旅順攻囲戦とは?203高地の激闘と乃木希典の決断をわかりやすく解説

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旅順攻囲戦とは?203高地の激闘と乃木希典の決断をわかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は旅順攻囲戦について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ5ヶ月もかかったのか・203高地の真実・乃木希典は本当に愚将だったのかを一緒に見ていこう!

この記事を読んでわかること
  • 旅順攻囲戦とは何か(日露戦争における約5ヶ月間の包囲戦の全貌)
  • 203高地が重要だった理由(なぜあの丘を巡って激戦になったのか)
  • 第一〜第三次総攻撃の経過(白襷隊の悲劇・28センチ榴弾砲の投入)
  • 乃木希典は本当に愚将だったのか(最新研究による再評価)
  • 旅順陥落が日露戦争に与えた影響(血の日曜日・ポーツマス条約への道)

旅順攻囲戦といえば「無謀な突撃」で多大な犠牲を出した失敗の戦い——そんなイメージが広まっています。しかし実は、この戦いがなければ日本の日露戦争勝利はなかったのです。

日清戦争ではわずか1日で落とした旅順を、なぜ今度は約5ヶ月もかかったのか?乃木希典は本当に無能だったのか?この記事では「悲惨な失敗の戦い」という入口から、「なぜそれでも日本は勝てたのか」という旅順攻囲戦の本当の意味を掘り下げていきます。

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旅順攻囲戦とは?

旅順攻囲戦を3行でまとめると

日露戦争(1904〜05年)で、ロシアの旅順要塞を日本陸軍が攻略した約5ヶ月の包囲戦。
3度の総攻撃・白襷隊の壊滅・203高地の奪取を経て、1905年1月1日に旅順は陥落した。
日本軍の死傷者は延べ約6万名にのぼる激戦で、日露戦争の帰趨(勝敗の行方)を決定づけた。

旅順攻囲戦りょじゅんこういせんとは、日露戦争(1904〜1905年)のなかで、日本陸軍がロシアの旅順りょじゅん要塞を攻め落とすために戦った、約5ヶ月にわたる包囲戦のことです。

旅順は、現在の中国・遼東半島りょうとうはんとうの先端にある軍港の町です。当時ここには、ロシアの太平洋艦隊たいへいようかんたい(旅順艦隊)が停泊していました。

なぜ日本がこの旅順にこだわったのか。理由は大きく2つあります。

理由①:旅順艦隊が日本の輸送船を脅かしていた

理由②:ヨーロッパから来るバルチック艦隊と合流させたくなかった

日本は大陸(満州・朝鮮)に陸軍を送り込んで戦っていました。その兵士や武器を運ぶ輸送船は、日本海を通って大陸へ向かいます。ところが旅順にいるロシア艦隊が出撃してくると、この輸送ルートが断たれてしまう恐れがありました。

さらにロシアは、ヨーロッパからバルチック艦隊ばるちっくかんたいという大艦隊を回航させようとしていました。もし旅順艦隊が生き残ったまま、このバルチック艦隊と合流すれば、日本海軍は数で圧倒されてしまいます。

だからこそ日本は、バルチック艦隊が到着する前に、旅順艦隊をどうしても始末しておきたかったのです。これが、陸軍が血を流してでも旅順を攻め落とそうとした最大の理由でした。

ゆうき
ゆうき

でも日清戦争のときは1日で旅順が落ちたって聞いたよ?なんで今回は5ヶ月もかかったの?

もぐたろう
もぐたろう

いい質問だね!実はロシアは日清戦争のあとに、旅順の要塞をまるごと大改修してたんだよ。10年かけて、最新のコンクリート要塞に生まれ変わっていたんだ。だから「同じ旅順」でも、中身は全然ちがう難しさだったんだよ。

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旅順要塞が難攻不落だった理由

旅順要塞のロシア軍の堡塁(1904年)
旅順要塞のロシア軍の堡塁(1904年)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

旅順がこれほど落としにくかったのは、ロシアが日清戦争後の三国干渉(1895年)をきっかけにこの地を手に入れ、約10年かけて最新式の近代要塞に造りかえていたからです。

当時、ロシア側の防衛を実質的に指揮していたのが、技術将校のコンドラチェンコでした。彼は旅順を取り囲む山々に堡塁ほるい(防御陣地)を築き、これらを連携させて町全体を守る仕組みをつくり上げていました。

とくに日本兵を苦しめたのが、要塞に組み込まれた次の3つの「最新装備」です。

旅順要塞ってどんな要塞だったの?

① 鉄筋コンクリートの堡塁……砲弾を撃ち込まれても崩れにくい、頑丈な防御陣地。山の上に点在し、お互いをかばい合うように配置されていました。

② 機関銃……引き金を引き続けるだけで弾を連射できる新兵器。斜面をのぼってくる日本兵を、なぎ倒すように撃ち倒しました。

③ 有刺鉄線と深い壕……トゲのついた鉄線と、人がのぼれないほど深い溝。日本兵はここで足止めされ、その間に機関銃の標的になってしまいました。

これら3つが組み合わさると、正面から突撃する兵士は「壕で止められ、有刺鉄線にからまり、機関銃で撃たれる」という逃げ場のない状況に追い込まれます。勇気だけでは突破できない、それが近代要塞のおそろしさでした。

あゆみ
あゆみ

日本が苦戦したのって、単純に装備の差だったのかしら?それとも作戦のほうにも問題があったの?

もぐたろう
もぐたろう

実は両方なんだ。要塞が堅すぎたのに加えて、当時の日本陸軍には「近代要塞を攻め落とした経験」がほとんどなかった。機関銃で兵士が大量に倒れる新しい戦場を、誰も教科書で習っていなかったんだよ。だから最初は同じ失敗をくり返してしまったんだね。

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旅順攻囲戦の経過

旅順を攻め落とす任務を任されたのは、日本陸軍の第三軍だいさんぐんでした。その司令官に選ばれたのが、のちに評価が大きく分かれることになる乃木希典のぎまれすけです。

第三軍は1904年8月から1905年1月まで、合わせて3度の総攻撃を仕掛けます。ここからは、その経過を順番に見ていきましょう。

■第一次総攻撃(1904年8月)

1904年8月、第三軍は最初の総攻撃を開始します。このときの作戦は、要塞の正面から一気に突撃して押し切るというものでした。

しかし結果は惨憺たるものでした。斜面をのぼる日本兵はロシア軍の機関銃の餌食となり、わずか数日の戦闘で約1万5千人もの死傷者を出しながら、要塞はほとんど落とせませんでした。「突撃すれば落ちる」という発想が、近代要塞には通用しなかったのです。

1904年8月19日の夜明け前、薄暗い斜面に伏せた日本兵たちは砲声とともに「突撃!」の号令が下るのを待っていた。号令が響いた瞬間、兵士たちは一斉に立ち上がり、要塞へ向かって斜面を駆け上がり始めた。するとその瞬間、山の上から機関銃の連射が始まった。前の兵士が倒れる。その体を跳び越えながら、次の兵士がまた倒れる——1分間に何百発という弾丸が、立ち上がる者を次々と撃ち倒した。わずか数分で、斜面には動かなくなった兵士たちが折り重なっていた。「前へ進もうとすれば死ぬ。しかし退くわけにもいかない」——これが旅順の第一次総攻撃の実態でした。

旅順要塞への突撃後の戦場(1904年)
突撃後のロシア軍堡塁(1904年)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■第二次総攻撃(1904年10月)

第一次の失敗を受けて、第三軍は作戦を変えます。今度は地面を掘り進めて要塞ににじり寄る坑道こうどう(坑道掘削)戦術なども取り入れ、10月下旬に第二次総攻撃を行いました。

背景には、海軍からの強い要望もありました。「旅順艦隊を一刻も早く片づけてほしい」という海軍の焦りが、陸軍に総攻撃を急がせていたのです。ところがこの第二次総攻撃でも、いくつかの堡塁を奪うのが精一杯で、決定的な勝利には届きませんでした。

■白襷隊の悲劇(1904年11月・第三次総攻撃)

第二次総攻撃ののち、1904年11月26日から始まった第三次総攻撃の一環として決行されたのが、白襷隊しろだすきたいによる夜間の決死攻撃(11月26日夜〜27日)でした。

これは、各部隊から選ばれた約3千人の兵士で編成された特別な突撃部隊です。暗闇の中で味方同士を見分けられるように、全員が白いたすきを斜めにかけていたことから「白襷隊」と呼ばれました。夜の闇にまぎれて一気に要塞へ突入する、という奇襲作戦だったのです。

しかし作戦は裏目に出ます。ロシア軍はサーチライトで夜の戦場を照らし出し、白い襷はかえって格好の目印になってしまいました。集中砲火を浴びた白襷隊はほとんど目的を果たせないまま壊滅し、多くの兵士が命を落としました。

突撃前夜、選ばれた兵士たちは黙々と白いたすきをたすきがけした。多くが故郷に向けて遺書をしたためた。「母上様、どうかお元気で」「妻へ、子どもたちのことを頼む」——夜の闇が降りるなか、3千人の全員が翌朝の命の保証はないと知っていた。それでも誰一人その場を離れなかった。白い襷は識別のためだけでなく、「死を覚悟した者たちの証」でもあったのです。

旅順包囲戦での砲弾爆発(ロシア軍塹壕から撮影、1904年)
ロシア軍塹壕近くで炸裂する日本軍の砲弾(1904年)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

📌 白襷隊と「ゴールデンカムイ」:白襷隊は人気漫画『ゴールデンカムイ』にも登場し、その悲壮な戦いが多くの読者に知られるようになりました。作品ではドラマチックに描かれていますが、白襷隊そのものは実在した部隊です。史実での位置づけは、この記事の経過のとおりです。

■203高地の奪取(1904年12月5日)

児玉源太郎
児玉源太郎/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

2度の総攻撃が行き詰まるなか、満州軍の総参謀長児玉源太郎こだまげんたろうが現地に乗り込んできます。彼は「要塞をまるごと落とそうとするから時間がかかるのだ。狙いを203高地一点にしぼれ」と作戦を転換させました。

さらに、本来は海岸防衛用の巨大な大砲である28センチ榴弾砲にじゅうはっせんちりゅうだんほうを内地から運び込み、要塞や203高地に向けて撃ち込みました。砲弾の重さは1発200キロを超え、コンクリートの堡塁さえも打ち砕く威力がありました。

こうして203高地に攻撃を集中させた結果、12月5日、ついに日本軍は203高地の占領に成功します。激戦の末に手にした、戦いの大きな転換点でした。

乃木希典
乃木希典

この戦いで、わしは2人の息子をともに失った……。多くの兵を死なせた責めは、すべてわしが負わねばならぬ。それでも、ここを抜かねば日本に勝ちはなかったのだ。

203高地とは?なぜ重要だったのか

旅順・203高地(1904年)
203高地(1904年)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

203高地にひゃくさんこうちとは、旅順の町を見下ろす位置にある、標高約203メートルの小さな丘のことです。「203」という数字は、この標高203メートルに由来しています。

この丘がなぜそれほど重要だったのか。カギは「ここに立つと、旅順港の中に停泊するロシア艦隊が丸見えになる」という一点にありました。

📌 なぜ203高地が勝敗の「カギ」だったのか?:港のロシア艦隊を直接攻撃するのは、湾の地形にさえぎられてとても難しいことでした。ところが203高地に登れば、港の中が手に取るように見えます。つまり203高地は、砲撃の「観測点(着弾を見て狙いを修正するための場所)」として最高の位置だったのです。ここから狙いを定めれば、28センチ榴弾砲の砲弾を旅順港のロシア艦隊に正確に撃ち込めます。「203高地を取る=旅順艦隊を撃滅できる」——だからこそ、両軍がこの小さな丘に死力を尽くしたのです。

12月4日深夜から5日夜明けにかけての最後の突撃。203高地の山頂は、長期の砲撃で木という木がなぎ倒され、岩肌がむき出しになっていた。砲弾でえぐられた無数のくぼみ、焦げた土、硝煙のにおい——それでもロシア兵は堡塁の陰から機関銃を撃ち続けた。日本軍は這うようにして丘を登り続け、最後は銃剣による白兵戦にまでもつれ込んだ。夜明けとともに、日本軍の旗がついに頂上にはためいた。このとき乃木希典は、前線のほど近くでその報告を受け取った。傍らにはすでに、愛する次男・保典やすのりが同じ戦いで命を落としたという知らせも届いていた。

頂上から旅順港を見おろした日本兵たちは、思わず息をのんだ。眼下の港に、ロシアの戦艦・巡洋艦が手に取るように並んでいたのだ。「ここから撃ち込めば全部沈められる!」——この視界こそが、5ヶ月の苦闘がついに報われる瞬間だった。28センチ榴弾砲の砲口はただちに旅順港へ向けられ、12月中旬にはロシアの太平洋艦隊はほぼ壊滅した。

実際、203高地を占領した日本軍は、この丘の上に観測点を置いて旅順港へ砲撃を開始します。逃げ場のない港の中で、ロシアの太平洋艦隊はつぎつぎと撃沈され、ほぼ壊滅してしまいました。

これによって、日本がもっとも恐れていた「旅順艦隊とバルチック艦隊の合流」は完全に防がれました。のちに東郷平八郎がバルチック艦隊を破る日本海海戦の勝利も、この203高地での砲撃があったからこそ実現したのです。

もぐたろう
もぐたろう

ポイントは「要塞ぜんぶを落とす」から「まず203高地を取る」へ発想を切りかえたこと。この一点突破のアイデアこそが勝因だったんだ。たった1つの丘が、日露戦争全体の流れを変えたんだよ!

乃木希典は本当に愚将だったのか?

乃木希典
乃木希典/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

旅順攻囲戦を語るうえで欠かせないのが、「乃木希典は名将か、それとも愚将か」という長年の論争です。多くの兵士を死なせたことから、乃木にはながく「愚将」というイメージがつきまとってきました。

その一方で、近年の研究では「乃木を一方的に愚将と決めつけるのは公平ではない」という見方も強まっています。両方の言い分を並べて見てみましょう。

愚将論の根拠:効果の薄い正面突撃をくり返し、約6万もの死傷者を出した。203高地の重要性に気づくのが遅れた、とも批判される。

再評価論の根拠:当時はどの国も近代要塞の攻略法を確立していなかった。限られた兵力・情報・時間という条件のなかでは、乃木の判断はやむを得なかったという見方。

「愚将論」が広まった大きなきっかけは、戦後の小説や映画でした。とくに映画『二百三高地』(1980年)などを通じて、「兵士を無駄死にさせた指揮官」という乃木像が一般に定着していきます。

しかし、機関銃や近代要塞が登場したばかりのこの時代、世界中のどの軍隊も「要塞をどう攻め落とすか」という正解を持っていませんでした。同じ第一次世界大戦の塹壕戦ざんごうせんでも、ヨーロッパ各国は旅順以上の死傷者を出しています。こうした事情をふまえ、2023年刊行の長南政義『二〇三高地』など最新の研究では、乃木の決断を当時の条件のなかで再評価する動きが進んでいます。

乃木希典
乃木希典

名将か愚将か——その評価は後世の人々に委ねよう。わしにできたのは、与えられた条件のなかで最善を尽くすことだけだった。失った兵たちへの責めは、生涯わすれることはない。

あゆみ
あゆみ

乃木希典って「愚将」ってよく聞くけど、本当のところはどうなの?

もぐたろう
もぐたろう

近年の研究では「愚将とは言い切れない」という流れになってきてるよ。近代要塞の攻め方が世界中で確立していなかった時代に、あれほど難しい条件を与えられたことを考えると、再評価の余地は十分あるってことなんだ。教科書には書いてない、おもしろいテーマだよね!

旅順陥落の結果と日露戦争への影響

203高地が落ち、旅順艦隊が壊滅すると、要塞の運命も決まりました。1905年1月1日、ロシア軍の司令官ステッセルが降伏を申し入れ、約5ヶ月にわたった旅順攻囲戦はついに終わりを告げます。

旅順の陥落は、戦局を大きく前へ動かしました。それまで旅順にしばりつけられていた第三軍が自由になり、北の戦線へ向かえるようになったのです。この第三軍が合流したことで、日本は続く奉天会戦ほうてんかいせん(1905年3月)に勝利することができました。

■水師営の会見とステッセルの降伏

水師営の会見に臨む乃木希典とステッセル
水師営の会見に臨む乃木希典(中央右)とステッセル(中央左)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

降伏のあと、1905年1月5日、旅順郊外の水師営すいしえいという村で、乃木希典とステッセルの会見が行われました。これが教科書にもよく登場する水師営の会見です。

この会見で乃木は、敗れた敵将ステッセルに対して、武人としての敬意をもって接したと伝えられています。降伏した相手をはずかしめず、ステッセルの帯剣(剣を持つこと)も許しました。こうした騎士道きしどう的な振る舞いは、当時の国際社会から高く評価され、日本の名声を高めました。のちに「水師営の会見」は歌にもなり、広く知られるようになります。

■血の日曜日とロシアの動揺

旅順陥落のニュースは、ロシア本国に大きな衝撃を与えました。「難攻不落」と信じられていた要塞が落ちたことで、戦争に対する国民の不満が一気に噴き出したのです。

その直後の1905年1月22日、首都ペテルブルクで、民衆のデモ隊に軍が発砲する血の日曜日事件が起こります。これをきっかけに各地で暴動やストライキが広がり、ロシアは国内が大きく揺らぐことになりました(第一次ロシア革命)。

国内が不安定になったロシアは、戦争を続ける余力を失っていきます。こうした事情が、のちのポーツマス条約による講和(戦争の終結)への大きな圧力となりました。旅順の陥落は、ひとつの戦場の勝敗にとどまらず、日露戦争全体を終わりへと導く引き金になったのです。そしてこの勝利は、その後の韓国併合へとつながる、日本の大陸進出の足がかりにもなりました。

もぐたろう
もぐたろう

「旅順陥落 → ロシア国内の動揺(血の日曜日)→ ポーツマス条約」という連鎖が、日露戦争全体の流れを決定づけていったんだ。

坂の上の雲・ゴールデンカムイと旅順攻囲戦

旅順攻囲戦は、教科書だけでなく多くの小説・ドラマ・漫画でくり返し描かれてきました。「作品で知って、もっと知りたくなった」という人も多いはずです。ここでは代表的な3作品での描かれ方を見ていきましょう。

■NHKドラマ「坂の上の雲」での旅順

司馬遼太郎の小説をもとにしたNHKドラマ『坂の上の雲』では、旅順攻囲戦が物語の山場のひとつとして大きく描かれます。正面突撃でつぎつぎと兵が倒れていく場面は、戦争の悲惨さをまっすぐに伝えるものとして強い印象を残しました。

ただし、原作小説では乃木希典がやや「無能な指揮官」として描かれている点は注意が必要です。これはあくまで作家・司馬遼太郎の解釈であり、近年の研究では「フィクションとしての描写であって史実そのものではない」と指摘されています。作品として楽しみつつ、評価の部分は史料にもとづいた見方も知っておくとよいでしょう。

■漫画「ゴールデンカムイ」と白襷隊

人気漫画『ゴールデンカムイ』では、登場人物たちの多くが日露戦争の生き残りという設定で、旅順攻囲戦が物語の重要な背景になっています。とくに、作中で語られる白襷隊のエピソードは、この戦いに興味を持つきっかけになった読者も多いでしょう。

白襷隊は、すでに本文で紹介したとおり、夜襲のために白い襷をかけて突撃し、サーチライトに照らされて壊滅した実在の部隊です。作品ではドラマチックに脚色されていますが、「決死の夜襲が悲惨な結果に終わった」という骨格は史実どおりです。

■映画「二百三高地」と「愚将・乃木」のイメージ

「乃木希典=愚将」というイメージを世間に広めた大きなきっかけが、1980年公開の映画『二百三高地』です。この映画は、効果の薄い突撃で多くの兵が命を落とす様子を生々しく描き、大きな反響を呼びました。

ただし、すでに見たとおり、近年の研究では「当時の条件を考えれば乃木だけを責めるのは公平ではない」という再評価も進んでいます。作品が伝える「悲惨さ」は事実ですが、「愚将」という評価そのものは、作品によってつくられたイメージの面もあることを知っておきましょう。

あゆみ
あゆみ

ドラマや漫画で見た話と、史実って、どこまで信じていいのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

「出来事の大きな流れ」は史実どおりのことが多いけど、「人物の評価」や「セリフ」は作家の解釈が入っているんだ。だから作品で興味を持ったら、教科書や研究書で事実を確かめる——この二段構えがいちばんおもしろい楽しみ方だよ!

旅順攻囲戦をもっと深く知るためのおすすめ本

旅順攻囲戦や乃木希典の評価をもっと深く知りたくなった人のために、入門にぴったりの本を紹介します。小説で物語として味わうもよし、最新の研究書で「愚将論の真実」に迫るもよし。自分の興味に合わせて選んでみてください。

もぐたろう
もぐたろう

旅順攻囲戦・乃木希典をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①最新の史料研究から乃木を再評価したいなら

②小説で旅順攻囲戦のドラマを楽しみたいなら

新装版 坂の上の雲(1)

司馬遼太郎 著|文春文庫


③日露戦争全体を俯瞰して理解したいなら

日露戦争史1

半藤一利 著|平凡社ライブラリー

旅順攻囲戦のよくある質問(FAQ)

最後に、旅順攻囲戦についてよく検索される疑問にまとめて答えます。

本格的な陸からの攻撃が始まったのは1904年8月で、ロシア軍が降伏したのが1905年1月1日です。約5ヶ月間にわたる長い包囲戦でした。なお、戦争自体は1904年2月の旅順港への奇襲から始まっています。

丘の標高(高さ)が約203メートルだったことに由来します。地図上で「標高203m地点」と記されていたことから、そのまま「203高地」と呼ばれるようになりました。

乃木希典には2人の息子がいましたが、長男・勝典は南山の戦いで、次男・保典は203高地付近の戦いで、いずれもこの日露戦争で戦死しました。多くの兵とともに自身の息子2人をも失ったことが、乃木の人物像を語るうえで欠かせないエピソードになっています。

白襷隊は、暗闇で味方を見分けるために白い襷をかけて夜襲をしかけました。ところがロシア軍がサーチライトで戦場を照らしたため、白い襷がかえって格好の目印になってしまい、集中砲火を浴びてほとんど目的を果たせないまま壊滅しました。

旅順の郊外にある「水師営」という村で行われました。1905年1月5日、降伏したロシア軍司令官ステッセルと乃木希典がここで会見し、乃木が敗将を武人として礼をもって遇したことが国際的に高く評価されました。

旅順が陥落したことで、旅順にしばりつけられていた乃木の第三軍が自由になり、北の戦線へ向かえるようになりました。この第三軍が合流したことで、日本は続く奉天会戦(1905年3月)に勝利します。旅順の勝利が、次の大会戦の勝利を準備したという関係です。

1912年に明治天皇が亡くなった日、乃木希典は妻とともに自害(殉死)しました。旅順で多くの兵を死なせたことへの責任を生涯背負い続けていたこと、明治天皇への深い忠誠心などが理由とされています。この殉死は当時の社会に大きな衝撃を与え、乃木は「武士道の体現者」としても語られるようになりました。

まとめ

もぐたろう
もぐたろう

以上、旅順攻囲戦のまとめでした!「悲惨な失敗の戦い」というイメージが先に立ちがちだけど、203高地の奪取が旅順艦隊を壊滅させ、日本海海戦の勝利と日露戦争の勝利につながった——そう考えると、見え方がガラッと変わるよね。下の記事もあわせて読んで、日露戦争の全体像をつかんでみてね!

旅順攻囲戦の年表
  • 1904年2月
    日露戦争開戦・旅順港への奇襲攻撃
  • 1904年8月
    第一次総攻撃(大きな損害を出して失敗)
  • 1904年10月
    第二次総攻撃も難航
  • 1904年11月
    白襷隊の夜襲が壊滅
  • 1904年12月
    児玉源太郎の指揮・28センチ榴弾砲投入で203高地を占領
  • 1904年12月
    203高地からの砲撃で旅順艦隊が壊滅
  • 1905年1月1日
    ステッセルが降伏・旅順要塞が陥落
  • 1905年1月5日
    水師営の会見(乃木とステッセル)
  • 1905年1月22日
    血の日曜日事件(ロシア国内が動揺)

📅 最終確認:2026年6月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。

参考文献

Wikipedia日本語版「旅順攻囲戦」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「203高地」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「白襷隊」(2026年6月確認)
コトバンク「旅順攻囲戦」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
長南政義『二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断』角川新書(2023年)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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