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大正政変の原因や流れをわかりやすく簡単に解説!【桂内閣が倒れ大正デモクラシーが始まりました】

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もぐたろう
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今回は、1913年に起こった大正政変たいしょうせいへんという事件について、わかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • そもそも大正政変って何?
  • なぜ大正政変は起こったの?
  • 大正政変の経過は?
  • 大正政変によって日本の政治はどうなったの?
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大正政変とは?

大正政変とは、民衆や政党の激しい批判運動(第一次護憲運動ごけんうんどう)によって、桂太郎が内閣総理大臣を辞職に追い込まれた事件のことを言います。

「大正」時代初期に民衆運動・政党の運動によって、「政」局が大きく「変」化したことから、この事件のことを大正政変と言います。

民衆の意見が政治に反映されにくかった時代において、民衆や政党の力で政治を大きく動かしたという点で、大正政変はとても画期的な事件でした。

大正政変をきっかけに、民衆たちが政府に対して民主主義的(民本主義)な政策を求める大正デモクラシーと呼ばれる動きが活発になりました。

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なぜ大正政変は起こったの?

大正政変が起こった理由は、簡単に言ってしまうと桂太郎かつらたろうの政治のやり方が独裁主義のように見えて、民衆からひどく嫌われていたから」です。

本題に入る前に、大正政変の主役の一人である桂太郎の政治について見ておきましょう。

桂太郎(出典:国立国会図書館

1901年、桂太郎は内閣総理大臣に就任します。

桂太郎は、超然主義ちょうぜんしゅぎと呼ばれる政治思想を持っていました。

超然主義とは

「議会が政府(内閣)の政策に大きな影響を与えてはならない。」と考えて、議会よりも政府の意向を重視する思想のこと。

超然主義は、民衆や政党の意見を軽んじる考え方なので、必然的に民衆たちから嫌われることになります・・・。

桂太郎が打ち出す政策には、議会からも強い批判がありましたが、それでも桂太郎は1906年までの長期政権を樹立しています。(当時は政治情勢が複雑で、0~2年程度の短命政権が多かったので、5年でも十分な長期政権なのです。)

批判を浴びていた桂太郎が、長期政権を築くことができたのは、1904年に起こった日露戦争のおかげです。桂太郎は、日露戦争が起こるまで、民衆寄りの最大政党だった立憲政友会と意見がぶつかることが多く、頭を悩ませていました。

しかし、日露戦争が起こると、立憲政友会と政争をしている場合ではなくなります。

そこで桂太郎と立憲政友会は、「立憲政友会は桂太郎の政権運営に協力すること。その代わり、日露戦争が落ち着いたら桂太郎は内閣を解散して、政権を立憲政友会に譲る」という密約をかわし、敵同士ながら協調路線で政権運営が行われることになります。

この密約は、桂太郎と立憲政友会の関係に大きな変化をもたらしました。

正論をぶつけ合って戦うよりも、お互いにある程度妥協しあった方が、互いの意見も通りやすいし、政治がスムーズになる気がする!

こう考えた桂太郎と立憲政友会は、日露戦争後も敵同士ながら互いに妥協しながら、互いに交代で政権運営を進めます。この桂太郎・立憲政友会が交代で政権を担った時代のことを桂園時代と言います。政敵同士が妥協しあったという点で、当時としては非常に政治が安定した時代でした。

しかし、1912年12月に桂太郎が3回目の内閣総理大臣になると情勢が一変します。立憲政友会の影響力が増すことを恐れた桂太郎は、立憲政友会との協調路線を破棄し、新しく政党を立ち上げることを考えたのです。(この新しい政党が後の立憲同志会りっけんどうしかいです)

こうなると、立憲政友会も桂太郎と妥協する必要もなくなり、日露戦争以前のように桂太郎と戦うことを決意します。

当時、桂太郎は、国民が批判する政策を次々と行っており、国民からの印象は最悪でした。立憲政友会は、この国民感情も利用して、民衆とタッグを組んで第三次桂内閣の倒閣に向けて運動を開始したのです・・・!

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桂太郎はなぜ民衆に嫌われたのか

桂太郎が嫌われる原因となった政策は大きく3つあります。

桂太郎が嫌われた3つの理由
  • 1 日露戦争に勝ったのに、ロシアから賠償金をもらえなかったこと(1905年)
  • 2 大逆事件で、社会主義者を弾圧して言論の自由を脅かしたこと(1910年)
  • 3 陸軍の軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を倒閣させたこと(1911年)

それぞれ、簡単に説明しておきます。

1つは、日露戦争に勝ったのに賠償金をもらえなかったことです。日本はロシアにほぼ引き分けの辛勝をしただけで、賠償金を強く要求できるほどの勝利を収めていません。

しかし、政府は世論操作で国内では「日本圧勝!」という報道をし続けたため、勝利のために増税等に耐え忍んできた多くの国民は日露戦争の勝利に希望を見出していました。

しかし、国民の希望と戦後に締結されたポーツマス条約の内容があまりにかけ離れていたため、国民は激怒。日比谷で暴動が起こりました(日比谷焼討事件)。この時の内閣総理大臣が桂太郎でした。(第一次桂内閣)

2つ目は、天皇暗殺テロの疑いで次々と社会主義者を捕らえた大逆事件です。社会主義者の人々の中には証拠もなく、冤罪のまま捕らえられた者も数多くいて、おまけに、多くの人が非公開の暗黒裁判で死刑となります。この時の総理大臣も桂太郎でした。(第二次桂内閣)

この強引な弾圧は、国民から見れば国家権力によって言論の自由を奪う行為に等しく、国民の桂太郎に対する批判がドッと吹き上がります。耐えきれなくなった桂太郎は、内閣を解散して政権を立憲政友会に譲りました。(第二次西園寺内閣)

3つめは、歴史用語で2個師団増設問題と呼ばれる事件です。陸軍が2個師団の増強を第二次西園寺内閣に要求すると、西園寺公望さいおんじきんもちはこれを拒否。

すると、陸軍は要求を押し通すため、陸軍大臣のストライキ的なことを実施。陸軍大臣を擁立できなくなった西園寺公望は内閣解散に追い込まれました。そして、この時に裏で暗躍していた人物の1人が桂太郎でした。

2個師団増設問題で第二次西園寺内閣が倒れると、1912年12月、再び桂太郎が内閣総理大臣になりますが、世間の評価は最悪です。桂太郎のイメージは、「権力・金に目のくらんだ独裁者」という感じです。

桂太郎って最悪な人よね。

日露戦争では軟弱外交で賠償金すらもらえないくせに、大逆事件では強権を振りかざして言論の自由を奪ったわ。

おまけに自分がまた権力の座に就きたいからって、裏で陸軍を操って利用して第二次西園寺内閣を倒した・・・なんて噂もあるわ。

どれだけ権力に飢えてるのかしらね。こんな独裁者の政権なんて、早くなくなるべきだわ!

これはあくまで、国民から見た桂太郎の印象です。

日露戦争の件は、外交問題でやむを得ませんし、2個師団増設問題には桂太郎以外の人物も関与しており、「全部が桂太郎の陰謀だ!」とは言い切れません。

桂太郎が嫌われる経過は、桂園時代について書いた以下の記事も参考になるので詳細が気になる方は合わせて読んでみてくださいね。

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桂太郎と立憲同志会

1912年12月、第三次桂内閣を立ち上げた桂太郎は、これまでの説明のとおり、国民から強い批判を受けました。

この勢いに乗じて、民衆を支持母体とする立憲政友会や立憲国民党に議会で戦う姿勢を見せられると、桂太郎の政権運営は危うくなります。

特に、桂園時代に桂太郎と連携して勢力を拡大している立憲政友会は要注意です。

そこで、桂太郎は新しく立憲同志会という政党を立ち上げて、自らが議会の与党になろうと考えました。

具体的には、次に掲げる3つのメンバーを集結させて、立憲同志会を立ち上げようとしました。

  • 中央倶楽部(政府寄りの政党)の党員
  • 立憲国民党(民衆寄りの政党)の一部メンバー
  • 立憲政友会(民衆寄りの政党)の一部メンバー

政府寄りの中央倶楽部ちゅうおうくらぶのメンバーは簡単に集められるとして、問題は立憲国民党と立憲政友会のメンバーを引き抜くことです。

結論から言うと、長年のライバルである立憲政友会から党員を引き抜くことには失敗しました。一方で、立憲国民党からの引き抜きには成功します。

立憲国民党とは?

立憲国民党は、民衆の意見を訴える立場の立憲政友会が桂太郎と連携したことに反発した人たちが集まった政党です。1910年に結党されました。

「立憲政友会のように桂内閣に媚を売るのではなく、私たちはしっかりと国民の声を議会を通じて政府に伝えるのだ!」という思想がありましたが、立憲政友会と桂太郎が桂園時代を築くと、影の薄い存在になってしまいます。

党の中(特に上層部)からは、立憲国民党の力を強めるために「桂内閣との連携で力を強めた立憲政友会のように、立憲国民党も桂内閣に歩み寄るべきでは?」という意見が浮上し、立憲国民党の中で意見が2分することになりました。

桂太郎は、この内紛を利用して、「桂内閣に歩み寄るべき」派の人々を引き抜きました。

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大正政変の経過(第一次護憲運動)

2個師団増設問題によって第二次西園寺内閣が倒されたのをきっかけに、民意を無視する政治に危機感を持った立憲政友会・立憲国民党の有志たちが、憲政擁護会けんせいようごかいを結成します。(政党ではありません。ただの集まりです。)

憲政擁護会の中心メンバーは以下の2人

  • 立憲政友会の尾崎行雄おざきゆきお
  • 立憲国民党の犬養毅いぬかいつよし

憲政擁護会は、各地で集会を開いて民意を無視する桂太郎の批判を行いました。

そして、桂太郎の新党結成の話を知った立憲政友会は、党全体として憲政擁護会を支援し、桂太郎と徹底的に戦うことを決めます。

桂太郎は当初、攻勢の立憲政友会と戦うことは避けて、このまま議会を解散して選挙戦に持ち込もうと考えていました。次の選挙で立憲同志会が議席の半分以上を占めれば、桂太郎の勝ち・・・というわけですね。

しかし、桂太郎には大きな誤算が2つありました。それは、「立憲政友会から党員を引き抜けなかったこと」「想像以上に、国民の自分(桂太郎)への批判が大きいこと」です。

桂太郎
桂太郎

このままだと、選挙になっても立憲政友会・立憲国民党に勝てないかもしれない・・・。

1913年2月5日、憲政擁護会を支持する民衆が議事堂を取り囲み、緊迫した空気の中、議会が行われます。しかし、不利な情勢と判断した桂太郎は、議会を一時休会とし、その間に立憲政友会を脅すことにします。

桂太郎は、大正天皇を利用しました。2月9日、立憲政友会の総裁だった西園寺公望は、急に天皇に呼ばれ、そこで「内閣を解散に追い込んだらダメですよ(超訳)」という意思表示(勅語)を受けます。

皇室とゆかりの深かった西園寺公望にとって、天皇の意向は絶対でした。打倒桂内閣を掲げる党員たちと天皇の意見の板挟みとなった西園寺公望は、立憲政友会の総裁を辞職。

立憲政友会の中には、西園寺のように「勅語には逆らえない」と思う者も多く、立憲政友会の勢いは削がれてしまいます。ここまでは、桂太郎の計画通りです。

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海軍大将の山本権兵衛

しかし、桂太郎の計画は頓挫します。天皇を利用した桂太郎のやり方に、海軍大将だった山本権兵衛やまもとごんべえがブチギレたからです。

山本権兵衛(出典:国立国会図書館

海軍と陸軍は、予算の奪い合いなどで対立することが多く、昔から犬猿の仲でした。桂太郎が2個師団増設問題などで陸軍を優遇し、海軍が苦汁を飲んでいる中での、天皇を利用する横暴なやり方に堪忍袋の尾が切れたのです。

山本権兵衛は、立憲政友会との連携を図ります。海軍の支援を受けた立憲政友会は再び勢いを回復し、2月10日桂内閣に解散を要求する内閣不信任案の提出を再決定します。

桂太郎の計画は失敗したのです。

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大正政変、起こる

2月10日の議事堂も、興奮する多くの民衆が押しかけていました。大暴動にも発展しかねない緊迫した空気がただよい、警察が民衆を抑止するも抑え切れず、小競り合いも起こりました。

一触即発の異様な空気の中、立憲政友会を中心に桂太郎に対して内閣の解散(不信任案)を求めます。

この時、桂太郎はこう考えていました。

桂太郎
桂太郎

議会が不信任案を求めてきたら、議会は解散する。

そして、選挙戦に持ち込んで、私の新政党(立憲同志会)で勝利する。勝利のためなら、私は手段は選ばないつもりだ・・・!

しかし、議事堂周辺の異様な光景がそれを許しません。もし、桂太郎が諦めずに議会の解散を宣言しようものなら、民衆たちが暴徒と化し、東京が大混乱に陥りかねない状況だったからです。

さすがの桂太郎も、国民たちの決死のプレッシャーには勝てませんでした。議会の解散を諦め、内閣総理大臣の辞職を決意したのです。

ただ、押し寄せた民衆の中には、桂太郎が内閣総理大臣を辞職したのを知らずに政府寄りの新聞社を焼き討ちしたり、警察に詰め寄って負傷する人々の姿もありました。

おそらく、血を流さなければ民意を反映できない日本の政治に多くの人が疑問・不満を持ったことでしょう。

この大正政変をきっかけに、民意を国政に反映させようとする大正デモクラシーの運動が盛んになりました。

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大正政変のその後

桂太郎の後に内閣総理大臣になったのは、海軍の山本権兵衛でした。

しかし、1914年、海軍の汚職事件(シーメンス事件)が発覚し、山本は内閣総大臣を辞職に追い込まれ、再び政治は不安定に。

一方、世界に目を向ければ、1914年にはヨーロッパで第一次世界大戦が勃発します。イギリスと日英同盟を結んでいた日本にとっても無関係ではなく、国内外ともに混迷を極める時代が続くことになります・・・

ちなみに、桂太郎が立憲政友会に対抗するために立ち上げた立憲同志会は1913年12月に結党となり、後の立憲民政党へと発展していきます。(桂太郎自身は、立憲同志会の姿を見ることなく1913年10月になくなりました。)

大正政変と第一次護憲運動の違い(補足)

大正政変と第一次護憲運動がゴチャゴチャになっている人もいるかもしれません。

大正政変→桂内閣が倒された事件そのもの。

第一次護憲運動→大正政変のきっかけになった民衆・政党による桂太郎反対運動のこと。

言葉の使い方としては、「第一次護憲運動によって大正政変が起こり、桂内閣が倒れた」・・・というような感じです。



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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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