今回は、1923年に起こった虎ノ門事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
虎ノ門事件とは
虎ノ門事件とは、1923年12月、裕仁皇太子(後の昭和天皇)が虎ノ門という場所で狙撃されたテロ未遂事件のことを言います。
場所は下の地図の場所↓↓
犯人は、難波大助という男。社会主義の一種である無政府主義という思想を持つ人物でした。
無政府主義者によるテロ未遂は、虎ノ門事件が初めてではありません。約10年前の1910年にも、テロ未遂によって多くの無政府主義者が捕まる事件がありました。(大逆事件)
大逆事件の際は、犯行前に犯人を捕まえたため、テロが実行されることはありませんでしたが、虎ノ門事件は違います。
虎ノ門事件は、未遂に終わったもののテロが実際に決行されたことで、国家を揺るがす大事件にまで発展しました。
虎ノ門事件が起こった時代背景(社会主義思想の広まり)
話は、1914年に起きた第一次世界大戦までさかのぼります。
第一次世界大戦はヨーロッパを中心とした戦争であり、日本は直接的な被害を受けなかったため、軍事品をヨーロッパに輸出しまくって大儲けすることができました。(大戦景気)
大戦景気に伴って工場がフル稼働するようになると、工場で働く労働者が増加。そして、工場労働者が増えると、長時間労働や劣悪な労働環境、低賃金などが大きな問題として取り上げられるようになります。
すると労働者は、労働環境の改善を経営者に求めるため労働組合を結成するようになり、経営者との交渉(労使交渉)やストライキなどの労働運動が活発になっていきました。
この労働運動に乗じて、台頭してきたのが社会主義の思想です。
社会主義思想は、先ほど紹介した1910年の大逆事件を受けた大弾圧によって指導者の多くを失っており、活動不可能な冬の時代を迎えていました。
それが、大戦景気に伴う労働運動の高まりによって息を吹き返したのです。
社会主義を実現するには、貧しい立場にある労働者と協力し、資本家を倒す必要があるため、社会主義と労働運動は必然的に結びつくことになります。(これは現代でも同じです。)
社会主義が息を吹き返した理由は労働運動だけではありません。
1917年に労働者の蜂起によってロシア帝国が崩壊したこと(ロシア革命)も、日本の社会主義者を強く後押しします。
この時に特に流行ったのが、無政府主義の考え方です。
ロシアではロシア帝国が倒れ、共産主義に基づく労働者による社会主義国家が樹立した。
我々も労働者の力によって政府を倒し、社会主義国家ではなく一挙にして国家の必要がない平等な社会を目指すぞ・・・!
当時、無政府主義の指導者的存在だったのが大杉栄という人物でした。
大杉栄は、劣悪な環境で働く工場労働者が増える中で活動を活発化。活動が活発になるのに合わせて、日本政府は、危険思想である無政府主義者弾圧のチャンスを虎視眈々と窺うようになります。
そしてそのチャンスは、1923年、とある大事件によってもたらされることになります。
関東大震災
そのチャンスとは、1923年9月1日に起こった関東大震災です。
関東一帯が火の海と化し、多くの民衆がパニックに陥る中の9月2日、混乱に乗じて不穏分子が動き出すことを恐れた政府は、緊急勅令に出します。
緊急勅令によって軍隊に下された命令の1つに「軍人は、治安を乱す者に対して、警告をしても無視するようなら、兵器の使用を許可する!」という命令がありました。
・・・さて、この緊急勅令の内容から、なんとなく先が読めた方もいるのではないでしょうか。
そうです。混乱に乗じて治安を乱す者として社会主義者がターゲットにされてしまったのです。
社会主義者だけではなく、実は在日朝鮮人も緊急勅令のターゲットにされていました。
地震翌日の9月2日、民衆の間で「東京が火の海になったのは朝鮮人が放火したせいだ!」という噂が流れます。噂は、根拠のない全くもって荒唐無稽なものでしたが、パニックになった民衆たちはこれを信じました。
噂を信じた民衆たちは、朝鮮人に対して迫害を加えるようになりますが、中には軍人たちが朝鮮人を治安を乱す輩として殺害するケースもありました。
緊急勅令が出された翌日の9月3日、東京都江東区にある亀戸町ではさっそく社会主義者10人が軍隊によって殺害され(亀戸事件)、16日には、無政府主義の指導者であった大杉栄が、憲兵の甘粕正彦の手によって命を奪われます。(甘粕事件)
難波大助、立つ
社会主義者への理不尽な弾圧を続ける日本政府に対して、鉄槌を下そうと立ち上がったのが、震災当時まだ24歳だった難波大助でした。
難波大助は山口県出身で比較的裕福な家庭で育ちますが、1919年に上京し、東京の貧民街の様子を見てから社会主義に傾倒し、無政府主義者となっていました。
難波大助は、労働者の団結によって無政府主義の実現を目指すべきという思想を持ち、関東大震災当時、テロリスト的な思想は持っていません。
しかし、震災に伴う朝鮮人の大虐殺、理不尽な弾圧で命を奪われる社会主義者たちを目の当たりにし、難波大助の思想は次第に「国家が暴力で私たちを攻撃するのなら、こちらも暴力で対抗すべきだ!」というテロリスト的なものへと変化していきます。
こうしてテロ決行を心に決めた難波大助は、裕仁皇太子の暗殺計画を考えるようになったのです・・・。
※皇太子:次期天皇候補である人物のこと。
皇太子を標的にしたのは、国家のトップたる天皇家を襲撃することで、天皇を恐れぬ無政府主義が偉大な思想であることを民衆たち(プロレタリアート)に示そうと考えたからです。
ちなみに、大正天皇ではなく皇太子を狙ったのは、当時の大正天皇は病で政務能力を失い、代わりに皇太子が政務を担っていた(摂政になっていた)ため、裕仁皇太子をターゲットにした方が効果的だと考えたからです。
難波大助は、狙撃に必要な実家の山口でステッキ銃を持ち出すことに成功。さらに決行直前には、政府が事件を隠蔽しないよう新聞社などにテロ予告を送りつけ、友人たちへは絶交状を送って迷惑がかからないよう配慮までしています。
※民衆が天皇に逆らったことが公になってしまうと天皇の威厳が損なわれるため、政府は天皇に対して不敬な態度をとる者を、判断能力のない狂人扱いにして「こいつは反抗の意思があるんじゃなくてただの狂人だから!」という理論で事件を有耶無耶にすることがよくありました。難波大助はこのような事態を防ぐため、あえてテロ予告をしたのです。
虎ノ門事件の当日
1923年12月27日の朝、帝国議会に向かうため、皇太子を乗せた車が虎ノ門に差し掛かった時、群衆の中から難波大助が飛び出し、車の側で銃の引き金を抜きました。銃弾は窓ガラスを貫き、車の天井に突き刺さります。
しかし、皇太子に怪我はありませんでした。・・・つまり、暗殺計画は失敗したということです。
その後難波大助は、革命万歳と叫びながら逃亡しているところを現行犯で逮捕されました。
一年後の1924年10月、難波大助は大審院(今の最高裁判所的なところ)で、意見を述べる機会を得ると次のように発言したと言われています。
私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。
しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。
皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。
皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。
この発言は、虎ノ門事件を起こした真意をとても簡単に示してくれています。
難波大助が許せなかったのは、皇室そのものではなく、皇室の権威を利用して民衆を虐げる支配者であり、テロ行為によって支配者階級たちに鉄槌を下そうと考えたのです。
1924年11月13日、大審院で死刑の宣告をされると、難波大助は「日本無産者労働者・日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と叫び、その2日後に処刑が行われ、難波大助は命を落としました。
虎ノ門事件が怒った場所の近くには、今もなお石碑が設置されています。
虎ノ門事件の影響
皇太子の暗殺未遂という大事件は、日本の政治にも大きな影響を与えることになります。
当時、内閣総理大臣だった山本権兵衛は、事件を防げなかった責任を取るため辞職。他の大臣たちも辞表を提出し、1924年1月、第二次山本権兵衛内閣は総辞職となりました。また、当日の警備責任を取る形で、警視総監が懲戒免職(クビ)となっています。
話はこれだけでは終わりません。
衆議院議員だった難波大助の父は、議員を辞職。断食の末に1925年5月に餓死。難波大助の出身地の山口県知事は減給処分となり、学校時代に難波大助を教えていた教師や校長も虎ノ門事件の責任を取るため辞職。難波大助の生まれ育った村では、正月行事全てが中止となりました。
県知事や学校の先生は、完全にとばっちりのようにも思えますが、それほどまでに虎ノ門事件に対する世間のショックが大きかったことを意味しています。
虎ノ門事件の2年後の1925年、社会主義者の弾圧を意図する治安維持法が制定されますが、虎ノ門事件は治安維持法の制定する1つのきっかけにもなっています。
コメント