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面白いほどわかる大逆事件!簡単にわかりやすく徹底解説【幸徳秋水の目指した社会主義・無政府主義を考える】

この記事は約7分で読めます。

今回は、1910年に起こった天皇暗殺未遂事件「大逆事件たいぎゃくじけん」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

大逆事件の概要

天皇暗殺を計画して爆弾を製造していた社会主義運動家が捕らえられた事件。社会主義・無政府主義を危険視していた政府はこの事件をきっかけに、関係者26名を有罪とし、そのうち12名が死刑になったが、そのほとんどが冤罪(無実の罪)だった。

無政府主義の中心人物だった幸徳秋水こうとくしゅうすいが冤罪で命を落とし、政府は大逆事件の後、危険な思想を取り締まる特別高等警察(特高)を置いた。

この記事では、以下の点を中心に大逆事件について解説していきます。

  • 大逆事件が起こった当時の時代背景
  • 大逆事件が起こった理由
  • 大逆事件の経過
  • 大逆事件の影響
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幸徳秋水の社会主義運動

大逆事件の時代背景は、幸徳秋水の生涯を追っていくとスムーズに理解することができます。

幸徳秋水は、社会主義者でした。

社会主義者とは

資本家と労働者の貧富の差を前提とした資本主義社会ではなく、みんなが平等・公平に暮らせる社会を目指す思想のこと。

「平等・公平に暮らせる社会」を目指す方法によって社会主義はさらに細かいジャンルに分かれています。(後でそのいくつかが登場します)

というわけで、幸徳秋水の生涯を社会主義運動を中心に時系列でまとめました。

幸徳秋水の生涯(ハイライト)
  • 1903年
    幸徳秋水「日本とロシアの戦争は絶対ダメ!」

    幸徳秋水は、「平民新聞へいみんしんぶん」という新聞を創刊して戦争反対を訴えた。

    社会主義には、資本階級(ブルジョワシー)に対抗するため、労働階級(プロレタリアート)は国境を越えて団結すべき!」という考え方があります。

    だから、日本とロシアの労働階級が殺し合う戦争に断固として反対したのです。

  • 1904年
  • 1905年2月
    幸徳秋水、牢獄入り

    過激な平民新聞の思想・論調が新聞紙条例違反と見なされて、牢獄入り。

    獄中で、ロシアのクロポトキンという人物について知り、無政府主義の思想に傾く。

    新聞紙条例とは?

    政府に危険を与えるような論調の新聞を取り締まる決まり事。自由民権運動が盛んだった頃に、これを抑え込むために制定されました。

  • 1905年11月
    出獄。シャバに出た後はサンフランシスコへ

    弾圧の強い日本を離れ、アメリカのサンフランシスコで無政府主義について研究。

    無政府主義とは?

    世界が公平・平等な社会にならないのは、政府(国)が原因だとする社会主義の考えの1つ。

    国の存在を否定するため、実現には社会の大転換(革命)が必須であり、社会主義の中でも非常に過激な思想です。

  • 1906年2月
    日本では日本社会党が結党

    政府は「社会主義者を弾圧しすぎると、逆に活動が過激化してテロリストになりかねない」と考え、社会主義政党である日本社会党の結党を認める。

    社会民主党は、社会主義のうち社会民主主義という思想を持っていました。

    社会民主主義とは?

    議会に民意を反映させることで、公平・平等な社会を目指そうとする社会主義の考え方。社会主義の中でも比較的温和な考え方でした。

    政府は基本的に社会主義には反対です。しかし、温和な日本社会党に対しては譲歩し、結党を認めました。

  • 1906年6月
    幸徳秋水、帰国

    幸徳秋水は、日本社会党に超過激思想「無政府主義」を広める。

    すると、日本社会党は「無政府主義推し」「社会民主主義推し」で内部分裂してしまう。

  • 1907年
    日本社会党、解散

    無政府主義と結びついた日本社会党を危険視した政府は、党を解散に追い込む。

  • 1908年
    赤旗事件

    無政府主義者の集会が開かれる。一部が暴徒化し、警察と衝突。

    幸徳秋水はこの事件には直接関与はしていないが、事件の後、赤旗事件で逮捕された菅野かんのスガという女性と結婚する。互いに家族がいたけど、不倫関係となりそのまま家族を捨てゴールインしてしまった。

  • 1910年
    大逆事件←この記事はココ!

なんとなく、幸徳秋水が破天荒な人生を歩んだことがわかると思います。

幸徳秋水が広めた無政府主義は国家転覆(革命)を目指す思想だったため、秋水は日本に帰国後も政府からずーっと危険視され続けていました。

そんな中で起こったのが1910年、天皇暗殺を目論んだ爆弾製造事件(大逆事件)だったのです。

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大逆事件はなぜ起こったのか?

大逆事件が起こった理由は難しいですが、大きく2つに分けるとわかりやすいです。

1つ目の理由は、政府が無政府主義者を弾圧しすぎたからです。

日本社会党の解党により思想を主張する場(議会)を失い、赤旗事件でも厳しい取り締まりを受けた無政府主義者は、次第に「国を倒すには国のトップである天皇を倒すしかない!」というような過激な思想に追い込まれることになります。

2つ目の理由は、そもそも無政府主義ってそーゆーものだからです。

無政府主義について幸徳秋水はこう考えていました。

幸徳秋水
幸徳秋水

武力では国に対抗できない。だから力づくの行動はダメだ。

労働者によるストライキこそが重要であり、労働者が一致団結して国を倒し、無政府を目指すべきだ!

幸徳秋水はストライキ運動を重要だと考えていましたが、無政府主義が日本に広まるにつれて、幸徳秋水の主張のうちの「国をぶっ倒す」というところだけが一人歩きし、「国をぶっ倒す=政府を攻撃する」というテロリズム思考が生まれるようになります。

過激な思想ゆえに無政府主義はテロ行為と結びつきやすく、大逆事件は起こるべくして起こった・・・とも考えることができます。

弾圧するとさらに過激化するし、放っておいても過激化する。政府が無政府主義を危険視していた理由もわかるような気がします。

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大逆事件、起こる

1910年5月25日、宮下太吉みやしたたきちという無政府主義者の男が、無許可で爆弾を製造していた罪で捕まります。(実験中の爆発音でバレてしまったらしい・・・)

政府は、

「無政府主義者」+「爆弾」=「国家転覆(革命)」→「天皇暗殺!」

とこれを天皇暗殺計画と断定。

事態を重く受け止めた政府は、宮下とその関係者を大逆罪に処しました。

大逆罪とは?

皇室に危害を加えたり、加えようとした者に対して与えられる罪のこと。

当時の罪の中で最も重く、死刑が確定している。しかも、裁判は控訴なしの一発勝負。おまけに裁判は非公開とされました。

【参考】(大逆罪について規定した当時の刑法)

天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

政府は、これを機に無政府主義者を大逆罪で一掃しようと考え、直接事件に関与していない無政府主義者を次々と大逆罪で捕らえていきます。

その中の一人に菅野スガがいました。そして、「菅野スガが関係者ならその旦那である幸徳秋水も黒だろ!」という理屈で幸徳秋水も捕らえらました。

終わってみれば26名が捕らえられ、そのうち幸徳秋水・菅野スガを含む12名が死刑。残り12名は刑が軽くなり無期懲役、残る2名は有期懲役となりました。

暗黒裁判だったため、大逆事件の真相は今となってはわかりません。しかし、幸徳秋水はほとんど確実に冤罪だろうと言われています。さらには26人のうちのほとんどが冤罪であり、実際に怪しい行動をしていたのは宮下太吉を含めた数名だったとも言われています・・・。

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社会主義運動、冬の時代へ・・・

大逆事件によって、社会主義運動は完全に息の根を止められました。

政府内に危険思想専門の警察「特別高等警察とくべつこうとうけいさつ」(略称:特高とっこう)が組織され、過激な社会主義者たちは特高からの監視を受けるようになります。

そして、活動の場を失った社会主義者の中には表現の場として文学に歩み寄る者も現れます。

逆に文学者が社会主義に関心を持つきっかけともなり、詩人で有名な石川啄木いしかわたくぼくは大逆事件による幸徳秋水の死に衝撃を受け、社会主義に強く傾倒し、大逆事件の真相究明に全力を注ぎました。

また、直接は関係はありませんが、国家権力によって抵抗もできないまま民衆が死刑に処せられた大逆事件は人々に大きなショックを与え、次は社会主義運動ではなく、民主主義運動である「大正デモクラシー」へとつながっていきます。



明治時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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