関東大震災とは?原因・被害・朝鮮人虐殺・復興をわかりやすく解説【中学・高校】

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関東大震災

もぐたろう
もぐたろう

今回は関東大震災について、原因・被害・朝鮮人虐殺・後藤新平の復興計画まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 関東大震災とは何か(1923年・M7.9・死者数・震源地)
  • 被害がこれほど拡大した2つの理由(火災・昼食時という偶然)
  • デマと朝鮮人虐殺の真相(亀戸事件・甘粕事件も含む)
  • 後藤新平の復興計画(「大風呂敷」と現実の落差)
  • 震災が日本の歴史を変えた影響(政治・経済・都市)

毎年9月1日が「防災の日」になっているのは、なぜか知っていますか?

1923年(大正12年)9月1日、関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲いました。死者・行方不明者は約10万5,000人。日本の災害史でも最悪クラスの大惨事です。

実は、関東大震災の被害の約9割は「火災」によるものでした。そしてその混乱のなかで、根拠のないデマによって数千人もの朝鮮人・中国人が自警団に殺害される事件まで起きています。関東大震災は、ただの自然災害ではなく、人災としての側面も色濃く持つ出来事だったのです。

この記事では、関東大震災の基本データから、被害が拡大した理由、デマと虐殺の経緯、渋沢栄一と並んで震災復興を主導した後藤新平の挑戦、そして震災が昭和の動乱につながっていく流れまで、まとめて整理していきます。

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関東大震災とは?3行でわかる基本情報

3行でわかるまとめ
  • 1923年(大正12年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源とするM7.9の大地震が発生
  • 死者・行方不明者は約10万5,000人。被害の約9割は火災によるものだった
  • 震災直後のデマによる朝鮮人虐殺・亀戸事件・甘粕事件が起き、「人災」の側面も持つ

関東大震災かんとうだいしんさいとは、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発生した、相模湾さがみわん北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震とその被害の総称です。

地震そのものの正式な名称は「関東地震かんとうじしん」ですが、それによる甚大な被害を含めて呼ぶときには「関東大震災」と表現します。震源は神奈川県西部の相模湾沖で、東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡など、まさに首都圏直下を激しい揺れが襲いました。

関東大震災で焼失した東京の街並み
関東大震災で焼失した東京の街並み。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

被害は東京府(現在の東京都)と神奈川県を中心に広がり、死者・行方不明者は約10万5,000人、全壊・全焼した住宅は約29万棟にのぼりました。経済的損失は当時の国家予算の3年分以上にあたる約55億円(現代の貨幣価値に換算すれば数十兆円規模)と推定されています。

特に深刻だったのは「発生時刻」でした。地震が起きたのは正午直前の11時58分。多くの家庭で七輪しちりんかまどに火が入った昼食の支度の真っ最中だったため、揺れと同時に各地で一斉に火災が発生してしまったのです。

ゆうき
ゆうき

M7.9って、阪神淡路大震災と比べてどのくらい大きいの?

もぐたろう
もぐたろう

阪神淡路大震災(M7.3)の約5.6倍、東日本大震災(M9.0)の約45分の1のエネルギーだよ!マグニチュードは0.2増えるごとに約2倍になるから、M7.9はかなりの規模なんだ。それでも東日本大震災ほどではないのに死者数が多いのは、火災と人口集中地帯を直撃したからなんだよね。

あゆみ
あゆみ

9月1日が「防災の日」なのって、関東大震災が起きた日だからなのよね?

もぐたろう
もぐたろう

そうだよ!1960年に政府が9月1日を「防災の日」に制定したんだ。関東大震災を忘れないため、そして同じ被害を繰り返さないための日でもあるんだよね。

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なぜあれほど被害が拡大したのか?2つの理由

関東大震災の死者数は阪神淡路大震災(約6,400人)の約16倍、東日本大震災(約2万2,000人)の約5倍に達します。

同じ「巨大地震」と呼ばれても、関東大震災の犠牲者の桁が違うのはなぜでしょうか。理由は大きく2つに整理できます。

理由①:昼食の支度中に地震が発生——火災が一気に広がった

関東大震災が発生したのは1923年9月1日の11時58分。各家庭で昼食を準備しているまさにその瞬間でした。当時はガスや電気のコンロではなく、すみや薪を使う七輪・竈が中心。揺れが収まるまで火を止める余裕などなく、倒れた炊事道具から一斉に火災が発生してしまったのです。

政府の集計によると、関東大震災で確認された出火件数は東京市内だけで134か所。そのうち消火できたのは数か所のみで、残りはすべて延焼につながりました。結果として、東京市の面積の約44%が焼失。横浜市にいたっては市街地のほぼ全域が焼け野原になりました。

関東大震災で避難する人々
関東大震災で避難する人々。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

理由②:木造密集市街地と「強風」が重なり、火災旋風が発生した

もう一つ被害を決定的にしたのが、当時の東京の都市構造気象条件です。江戸時代から続く木造家屋が密集する町並みは、いったん火がつけば燃え広がる燃料そのもの。さらにこの日は日本海を進む台風の影響で、東京には強風が吹き荒れていました。

強風で炎が次々と隣家に飛び火し、しかも一部地域では火災旋風かさいせんぷうと呼ばれる、炎の竜巻まで発生しました。

最悪の事態が起きたのは、東京・本所区(現在の墨田区)にあった陸軍被服廠跡りくぐんひふくしょうあと。広い空き地だったため約4万人もの避難民が荷車に家財道具を積んで集まっていましたが、ここに火災旋風が直撃。わずか数時間でおよそ3万8,000人が焼死するという、世界の災害史でも例のない悲劇が起きました。

関東大震災で被害を受けた横須賀海軍工廠
関東大震災で被害を受けた横須賀海軍工廠。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もぐたろう
もぐたろう

11時58分っていう絶妙に悪いタイミングを考えると、ゾッとするよね。もし朝7時台や夜中に起きていたら、火災の被害はここまで拡大しなかったかもしれない。「9月1日・正午前・台風による強風」っていう3つの偶然が、被害を最悪まで押し上げちゃったんだ。

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震災下で起きた人権問題——デマと虐殺

関東大震災を語るうえで絶対に避けて通れないのが、震災直後に起きた人権侵害です。地震そのものではなく、人間がパニックになって他の人間を殺してしまった——という痛ましい事件が、立て続けに発生しました。

■ 「井戸に毒」「放火している」——拡散したデマ

地震発生の翌日、9月2日ごろから関東地方一帯で恐ろしいデマが急速に広がりました。「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「放火している」「暴動を起こして攻めてくる」——いずれも何の根拠もない流言蜚語ひごです。

当時、ラジオ放送はまだなく、新聞も多くが焼失して情報伝達手段がほぼ寸断されていました。情報がない不安と恐怖のなかで、人から人へ口伝えにデマが広がり、内務省・警察が一部のデマを「治安維持の口実」として地方へ電報で伝えてしまったことも、信憑性を補強する結果になりました。

関東大震災後の避難所の様子
関東大震災後の避難所の様子。情報が遮断されたなかでデマが広がった。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 自警団による朝鮮人・中国人の虐殺

デマを信じた住民たちは、町内ごとに自警団じけいだんを組織し、竹槍や日本刀、鳶口(とびぐち)などで武装しました。そして「朝鮮人らしい」と思われた人々を次々に拘束し、その多くを殺害してしまいます。

被害者の正確な数は公式には特定されていませんが、当時の調査資料や研究によると、朝鮮人の犠牲者は数千人規模にのぼるとされ、その他に中国人や、朝鮮人と間違われた日本人(地方出身者や言葉の訛りがある人など)も多く殺害されました。これは戦時下を除く近代日本における、最大規模の民間人による集団的殺害事件です。

政府は9月2日に戒厳令かいげんれいを発令し、軍隊を出動させますが、自警団の取り締まりはむしろ後手にまわりました。後日、政府は事件の重大さを認めて自警団員の一部を裁判にかけましたが、多くは形式的な裁きにとどまっています。

■ 軍・憲兵による思想弾圧——亀戸事件と甘粕事件

民間の自警団による虐殺とは別に、戒厳令下の混乱を利用した国家権力による殺害も起きています。亀戸事件と甘粕事件です。どちらも「朝鮮人の危機」ではなく、社会主義者しゃかいしゅぎしゃアナキストあなきすとを標的にした思想弾圧であり、朝鮮人虐殺とは主体も動機も異なります。

亀戸事件(1923年9月3〜4日)

戒厳令が敷かれた東京で、東京・亀戸警察署に保護名目で連行されていた南葛労働会なんかつろうどうかいの指導者平沢計七ひらさわけいしちら労働運動家・社会主義者10名が、陸軍の習志野騎兵連隊の兵士によって殺害された事件です。

軍は当初、事件の存在そのものを否定して隠蔽しようとしました。遺体は秘密裏に処理され、遺族への通知もありませんでした。内務省・警察と軍が連携した組織的な口封じが疑われましたが、最終的に責任を取った軍人はほとんどいません。

甘粕事件(1923年9月16日)

震災から2週間後の9月16日、憲兵大尉甘粕正彦あまかすまさひこが、大杉栄おおすぎさかえ・内縁の妻伊藤野枝いとうのえ、および甥の橘宗一たちばなそういち(当時6歳)の3名を麹町憲兵分隊内で絞殺した事件です。

大杉栄おおすぎさかえは、当時日本を代表するアナキスト(無政府主義者)の論客。労働者の権利や反戦思想を唱えてきた「危険人物」として、軍・政府から長年マークされていました。甘粕は軍法会議で懲役10年の判決を受けましたが、わずか3年で仮釈放。のちに満洲国の実力者として活動し続けます。

2つの事件の共通点

亀戸事件・甘粕事件には共通点があります。①戒厳令下の治外法権的状況を利用した点、②標的が「思想的に危険」とみなされた人物だった点、③軍や憲兵が主体であり、事件後の処罰がほぼなかった点——です。これらは民間人による朝鮮人虐殺とは本質的に異なる、国家による思想弾圧として位置づけられています。

あゆみ
あゆみ

デマで人が殺されるって……現代のSNSのフェイクニュース問題と、構造が似てるわよね?

もぐたろう
もぐたろう

まさに同じ構造だよ!「情報がない・不安・恐怖」がそろうと、人間はデマを信じやすくなる。SNSで広がるフェイクニュースの仕組みと根っこは変わらないんだ。だから関東大震災は「過去の話」じゃなくて、現代への教訓として今も重要なんだよね。

後藤新平と復興計画——「大風呂敷」の男の挑戦

焼け野原になった東京と横浜を、どう立て直すか。震災後の日本に突きつけられた最大の課題に、真正面から挑んだのが後藤新平ごとうしんぺいでした。

後藤新平 肖像
後藤新平。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 後藤新平とはどんな人物か

後藤新平(1857〜1929年)は、岩手県水沢みずさわ出身の官僚・政治家です。もともとは医師で、内務省衛生局長として近代日本の公衆衛生制度の基礎をつくりました。その後、台湾総督府民政長官として台湾の都市インフラ整備を主導し、初代南満州鉄道みなみまんしゅうてつどう(満鉄)総裁として満州の鉄道経営も指揮。「植民地経営の名手」「都市計画の専門家」として、当時の日本でも別格の実績を持つ大物でした。

震災当時、後藤は66歳で内務大臣を務めていました。9月2日に発足した第2次山本権兵衛やまもとごんべえ内閣で内務大臣に就任し、9月27日には新設の帝都復興院ていとふっこういん総裁を兼任。震災復興の司令塔となります。

■ 「大風呂敷」と呼ばれた壮大な復興計画

後藤が打ち出した復興構想は、当時としては桁外れのスケールでした。当初の構想は30億円規模(一説には40億円以上)。当時の国家予算が約15億円だったことを考えると、国家予算2年分を東京の復興だけにつぎ込む計画だったのです。

この計画を批判する政治家や財界人たちは「あまりに非現実的だ」と声を荒げ、「大風呂敷おおぶろしき」——風呂敷を広げすぎて包みきれない、という意味のたとえ——とあざ笑いました。しかし後藤はまったく意に介さず、「政治の父は財政、その母は外交、大風呂敷ならば大きく広げればよい」と言い放ったとされています。その豪胆さは「大風呂敷の新平」という渾名として後世まで語り継がれています。

後藤新平
後藤新平

大風呂敷でも、夢を大きく語らなければ復興は始まらない。焼け野原になった今こそ、二度と燃えない、世界に誇れる首都をつくるのだ!

計画の柱は、次の4点でした。

① 幹線道路の広幅員化(昭和通り・靖国通りなど大通りの新設)
② 土地区画整理(焼失地を一度更地にして区画を整理)
③ 大型橋梁の整備(隅田川にかかる清洲橋・永代橋・蔵前橋など)
④ 公園・避難地の確保(隅田・浜町・錦糸の三大公園など)

■ 議会の反対で計画は大幅に縮小

しかし、この壮大な計画は議会と政界の猛反発に遭います。「土地を強制的に買い上げるなど財産権の侵害だ」「財政破綻する」という批判が相次ぎ、予算は何度も削られました。最終的に成立した帝都復興事業の予算は約4億6,844万円。当初構想からすると、6分の1以下にまで削減された形です。

それでも、現代の東京の主要な道路網・橋梁・公園の多くは、この帝都復興事業によってつくられました。昭和通り・大正通り(現・靖国通り)・隅田川の永代橋・清洲橋などは、いまも私たちが日常的に使うインフラです。

もぐたろう
もぐたろう

当初構想の6分の1以下になったのに、それでも今の東京の骨格をつくったってすごいよね。今でいうと、渋谷の100年大規模再開発みたいなビッグプランが、震災後たった数年で形になったイメージ。後藤が「大風呂敷」を広げてくれたから、削られても最終的に大きな成果が残ったとも言えるんだ。

📌 渋沢栄一の関わり:震災当時83歳だった渋沢栄一は、私財も投じて「大震災善後会」の副会長として被災者救援と義援金の集約に奔走しました。後藤新平が「ハードの復興」を担ったとすれば、渋沢は「人と経済の復興」を支えた存在と言えます。

関東大震災の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

関東大震災についてもっと深く知りたい人に、おすすめの1冊を紹介するよ!

①読み物として楽しみたい人に|圧倒的リアリティのノンフィクション

新装版 関東大震災

吉村 昭 著|文春文庫

📖 ノンフィクション作家・吉村昭が膨大な証言と記録を元に書き上げた、関東大震災の決定版。地震発生の瞬間から、火災の拡大、デマの広がり、虐殺、そして復興への歩みまでを圧倒的なリアリティで描く。菊池寛賞受賞作。「教科書では1ページで終わる関東大震災を、100倍のスケールで体感できる」と評される名著です。

震災が日本の歴史を変えた——政治・経済・都市への影響

関東大震災は、首都圏のインフラと人命に未曾有の打撃を与えただけではありません。日本の政治・経済・社会全体の流れを、大きく変える転換点になりました。ここでは3つの側面から整理します。

影響①:政治——大正デモクラシーへの打撃と治安強化

大正時代は、民本主義・普通選挙運動・労働運動など、自由で民主的な空気が広がっていた時代でした。しかし関東大震災と、その混乱に乗じた亀戸事件・甘粕事件は、政府・軍部に「社会主義者・無政府主義者の取り締まり」の口実を与えてしまいます。

1925年(大正14年)には、普通選挙法とほぼ同時に治安維持法が成立。「国体の変革」や「私有財産制の否認」を目的とする結社の取り締まりが本格化し、思想・言論の自由は次第に締めつけられていきます。大正デモクラシーから昭和の暗い時代への分水嶺として、関東大震災は重要な位置を占めるのです。

影響②:経済——震災恐慌から金融恐慌・昭和恐慌への連鎖

震災で工場や商店、商品在庫が一気に焼失した結果、企業の手形(支払い約束のメモのようなもの)の多くが決済できなくなりました。政府はこれを震災手形しんさいてがたとして日本銀行に肩代わりさせる救済策をとります。

しかし、震災手形は不良債権として銀行のバランスシートを長く圧迫し続け、1927年(昭和2年)には大蔵大臣の失言をきっかけに取り付け騒ぎが発生。金融恐慌へとつながっていきます。さらに1929年の世界恐慌と重なって、日本経済は昭和恐慌に突入。農村の困窮と社会不安が、軍部の発言力を強める下地になっていきました。

震災から世界恐慌までの連鎖

1923年:関東大震災 → 震災手形の発生
1927年:金融恐慌 → 銀行の取り付け騒ぎ・休業
1929年:世界恐慌 → ニューヨーク株価大暴落
1930年〜:昭和恐慌 → 農村の困窮・労働争議の激化
→ 軍部台頭・満州事変(1931年)へ

影響③:都市——帝都復興と郊外化・近代都市東京の誕生

関東大震災後の日本橋・神田の壊滅状況(1923年)
震災後の日本橋・神田周辺。市街地が壊滅した廃墟の上に「近代都市・東京」が誕生した。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

都市面では、被害が大きかった下町(本所・深川・浅草など)から、被害が比較的軽かった山の手(杉並・世田谷・目黒など)へと、人と住宅が大きく移動しました。この時期に郊外の鉄道会社が宅地開発を進めたことで、東京の郊外化(住宅の山の手シフト)が一気に進みます。

また、震災で被害を受けた銀座・日本橋・新宿などでは、鉄筋コンクリート造の近代的なビルが次々と建ち、デパートやカフェ、映画館が並ぶ「モダン都市・東京」が誕生しました。同時に、本社機能の一部を大阪に移す企業も増え、関西経済圏が一時的に首都圏を上回る大大阪だいおおさか」の時代を迎えます。

📌 帝国ホテルの奇跡:震災当時、東京・日比谷に完成したばかりだったのが、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wright設計の帝国ホテル(1923年4月に竣工したばかり)。周囲の建物が次々と倒壊・炎上するなか、帝国ホテルはほぼ無傷のまま残りました。軽量な帝国花崗岩と「浮き基礎」(地盤の揺れを建物全体で吸収する工法)のおかげで、地震に耐えることができたのです。被災した数百人の外国人や市民がホテルに避難し、支配人・林愛作はライトへ電報を打ちました。「Hotel stands undamaged as monument of your genius. Hundreds of refugees sheltered here.(ホテルはあなたの天才の記念碑として無傷で建っています。数百人の避難民がここに身を寄せています。)」。この出来事は世界中に報道され、耐震建築の重要性を広く知らしめる転機となりました。

関東大震災で無傷だった帝国ホテル(右)と燃え上がる周辺建物(1923年)
震災後の帝国ホテル(手前)。周囲の建物が燃える中、フランク・ロイド・ライト設計のホテルだけが無傷で残った。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ゆうき
ゆうき

治安維持法って、関東大震災がきっかけで作られたって考えていいの?

もぐたろう
もぐたろう

「直接の原因」とまで書くと言いすぎだけど、「背景の一つ」って書けば正解だよ。震災後の社会不安と「社会主義への恐怖」が広がったことが、1925年の治安維持法制定を後押しした——っていう因果関係はテストでもよく問われるんだ。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 関東大震災(1923年・大正12年):9月1日11時58分・M7.9・死者約10万5,000人
  • 被害の特徴:被害の約9割は火災。本所・被服廠跡で約3万8,000人が焼死
  • 戒厳令:9月2日に発布。デマと自警団による朝鮮人虐殺の背景の一つ
  • 亀戸事件・甘粕事件:震災の混乱に乗じた社会主義者・無政府主義者への弾圧
  • 後藤新平:帝都復興院総裁。「大風呂敷」と呼ばれた壮大な復興計画を立案
  • 震災手形・震災恐慌:震災後の不良債権問題→1927年金融恐慌への連鎖

📌 暗記のコツ:「1923年=大正12年・9月1日」はセットで暗記。後藤新平=帝都復興院総裁=「大風呂敷」も頻出。亀戸事件・甘粕事件は「震災に乗じた弾圧」として論述問題でも出やすい。「震災手形→金融恐慌(1927年)→昭和恐慌」の連鎖も要チェック。

ゆうき
ゆうき

テストで一番大事なのって、年号?人名?それとも論述問題?

もぐたろう
もぐたろう

1923年(大正12年)・9月1日・M7.9」の3点セットは絶対!あとは「後藤新平・帝都復興院・亀戸事件・甘粕事件・戒厳令」の5語。共通テストや論述では「震災が近代日本にどんな影響を与えたか」「治安維持法とのつながり」がよく問われるから、政治・経済・都市の3つの影響をまとめて言えるようにしておこう!

よくある質問

A. 1923年(大正12年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源とするM7.9の大地震です。神奈川県・東京府(現東京都)・千葉県・埼玉県・静岡県などを中心に、首都圏全体に甚大な被害をもたらしました。9月1日が現在の「防災の日」に制定されているのも、この震災が由来です。

A. 死者・行方不明者は約10万5,000人とされ、そのうち約9割が火災によるものでした。特に本所区(現・墨田区)の陸軍被服廠跡地では火災旋風により、わずか数時間で約3万8,000人が犠牲になっています。これは戦時下を除けば近代日本最悪の単一災害です。

A. 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」といった根拠のないデマ(流言蜚語)が、震災翌日の9月2日ごろから関東一円に広がりました。情報伝達手段が壊滅していたことに加え、内務省・警察の電報が流言を裏付けるように作用したこともあり、自警団が朝鮮人や中国人、地方出身の日本人までを次々に殺害してしまいました。犠牲者は数千人規模と推計されています。

A. 後藤新平は内務大臣兼帝都復興院総裁として、当初30億円規模(国家予算2倍分)の壮大な「帝都復興計画」を提案しました。柱は幹線道路の広幅員化・土地区画整理・大型橋梁整備・公園整備の4つです。議会の反対で予算は約4億6,844万円まで縮小されましたが、それでも昭和通り・靖国通り・隅田川の永代橋・清洲橋など、現在の東京の骨格となるインフラの多くがこの計画によって生まれました。

A. 大きく3つの影響があります。①政治面:戒厳令と社会主義者への弾圧が強まり、1925年の治安維持法制定の流れを後押ししました。②経済面:「震災手形」が不良債権化して1927年の金融恐慌、1930年代の昭和恐慌へと連鎖していきます。③都市面:帝都復興事業で東京の道路・橋梁・公園が近代化され、郊外への宅地化と「モダン都市・東京」が誕生しました。

A. 亀戸事件は1923年9月3〜4日、東京・亀戸警察署内で軍が労働運動家・社会主義者の平沢計七ら10名を殺害した事件。甘粕事件は9月16日、憲兵大尉の甘粕正彦がアナキストの大杉栄・伊藤野枝と甥の少年を麹町憲兵分隊で殺害した事件です。どちらも戒厳令下の混乱に乗じて起きた、国家権力による思想弾圧として歴史に刻まれています。

まとめ——関東大震災が教えてくれること

最後に、関東大震災のポイントを整理しておきます。試験対策の総ざらいにも、社会人の方の教養まとめにも使ってください。

関東大震災のポイントまとめ
  • 1923年9月1日11時58分・M7.9。死者・行方不明者約10万5,000人の大惨事
  • 被害の約9割は火災——昼食時という「最悪のタイミング」と台風による強風が被害を拡大
  • デマによる朝鮮人虐殺・亀戸事件・甘粕事件——「人災」の側面を忘れてはいけない
  • 後藤新平の「大風呂敷」復興計画が現代の東京の骨格をつくった
  • 震災手形→金融恐慌→昭和恐慌という経済の連鎖が昭和の動乱を準備した

もぐたろう
もぐたろう

以上、関東大震災のまとめでした!関東大震災は「100年前の出来事」じゃなくて、デマ・人災・復興・経済崩壊という現代にも直結するテーマが詰まった出来事なんだよね。下の記事で阪神・淡路大震災や東日本大震災、大正デモクラシーもあわせて読んでみてください!

関東大震災の年表
  • 1923年9月1日
    関東大震災発生——M7.9・11時58分
  • 1923年9月2日
    戒厳令発布・自警団による朝鮮人虐殺が拡大
  • 1923年9月3〜4日
    亀戸事件——軍が労働運動家らを殺害
  • 1923年9月16日
    甘粕事件——大杉栄・伊藤野枝らが殺害される
  • 1923年9月27日
    後藤新平が帝都復興院総裁に就任
  • 1924年
    帝都復興計画が縮小決定・実施開始
  • 1925年
    普通選挙法・治安維持法が同時成立
  • 1927年
    金融恐慌——震災手形問題が表面化
  • 1960年
    9月1日を「防災の日」に制定

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「関東大震災」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「後藤新平」(2026年5月確認)
コトバンク「関東大震災」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
気象庁「1923年9月1日 関東地震」
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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