今回は、室町時代に登場した守護の新しい仕事「苅田狼藉の取り締まり」と「使節遵行」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
守護ってそもそも何をする人?【おさらい】
本題に入る前に、まずは守護についておさらいしておきます。
守護は、源頼朝が鎌倉幕府の統治のため、御家人たちに与えた役職の1つです。
守護は一国に一人設置され、当初は大きく3つの仕事を任されていました。
ざっくり言うと、国内の治安維持や軍事的な仕事を担っていたわけです。この3つの仕事のことを合わせて大犯三カ条と言います。
大犯三カ条は、守護の基本となる仕事です。
詳細は以下の記事で紹介していますので、気になる方は合わせて読んでみてくださいね。
守護の仕事のややこしいのは、「守護の仕事だけでは金にならない」と言う点です。
守護は基本的に地頭を兼任していて、その収入によって生計を立てていました。
※守護・地頭については、以下の記事も参考にしてください!
守護の任命は将軍がすることになっていて、将軍に近い者など有力者が任命されるのが普通でした。
国内の治安維持や、戦いの際は地頭たちをまとめ上げる立場だったから、自然と有力者が選ばれるようになったんだ。
逆に、守護の任命権はあくまで将軍にあるから、不祥事を起こしたり将軍と対立したりしたら、クビになってしまうこともあったんだよ。
室町時代の守護の仕事
・・・と、ここまでは主に鎌倉時代の話。
室町時代に入ると事情が少し変わってきます。
守護は大犯三カ条だけではなく、新しく所領争いに関する仕事を任されるようになります。
もともと裁判沙汰に関する業務は幕府の仕事でした。
ところが、室町時代に入ると各地で所領をめぐる争いが増加。ついに幕府だけでは対応できず、仕事がパンクしてしまいます。
そこで、頼りにされたのが守護です。
室町時代に入ると守護は、所領争いに関する仕事を新たに任されるようになりました。
そこで登場したのが、今回紹介する苅田狼藉の取り締まりと使節遵行です。
それぞれ詳しく説明していきます!
苅田狼藉の取り締まり
苅田狼藉とは、所領争いが起こった時、その所領が自分のものであることを主張するために、その所領の稲を刈り取ってしまう行為のことを言います。
その所領が俺のものだとすれば、当然、俺の判断で稲を刈り取ってしまって良いはずだよな。
言い換えれば、強引に稲さえ刈り取ってしまえば、その所領が俺のものであることを既成事実化できるってわけだ。
どうせ話し合いで解決できないのなら、稲を刈り取る実力行使で所領を勝ち取ってやんよ!
本来、所領争いは、土地の権利に関する書類なんかをいろいろと調査した上で、その所領が誰のものか決めるのが基本です。
しかし、土地の権利が複雑すぎて埒があかなくなることが多々あったので、次第に苅田狼藉のような実力行使で強引に所領を自分のものにしようとする事例が増えていったんだ。
しかし、幕府としては苅田狼藉を簡単に認めることはできません。
そもそも御家人たちが幕府の命令に従っているのは、幕府が御家人に所領を与えたり(新恩給与)、御家人の所領を幕府が守ってくれたり(本領安堵)しているからです。
もし「稲を先に刈ったほうが所領をゲットしてOKなww」なんていうトンデモルールがまかり通ってしまえば、所領を保証してくれない幕府の言うことなんて誰も聞かなくなり、幕府が崩壊してしまいます。
かと言って、全国全ての苅田狼藉を幕府が監視するのも限界があります。
そこで幕府は、守護に対して苅田狼藉を取り締まる権限を与え、幕府の威厳を守ろうとしたわけです。
使節遵行
使節遵行とは、幕府による裁判の判決内容を強制的に実行させる仕事のことを言います。
例えば、AさんとBさんがとある所領をめぐって争っていて、幕府の裁判の判決で「所領はBさんのもの!』という結果になったとき、その所領からAさんを強制的に追い出すのが使節遵行の仕事です。
使節遵行も、もともとは幕府の仕事でしたが、刈田狼藉の取り締まりと合わせて守護に託されることになりました。
ただ、使節遵行には少し問題もありました。
判決結果に従わず、守護にとって有利な処分を勝手に行なってしまうことが多々あったのです・・・。
幕府の監視が行き届いてるわけでもないし、俺の好きなように使節遵行させてもらうわ。
裁判の結果がどうあれ、この国では俺に従わねーやつは良い思いなんてできないから覚悟しとけ。
守護は使節遵行の権限を利用して、国内の所領争いに介入するようになり、国内で強い力を持つようになります。
半済令、守護請、そして守護大名へ・・・
ここまでの話をまとめると、幕府は守護に強い権限を与えることで国内の治安を安定させようとしたわけです。
ところが、この幕府の政策は大きな副作用を残すことになります。
それは、守護の力が強くなりすぎて幕府が守護のことをコントロールできなくなった・・・という副作用です。
苅田狼藉の取り締まり、使節遵行の権限が守護な与えられたのは1346年ですが、1350年代に入ると守護の暴走にさらなる拍車がかかるようになります。
1352年、守護に対して半済令が出されたのです。
守護はもともとの大犯三カ条に加え、
・所領争いに介入する「苅田狼藉の取り締まり」と「使節遵行」
・半済令によって得た他人の領地の年貢を奪い取る権限
という強力な権力を手に入れ、ときに幕府に対して牙を剥くほどの強大な力を得るようになりました。
強大な力を手に入れた守護は、半済令では飽き足らず、所領の全てを自分の支配下とする守護請を行うようになり、一国を支配する守護大名として君臨することになりました。
苅田狼藉の取り締まり、使節遵行は、守護が強くなるはじめの一歩として、歴史に大きな影響を与えることになったわけです。
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