

今回は六波羅探題について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「いつ・誰が・なぜ設置したのか」から「京都守護・京都所司代との違い」まで一気にわかる内容にしたよ。テスト前の確認にもバッチリ使えるからね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「六波羅探題」と聞いて、「なんとなく京都で朝廷を監視していた機関だよね」と思った人は多いのではないでしょうか。
実は、六波羅探題は単なる「朝廷の見張り番」ではありませんでした。西国の裁判・行政・軍事を一手に引き受ける、いわば鎌倉幕府の京都出張所だったのです。その権限は今でいう地方裁判所+自衛隊の地方司令部+都道府県庁をまとめたほどの規模で、鎌倉幕府が全国支配を実現するうえで欠かせない機関でした。
この記事では、六波羅探題の設置の経緯から役割・権限、そして「京都守護」「京都所司代」との違いまで、試験に出るポイントを押さえながら徹底解説します。
六波羅探題とは?
① 鎌倉幕府が1221年(承久の乱直後)に京都に設置した出先機関
② 北条泰時(北方)・北条時房(南方)が初代探題に就任
③ 西国の司法・行政・軍事を担当し、1333年に元弘の乱で廃止されるまで約112年間存続
六波羅探題とは、1221年(承久3年)に鎌倉幕府が京都に設置した出先機関のことです。
「六波羅」とは、現在の京都市東山区付近の地名です。かつて平清盛の邸宅「六波羅館」があったゆかりの地で、鴨川の東岸・京都の入口にあたる交通の要衝でした。「探題」は、一定の地域の行政・軍事を監督する役職の名称です。

つまり六波羅探題とは、「鎌倉幕府が京都の六波羅という場所に置いた、西国を統治するための役職(および機関)」ということになります。

「六波羅」って今でいうと京都駅の東側・清水寺や三十三間堂に近いあたりだよ。鴨川を渡ってすぐの場所で、京都に入ってくる人をチェックするのにピッタリな立地だったんだ。平清盛が本拠地にしていたのもわかる気がするよね!
鎌倉幕府の本拠地はあくまで鎌倉(現・神奈川県)ですが、天皇・公家が集う京都からは遠く離れています。朝廷の動向を監視し、西国の武士たちをまとめるためには、京都に常駐する機関が必要でした。その役割を担ったのが六波羅探題だったのです。
では、なぜ1221年という時期に設置されたのでしょうか。次の章では、六波羅探題の設置の経緯を「いつ・誰が」という観点から見ていきましょう。
いつ・誰が設置したのか?
六波羅探題が設置されたのは1221年(承久3年)、承久の乱が終結した直後のことです。

設置を命じたのは、当時の幕府の実権者であった執権・北条義時です。承久の乱で後鳥羽上皇の軍を破った幕府は、戦後処理として西国の朝廷勢力を抑え込む必要がありました。そのための機関として、六波羅探題を設置したのです。
初代として任命されたのは次の2名です。
初代六波羅探題(2名体制)
・北方探題:北条泰時(北条義時の嫡男)
・南方探題:北条時房(北条義時の弟)
六波羅探題は、このように南方・北方の2名が同時に置かれる体制でした。南方と北方で担当を分けていたわけではなく、互いにチェック・アンド・バランスを取りながら職務を行い、幕府への報告や判断をより確実に行うための仕組みでした。
2名ともに北条氏の一門から選ばれている点も重要です。六波羅探題は幕府の要衝であったため、代々北条氏の嫡流・一門が就任することが慣例となっていきます。

承久の乱で朝廷に勝ったはいいが、西国の武士たちをまとめるのが本当に大変だった…。公家の人たちの不満もくすぶっているし、鎌倉から遠い西国の御家人たちが言うことを聞いてくれるかどうか。京都に腰を据えてしっかり目を光らせないといけなかったんだよ。

南方と北方で2人いたって、具体的にどう役割を分けていたのかしら?

実は「南方担当・北方担当」という地域分業じゃなくて、2人が同じ職務を並行してやる「複数執務体制」だったんだよ。どちらか一方の独断を防いで、重要な判断は2人で協議するイメージ。今でいう「共同代表制」に近いかな。どちらも北条氏一門が交代で就任したんだ。
六波羅探題の設置には、明確な目的がありました。その背景にあるのが、執権政治の転換点となった承久の乱です。次の章で詳しく見ていきましょう。
なぜ設置されたのか?——承久の乱との関係
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は幕府の打倒を命じる院宣を発しました。これが承久の乱です。
しかし幕府側は圧倒的な兵力で上皇方を打ち破り、後鳥羽上皇は隠岐へ流されます。鎌倉幕府は武家政権として初めて朝廷に勝利し、政治的な主導権を完全に掌握しました。
ところが、乱に勝っただけでは問題は解決しませんでした。幕府は乱の後処理として、次の3つの課題を抱えることになったのです。
承久の乱後、幕府が抱えた3つの課題
① 朝廷・上皇方の動向監視:乱後も朝廷の反幕府活動が再発する可能性があった
② 西国御家人の統率:上皇方に味方した西国の武士を統制し、忠誠心を確認する必要があった
③ 没収地の管理:上皇方から没収した荘園・土地の管理と新たな地頭への配置が急務だった
これら3つの課題を一括して解決するため、幕府は京都に常駐する出先機関を設置することにしました。それが六波羅探題です。

承久の乱の前は京都守護があったんじゃないの?なんでそれじゃダメだったの?

鋭い!実は京都守護は承久の乱のときに廃止されているんだよ。当時の京都守護・伊賀光季は後鳥羽上皇の命令を断って戦死しちゃったんだ。乱の後は「朝廷監視だけじゃなく、西国全体を統治できるもっと権限の大きい機関が必要だ」ということで、六波羅探題に格上げされたわけ。
承久の乱は単なる内乱ではなく、武家政権が朝廷を上回る権威を確立した歴史的転換点でした。では、具体的に六波羅探題はどのような権限を持っていたのでしょうか。次の章で役割を詳しく見ていきます。
六波羅探題の役割・権限
六波羅探題の権限は大きく「司法・行政・軍事」の3つに分けられます。この3軸が揃っていたことが、単なる「監視機関」ではなかった理由です。
■司法権——京都の裁判所として
六波羅探題の最も重要な役割の一つが、西国における訴訟・裁判の処理でした。
鎌倉時代、御家人同士の土地争いや地頭と荘園領主の紛争は日常的に起きていました。西国の御家人や公家がこうした訴訟を起こした場合、六波羅探題がその審理・判決を担当しました。
特に「越訴」と呼ばれる再審請求への対応や、朝廷との境界線に関わる訴訟処理は六波羅探題の重要な業務でした。鎌倉に訴えを持ち込まずに済む「西国の窓口」として機能していたのです。
■行政権——朝廷監視と西国統治
行政面では、主に次の2つの役割を担いました。
一つ目は朝廷・公家の動向を鎌倉に報告することです。天皇・上皇の動き、公家の会議の内容、反幕府的な動きの兆候など、京都の情報を鎌倉へ伝えるインテリジェンス機関でもありました。
二つ目は西国の守護・地頭の監督です。承久の乱で没収された荘園に新たに配置された地頭の管理・監督も六波羅探題の職務でした。西国の武士たちが幕府への忠誠を維持しているかどうかを常に監視していたのです。
■軍事権——西国の防衛司令部として
六波羅探題は軍事権も保有していました。西国の御家人に対して動員命令を出す権限を持っており、有事の際には軍を指揮することができました。
特に元寇(1274年・1281年)の際には、「異国警固番役」として西国の御家人に九州沿岸の警備を命じる役割を果たしました。鎌倉から遠い九州・西国の軍事的な指揮系統を担う「西の司令部」として機能していたのです。

司法も行政も軍事も全部やってたって…めちゃくちゃ権力強くない?

そう!今でいうと「地方裁判所+自衛隊の地方総監部+都道府県庁」を全部足したような権限を持っていたんだ。しかも北条氏の一門が担当する「幕府の最信頼ポスト」だったから、実質的に西国で最も権力のある役職だったよ。
六波羅探題は、鎌倉幕府が「東西二元支配」を実現するための要でした。鎌倉が東国を、六波羅探題が西国を担当するという構造によって、幕府は全国規模の統治を成立させることができたのです。
では、六波羅探題より前に置かれていた「京都守護」とはどう違うのでしょうか。次の章で比較してみましょう。
六波羅探題と京都守護の違い
六波羅探題を理解するうえで、前身にあたる「京都守護」との違いを押さえておくことが重要です。試験でも「なぜ京都守護から六波羅探題に変わったのか」が問われることがあります。
京都守護は、1185年(文治元年)に源頼朝が設置した機関で、京都における朝廷の監視と治安維持が主な役割でした。1221年の承久の乱で廃止されるまで、約36年間存在しました。
| 比較項目 | 京都守護 | 六波羅探題 |
|---|---|---|
| 設置時期 | 1185年〜1221年 | 1221年〜1333年 |
| 設置の契機 | 鎌倉幕府の成立期 | 承久の乱(朝廷との決戦後) |
| 担当者数 | 1名 | 2名(南方・北方) |
| 権限範囲 | 朝廷監視・京都治安維持 | 司法・行政・軍事の西国全域 |
| 担当者の地位 | 有力御家人 | 北条氏一門(幕府中枢) |
簡単にまとめると、京都守護は「見張り番」、六波羅探題は「出張所」というイメージです。
京都守護は京都の治安維持と朝廷監視に特化した役職でした。一方、六波羅探題は承久の乱後の西国支配という新たなミッションを担うため、司法・行政・軍事にまたがる包括的な権限を持つ機関として再設計されました。

京都守護が廃止されて六波羅探題になった、という流れは承久の乱がきっかけだったのね。権限が大幅に拡大されているのがわかるわ。

そう!テストでは「京都守護と六波羅探題の違いを述べよ」という問題がよく出るよ。ポイントは「①設置年 ②承久の乱との関係 ③権限の拡大(司法・軍事が加わった)」の3点。この3つを覚えておけばバッチリだよ!
また、担当者の「格」の違いも見逃せません。京都守護は有力御家人が任命される役職でしたが、六波羅探題は北条氏一門という幕府の最高権力者の親族が担当する「格上のポスト」でした。これは、幕府が西国支配をいかに重視していたかを示しています。
「京都守護との違い」は理解できましたか?続いて次の章では、六波羅探題とよく混同される「京都所司代」との違いを見ていきましょう。こちらは時代が江戸時代にまたがる比較なので、整理して覚えることが大切です。
六波羅探題と京都所司代の違い
「六波羅探題と京都所司代の違いは?」という問いは、テストでよく出る頻出ポイントです。
まず大前提として、2つの機関はまったく異なる時代に設置されています。六波羅探題は鎌倉時代(1221年〜1333年)、京都所司代は江戸時代(1600年頃〜1868年)の機関です。時代が約250年以上ずれているのです。
京都の「幕府出先機関」変遷フロー
京都守護(1185年〜1221年・鎌倉前期)
↓ 承久の乱で廃止・権限拡大
六波羅探題(1221年〜1333年・鎌倉後期)
↓ 鎌倉幕府滅亡で廃止
京都所司代(1600年頃〜1868年・江戸時代)
鎌倉幕府が滅んだ1333年から、江戸幕府が安定する1600年頃まで、この役割は戦国の混乱の中でいったん消えます。そして江戸幕府が京都の朝廷と西日本を管理するために新たに設けたのが、京都所司代でした。
設置した幕府:六波羅探題=鎌倉幕府 / 京都所司代=江戸幕府
時期:六波羅探題=1221〜1333年 / 京都所司代=1600年頃〜1868年
主な役割:六波羅探題=西国統治・司法・軍事・朝廷監視 / 京都所司代=朝廷監視・西国大名の監察・京都市中の治安
権限の広さ:六波羅探題の方が司法権・軍事権ともに広大
担当者:六波羅探題=北条氏一門(南北2名) / 京都所司代=譜代大名から1名
共通点としては、どちらも「幕府が京都に設けた出先機関で、朝廷・天皇家を監視する」という目的を持っていました。しかし権限の広さでいえば六波羅探題の方がはるかに大きく、西国の裁判・行政・軍事指揮まで一手に担っていたのです。

テストで「六波羅探題と京都所司代の違いを答えよ」って問われたとき、どこを軸に答えればいいのかしら?

まず「どの時代の幕府が設置したか」を軸にすると一発で整理できるよ。六波羅探題=承久の乱(1221年)後の鎌倉幕府、京都所司代=関ヶ原(1600年)後の江戸幕府、って覚えておけばOK!権限の差を問われたら「六波羅探題の方が司法・軍事権も持っていた」と加えるとバッチリだね。
歴代探題——主な人物と活躍
六波羅探題の探題職は、設置から廃止まで一貫して北条氏の一門が担いました。鎌倉の執権政治を支える北条得宗家にとって、京都を押さえる六波羅探題は最重要ポストだったのです。
探題は南方・北方の2名体制で、任期は数年ごとに交代するのが慣例でした。歴代探題の中から、特に重要な人物を見ていきましょう。
■北条泰時(初代北方探題)
北条泰時は、承久の乱において幕府軍の総大将として後鳥羽上皇の軍を破り、その功績によって初代北方探題に就任しました。
泰時が六波羅探題を務めたのは1221年から1224年までのわずか3年間でしたが、この間に西国の武士たちをまとめ上げ、幕府の西国支配の基盤を固めました。その後鎌倉に戻り、1224年に第3代執権に就任。御成敗式目の制定など、鎌倉幕府の黄金期を築いた人物として知られています。

承久の乱で朝廷に勝ったはいいが、西国の武士たちをまとめるのは本当に骨が折れた…。朝廷に近い京都で、公家や西国の御家人が言うことを聞くかどうか、正直なところ不安だったよ。でも、これが幕府の西国支配を固める大事な仕事だと信じてやり抜いたんだ。
■北条時房(初代南方探題)
北条時房は北条義時の弟(異母弟)にあたる人物で、承久の乱では甥の泰時とともに幕府軍を率いました。その功によって初代南方探題に就任し、泰時と連携しながら京都の統治に当たりました。
時房はその後、幕府に戻って初代連署(執権を補佐する鎌倉幕府No.2の職)に就任しています。六波羅探題の南北2名体制は、こうした北条氏の有力者が交代で担う形で続いていきました。
■その後の歴代探題と廃止まで
泰時・時房以降も、北条氏の一門が代々南方・北方の探題職を受け継ぎました。探題に選ばれるのは北条得宗家に連なる有力者に限られ、文字通り「幕府の信頼できる人間だけが担う要職」でした。
1274年・1281年の蒙古襲来(文永の役・弘安の役)の際には、六波羅探題が西日本における異国警固番役の調整に関わり、軍事的な役割をいっそう強めました。
しかし14世紀に入ると、鎌倉幕府への不満が高まります。1331年から始まった元弘の乱で、後醍醐天皇が倒幕を掲げると、畿内では反幕府勢力が活発化しました。楠木正成や赤松則村らの攻撃を受けた六波羅探題は、1333年5月についに陥落。同年、鎌倉幕府も滅亡し、約112年にわたる六波羅探題の歴史は幕を閉じました。
📌 歴代探題のポイント:泰時と時房は「初代南北探題として同時就任」という形で試験に出やすい。探題は北条得宗家の一門が就くのが慣例で、庶流(北条宗家の傍流)が選ばれることも多かった。1333年の廃止時に最後の探題として京都を脱出した北条仲時が知られている。

北条泰時って六波羅探題の初代探題でもあったんだ!御成敗式目を作った人だよね?

そう、まさにその北条泰時だよ!「六波羅探題の初代探題 → 鎌倉に戻って第3代執権 → 御成敗式目の制定」という流れでセットで覚えておこう。泰時は六波羅探題での経験があったから、西国の武士の実態をよく知っていて、それが御成敗式目の制定にも活きたとも言われているんだ。
六波羅探題・承久の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

六波羅探題・承久の乱についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「1221年=承久の乱=六波羅探題設置」「1333年=元弘の乱=六波羅探題廃止=鎌倉幕府滅亡」と年号をセット暗記しよう。京都守護・六波羅探題・京都所司代の3機関は「どの幕府が作ったか」で即判別できる。

六波羅探題ってどこがいちばんテストに出る?正直、覚えることが多くてどこに絞ればいいかわからない…。

中学レベルでいちばん出るのは「設置年1221年・初代北条泰時・役割(朝廷監視と西国統治)・廃止1333年」の4点セットだよ!高校・共通テストレベルになると「京都守護との権限の違い」「京都所司代との時代の違い」も加わる。まずはこの4点を完璧にしてから、比較問題に挑もう!
よくある質問
1221年(承久の乱の直後)に設置されました。後鳥羽上皇の倒幕計画(承久の乱)に勝利した鎌倉幕府が、朝廷・西国を継続して監視・統治するために設けた機関です。北条義時の命を受け、初代北方探題に北条泰時、南方探題に北条時房が就任しました。
鎌倉幕府の執権・北条義時の命令で設置されました。初代北方探題は北条泰時、初代南方探題は北条時房です。2人はともに承久の乱で幕府軍を指揮した功績を持ちます。探題職はその後も北条氏の一門(得宗家)が代々担いました。
京都守護(1185年〜1221年)は主に朝廷の動向を監視し、報告する役割を担う機関でした。一方、六波羅探題(1221年〜1333年)はそれに加えて西国の司法(裁判)・行政・軍事権を持つ、大幅に権限を強化した機関です。承久の乱後に西国支配をより強固にする必要が生じ、京都守護が廃止されて六波羅探題に移行しました。
最大の違いは時代です。六波羅探題は鎌倉幕府(1221〜1333年)、京都所司代は江戸幕府(1600年頃〜1868年)が設置した機関です。共通点は「幕府が京都に設けた朝廷監視機関」という点。ただし権限の広さは六波羅探題の方が大きく、西国の裁判・軍事指揮まで担っていました。京都所司代は主に朝廷・公家の監察と京都の治安維持が中心です。
1333年(元弘の乱)に廃止されました。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した楠木正成・赤松則村らの攻撃を受け、六波羅探題は陥落しました。鎌倉幕府もこの年に新田義貞によって滅ぼされており、六波羅探題の廃止は鎌倉幕府崩壊の象徴的な出来事として位置づけられています。
現在の京都市東山区付近(鴨川東岸・七条〜八条あたり)です。かつて平清盛の邸宅「六波羅館」があった場所で、平氏ゆかりの地でもあります。鴨川を渡ると京都の中心部に入れる交通の要衝であり、軍事的にも重要な位置に設けられました。現在この地には「六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)」が残っています。
まとめ
六波羅探題は、1221年の承久の乱後に鎌倉幕府が京都に設けた出先機関です。単なる「朝廷の見張り役」にとどまらず、西国全体の司法・行政・軍事を一手に担う、鎌倉幕府にとって最重要の地方機関でした。
初代探題は承久の乱の功臣・北条泰時(北方)と北条時房(南方)の2名。以後1333年に元弘の乱で陥落するまで約112年間、北条氏一門が代々この要職を担い続けました。その廃止は鎌倉幕府滅亡と同年であり、六波羅探題の歴史は鎌倉幕府そのものの盛衰と重なっています。
-
1185年京都守護の設置(六波羅探題の前身)源頼朝が鎌倉幕府成立とともに設置。朝廷監視を主な目的とする
-
1221年承久の乱 → 六波羅探題を設置後鳥羽上皇の倒幕計画を幕府が撃退。京都守護を廃止し、より強力な六波羅探題を設置。初代北方探題:北条泰時、南方探題:北条時房
-
1224年北条泰時が六波羅探題を離れ、第3代執権に就任六波羅での統治経験を活かし、後に御成敗式目(1232年)を制定
-
1274年文永の役(第1回蒙古襲来)六波羅探題が西国における異国警固番役の調整に関与し、軍事的役割を強める
-
1331年元弘の乱はじまる後醍醐天皇が倒幕を掲げる。楠木正成・赤松則村ら反幕府勢力が畿内で活発化
-
1333年六波羅探題が陥落・廃止。鎌倉幕府も滅亡楠木正成・赤松則村らの攻撃により六波羅探題が陥落。同年、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府滅亡
-
1600年〜江戸幕府が京都所司代を設置(後継機能)六波羅探題廃止から約250年後、江戸幕府が同様の目的で京都所司代を設置

以上、六波羅探題のまとめでした!「設置1221年・初代北条泰時・役割3本柱・廃止1333年」の4点と、京都守護・京都所司代との比較ポイントは試験の超頻出テーマだよ。年表を見ながらもう一度流れを確認しておこう。下の記事で北条義時・執権政治・承久の乱についてもあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「六波羅探題」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「承久の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「六波羅探題」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「京都守護」(日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 鎌倉時代の記事をもっと読む → 鎌倉時代の記事一覧を見る






