

今回は竹崎季長について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!元寇で命がけの先駆けを行い、その記録を自ら絵巻物に残した鎌倉武士の話だよ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
竹崎季長といえば「恩賞目当てで戦った自己中な武士」というイメージを持つ人もいます。しかし実は——
恩賞目当てで戦ったというその「本音」こそが、鎌倉武士の動機をありのままに記録した貴重な証言なのです。神風で敵を撃退した「神国日本」という美談の陰で、武士たちは家族を養うために命を張っていた——竹崎季長の生き方は、そんな歴史の本音を700年以上越えて伝えてくれます。
竹崎季長とは?読み方・生涯をざっくり解説
📌 読み方:たけざきすえなが
📌 何をした人:1246年生まれ、肥後国竹崎郷(現・熊本県宇城市)出身の下級御家人。元寇(文永の役・弘安の役)で命がけの先駆けを敢行し、その記録を「蒙古襲来絵詞」として後世に残した
📌 なぜ有名か:自ら絵師に依頼した蒙古襲来絵詞が、鎌倉武士の実態を伝える一級史料として現在も残っている
竹崎季長は、鎌倉時代中期の武士です。1246年(寛元4年)頃、現在の熊本県宇城市松橋町にあたる肥後国竹崎郷に生まれました。
身分としては「下級御家人」——将軍と主従関係を結んだ武士ではあるものの、大きな領地を持つわけではない地方の中小武士です。鎌倉に遠く離れた九州の地で、一族の土地を守りながら暮らしていました。
そんな竹崎季長を歴史の表舞台に引き上げたのが、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度にわたる元寇(蒙古軍の日本侵攻)でした。

竹崎季長って、名前がよく出てくるけど……何でそんなに有名なの?

ほとんどの武士は自分の記録を残せなかったんだよね。でも竹崎季長は「自分が戦った証拠を絵巻物にして後世に残す」という行動を取った。だから元寇を語るとき、彼の記録が欠かせない一次史料になってるんだ!
元寇を生き延びた多くの武士が名もなく歴史に埋もれていく中、竹崎季長だけは自らの戦いを絵師に描かせて記録に残しました。その結果、700年後の私たちも彼の活躍——そして鎌倉武士たちの本音——を知ることができるのです。
次の章では、竹崎季長が育った肥後国と、元寇前夜の武家社会の様子を見ていきましょう。
竹崎季長の誕生と幕府御家人時代

竹崎季長が生まれたのは1246年(寛元4年)頃とされています。場所は肥後国竹崎郷——現在の熊本県宇城市松橋町のあたりです。
当時の九州は、鎌倉幕府の支配下にありながらも、中央から遠い「辺境」という感覚がありました。武士たちは土地を耕しながら弓矢の腕を磨き、有事の際には将軍のために戦う義務を負っていました。これが御家人制度の仕組みです。
御家人とは、将軍と「御恩と奉公」の主従関係を結んだ武士のこと。将軍から土地や地位を保証してもらう代わりに(御恩)、いざ戦が起きれば馳せ参じる義務を果たす(奉公)——という関係です。竹崎季長はその御家人の一人でしたが、九州在住の中小武士であり、裕福な大武士とは程遠い存在でした。

下級御家人って、今でいえば地方の小さな子会社みたいなイメージかな。本社(鎌倉)から遠い地方で何とか経営(農業+軍事)をやっていくけど、ボーナス(恩賞)がもらえないとじわじわ倒産に近づく……そんな切実な立場なんだよ。
さらに追い打ちをかけたのが、元(モンゴル帝国)の台頭です。13世紀後半、大陸ではフビライ=ハンが元を建国し、中国・朝鮮半島を支配下に置いたのちに日本へ使者を送り込んできました。
「服従しなければ侵略する」——その脅しは現実のものとなり、1274年(文永11年)、ついに蒙古軍が北部九州に上陸します。九州の御家人たちにとっては、まさに自分たちの土地の話でした。竹崎季長はすでに28歳前後、働き盛りの武士として、この歴史的な戦に巻き込まれていくことになります。
次の章では、その文永の役での竹崎季長の決断を見ていきましょう。
文永の役と竹崎季長の先駆け

1274年(文永11年)10月、元・高麗連合軍約3万の軍勢が対馬・壱岐を制圧し、北部九州の博多湾に上陸しました。これが「文永の役」です。

蒙古軍は日本の武士たちが経験したことのない戦い方をしてきました。集団戦法・毒矢・そして「てつはう」と呼ばれる爆発物。一対一の名乗りを上げる戦いに慣れた御家人たちは、圧倒的な異質さに直面します。
蒙古軍が打ち鳴らす鉦鼓(銅鑼)の響きとともに「てつはう」が炸裂すると、日本の馬たちは耳をつんざく爆音に驚いて暴れ出したといいます。煙と炎、見知らぬ集団戦法——蒙古襲来絵詞には、爆発が迫る中を馬で駆け抜けようとする武士たちの緊迫した様子が、まるでその場にいるかのように描かれています。
それでも竹崎季長は動じませんでした。それどころか、わずかな手勢を率いて誰よりも早く蒙古軍に突撃しようとしたのです。
鎌倉時代の合戦では、戦場で誰よりも早く敵陣に突っ込む行為を「先駆け」と呼びました。これは単なる勇気の問題ではなく、恩賞を得るための最重要条件でした。「誰が一番最初に敵に斬りかかったか」を証明することで、幕府から土地や官職をもらえる可能性が生まれます。逆に言えば、先駆けをしなければ目立てず、どれだけ戦っても恩賞につながりにくかったのです。
竹崎季長は菊池武房ら九州御家人の部隊とともに蒙古軍の前進を迎え撃つべく、麁原方面へと進軍しました。しかし竹崎季長の手勢はあまりにも少なく、他の御家人たちはまだ態勢を整えている最中でした。
そんな状況でも竹崎季長は待てませんでした。恩賞は先陣を切った者に与えられる。一刻でも早く突撃しなければ、名誉も恩賞も他の武士に奪われてしまう——そう判断した竹崎季長は、手勢わずか5騎で蒙古軍の前に突き進んだのです。

先駆けを逃してたまるか!ここで名を上げなければ、我ら一族に未来はない!
しかし無謀な突撃は当然の結果をもたらします。数で圧倒する蒙古軍に包囲された竹崎季長は、苦境に追い込まれました。馬1頭が射られ、部下も傷つきます。このまま全滅かと思われたそのとき——
元寇の激戦を知る武将、白石通泰が率いる援軍が到着し、竹崎季長たちを救出したのです。命拾いをした竹崎季長は、敵の包囲を脱することができました。

「恩賞目当てで突っ込んだ自己中な武士」って批判もあるけど、竹崎季長にとっては「一族が路頭に迷うか否か」の瀬戸際だったんだよね。恩賞がなければ土地を守れず、土地を守れなければ一族が終わる——その切実さが、あの無謀な突撃を生んだんだ。
こうして命は救われた竹崎季長でしたが、問題は戦後に起きました。先駆けを行ったにもかかわらず、恩賞が一向にもらえないのです。次の章では、そこから始まる驚くべき行動力を見ていきましょう。
鎌倉陳情—恩賞を求めて旅した男
文永の役が終わったあと、竹崎季長は恩賞を待ち続けました。しかし幕府からの沙汰は一向に来なかったのです。
理由は二つありました。
問題①:証人がいない
先駆けを行ったことを証明してくれる武士がいなかった。合戦の混乱の中で「誰が最初に突撃したか」を見ていた味方の武将がいなければ、幕府としても恩賞を出す根拠がない。
問題②:元寇は異例の戦い
外国軍との戦いで恩賞をどう処理するかという前例がなかった。通常の御家人の戦功認定(没収した敵地を分配する)が使えず、幕府側も対応に迷っていた。
どれだけ命がけで戦っても、証明できなければ恩賞はもらえない——そんな理不尽な現実に直面した竹崎季長は、ある決断をします。
自分で鎌倉に行って直接訴える、と。
これは現代の感覚でいえば、熊本から神奈川まで自費でクレームに行くようなもの。九州から鎌倉まで馬で行くだけでも、当時は数週間〜数か月の旅です。しかも何の保証もなく、受け付けてもらえるかどうかすら分かりません。それでも竹崎季長は動きました。
肥後から鎌倉まで、現代の直線距離でも900kmを超える道のり。馬を乗り継ぎ、渡し船を使い、山道を越えながら旅を続けた竹崎季長が道中どれほどの不安を抱えていたか——「このまま鎌倉に着いても取り合ってもらえなかったら」という恐怖を押し殺しながら、それでも東へ向かい続けたのです。

今でいう熊本→神奈川の徒歩+馬の旅、しかも自費でクレームを言いに行くって……すごい行動力だよね。でも彼にとっては一族の存亡をかけた旅だったんだ。

鎌倉に到着した竹崎季長は、幕府の有力者である安達泰盛に面会を求めました。安達泰盛は当時の幕府で御恩奉行(恩賞担当)を務めており、評定衆・引付衆も歴任した幕府の重鎮として、御家人の権益を守ることに熱心な人物として知られていました。
竹崎季長は安達泰盛に直談判し、自らの先駆けとその後の経緯を訴えました。すると安達泰盛は竹崎季長の話を聞き入れ、馬1頭を与えたとされています。
馬1頭——現代の感覚ではささやかに思えるかもしれませんが、当時の武士にとって軍馬は最重要の財産です。恩賞として馬を与えられたことは、「幕府があなたの先駆けを認めた」という公的な証明でもありました。
竹崎季長は長旅の末に目的を果たし、肥後に帰国します。そしてその馬が、7年後の弘安の役で重要な役割を果たすことになるのです。
なお、安達泰盛はその後も幕政において重要な役割を担いますが、1285年(弘安8年)の霜月騒動で平頼綱に滅ぼされています。竹崎季長にとっては、命の恩人とも言える人物でした。
弘安の役での活躍

1281年(弘安4年)、元は再び日本を侵攻します。これが「弘安の役」です。今度は東路軍・江南軍合わせて約14万の軍勢という、当時の東アジアでも例を見ない大規模な艦隊でした。

竹崎季長は、安達泰盛から与えられたあの馬に乗って戦場へ向かいました。その馬こそが「自分の先駆けが幕府に認められた証拠」であり、今度は二度目の元寇でさらなる功績を立てようと意気込んでいたのです。
📖 弘安の役の規模:東路軍(旧元・高麗軍)約4万+江南軍(旧南宋軍)約10万の計約14万人。文永の役の約4〜5倍の兵力で九州を狙った。
竹崎季長は志賀島の戦いや博多湾内の御厨海上での戦いに参加し、小船を使って元軍の大型船に乗り込む白兵戦にも臨んだとされています。蒙古襲来絵詞にはその場面が描かれており、自ら小船に乗って元軍に斬り込む竹崎季長の姿が生々しく伝わってきます。
そして1281年7〜8月、九州地方を台風が直撃します。元軍の船団は暴風雨によって壊滅的な打撃を受け、多くの兵士が海に沈みました。日本ではこの台風を「神風」と呼びました。

二度の元寇を戦い抜いた竹崎季長。でも弘安の役が終わっても恩賞問題は続いてたんだよね。戦いに勝っても「証拠を残す」という問題はつきまとう。だから絵巻物を作ろうという発想が生まれるんだ!
弘安の役後、竹崎季長は再び恩賞を求めて奔走します。そしてその過程で思いついたのが、自らの戦いぶりを絵巻物として記録させるという画期的な発想でした。次の章では、その蒙古襲来絵詞について詳しく見ていきましょう。
蒙古襲来絵詞とは?制作理由と内容

弘安の役が終わったあと(1293年頃とも言われています)、竹崎季長は絵師を雇い、自らの戦いぶりを描かせました。これが「蒙古襲来絵詞」、または「竹崎季長絵詞」とも呼ばれる絵巻物です。
その全長は約44メートル(上巻約24m・下巻約20m)。現存する絵巻物の中でも最長クラスに数えられる大作で、文永の役・弘安の役の両方を克明に描いています。竹崎季長が自らの立場と先駆けの功績、そして安達泰盛との面会までを2巻の絵巻にまとめさせたのです。
制作された絵巻物は、熊本県上益城郡甲佐町にある甲佐神社に奉納されたという説が従来から有力とされています。神への感謝と、自らの武功を後世に伝えるためです。その後、絵巻はいくつかの経緯を経て宮中に移され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館(皇居三の丸尚蔵館)に「御物」として所蔵されています。
①当事者が自ら依頼した史料:竹崎季長本人が記憶のうちに制作を依頼したため、戦場の生々しい情報が盛り込まれています。
②武士の本音が残っている:恩賞目当てで動いた事実が隠されず記録されており、「神国日本を守った」という後世の美化とは一線を画す率直な記録です。
③元軍の戦術が具体的に描かれている:「てつはう」(火薬を使った爆発物)や毒矢の描写は他の史料にはほとんど見られない具体的な情報で、考古学的な裏付けとも一致しています。

絵巻物を自分で作らせて残したって、すごい行動力……!でも何でそこまでしたのかしら?

実はこれ、子孫のための「恩賞申請用の証拠書類」だったんだよ!文字の記録だけじゃ信用されないから、絵で視覚的に「ここで先駆けをした」と証明しようとしたんだ。それが結果的に、700年後の私たちにとって元寇の一級史料になってる、っていう。歴史の皮肉だよね。
蒙古襲来絵詞が描く世界は、英雄的な武士の物語ではありません。恩賞を求めて必死に戦い、証拠を残すために絵巻物まで作った一人の下級武士の、ひたすらリアルな記録です。それだからこそ、この絵巻物は歴史学的に高く評価されているのです。
次の章では、竹崎季長の晩年と死因について見ていきましょう。
竹崎季長の最期と死因は?
竹崎季長の死因や正確な没年は、史料が残っておらず不明です。
史料上で確認できる最後の記録は、元亨4年(1324年)3月4日のもの。生年が1246年頃とすると、この時点ですでに78歳以上だったと推定されます。
また、晩年には出家して「法喜(ほうき)」と名乗ったという記録も残っています。元寇での戦闘、長旅での直訴、絵巻制作と波乱の生涯を送った後、静かに仏門に入ったのでしょう。

死因はわからなくても、絵巻物のおかげで700年後も名前が残っている。これって自分でちゃんと記録を残した結果なんだよね。「どうせ誰も覚えてくれない」と諦めないで行動したからこそ、今の歴史教科書に名前が載っているんだ!
■ 墓所・史跡と顕彰
竹崎季長ゆかりの地は、今も熊本県宇城市に残っています。
- 塔福寺(とうふくじ):竹崎季長の墓所とされる寺院。季長自身が建立したとも伝えられています(熊本県宇城市)
- 竹崎神社:季長を祀る神社(熊本県宇城市)
- 竹崎城跡:季長が居城としたとされる城の跡地(熊本県宇城市)
また、明治時代に入ってからは、元寇での功績が改めて評価されました。1914年(大正3年)には、明治政府から従三位(じゅさんい)を追贈されています。
📖 1914年追贈の背景:明治の元寇再評価
明治時代には、国家への忠義・滅私奉公の精神が重んじられた時代背景から、元寇で命がけで戦った御家人たちが改めてクローズアップされました。竹崎季長への従三位の追贈も、その流れの中で行われたものです。現代の歴史学では、季長の行動は「恩賞目当ての私的な動機」として客観的に評価されていますが、その記録が貴重な一級史料として残っていることの価値は変わりません。
竹崎季長に関する書籍紹介
元寇や蒙古襲来絵詞についてさらに詳しく学びたい方に、おすすめの書籍を紹介します。
竹崎季長が命がけで戦った元寇(文永の役・弘安の役)の全体像を、最新の研究成果をもとに解説した一冊です。「神風が元軍を退けた」という通説を史料で検証し直した画期的な新書。蒙古襲来絵詞にも詳しく触れており、竹崎季長の記録がなぜ歴史的に重要なのかを深く理解できます。
元寇がなぜ繰り返されたのか、フビライ・ハンのモンゴル帝国の内部事情から読み解く古典的名著です。日本側の武士の奮戦だけでなく、モンゴル・高麗・南宋それぞれの立場から元寇を俯瞰でき、竹崎季長が戦った敵の実態がよくわかります。
よくある質問(FAQ)
「たけざきすえなが」と読みます。史料によっては「竹崎末永」「竹崎李長」と表記されることもありますが、一般的には「竹崎季長」が正式な漢字表記です。
鎌倉時代の下級御家人で、元寇(文永の役・弘安の役)で命がけの先駆けを敢行した武士です。文永の役(1274年)では証人なしに先駆けを行い恩賞がもらえなかったため、肥後(熊本)から鎌倉まで自費で旅し、幕府の有力者・安達泰盛に直接訴えました。その後弘安の役(1281年)でも活躍し、晩年に自らの活躍を記録した「蒙古襲来絵詞」を制作・奉納したことで、今も名前が歴史に残っています。
正確な死因・没年は不明です。史料上最後の記録は1324年(元亨4年)3月4日で、生年が1246年頃とすると、この時点で78歳以上だったと推定されます。晩年には出家して「法喜(ほうき)」と名乗ったとの記録も残っています。墓所は熊本県宇城市の塔福寺とされています。
竹崎季長が制作を依頼した、元寇(文永の役・弘安の役)を描いた全長約44mの絵巻物(上巻約24m・下巻約20m)です。鎌倉武士が「先駆け→恩賞獲得」という実利的な動機で戦っていたことを生々しく示す一級史料として、歴史学上も非常に重要な価値を持ちます。現在は宮内庁三の丸尚蔵館(皇居三の丸尚蔵館)が所蔵しており、一般公開はされていません。
文永の役(1274年)で命がけの先駆けを行ったにもかかわらず、恩賞がもらえなかったためです。戦場では証人がなく、自力での功績証明が難しかった竹崎は、肥後(熊本)から鎌倉まで自費で馬を走らせ、幕府の有力者・安達泰盛に直接訴えました。「命がけで戦ったのに報われないのは不公平だ」という一心での行動でした。安達泰盛はその訴えを認め、竹崎に馬を与えました。
出身地は肥後国竹崎郷(現・熊本県宇城市松橋町)です。墓所は同じく熊本県宇城市の塔福寺(とうふくじ)とされており、竹崎季長自身が建立したとも伝えられています。また、竹崎神社・竹崎城跡も宇城市に現存しており、地元では今も顕彰されています。
まとめ

以上、竹崎季長のまとめでした!「恩賞目当て」という生々しい本音を700年後まで伝えてくれた絵巻物が、今では最高の一級史料になっているって面白いよね。元寇や鎌倉時代が気になる人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
- 1246年頃肥後国竹崎郷(現・熊本県宇城市)に誕生
- 1274年文永の役。単騎先駆けを敢行証人なしのため恩賞を得られず
- 1275年頃恩賞を求めて鎌倉へ旅。安達泰盛に直談判、馬を与えられる肥後から鎌倉まで自費で旅した直訴行動
- 1281年弘安の役。志賀島・御厨海上で活躍2度目の元寇でも先駆けを敢行
- 1293年頃蒙古襲来絵詞の制作を依頼。甲佐神社に奉納全長約44m(上巻約24m・下巻約20m)。元寇を描いた一級史料
- 1324年史料上最後の記録(元亨4年3月4日)没年・死因不明。晩年は出家して「法喜(ほうき)」と名乗ったとも
- 1914年明治政府より従三位を追贈(大正3年)元寇での功績が改めて評価される
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「竹崎季長」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「蒙古襲来絵詞」(2026年6月確認)
コトバンク「竹崎季長」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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