

今回は大仏造立の詔について、読み方から「なぜ出されたのか」まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
YouTube解説もしています。読むのが面倒な人は動画がオススメです◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
聖武天皇と聞くと、「大仏を造った天皇」「疫病や反乱に振り回された弱い天皇」というイメージを持つ人が多いかもしれません。
ですが、実はその大仏造立の詔は、こんな強気な一文から始まります。
「天下の富をすべて持つ者は、この私(朕)である」――。相次ぐ災害や反乱に苦しみながらも、大仏を通じて国をひとつにまとめ直そうとした、政治家としての聖武天皇。この記事では、そんな聖武天皇が出した詔の中身を、じっくり見ていきましょう。
大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)とは?
大仏造立の詔とは、743年(天平15年)に聖武天皇が出した、大仏(盧舎那仏)を造ることを命じた詔のことです。この大仏が、のちに東大寺の大仏として完成することになります。
「詔」とは、天皇が国全体に向けて出す正式な命令や宣言のことです。つまり大仏造立の詔は、「国をあげて大仏を造ろう」という国家プロジェクトのスタートを告げる号令だったのです。
- いつ・誰が:743年(天平15年)に聖武天皇が発した
- なぜ:天然痘の流行や反乱で乱れた国を、仏の力で守るため
- 何を:盧舎那仏(大仏)=国家を守護する象徴を造らせた
造立は、仏像や塔などを「造る」ときに使う言葉です。一方の建立は、お寺や建物などを「建てる」ときに使います。
だから、仏像である大仏を造るときは「大仏造立の詔(743年)」、各地にお寺を建てるときは「国分寺建立の詔(741年)」と、きちんと使い分けられているのです。読み方も「ぞうりゅう」「こんりゅう」と異なるので、テストでは要注意です。

テスト前なんだけど、「大仏造立の詔」ってどう読むの?いつも読み方でつまずくんだよね……。

「だいぶつぞうりゅうのみことのり」だよ!ポイントは「造立」を「ぞうりゅう」と読むところ。「けんりつ」って読んじゃう人が多いから、そこだけ気をつければバッチリだよ◎
なぜ大仏造立の詔は出されたのか?〜聖武天皇が直面した危機〜
聖武天皇が大仏造立を決意した背景には、当時の日本を襲った深刻な危機がありました。聖武天皇の治世は、天変地異と政治的な動乱が次々と重なった、まさに激動の時代だったのです。
危機①:天然痘の大流行(735〜737年)
735年ごろから、天然痘という感染症が全国で大流行しました。当時は有効な治療法がなく、多くの人々が命を落としたとされています。
この流行では、政治の実権を握っていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が737年に相次いで亡くなったとされています。国の中枢を担う人々までもが倒れたことは、朝廷に大きな衝撃を与えました。
危機②:藤原広嗣の乱(740年)
740年には、九州で藤原広嗣が反乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。乱そのものは鎮圧されましたが、都から遠く離れた地での大きな反乱は、聖武天皇の心を大きく揺さぶったとされています。
危機③:相次ぐ遷都(恭仁京・難波宮・紫香楽宮)
広嗣の乱の直後、聖武天皇は突然都を移し始めます。平城京から恭仁京へ、さらに難波宮、そして紫香楽宮へと、わずか数年のあいだに都を転々とさせました。最終的には平城京へと戻りますが、この落ち着かない遷都の繰り返しは、当時の政治がいかに不安定だったかを物語っています。
こうした災害や反乱、遷都の混乱のなかで、聖武天皇がすがったのが「仏教の力」でした。仏の力によって国を安定させようという鎮護国家の思想が、大仏造立の詔の根っこにあったのです。
鎮護国家とは、仏教の力によって国家を守り、社会の平和や安定を実現しようとする考え方のことです。
「災害や疫病、反乱といった国の危機は、仏を敬うことで乗り越えられる」――聖武天皇はこの思想にもとづいて、各地に国分寺を建てさせ、さらに国家全体の象徴として大仏を造らせました。奈良時代の仏教は、こうして「国を守るための仏教」という色合いを強く持つようになります。
大仏造立の前段階にあたる仏教文化については、白鳳文化の記事もあわせて読むと、流れがつかみやすくなります。

聖武天皇って、こんなに大変な時代を生きていたんですね……。大仏を造ったすごい人、というイメージしかありませんでした。

ほんとうに激動の時代だったんだよ。疫病で人がバタバタ倒れて、反乱まで起きた。そんななかで聖武天皇は「仏教の力でこの国を救う」と決意したんだ。大仏はその決意のかたまり、って感じだね。

疫病も、反乱も、私の力だけでは抑えきれぬ……。ならば仏の力を借り、この国を守るほかない。
大仏造立の詔の内容〜「天下の富を有つ者は朕なり」
743年(天平15年)、紫香楽宮にいた聖武天皇は、ついに大仏造立の詔を発しました。この詔には、聖武天皇の並々ならぬ決意がこめられています。なかでも有名なのが、次の一節です。
「それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」
現代語に訳すと、「この天下の富をすべて持っているのは私であり、天下の権力をすべて握っているのも私である」という意味になります。災害と反乱に追い詰められた天皇の言葉とは思えないほど、力強く堂々とした宣言です。
聖武天皇はこの絶大な富と権力をもって大仏を造ると宣言し、国家の総力を大仏造立に注ごうとしたのです。

「天下の富を持つのは自分だ」って、めちゃくちゃ強気な宣言だね!追い詰められてる人の言葉には思えないなあ。

そうなんだよ!ここが聖武天皇の面白いところでね。ただ弱気になっていたわけじゃなくて、「これだけの力を持つ私が造るんだから、絶対に完成させる」っていう強い意志の表れでもあるんだ。
ただし、この詔には強気な宣言だけでなく、もうひとつ大切なメッセージがこめられていました。それは「一枝の草、ひとにぎりの土を持ち寄るような、ささやかな協力でも歓迎する」という民衆への呼びかけです。

富や権力だけで大仏は完成せぬ。たとえひとにぎりの土であっても、民の心が集まってこそ、真の大仏となるのだ。
絶大な権力を誇示しながらも、同時に民衆の自発的な協力を求める――。この一見矛盾したような姿勢こそ、大仏造立の詔の大きな特徴でした。そして、この「民衆を巻き込む」という発想を実現するうえで欠かせなかったのが、次に紹介する行基という僧の存在だったのです。
行基の役割〜民衆を巻き込んだ大仏建立〜
行基は、奈良時代に活躍した僧です。橋をかけ、池や用水路を掘り、道を整えるなど、民衆の生活に役立つ事業を各地で行いながら仏教を広め、多くの人々から慕われていました。

行基って、どんな人だったんですか?なぜ聖武天皇は、わざわざ行基に頼ったのでしょう?

実は行基、最初は朝廷から「勝手に布教するな」と取り締まりを受けていた僧なんだ。でも民衆からの人気が絶大でね。「行基さんが呼びかけるなら協力する」って人がたくさんいた。その力を、聖武天皇は大仏造立に活かそうと考えたんだよ。

民のために橋を架け、池を掘る。それもまた仏の道だ。みなで力を合わせれば、大仏だって造れよう。
聖武天皇は、この行基を大仏造立の勧進(人々に協力を呼びかけて寄付や労力を集めること)の中心にすえました。行基が各地で呼びかけたことで、多くの民衆が自ら進んで大仏づくりに協力したとされています。
その功績が認められ、行基は745年に大僧正という僧の最高位に任じられました。かつて取り締まりの対象だった僧が、国家の一大事業を支える存在にまでのぼりつめたのです。なお、行基は大仏の完成を見ることなく、749年に亡くなったとされています。奈良時代の仏教界の広がりについては、南都六宗の記事もあわせて読むと理解が深まります。

取り締まられてたのに、最高位まで出世したのはなんで?大逆転すぎるよね。

大仏造立に民衆の力を集めた功績が、それだけ大きかったってことだね。行基は、民衆と朝廷をつなぐ「橋渡し役」として、なくてはならない存在になったんだ。
国分寺建立の詔との違い〜741年 vs 743年〜
大仏造立の詔(743年)とよく混同されるのが、その2年前に出された国分寺建立の詔(741年)です。どちらも聖武天皇が仏教の力で国を守ろうとして出した詔ですが、内容には明確な違いがあります。
国分寺建立の詔(741年):各国に国分寺・国分尼寺を建てよ
大仏造立の詔(743年):盧舎那仏(大仏)を造れ
| 項目 | 国分寺建立の詔 | 大仏造立の詔 |
|---|---|---|
| 年号 | 741年(天平13年) | 743年(天平15年) |
| 命じた内容 | 各国に国分寺・国分尼寺を建てる | 盧舎那仏(大仏)を造る |
| 漢字の意味 | 建立=お寺を「建てる」 | 造立=仏像を「造る」 |
| 場所 | 全国の各国(諸国一円) | 紫香楽宮(のちに東大寺) |
| ねらい | 国ごとに仏教で国を守る | 国家全体を守る象徴をつくる |
大きな流れとしては、まず741年の国分寺建立の詔で全国に仏教のネットワークを広げ、続く743年の大仏造立の詔で、その頂点に立つ国家全体の象徴=大仏を造ろうとした、と整理できます。この大仏づくりを頂点とする奈良時代の仏教文化の全体像は、天平文化の記事で詳しく解説しています。

なんで国分寺のほうが先に出されたの?順番に意味はあるのかな。

先に国分寺で各地に「支店」を作って、あとから大仏(東大寺)という「本店」を建てる、ってイメージだね。全国に仏教の土台を広げてから、その中心を作っていったんだ。この順番はテストでもよく問われるよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:741年=「国分寺」・743年=「大仏」とセットで覚えるのが鉄則です。漢字は「国分寺=建立(こんりゅう)」「大仏=造立(ぞうりゅう)」と、読み方ごと区別しておくと引っかけ問題に強くなります。

結局、一番大事なのはどこなの?ここだけは押さえろ、っていうのを教えて!

ズバリ「743年・聖武天皇・大仏(盧舎那仏)・鎮護国家」の4点セット!ここに「行基が勧進を担当」を加えれば完璧だよ。この5つを言えれば、テストではまず失点しないからね◎
よくある質問(FAQ)
743年(天平15年)に、聖武天皇が紫香楽宮で発したとされています。この2年前の741年には国分寺建立の詔が出されており、セットで覚えておくとよいでしょう。
「だいぶつぞうりゅうのみことのり」と読みます。「造立」を「ぞうりゅう」と読むのがポイントで、仏像を造るという意味です。
天然痘の大流行・藤原広嗣の乱・相次ぐ遷都といった危機が続くなか、仏教の力で国家を守ろうとする鎮護国家の思想にもとづいて大仏の造立を命じたとされています。
国分寺建立の詔(741年)は、各国に国分寺・国分尼寺を建てることを命じた詔です。一方の大仏造立の詔(743年)は、大仏(盧舎那仏)を造ることを命じた詔です。年号・目的・場所が異なります。
大仏造立の勧進(民衆への協力の呼びかけ)を担当しました。民衆から絶大な信頼を得ていた行基が呼びかけたことで、多くの人々が自発的に協力したとされています。この功績で745年に大僧正に任じられました。
「造立(ぞうりゅう)」は仏像や塔などを造ること、「建立(こんりゅう)」は建物や寺院などを建てることを指します。大仏造立の詔では仏像である大仏を造ることが命じられたため、「造立」が使われています。
まとめ〜大仏造立の詔と聖武天皇の時代〜
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724年聖武天皇即位
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735〜737年天然痘の大流行(藤原四兄弟が死亡)
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740年藤原広嗣の乱・恭仁京へ遷都
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741年国分寺建立の詔・各国に国分寺・国分尼寺を命じる
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743年大仏造立の詔・盧舎那仏の造立を命じる(天平15年)
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745年平城京に戻る・のちに東大寺で大仏建立が進む
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752年大仏開眼供養(東大寺大仏)
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756年聖武天皇が崩御・遺愛品が正倉院に納められる

以上、大仏造立の詔のまとめでした!聖武天皇ゆかりの宝物を伝える正倉院についても解説しているから、下の記事とあわせて読んでみてね!

聖武天皇が「無力な天皇」どころか、政治家として強かな一面を持っていたんですね。大仏を通じて国をまとめようとした発想、すごく興味深かったです!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Historist(山川出版社)「大仏造立の詔」「国分寺建立の詔」「聖武天皇」(2026年7月確認)
コトバンク「大仏造立の詔」「行基」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「聖武天皇」「行基」「大仏開眼」(2026年7月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




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