。
こうして大火後の江戸は、かつての木造密集都市から、防火を意識した計画的な城下町へと生まれ変わっていきました。次の章では、その象徴となった「天守を再建しない」決断の意味を深掘りします。
「天守を再建しない」決断の意味
明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守閣は、以降、幕末まで一度も再建されませんでした。これは単なる「財政難」による先送りではなく、保科正之の明確な意思決定によるものでした。

将軍のシンボルである天守を再建しないって、当時の幕府にとってはかなり大きな決断だったんじゃないかしら?

まさに!当時の幕府の重臣の中には「再建すべき」という意見もあったんだ。でも保科正之は「天守は飾りに過ぎない。今は民の家と暮らしを優先すべき」と押し切ったんだよ。この決断がなければ、江戸の復興はずっと遅れていたかもしれないね。
■なぜ天守を再建しなかったのか——3つの理由
保科正之が天守再建に反対した理由は、主に3つ挙げられます。
理由①:財政的負担が大きすぎる
天守の建設には膨大な費用がかかります。大火で江戸全体が壊滅的な被害を受けた直後に、その財源を天守に注ぎ込むことは、民の復興を後回しにすることを意味しました。保科正之は「今は天守より、民の家・橋・街道の復興にお金を使うべきだ」と主張したのです。
理由②:天守に軍事的機能はない
江戸時代初期には、すでに幕府の権力は確固たるものになっており、天守は実際の軍事防衛には使われていませんでした。「見た目の威厳を示す飾り」に過ぎないとも言える存在でした。保科正之はその実態を正確に把握していたのです。
理由③:民の復興を最優先にする政治姿勢の表明
天守を再建しないという決断は、単なる財政判断ではなく「幕府は民の生活を守る」という政治的メッセージでもありました。16歳の将軍・家綱を支え、「民心の安定が幕府の安定につながる」という統治哲学を実践したのが保科正之だったのです。

幕府の威信は、高い塔で示すものではない。民が飢えず、家があり、橋が渡れる——それが徳川の政(まつりごと)というものだ。
■天守台は今も残っている
江戸城の天守は、明暦の大火以降、幕末・明治に至るまで再建されませんでした。現在の皇居(旧江戸城)には、天守閣を支えていた石垣「天守台」だけが残っています。
皇居東御苑(無料公開エリア)を訪れると、今でもその天守台を間近に見ることができます。「なぜここに建物がないのか」——そう感じたとき、保科正之の決断とその理由を思い浮かべてみてください。
📌 江戸城の天守は明暦の大火(1657年)以降、幕末まで再建されませんでした。現在は天守台(石垣)のみが現存しており、皇居東御苑の無料公開エリアで見学できます。東京観光の穴場スポットとして知られています。

保科正之って、天守を再建しないだけじゃなくて、広小路も両国橋も全部やったってこと?すごく忙しかったんだね…。

まさにそう!保科正之は大火後にこれだけのことをやり遂げた超人的な政治家だよ。テストでは「明暦の大火→保科正之→広小路・両国橋・寺社移転・天守再建せず」の流れがひとつのセットで頻出だから、まとめて覚えておいてね!
テストに出るポイント&覚え方
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 年号の覚え方:「ひと(1)ごろ(657)し? 大火!」——1657年(明暦の大火)
📌 論述頻出パターン:「大火後にどのような都市改造が行われたか」
→ 広小路(火除地)設置・両国橋架橋・寺社の城外移転の3点セットを答えられるようにしよう。
📌 混同注意:「振袖火事」の「振袖」は伝説であり、当時の一次史料には記録がない点をおさえておこう。テストでは「振袖が原因で大火が起きた」とは書かない。

テストで一番大事なのはどこ?年号?人物名?

一番頻出なのは「1657年・明暦の大火・振袖火事・保科正之・広小路・両国橋・天守再建せず」のセットかな。「大火後にどんな都市改造をしたか」という記述問題にも対応できるように、広小路・両国橋・寺社移転の3つを必ず覚えておいてね!
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よくある質問
1657年(明暦3年)1月18〜20日に江戸で発生した、日本史上最大規模の大火災です。別名「振袖火事」とも呼ばれます。死者3万〜10万人(諸説あり)、江戸市街地の約6割が焼失し、江戸城の天守閣も焼け落ちました。大火後は保科正之が復興を主導し、広小路・両国橋・寺社移転による都市大改造が行われました。
「振袖を燃やして供養しようとしたことが火災の原因になった」という江戸時代後期に広まった伝説に由来します。3人の少女が次々と同じ振袖を持ち亡くなり、供養のため本妙寺で振袖を燃やしたところ大火になったという物語です。ただし、この伝説を裏付ける当時の一次史料(『むさしあぶみ』など)には振袖の記述はなく、後世に付け加えられた話と考えられています。
史料によって3万人・5万人・10万人と大きく異なり、今も正確な数は確定していません。当時の江戸の人口が50〜60万人程度だったと考えると、いずれの数字でも人口の数パーセントから2割近くが亡くなった計算になります。テストでは「3〜10万人(諸説あり)」と幅で覚えておくと安心です。
保科正之が「天守は飾りに過ぎない。今は民の家と生活の復興を優先すべきだ」と主張し、幕府がこれを採用したためです。天守の建設費を民の救済・都市計画(広小路・両国橋など)に回すことを優先しました。また、江戸時代中期には天守に実際の軍事的機能はなく、象徴的な存在に過ぎなかったことも判断の背景にあります。現在の皇居東御苑には、天守台(石垣)のみが残っています。
徳川3代将軍・家光の異母弟で、会津藩主(23万石)。第4代将軍・家綱の将軍後見人(輔弼)として幕府を補佐し、明暦の大火後の幕府の救済・復興政策を主導した実力者です。炊き出し・米の安売り・救済金の実施から、広小路設置・両国橋架橋・寺社移転・天守不再建まで、大火後の江戸の姿を作り直した人物として高く評価されています。
はい、中学・高校の定期テスト・共通テスト・大学入試でも頻出です。特に重要なのは、①年号(1657年・明暦3年)②別名(振袖火事)③被害規模(死者3〜10万人・6割焼失・天守焼失)④復興の立役者(保科正之)⑤大改造の内容(広小路・両国橋・寺社移転)の5点です。「大火後の都市改造の内容を説明しなさい」という記述問題にも対応できるよう、3点セットを覚えておきましょう。
まとめ
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1603年徳川家康が江戸幕府を開く。江戸の都市づくりが本格化
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1651年第4代将軍・徳川家綱(当時10歳・数え年11歳)が将軍職に就く。保科正之が将軍後見人として補佐
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1657年1月18日本郷丸山・本妙寺から第1火が出火。強風にあおられ急速に延焼
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1657年1月19日小石川・伝通院付近(第2火)・麹町(第3火)でも出火。3つの火が合流し大規模延焼
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1657年1月19日江戸城天守閣(五重)が焼け落ちる
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1657年1月20日3日間燃え続けた大火がようやく鎮火。死者3万〜10万人、江戸市街地の約6割焼失
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1657年(大火直後)保科正之が炊き出し・米の安売り・救済金を実施。幕府が被災民を支援
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1657年以降幕府が天守再建をしないことを決定(保科正之の主導による)
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1657年〜1660年代広小路(火除地)設置・城外への寺社移転が進む。江戸の都市構造が再編成
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1659年頃両国橋が架橋される(諸説あり)。隅田川東岸の本所・深川地区の開発が進む
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江戸時代後期「振袖火事」の伝説が歌舞伎・草双紙などを通じて広まり、明暦の大火の別名として定着
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現在(令和)江戸城天守台(石垣)が皇居東御苑に現存。上野広小路・両国など地名に大火の歴史が残る

以上、明暦の大火のまとめでした!「振袖が原因じゃない」「3か所から出火した」「保科正之が江戸を作り直した」「天守を再建しなかった理由」——どれも奥深いよね。下の記事で江戸時代の改革や江戸城についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「明暦の大火」(2026年6月確認)
コトバンク「明暦の大火」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
消防防災博物館「むさしあぶみに見る明暦の大火と俗説『振袖火事』」(2026年6月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。


