面白いほどわかる足利義政!簡単にわかりやすく解説【応仁の乱の原因を作り、東山文化・銀閣寺の生みの親となる】

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今回は、8代目の室町幕府将軍「足利義政あしかがよしまさ」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • 銀閣寺を建てた足利義政って何をした人なの?
  • 足利義政はどんな生涯を歩んだの?
  • 日野富子や応仁の乱との関係は?
  • 足利義政で有名な東山文化ってどんなもの?
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足利義政「僧侶になるはずだったのに・・・」

1436年、足利義政は6代将軍足利義教の子として生まれます。

正妻の子ではなく、おまけに長男でもなかったため、当初は将軍になる予定はありませんでした。

ところが、1441年、父の足利義教が嘉吉の変によって殺されてしまいます。この緊急事態を受けて、兄の足利義勝あしかがよしかつが幼くして将軍となると、その義勝も1443年に満9歳という若さで命を落とします。

そこで、次の将軍候補となったのが足利義政でした。当時、義政は僧侶になってひっそりと暮らす予定でしたが、まだ10歳にも満たない若さで将軍になることが決定してしまったのです。

1449年に元服の儀式を終えて成人すると、正式に8代目の室町幕府将軍となりました。

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足利義政「側近たちが強すぎて、俺の意見通らないww」

足利義政
足利義政

父が殺されて兄の義勝も早世したせいで、将軍は完全舐められている・・・

3代目の足利義満の頃のように、将軍が絶大な権力・権威を持ち、それによって平和に室町幕府を治めることができるように頑張るぞ!

将軍になった頃の足利義政は将軍の権力・権威をこれ以上失墜させないため、若いながらも、頑張りました。

・・・しかし、足利義政は自由に政治を行うことができずに、苦しみます。

なぜなら、将軍の義政でさえ簡単に逆らうことのできない3人の人物が、常に近くにいたからです。

義政の逆らえない3人の人物
  • 今参局いままいりのつぼね:義政の乳母(義政を育ててくれた人)
  • 烏丸資任からすますけとう:義政の育った家の家主
  • 有馬持家ありまもちいえ:義政に重用された人

この3人は、みんな名前の中に「ま」があることから、「三魔」という異名を持っています。(無理やりすぎない・・・?汗)

室町幕府の政治は、実質的に三魔によって行われている」と書かれた記録も残っています。

今参局と烏丸資任に「お前(義政)を育てた恩義を忘れたのか!!」と言われると、足利義政は反論できなくなってしまうのです・・・。(有馬持家は謎が多い人物なので、ここでは触れません)

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【悲報】足利義政、嫁の尻に敷かれる

1455年、足利義政は日野富子ひのとみこという女性を正妻とします。

足利義政の産みの母は日野重子という人物(実際に育てた母は今参局!)であり、日野富子はその親戚に当たります。

当時、身分の高い女性たちは自分で子育てをせず、他の者(乳母)に世話をさせることが一般的でした。

子育てをしているうちに乳母の発言力が自然と増すため、実母と激しく対立することも頻繁にありました。(義政の場合も、その例に漏れず争いが起こります)

1459年には、義政と富子の間に待望の子が生まれます・・・が、生まれて間も無く命を落とします。

すると、世間ではこんな噂が流れます。

日野富子の子がすぐ亡くなったのって、足利義政の乳母である今参局が呪い殺したかららしいわよ・・・。

まぁ、義政の実母の日野重子と今参局は犬猿の仲だったから、疑われても仕方ないわよね。

この噂に日野富子も反応します。(というか、今参局を陥れるために日野家が意図的に噂を広めた可能性が大)

日野富子「ちょっとあんた(義政)!あなたの乳母の呪詛によって、私の大事な子供が亡くなったの。呪詛は重罪よ。乳母を処罰しなさい!

今参局「何を馬鹿なことを言っている!確かに私は日野家とは仲が悪いわ。でも、亡くなった息子を利用して私を陥れようなんて最低!!義政、おまえは本当にこんな嫁の言うことを聞くの!?

足利義政
足利義政

はぁ、板挟みだよ・・・。二人ともバックには有力守護たちが付いているから、これって実質的に日野富子派VS今参局派の政争なんだよな。

俺の判断で政局は大きく動く。さて、どうするか・・・。

義政がいろいろ考えて出した結論は、「今参局は呪詛したから流罪!」というもの。

今参局は、流刑地に向かう途中で自害。こうして三魔の1人が消え、その代わり日野富子が義政に対して強い発言力を持つことになります。

足利義政
足利義政

今参局がいなくなっても、日野富子が強いから、結局俺が自由に政治ができないことには変わりないんだよなぁ。

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足利義政の活躍

将軍の足利義政が、三魔と呼ばれる側近たちや日野富子によって政治の主導権を奪われると、各地で「あんな将軍なら言うこと聞かなくて良くね?」と思う人が増えてしまいます。

足利義政は、このような事態を防ぐために将軍の権力・権威を高めようと考えたのですが、結果的にこれは失敗に終わります。

1454年、その失敗を象徴する事件が関東で起こりました。

6代将軍の足利義教の頃から幕府と敵対を続けている鎌倉公方かまくらくぼうが、幕府寄りの重要人物を殺害することで、喧嘩を売ってきたのです。

鎌倉公方とは?

関東の統治を任された幕府の組織の1つ。関東地方で強い影響力と権力を持っていた。

当時の鎌倉公方は、足利成氏あしかがしげうじという人物。義政は足利成氏に対して宣戦布告をします。

足利義政
足利義政

足利成氏は鎌倉公方をクビ。代わりに俺の弟の足利政知あしかがまさともを鎌倉公方に任命する。

逆らった場合は、実力行使で鎌倉公方の座から引き摺り下ろすからな!!

しかし、将軍を舐めている足利成氏はこれに応じません。こうして、足利成氏VS足利義政の戦争が始まります。この戦いを享徳の乱と言います。

戦いは両者ともに互角の展開。

新しい鎌倉公方として送り込まれた足利政知は、鎌倉に攻め込みますが占領するまでには至りません。結局、伊豆いず堀越ほりこしと言う場所に留まることになります。

一方の足利成氏は、鎌倉を政知に攻め込まれたことで、鎌倉を脱出。下総しもうさ古河ふるかわと言う場所に逃げ込みました。

もちろん、足利成氏は鎌倉公方のクビを認めません。こうして、関東は権力者が2人存在する混沌の世界へと突入。

人々が政知派と成氏派に分かれて争いは激化し、享徳の乱は28年にもわたる泥沼の戦いとなってしまいます・・・。

享徳の乱によって鎌倉公方が2人になってしまったので・・・

堀越で足止めを食った足利政知のことを堀越公方

古河に逃げた足利成氏のことを古河公方

と呼び分けることになりました。

しかも、享徳の乱と同時並行で、各地で有力守護たちの家督争いまで起こります。

  • 1454年
    三管領の1つ畠山氏の家督争い勃発!
  • 1459年
    三管領の1つ斯波氏の家督争い勃発

足利義満・足利義教と言った権力を保てた将軍たちは、この家督争いを将軍権力・権威を高めるために、積極的に利用してきました。

家督争いに介入することで、自分に有利な人物に家督を継がせ、さらには家督争いを通じて一族を弱体化させることで、相対的に高い将軍権力・権威を誇ることができたのです。(足利義満の時代に起こった明徳の乱応永の乱はその典型例です)

足利義政も同じことをしようとするも、ことごとく失敗してしまいます。

理由はいろいろありますが、その1つに義政の側近たちが家督争いに口出ししたことが挙げられます。足利義政と側近の意見が違うと家督争いの介入はグダグダとなり、将軍の権力・権威を高めるどころか、状況をさらに悪化させることになってしまったのです。

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足利義政「もう政治なんてやーめた!!!」

側近たちの政治介入や解決できない各地の争いに、足利義政は次第に失望し、政治への関心を失います。

その傾向は、1460年頃から見られます。

1459年〜1461年にかけて、日本全国で大飢饉が発生します。(長禄・寛正の飢饉)

原因は大雨による洪水です。多くの地域で田んぼが破壊され、おまけに汚水が流れ込んだことで各地で疫病まで発生してしまいました。

京でも大量の死者がでて、その規模は8万人にもなったと言われています。京を流れる鴨川は屍体の山で埋まり、地獄絵図だったとも・・・・。

こんな時こそ権力者たる将軍の出番!・・・と思いきや、足利義政は何の対策もしません。足利義政はこの時、新築する自分の家に夢中であり、多くの人が死に絶える中、義政の家(将軍邸)の建設だけは途切れることなく続けられました。

足利義政
足利義政

新しい邸宅の庭どうしよっかな〜。どうせなら凄いオシャレな庭にしたいな!

ヤバイ、庭を作るのが楽しすぎるww

おまけに、将軍を補佐する三管領の斯波・畠山一族では、日本全国が大飢饉に見舞われているにもかかわらず、家督争いが続いたままです。

将軍も有力守護たちも、この大飢饉に向き合うものは誰1人いませんでした。(室町幕府のオワコン感が伝わってきます・・・)

足利義政
足利義政

どうせ、何をしてもうまくいかないし、守護大名たちは勝手に一族内で争い始めるし、天災まで起こるし、庭を作ってる方が100000倍楽しいし、もう政治なんてしなくていーわ。

こうして、足利義政は次第に政治には関わらないようになってしまいます。(その代わり、趣味の文化活動に没頭することになる)

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応仁の乱、起こる

足利義政
足利義政

これ以上政治に関わりたくないし、もう将軍は辞めて隠居しよ・・・。

庭作ったり絵画見たり、文化活動に専念するぞ!

1464年、将軍引退を考えた義政は、出家していた弟を還俗させて足利義視あしかがよしみと名乗らせ、次期将軍にしようとしました。

・・・ところが、ここで皮肉な事態が起きます。1465年、日野富子が男子を出産したのです。名を足利義尚あしかがよしひさと言います。

日野富子は足利義政の正妻です。なので、当然、こんなことを思います。

日野富子「私の息子が正式な将軍になるのよ!!足利義視が将軍になる話はなし!中止よ!!!!

足利義尚は生まれたばかりの乳飲み子です。なので「足利義視を繋ぎ役にして、将来は足利義尚が将軍になる」っていうのが、現実的な考えでしたが、そうはなりませんでした。

足利義尚の育て役だった伊勢貞親いせさだちかという人物が、足利義視が将軍になることに反対したのです。

すると、伊勢貞親を嫌っていた山名宗全やまなそうぜんが足利義視に味方するようになります。1466年、伊勢貞親の不穏な気配を感じると足利義視は命の危険を感じ、山名宗全の家に避難。

山名宗全は足利義視を助けると同時に攻勢を仕掛け、伊勢貞親を政界から追放。

これにより足利義視が将軍になることが確実になると、山名宗全は幕府の中枢人物を自分の息のかかった人物で占めてしまおうと考えました。

・・・そこで!山名宗全は、三管領の1つだった畠山氏の家督争いに介入します。

当時、畠山氏では畠山義就はたけやまよしなり畠山政長はたけやままさながの間で家督争いが起こっていました。

山名宗全は、伊勢貞親を追放する際に畠山義就と協力していたので、畠山義就が畠山氏の家督を継げるように裏工作を開始したのです。

1467年1月、山名宗全は足利義政と義視を家に迎えて、饗宴を開きます。もちろん、畠山義就が家督を継ぐことを将軍に認めさせるためです。

足利義政の右腕だった伊勢貞親を失った今、義政は強力な力を持つ山名宗全に簡単に逆らうことはできません。義政は、ずーっと畠山政長を支援していたのに、ここで突如として畠山義就を家督として認めることにします。

足利義政
足利義政

・・・わかったよ。足利政長が家督を継ぐ予定だったんだけど、変更していいよ。

もちろん、梯子を外された畠山政長はブチ切れます。

1467年1月、畠山義就と畠山政長は上御霊神社かみごりょうじんじゃと言う場所で争いを始めてしまいます。(上御霊神社の戦い

すると、畠山政長推しだった細川勝元ほそかわかつもとが、義就に味方する山名宗全に宣戦布告。

さらに山名宗全が足利義視を支援していると、細川勝元は足利義尚を支援するようになり、将軍の後継者争いに発展。

  • 畠山義就 VS 畠山政長
  • 山名宗全 VS 細川勝元
  • 足利義視 VS 足利義尚

最初は畠山氏の家督争いだったものが、次第に利害関係が拡大していくと、各地で両派閥に別れた争いが起こるようになり、全国各地で大戦乱が起こります。(応仁の乱

戦場の中心地となった京は戦火に包まれ、約10年もの間争いが続くことになりました。

足利義政は中立の立場をとり、細川勝元と山名宗全の争いを止めようとしますが、いろいろあって細川勝元に味方します。

自らの無力を悟った足利義政は、形式上は細川勝元に味方しつつも、積極的に何かをすることはほとんどありませんでした。京中が戦火で焼ける中、義政は酒宴や歌会を何度も開催し、現実逃避を続けていたと言われています。

1473年に応仁の乱の主役である細川勝元と山名宗全が亡くなると、足利義政は、息子の足利義尚に将軍位を正式に譲り、1474年には隠居生活を開始します。

この頃になると妻の日野富子との関係も悪化。隠居のタイミングで、義政は日野富子との別居生活を始めます。

プライベートでも政治でも自分の無力さに叩きのめされた足利義政は、失意の中、うちに秘めた熱意の全てを趣味の文化活動に費やすことになります。

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東山文化と銀閣寺(慈照寺)

足利義政は隠居だけでは飽き足らず、自分の趣味に合った壮大な別邸の建設を計画します。

この別邸は東山殿ひがしやまどのと呼ばれ、今現在、銀閣寺ぎんかくじのある場所に設けられました。

1482年、足利義政は東山に別邸の造営を開始。その翌年には、東山殿に移り住みます。

しかし、これで東山殿が完成したわけではありません。義政が移り住んだ後も、工事は続けられ、1489年、足利義政は自邸の完成を見ることなくこの世を去ってしまいました。

全国で大戦乱が起こっている中での工事です。人手やお金が不足し、工事は遅れに遅れることになりました・・・。

義政が亡くなると、東山殿は義政の菩提を弔うお寺へと改められ、慈照寺じしょうじ(別名:銀閣寺)と呼ばれるようになったのです。

銀閣寺は、政治や家庭に疲れ切った足利義政の最後の理想郷でした。銀閣寺には義政の想いの全て(言い過ぎ!?)が込められています。

銀閣寺の風情からわかることは、足利義政が禅の教えに傾いていたことです。

禅とは、心を落ち着かせることで悟りを開くことを目指す教えの1つ。銀閣寺には派手さは一切なく、足利義政の禅の思想にふさわしい静寂に包まれたお寺となっています。

そして、その静寂の中から美しさを見出そうとする思想のことを「わび・さび」って言います。足利義政の建てた銀閣寺はそんな日本のわび・さびを代表する建造物だったのです。

足利義政の銀閣寺を中心とした当時の「わざ・さび」の文化のことを、東山殿の名前にちなんで東山文化ひがしやまぶんかと言います。

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足利義政の年表まとめ

足利義政の年表
  • 1436年
    足利義政、生まれる
  • 1441年
    父(義教)が嘉吉の変で殺される

    兄の義勝が7代目として後継者になるも急死。ピンチヒッターとして足利義政が将軍になることが決定。

  • 1449年
    足利義政、元服して正式に将軍になる
  • 1454年
    享徳の乱、起こる

    足利義政は、これを収めることができなかった・・・。

    同じ頃に、三管領の畠山氏が家督争いを始める。

  • 1455年
    足利義政、日野富子と結婚
  • 1459年
    日野富子、義政の乳母「今参局」を自害に追い込む

    日野富子と義政の間に第一子が生まれるも早世。これを今参局の呪詛だとして追い詰めた。

  • 1460年前後
    日本全国で大飢饉が発生

    この頃から、足利義政は政治への関心を露骨に失う。

    飢饉の中、酒宴や歌会を楽しんだ。

  • 1464年
    足利義政、次期将軍に弟の足利義視を指名
  • 1465年
    日野富子、義政の間で足利義尚が産まれる。
  • 1467年
    応仁の乱、起こる
  • 1474年
    足利義政、将軍位を足利義尚に譲って隠居を開始
  • 1483年
    新しい別荘、東山殿に引っ越して文化活動に没頭
  • 1489年
    足利義政、亡くなる

    東山殿の完成を見る前に死去。

    東山殿は義政の菩提を弔うお寺として慈照寺となった。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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