今回は、1918年に起こった米騒動について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
米騒動とは
1918年8月、日本政府はシベリア出兵を実施することを決定しました。
すると、こんなことを考える地主や商人が現れました。
戦争(シベリア出兵)が起これば、米の需要が増えるはずだから今のうちに米を買い占めて、みんなが米を欲しくて困っているところで高値で売り捌いて大儲けしたろww
こうして米の価格は暴騰し、米を買えなくなって生活に苦しむ人々が、米を求めて日本各地で大規模な暴動を起こした事件が米騒動です。
米騒動は、新型コロナが広まった最初の頃に問題となったマスク転売ヤーと非常に似ています。
2020年春頃、大量のマスクを買い占めて困っている人に高値で売りつける転売ヤーの存在が社会問題となりました。
マスク問題は暴動には発展しませんでしたが、政府内には米騒動を連想した人が一定数いたんじゃないかと思います。
米騒動当時のお米事情
「シベリア出兵で米価格が高騰して暴動が起きた」というのが、よく言われる米騒動の理由ですが、厳密にはシベリア出兵だけが理由ではありません。
というわけで、少しだけ米騒動当時のお米事情を説明しておきます。
お米が贅沢品ではなくなる
米というのは、古来よりお金持ちや偉い人が食べる贅沢品で、農民たちは「ひえ」や「麦」を主食としていました。
それが、大正時代になると人々の生活水準が向上して、一般家庭でもお米を主食とする家庭が多くなりました。
農家が減っていく
日本は明治時代以降、国の近代化に成功しました。
それに合わせて第二次産業(製造業など)が発展し、工場などで働く人が増えていきます。地方では、工場や首都圏で出稼ぎに行く者が増えて人口流出が続き、就農者も減っていく傾向がありました。
米の輸入が途絶える
今ではあまり想像できませんが、当時の日本はお米を一部輸入していました。しかし、第一次世界大戦の勃発に合わせて輸入量が減少します。
寄生地主「小作人から米をもらえればOK」
地租改正や松方デフレによって、小規模農家では没落する者が続出して、小作農(地主から土地を借りて農業をすること)が増えました。
こうなると、地主は土地の借料(小作料)が不労所得で入ってくるので、このような地主は「小作人に寄生している地主」ということで寄生地主と呼ばれています。
寄生地主は「儲かった金は新しい分野(製造業など)へドンドン投資するんだ!農業になんて投資しても金にならんし無駄無駄!」と考えていたし、
一方の小作人も「言われた通りに米を作っていればOK」と考えていたので、農業の生産性が向上せず、思うように米の生産量が増えませんでした。
※さらに小作料は米で納めさせていたので、地主は米をたっぷり持っていて、地主自身が米を安易に売らずに、米不足で米価格が高騰するのを待って、高値で米を売り捌こうとしました。
このように、もともと「お米の需要が増えているのに、供給が追いつかない」という状況があったところに、シベリア出兵が米価格高騰のトリガーを引いてしまったのです。
米騒動の経過
1918年初頭から米価格の高騰は社会問題になりつつありましたが、政府が本格的な対策をすることはありませんでした。政府の対策といえば、暴動が起こった時に備えて警察の動員数を増やしたことぐらいです。
米騒動の始まりは1918年8月、富山県のとある村で起こりました。
民衆たちが米を船に積む仕事を拒否し、米の販売を求めて米屋や役所に押しかけたのです。
米を船で別な場所に運ぶぐらいなら、ここで安値で売りやがれバカヤロウ!!!
富山で起こったこの騒動は、民衆たちが勝利を勝ち取り、米を相場より安い値段で買うことに成功しました。
この富山の騒動が全国紙で話題になると、騒動は全国各地へあっという間に広がります。
なるほど!!米が欲しかったら富山の人たちみたいに暴動を起こせばいいんだ!!
こう考えた人たちは、全国各地の米屋や役所に米の廉価販売を要求し、これを拒否された場合は打ちこわしへと発展していきました。
米騒動は9月までの2ヶ月間続き、東京・大阪などの都会を筆頭に全国38市・153町・177村で起こり、約70万人もの人々を巻き込んだ大騒動となりました。
米騒動の鎮圧には警察のみならず、軍隊が動員された地域も多く、これほどの規模の暴動が全国各地で一斉に起こることは前代未聞の出来事です。政府は想像を絶する規模の大きさに恐怖しました。
米騒動の責任をとって寺内内閣が解散へ・・・
政府(当時は寺内内閣)はこの事態を重く受け止めました。
米騒動の起こる一年前(1917年)、ロシアでロシア革命が起こりました。ロシア革命は、第一次世界大戦の重い負担に不満を爆発させた民衆が、ロマノフ王朝を倒して世界初の社会主義国家を樹立した大事件です。政府が「米騒動は日本版のロシア革命になるんじゃないか・・・」と、強い危機感を持ったとしても不思議ではありません。
米騒動の批判の矛先は寺内内閣にも向かいました。主に新聞社を通じて、世論は寺内内閣に対して痛烈な批判を行いました。
寺内内閣は、民意は無視してOKと考える超然主義の内閣でした。
世論は、民意を無視する寺内内閣の解散と、政党の党員で内閣を構成する政党内閣の結成を要求したのです。(選挙で選ばれた党員に内閣を任せれば、民意が政治に反映される・・・という理屈です)
当時は、民本主義が人気を博した大正デモクラシーの時代だったので、世論の批判はかなり強いものとなりました。
米騒動を深刻な事態と受け止めた政府内でも、「寺内内閣を解散して民衆が望む人物を内閣総理大臣に選ぶべきだ」という風潮が強くなり、水面下でその準備が進められます。
1918年9月、寺内正毅が内閣総理大臣を辞職し、新たに立憲政友会の原敬が内閣総理大臣となりました。
日本初の本格的な政党内閣
原敬は、華族の身分を与えられることを拒否し続け、平民の身分で内閣総理大臣となったため、民衆からの絶大な人気を受けながら、内閣総理大臣に就任することになりました。
民の気持ちを理解してくれている原敬なら、きっと俺たちのために善政を敷いてくれるはずだ!!
原敬は、立憲政友会のメンバーを中心とした政党内閣を結成します。民衆は、政党内閣の結成で「きっと民意を政治に反映してくれるだろう!」と大きな期待を持ちました。
※大きな期待を背負いながら誕生した原内閣ですが、そもそも原内閣は官僚や元老院(政府の裏ボス)との交渉・妥協の末に成立しているため、政治方針に大きな変更はありませんでした。そのため、裏切られたと感じた民衆たちは次第に原敬を批判するようになり、1921年、原敬はテロリストによって暗殺されてしまいます。
米騒動まとめ
米騒動は、米価格の高騰をきっかけとして当時のさまざまな社会問題を浮き彫りにしました。
まとめると、米騒動は単なる米不足の問題だけではなく、民衆たちによる資本主義と専制政治(超然主義)への反対運動としての側面もあった・・・ということです。
米騒動によって資本主義が変わることはありませんでしたが、専制政治には変化がありました。政府は、批判を浴びている寺内内閣を解散し、民衆人気の高い原敬に政党内閣を結成させることで、民衆の不満を鎮め、世論を落ち着かせようと画策したのです。
桂園時代の終わり頃から活発になった大正デモクラシーですが、米騒動はまさに大正デモクラシーを象徴する一大事件となり、政治の民主化に向けた大きな原動力となりました。
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