
今回は「三井の中興の祖」とも呼ばれる幕末・明治の商人について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!どんな人だったのか、旗本の小栗家とどうつながるのか、三井で何をしたのか。大河ドラマで発表済みの設定との対応もいっしょに整理するね。
「三井財閥の基礎を固めた人物」と聞くと、名家に生まれたエリート経営者を思い浮かべるかもしれません。
実は、三野村利左衛門は、旗本の家に仕えた奉公人だったと伝わる人物です。出自もはっきりせず、三井に迎えられたのは1866年。1821年生まれなので、40代半ばでの「中途採用」でした。
その三野村が、幕府から三井に課された重い負担を、かつて仕えた小栗家の当主・小栗忠順との縁を頼りに切り抜けた、と伝えられています。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、荒川良々さんが三野村を演じると発表されています。この記事では、小栗との縁や三井での仕事をたどりながら、三野村の生涯を紹介します。
三野村利左衛門とは?小栗忠順と三井をつないだ商人
- 幕末から明治初期の商人。出自には諸説があり、小栗忠順の家(小栗家)に仕えた縁をもつとされる
- 1866年に三井に迎えられ、幕府の御用金の減額交渉などで三井を支えたと伝わる
- 維新後は三井銀行・三井物産の創設に関わり、1877年に亡くなった。大河『逆賊の幕臣』では荒川良々さんが演じる
三野村利左衛門は、幕末から明治の初めにかけて、豪商・三井を支えた商人です。

三野村の役割をひとことで言えば、幕府や新政府と三井とをつなぐ「パイプ役」でした。このように政府と深く結びついて事業を広げた実業家を、政商と呼びます。
ザックリ言えば、国のお金の出し入れや大きな事業を、民間の立場で引き受ける商人のことです。三井は、明治の政商の代表格になっていきます。

大河で三井の人として出てくるらしいけど、小栗さんとはどういうつながりなの?そもそも三井って何のお店?

三野村は若いころ、旗本の小栗家に奉公人として仕えていたと伝わるんだ。三井は江戸時代から続く大商家で、呉服屋と両替屋を営んでいたよ。そこへ外から加わった三野村が、幕府とのパイプ役として腕をふるった。老舗企業に外部の実力者が入って、立て直しを任されたイメージだね!
なお、この記事では年号を西暦で書きます。1866年は慶応2年、1868年は慶応4年(この年の旧暦9月に明治と改元)、1873年は明治6年、1876年は明治9年、1877年は明治10年にあたります。
生い立ち〜江戸に出るまで
1821年に生まれる
三野村は1821年に生まれたとされています。出自には諸説があり、詳しい生い立ちははっきりしていません。
1839年、10代後半で江戸へ
江戸に出たのは1839年、19歳のときとされます。生まれた年を1歳と数える数え年なら、1821年生まれで年が合います(1839−1821+1=19)。満年齢では17〜18歳です。
江戸では、深川の干鰯問屋「丸屋」に住み込みで奉公したとされます。干鰯は、イワシを干して作った肥料のこと。綿や野菜を育てる畑で盛んに使われました。
それより前の1834年には、伊丹(今の兵庫県)の酒造家に奉公していたとも伝えられています。若いころに各地を転々とした様子がうかがえます。
江戸での奉公生活の中で、三野村は運命を変える家と出会います。次の章では、その小栗家とのつながりを見ていきましょう。
小栗家の奉公人から両替商へ〜「中間先」は誰の家だったのか
小栗家の「中間」だったと伝わる
三野村は江戸で、旗本・小栗家の中間になったと伝えられます。奉公先だった丸屋のつてで雇われたとされます。
中間とは、武家に仕えて雑用や外出のお供などを務める奉公人のこと。武士ではなく、武家に雇われた下働きの身分です。同じ読みの「仲間」という字で書かれることもあります。
旗本は、将軍に直接仕える武士のうち、将軍に会う資格をもつ家のことです。小栗家は、2,500石の領地をもつ旗本でした。
中間先は小栗忠高の家か、忠順の家か
三野村の奉公先には、小栗忠順の家とする説と、その父・小栗忠高の家とする説があります。
2人の関係を、生まれ年から見てみましょう。忠順は1827年生まれで、1821年生まれの三野村より6歳年下です(1827−1821=6)。一方、父の忠高は1855年に亡くなるまで小栗家の当主でした。
もし奉公が、江戸に出た1839年から婿養子に入った1845年までの間だったとすると、当主は忠高で、忠順は12〜18歳の跡取りだった計算になります(1839−1827=12、1845−1827=18)。この場合、「忠高の中間」も「忠順の家の中間」も、同じ家を別の角度から言っている可能性があります。
ただし、奉公した正確な期間や忠順と知り合った時期には諸説があり、はっきりしていません。
紀ノ国屋の婿養子になり、両替商へ
1845年、三野村は紀ノ国屋という店の主人・美野川利八の婿養子となり、「利八」の名を継いだとされます(1845年は店の手代になった年で、婿養子になったのはその後とする説もあります)。婿養子とは、娘の夫として他家に迎えられ、その家を継ぐ人のことです。
紀ノ国屋は油商や砂糖商だったとされます。この縁組みを小栗忠順が取り持ったともいわれています。
その後、三野村はこつこつ資金をため、両替商になりました。開業年には1852年説と1855年説があります。
両替商は、金貨・銀貨・銭の交換や、お金の貸し付けを行う商人です。今でいう銀行と、外貨両替の窓口を合わせたようなイメージですね。三野村は小判の売買に才能を見せ、三井の番頭に認められて三井家に出入りするようになったと伝えられます。

中間って武士じゃないんだよね?奉公人から自分のお店を持つ商人になれたなんて、かなりの出世じゃない?

そうなんだ。商家に婿入りして店を継ぐのは、江戸の庶民が身を立てる道の一つだったんだ。ただ、当時どれほど珍しい存在だったかまでは、はっきりしないんだ。
名前「三野村」の由来
「三野村」という名字は、三井に入ってから名乗ったものとされます。由来には、「三井」の三、婿入り先の美野川の野、亡き父の養家の名字である木村の村から一字ずつ取ったという説と、三井家の手代だった三野村家を継いで改名したという説があります。確かな由来はわかっていません。
天保小判を買い集めたという逸話
三野村の両替商時代には、こんな話も伝わっています。1860年、幕府は小判の金の量を減らして作り直し、万延小判を発行しました(万延貨幣改鋳)。三野村はこれを事前に知って、金を多く含む古い天保小判を買い集め、大きな利益を得たというのです。
この情報は、小栗の屋敷を訪ねたときに耳にしたものだったと伝えられています。三野村は同じ情報を三井の両替店にも伝え、三井家から重宝されたとされます。
ただし、小栗は1860年2月に万延元年遣米使節の一員として横浜を出発し、11月まで海外にいました。万延小判の発行はその留守中ですが、古い小判の通用価値を改めるお触れは、小栗の出発前に出ています。
三野村がいつ、どのような情報を得たのかや、買い集めた小判の量、利益の額など、詳しい経緯ははっきりしていません。商才を伝える逸話の一つとして読んでおくのがよいでしょう。
こうして両替商として力をつけた三野村は、1866年、ふたたび小栗忠順と深く関わることになります。次の章では、幕府が三井に課した重い負担をめぐる交渉を見ていきます。
小栗忠順との再会〜幕府の御用金をめぐる交渉
三井に課された御用金
1866年2月、幕府は三井に多額の御用金を納めるよう命じました。御用金とは、幕府が豪商などに臨時で差し出させたお金のことです。今でいえば、政府が大企業に課す「臨時の特別負担金」のようなものですね。
幕末の幕府は、外国への対応や軍事費などで出費がかさみ、財政は苦しくなる一方でした。そのしわ寄せが、お金を持つ大商人に向かったのです。
三井は、日米修好通商条約(1858年)によって横浜が開港すると、幕府の公金を扱う役目も担うようになったとされます。三井の横浜店は、預かった公金に手をつけて貸し出し、大きな損を出していたといいます。この公金の貸し回しが御用金の一因だったともいわれますが、小栗がどのような意図で負担を求めたのかは、はっきりしていません。
交渉相手は勘定奉行・小栗忠順
三井が交渉した相手は、幕府の勘定奉行だった小栗忠順でした。勘定奉行は、幕府のお金の出入りや、幕府が直接治める土地の年貢などを担当する役職です。今の財務大臣と、会社の経理部長を合わせたような立場ですね。
小栗は何度も勘定奉行に就いたり外れたりしており、1865年に再び就任して、1868年1月に役を解かれるまで務めたとされます。1866年の小栗は幕府の財政をあずかる責任者の一人で、三井にも負担を求める立場だったのです。

幕府の台所は火の車だ。国を守るための費用を集めるには、豪商にも相応の負担を引き受けてもらうほかない。
御用金の減額交渉
三野村は、小栗との縁を生かして御用金の減額交渉にあたり、三井の負担を軽くしたと伝えられています。
ただし、御用金の金額には諸説があり、はっきりした数字はわかっていません。

昔仕えていた家の殿様が交渉相手って、やりにくくなかったのかな?

小栗家に仕えていた縁が、減額交渉で役立ったとされているよ。昔の知り合いが取引先にいると話が通りやすい、というイメージだね。ただ、二人がどんな言葉を交わしたのかまではわかっていないんだ。
三野村は、幕府と三井の双方の事情を知る立場から、落としどころを探ったとされます。

幕府のお苦しみはわかる。だが、三井がつぶれてしまっては元も子もない。払える額と期限をすり合わせて、双方が呑める線を探すまでだ。
この交渉をきっかけに、三野村は三井にとって欠かせない人物になっていきます。
三井の番頭へ〜幕末の三井で任された仕事
三井とはどんな家か
三井のはじまりは、1673年に三井高利が江戸で開いた呉服店「越後屋」だとされます。店頭で定価・現金払いで売る「現金掛け値なし」という新しい商売で繁盛したことで知られます。
三井は呉服店に加えて両替店も営み、幕府のお金を送り届ける御用も引き受けるようになりました。1866年の時点で、1673年の創業から190年以上(1866−1673=193)続く老舗だったことになります。
その老舗にとっても、幕府の御用金は重荷でした。三野村の交渉は、三井の危機を救った働きとして語り継がれています。
1866年、三野村が三井に迎えられる
1866年に三井に迎えられた三野村は、三井の一族でも、子どものころから店で育った奉公人でもありませんでした。外からの登用です。
三野村は、幕府など公の御用を扱う三井御用所で働いたとされます。迎えられたときの詳しい肩書きには諸説があります。
三野村は「三井家の大番頭」として知られています。大番頭とは、商家の番頭たちのまとめ役で、店の経営を実際に任される立場の人のことです。
雇われたときの肩書きというより、三井で果たした役割の大きさを表す呼び名と考えるとよいでしょう。三野村は1877年に亡くなるまで、およそ11年(1866年から1877年まで)にわたって三井を支えました。

大番頭って、社長とどう違うの?外から来た人が、いきなりそんな立場になれるもの?

お店の持ち主は三井の一族で、大番頭は経営を任された雇われのトップ。今でいう「雇われ社長」に近いね。子どものころからの奉公を経ずにこんな重い役を任されたのは、三井の長い歴史で前例がなかったと言われているよ。それだけ、小栗とのパイプや両替の腕が頼りにされたんだろうね。
三井家の改革と、三野村に任されたこと
三野村にまず期待されたのは、小栗と三井をつなぐ「パイプ役」としての交渉でした。
仕事は明治に入ってさらに広がり、三井家のしくみと家業の改革を広く任されたとされます。改革の中身は、銀行づくりを扱う章で紹介します。
ただ、その前に三井は大きな選択を迫られます。幕府そのものが倒れようとしていたのです。
幕府の終わりと新政府への賭け〜三井の選択
鳥羽・伏見の戦いのあと、三井は新政府についた
1867年、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返しました(大政奉還)。翌1868年1月には、旧幕府軍と新政府軍が京都の近くで衝突します。これが鳥羽・伏見の戦いです。
1868年は干支で戊辰の年にあたり、この戦いから始まった内戦を戊辰戦争と呼びます。戦いは新政府軍の優勢で進みました。
このとき三井は、新政府の側に資金を出す道を選んだとされます。その方針転換には、三野村の働きかけがあったと伝えられています。
小栗が役を解かれた1868年1月ごろ、三野村は幕府の行く末を見て、新政府への資金援助を三井に働きかけたと伝えられています。小栗本人の助言があったとする説もありますが、真偽はわかりません。

三井って幕府のお金を扱ってたんだよね?なのに、どうして新政府の側についたの?

商家として生き残るためだった、と説明されることが多いよ。幕府の力が急に弱まって、これからお金を動かすのは新政府になる、と見たんだね。取引先の力関係が変わったとき、会社が新しい取引先に切り替えるイメージに近いかな。ただ、どこまでが三野村個人の判断だったのかは、はっきりしていないんだ。
太政官札と「政商」への歩み
新政府は、戦いを進めるにも国づくりを進めるにも、お金が足りませんでした。そこで1868年に発行したのが太政官札という紙幣です。
太政官札は、金や銀と交換できる裏づけが乏しかったため信用が低く、なかなか使われませんでした。政府が資金不足を補うために出した、いわば「借用証書」のような紙幣だったのです。
三野村は太政官札を東京で流通させる方法を新政府に提案し、三野村の指揮のもとで三井が発行事務を引き受けたとされます。提案の詳しい内容はわかっていません。
新政府のお金の出し入れを手伝い、その見返りに有利な立場を得る。三井はこうして、この記事の最初で紹介した政商の道を歩み始めます。三野村は新政府の指導者たちとの関係を深め、三井を政商として発展させたと評されています。
この次の節は、小栗忠順の最期(史実の結末)に触れます。ドラマの展開を楽しみに待ちたい方は、読み飛ばして次の章へ進んでも大丈夫です。
小栗忠順の最期と、残された家族
小栗忠順は、新政府軍との徹底抗戦を主張したものの受け入れられず、役を解かれたあと、領地の上野国権田村(今の群馬県高崎市)に移り住みました。
しかし1868年の閏4月(旧暦)、小栗は新政府軍にとらえられ、処刑されました。くわしい経緯は、小栗忠順の解説記事にゆずります。
役を解かれた小栗に、三野村がアメリカへの亡命を勧めたという話も伝わっています。このとき千両箱を贈ったともいわれますが、詳しい経緯ははっきりしていません。
小栗の死後、残された家族の面倒を見たのが三野村だったとされます。日本橋浜町の別邸に家族をかくまい、1877年に亡くなるまで世話を続けたという話が伝わっています。
かくまった場所には、深川の三野村の屋敷だったという説もあり、はっきりしません。いずれにしても、かつての主家への恩を忘れなかった人物として三野村が語られる理由の一つが、ここにあります。
幕府が倒れ、明治の世が始まりました。新政府と結びついた三井が次に挑んだのは、日本にまだなかった「銀行」をつくることです。
銀行をつくる〜第一国立銀行から三井銀行・三井物産へ
三井が身軽になった呉服店の分離(1872年)
明治に入ると、三野村は三井の古いしきたりを改め、組織をより強い形に変える改革に取り組んだとされます。
その一つとされるのが、祖業である呉服店の切り離しです。1872年、三井は呉服店を一族の分家「三越家」に任せ、家業から切り離したとされます。これが、のちの百貨店・三越につながっていきます。
1673年の越後屋の創業から数えると、およそ200年(1872−1673=199)続いた商売です。一族の反対を受けながらの決断だったとも伝わり、三井はこれで金融の仕事に力を注げるようになったとされます。
第一国立銀行と、三井・小野組・渋沢栄一
明治政府は、近代的な産業を育てる殖産興業を進めるため、お金の流れを支える銀行づくりを急ぎました。三井も、自分たちの銀行を開こうと準備を進めていたとされます。

しかし政府は、三井だけの銀行を認めなかったとされます。三井は、同じく豪商の小野組と共同で出資することになりました。こうして1873年に開業したのが第一国立銀行です。
本店には、三井組が海運橋のたもとに建てた洋風の建物が使われたとされます。経営の中心は、大蔵省を辞めた渋沢栄一です。渋沢は総監役として経営を取りしきり、のちに頭取(銀行のトップ)となります。

国立銀行って、国がやってる銀行のことじゃないの?今の日本銀行とは違うの?

「国立=国営」じゃないのがややこしいところ!国の法律に沿って、民間の人たちがお金を出し合って開いた銀行なんだ。お札を出す日本銀行とは別物だよ。
1874年、小野組は経営が行き詰まって破綻し、銀行の経営から手を引きました。残った大口の出資者は三井です。それでも、銀行の実権を握り続けたのは渋沢でした。
渋沢は、多くの人からお金を集めて事業を起こす「合本」の考え方を重んじた人物です。銀行を特定の家の思いどおりにはさせない、という立場だったとされます。

銀行は、お金を出した皆のものだ。ひとつの家の都合で動かしては、世間の信用は得られまい。決まりに沿って公平に営んでこそ、銀行は育つのだ。
私立銀行へ〜三井銀行(1876年)と三井物産
自分たちの判断で動かせる銀行を持ちたい。三井はあらためて、単独での銀行設立を政府に願い出たとされます。
こうして1876年7月に開業したのが三井銀行です。国立銀行の法律によらない民間の銀行で、日本で最初の私立銀行とされます。三野村はこの設立に深く関わりましたが、設立時の肩書きには「頭取」「総長代理」など諸説があり、はっきりしません。
同じ1876年7月には、商社の三井物産(旧三井物産会社)も発足しました。井上馨が関わった先収会社という商社の事業を引き継ぐ形で、まだ20代の益田孝がトップに立ちました。
三野村は先収会社の事業を三井で引き継ぐよう提案し、商社の設立を後押ししたとも伝えられます。ただ、設立の中心は井上馨と益田孝だったとされ、三野村がどこまで主導したのかは見方が分かれます。
銀行と商社という、のちの三井財閥の柱がそろったこの時期、三野村の人生は終わりに近づいていました。
「無学の偉人」の素顔と最期〜1877年の死
「無学の偉人」と呼ばれた商才
三野村は「無学の偉人」と呼ばれてきました。渋沢栄一が、学問をしていないのに制度について不思議な才能があった、と評したという話が伝わっています。
また、福沢諭吉が門弟に、学問はなくても偉い人物として二宮金次郎と三野村の名を挙げた、という逸話もあります。
ただし、「無学の偉人」という呼び名が、誰のどの発言に由来するのかは、はっきりしていません。
読み書きは苦手だった一方、数字を扱う頭の回転は抜群だったと伝えられます。ただし、実際にどの程度読み書きができたのかは、はっきりしていません。

読み書きが苦手だったって本当?それでも三井の大きな仕事を任されたの?

読み書きがどの程度できたかはわからないけれど、両替で鍛えた数字の勘や、人と話をまとめる力が買われていたとされるよ。学校で学んだ知識とは別に、商売の現場で身につけた力があったんだろうね。
1877年の最期
三野村は1877年2月に亡くなりました。没日は2月21日とされ、死因は胃がんと伝えられています。三井銀行が開業した1876年7月から、1年もたたないうちのことでした。
年齢は数え年で57歳(1877−1821+1=57)。旧暦11月(西暦では1821年の11月末〜12月はじめ)の生まれとすると、満年齢では55歳でした。1915年には国から従五位の位を追贈されたと伝えられています。
墓所と宅跡
墓所は杉並区の真盛寺です。三井家の菩提寺として知られる寺で、1922年に本所(今の墨田区)から今の場所へ移りました。
また江東区清澄2丁目には「三野村利左衛門宅跡」があり、1985年に区の登録史跡となりました。当時の屋敷の詳しい様子はわかっていません。
次の章では、大河ドラマで発表された設定と、三野村の生涯を比べてみましょう。
大河『逆賊の幕臣』の三野村利左衛門〜発表済みの設定と史料の対応
放送予定と配役
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、小栗忠順を主人公とする作品です。三野村利左衛門の役を荒川良々さんが演じることは、2026年4月24日に発表されました。
なお、2026年10月の時点で放送はまだ始まっていません。
設定と史料の対応を並べてみる
発表された役柄と、三野村の生涯に伝わる出来事を比べてみましょう。設定は物語のためのものなので、史料と違っていても間違いというわけではありません。
- 庄内藩士の家系に生まれ、父は浪人して諸国を放浪:史実の出自には諸説あり
- 小栗家の奉公人から三井組の大番頭に:一致(仕えた当主や、雇われたときの肩書きは諸説あり)
- 6歳年下の小栗から「リザ」と呼ばれて慕われた:年の差は生年と一致。「リザ」という呼び名は、史料では確認できていません
- 砂糖商の婿養子から両替商に:おおむね一致(婿入り先の商売は諸説あり)
- 読み書きは苦手だが頭の回転が速い:そのように伝わるが、実際の読み書きの程度は不明

設定と史料が違うところもあるなら、放送前にこれだけは押さえておきたい、ってことはある?

3つにしぼるね。①出自には説がいくつもあること、②1866年の御用金の交渉で小栗と三井の間に立ったこと、③明治に三井銀行づくりに関わったこと。これを知っておくと、ドラマのどこが史料寄りで、どこが物語の工夫なのかを見分けやすくなるよ。描かれ方は放送で確かめよう!
『青天を衝け』(2021年)の三野村
三野村が大河ドラマに登場するのは、これが初めてではありません。渋沢栄一を主人公とした2021年の『青天を衝け』では、イッセー尾形さんが三野村を演じました。
小栗と渋沢という2人の大河の主人公の両方と関わった三野村は、2つの作品をつなぐ人物とも言えます。
よくある質問(FAQ)
幕末から明治初期にかけて、三井を支えた商人です。1866年に三井に迎えられ、幕府の御用金の減額交渉にあたったとされます。明治に入ると三井家の改革を進め、1876年の三井銀行の設立に深く関わり、翌1877年に亡くなりました。
三野村は若いころ、旗本・小栗家の中間(武家の奉公人)だったと伝えられます。仕えたのが小栗忠順の家か、父・忠高の家かには諸説があります。1866年には、勘定奉行だった小栗と三井の間に立ち、御用金の交渉にあたったとされます。
御用金の金額には諸説があり、はっきりした数字はわかっていません。三野村が減額交渉にあたり、三井の負担を軽くしたと伝えられています。
生まれた年は1821年とされています。出自には諸説があり、詳しい生い立ちははっきりしていません。
1876年に開業した三井銀行(日本初の私立銀行とされる)の設立に、深く関わりました。ただし、設立時の肩書きには諸説があります。同じ年に発足した三井物産は、設立の中心が井上馨・益田孝だったとされ、三野村の関わりの度合いは見方が分かれます。
荒川良々さんが演じると、2026年4月24日に発表されています。役柄説明には、小栗から「リザ」と呼ばれたことなど、史料では確認できていない設定も含まれます。放送前の設定紹介なので、史実の証明ではなくドラマの入り口として読むのがおすすめです。
※史実の結末を含みます。1868年に小栗忠順が処刑されたあと、三野村は残された家族を保護したと伝えられます。かくまった場所には日本橋浜町の別邸説と深川説があり、はっきりしません。世話は三野村が亡くなる1877年まで続いたとされます。
まとめ
三野村利左衛門は、出自に諸説がありながら、小栗家との縁と両替商としての腕を買われて三井に迎えられ、幕末から明治の三井を支えたと伝わる人物です。
出自や若いころの経歴には不明な点も残りますが、幕府と三井をつなぎ、明治の銀行づくりに関わった歩みは、三野村を知るうえで大切な手がかりです。大河『逆賊の幕臣』でどのように描かれるのかも、楽しんでみてください。
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1821年三野村利左衛門が生まれる(出身は諸説あり)
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1839年江戸に出て、深川の干鰯問屋に奉公したとされる
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1845年紀ノ国屋・美野川利八の婿養子になったとされる
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1850年代両替商になる(1852年説と1855年説がある)
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1866年三井に迎えられ、幕府の御用金の減額交渉にあたったとされる
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1868年鳥羽・伏見の戦いののち三井が新政府側につく。閏4月、小栗忠順が処刑される
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1872年三井が呉服店を分離したとされる(のちの三越)
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1873年三井組・小野組の出資で第一国立銀行が開業する
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1876年7月、三井銀行が開業し、三井物産も発足する
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1877年2月、三野村利左衛門が亡くなる(数え年57歳)

以上、三野村利左衛門のまとめでした。下の記事で小栗忠順や渋沢栄一、殖産興業もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月
コトバンク「三野村利左衛門」(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・デジタル版日本人名大辞典+Plus・百科事典マイペディア)(2026年10月確認)
三井広報委員会「三井史を彩る人々 三野村利左衛門」「三井ヒストリー 三野村利左衛門」(2026年10月確認)
荘内日報社「郷土の先人・先覚199 三野村利左衛門」(1990年3月掲載、2026年10月確認)
ビジネスジャーナル「三井物産を生んだ男、三野村利左衛門」(2021年9月掲載、2026年10月確認)
Forbes JAPAN「米倉誠一郎が選ぶ、明治維新前後のイノベーター4傑」(2018年11月掲載、2026年10月確認)
江東区「三野村利左衛門宅跡」(2026年10月確認)
杉並区「真盛寺」(2026年10月確認)
コトバンク「国立銀行条例」「太政官札」「富岡製糸場」(2026年10月確認)
山川出版社『詳説日本史』
NHK「2027年 大河ドラマ『逆賊の幕臣』新たな出演者発表 第4弾!」(2026年4月24日掲載、2026年10月確認)
シネマトゥデイ『逆賊の幕臣』新キャスト発表記事(2026年4月24日掲載、2026年10月確認)
Wikimedia Commons(肖像写真・第一国立銀行の写真)(2026年10月確認)
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