笠置山の戦いとは?簡単にわかりやすく紹介【元弘の乱の初戦!後醍醐天皇の倒幕作戦開始!】

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【笠置山で楠木正成の夢を見た後醍醐天皇】

 

今回は、元弘の乱の戦いの初戦となった笠置山(かさぎやま)の戦いについて紹介します。

 

 

いきなりネタバレですが、笠置山の戦いは後醍醐天皇の敗北に終わり、後醍醐天皇が隠岐に流されるきっかけとなった戦いでもあります。

 

 

笠置山の戦いも含めた鎌倉幕府滅亡までの一連の流れを以下の記事で整理してますので、この記事と合わせて参考にしてみてください!

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では、本題の笠置山の戦いへ。

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後醍醐天皇、笠置山へ逃げる

笠置山の戦いのきっかけは、後醍醐天皇が企てていた倒幕計画が鎌倉幕府に漏れてしまったことでした。

 

 

1324年の正中の変によって倒幕計画が未遂に終わると、1331年、後醍醐天皇は再び2回目の倒幕運動を企てます。

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ところがこの2回目の倒幕計画は、またもや幕府に漏れてしまいます。しかも、この時に情報を漏らしたのは後醍醐天皇の側近だった吉田定房(よしださだふさ)

【後醍醐天皇の寵臣だった吉田定房】

 

 

吉田定房は、後醍醐天皇が倒幕運動を起こしたところで兵力的に幕府に勝てるわけがなく、かえって後醍醐天皇に危険が及ぶと考えていました。

 

 

そこで「部下が倒幕運動を計画してる!」と全てを部下のせいにして、幕府に情報をリークすることで後醍醐天皇の無謀な行動を抑えようとした・・・なんて言われています。(吉田定房の動機ははっきりとはわかっていないくて諸説あります)

 

 

この吉田定房の暗躍によって、倒幕運動の関係者は捕らえられ、これで事態は収拾するかに思えました。

 

 

ところが1331年8月24日、後醍醐天皇は護良親王(もりよししんのう。後醍醐の息子)から「危険だから、奈良に逃げた方が良い」と勧められ、京を脱出し、奈良へと向かいます。

 

 

この時、後醍醐天皇が逃げ込んだ先が天然の要塞である笠置山でした。

 

 

しかも護良親王は逃げる際に、一策を案じます。近臣を天皇と称して比叡山に送り込んだのです。いわば替え玉作戦!

 

 

天皇は簾のかかった輿に乗って移動するし、現地に着いても人と話す際には簾を通しているので顔を見られることはありません。これなら成功しそうですよね!

 

この替え玉作戦は、以下の2つの意図がありました。

後醍醐天皇に味方していた比叡山の僧たちが、いざ本番となった時に裏切らないか確認する。
幕府軍が比叡山に向かっている間に、後醍醐天皇が奈良に逃げる時間を稼ぐ。

 

まさに一石二鳥。なかなかの名案です。

 

 

しかも、比叡山の僧兵たちは幕府軍を追い払う大活躍ぶり。比叡山は想定どおり後醍醐天皇に味方してくれたわけです。

 

しかしこの勝利の後、簾が風で吹き上がり、その様子を比叡山の僧が見てしまったことで、後醍醐天皇が替え玉だったことがバレてしまいます。

 

 

初戦の勝利に歓喜していた僧兵たちも、後醍醐天皇が偽物だったことを知ると、一気に興ざめ。皆、チリジリに戦線を離脱してしまいます。

 

 

さらに幕府軍も天皇が笠置山にいることを知り、軍を笠置山に向かわせます。

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天険の地、笠置山

替え玉作戦で時間を稼いでいる間に、後醍醐天皇は笠置山に逃げこみます。位置関係は、以下の図のような感じ。

 

 

なぜ笠置山に逃げ込んだかというと、大きく理由は2つあります。

 

倒幕のために南都(奈良)の僧兵たちの協力を得ていたから。(ただし、南都の僧兵たちも一枚岩ではなく幕府に近しい者もいた)
笠置山は巨岩がゴロゴロある急峻な岩山で天然の要塞だった。そして北と西に川が流れており、敵の進軍を鈍らせることもできた。
笠置山は大和・伊賀・山城の3国の国境にある要所だった。

 

笠置山に集まった兵力は、約3000ほど。一方の幕府軍は5万を超える大軍でした。兵の少なさに悩んでいた後醍醐天皇は、色々と考え込んでいるうちにうたた寝をしてしまいます。そしてその時、とある夢を見ました。

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笠置山で見た予言

その夢の中には、こんなシーンがあったのです。

 

「大きな木の下に南向きに席があり、2人の男子が涙ながらにしばらくここに留まるよう勧めた」

 

 

後醍醐天皇は、この夢はただの夢ではないと考え、夢の意味を必死に考えます。

 

 

後醍醐「木の下に南向き・・・『木』と『南』を合わせれば、楠(くすのき)になる。・・・はっ!わかったぞ!」

 

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_ (m) _  ピコーン
|ミ|    ひらめいた
/ `´  \
( ゚∀゚)
ノヽノ |
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_人人人人人人人人人人人人人人人_
> 楠っていう強い奴がいる!! 
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

 

こうして、近くに楠という人物いないか探し始めると確かにいた!そこで後醍醐天皇は、その楠という者を笠置山まで呼び寄せました。

 

 

この時呼び出された人物こそが、あの有名な楠木正成(くすのきまさしげ)。天皇に招かれたことに感激した正成は、笠置山を訪れ、こんなことを言いました。

 

「鎌倉幕府をぶっ倒すには、武力と計略の2つが必要である。武力では幕府に劣るが、計略に勝れば勝機はある。この正成にお任せあれ。合戦に勝負はつきものですが、たった一度の勝負だけで全てが決まるわけではありませぬ。(もし正成が負けることがあっても)この正成さえ生きていれば、帝の未来は必ずや開かれると信じていただきたい」

 

 

兵力が少なくて悩んでいる中、こんなことを言ってくれたら頼もしすぎます!!

 

 

こうして、楠木正成は地元の河内に戻り、挙兵の準備を始めました。

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笠置山の戦い!

さて、そうこうしている間に、六波羅探題から7万5000もの大軍が笠置山に攻め込んできます。一方の後醍醐天皇軍は、繰り返しですがわずか3000。

 

 

あまりにも多勢に無勢過ぎますが、笠置山は崖に阻まれた堅牢な岩山。地の利を活かした後醍醐軍は、意外にも幕府軍と善戦をすることになります。

高橋又四郎「どうせ雑魚だろ?先駆けして恩賞もらったろw」

1331年9月1日、宇治に集められていた幕府軍の中に高橋又四郎という人物がいました。

 

幕府軍は、翌日の9月2日に大軍で笠置山に攻め込む予定でしたが、高橋又四郎は恩賞に目がくらみ、命令を無視して先行して敵陣に攻め込みます。

 

 

高橋又四郎「敵は少数の寄せ集めの軍だ。恐るるに足らぬ。大軍で囲むまでもない。俺が先駆けで敵を討ち、恩賞をたっぷり貰ったるわ!」

 

 

当時、敵陣に第一に飛び込む行為は「先駆け(さきがけ)」と呼ばれ、大変名誉なことであり、恩賞の対象になっていたのです。元寇の際に活躍した竹崎季長も先駆けによって恩賞を貰っています。

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300騎を率いて笠置山に特攻しますが、これはあまりにも無鉄砲すぎました。高橋又四郎は完膚なきまでに叩きのめされ、馬も鎧も捨てて身一つでかろうじて京へ逃げる有様。平等院では、こんな落書きまでされました。

 

木津川の 瀬瀬の岩波 速ければ 懸けて程なく おつる高橋

(現代語訳)

木津川の流れが早くて懸けてある橋がすぐに落ちるように高橋の逃げ足も随分早いものよ

 

言うまでもなく、橋と高橋を掛けたブラックジョークです。

笠置山の戦い本戦

幕府軍は、初戦の勝利で後醍醐軍の士気が高まっており後醍醐天皇の元に参戦する兵も増えるだろうと考え、9月2日に笠置山の四方を包囲し一気に攻め落とすことにします。

 

 

そして9月3日、包囲が完了した幕府軍は一気に笠置山に攻め入ります。笠置山は山は高く谷は深い、そして登山道は複雑に曲りくねり、何もせずとも進行が難しい天険の地。

 

 

幕府軍は勢いに任せて攻め込むことができず、しばらくこう着状態が続きます。

 

 

この均衡を破ったのが、後醍醐軍の足助重範(あすけしげのり)

 

足助重範「我は、三河国の足助重範なり!治天の君(後醍醐天皇)のため、ここを死守致す。大和鍛治の鍛えた矢じり(矢の先端のこと)を受けてみよ!」

 

足助重範は、弓の名手で2人がかりで張るような強弓で、遠くにいる荒尾九郎という武者の胸をバビューンと打ち抜き、敵を討ち取ります。

 

 

しかし、荒尾九郎の弟だった荒尾弥五郎が、兄の死を隠すため自ら矢面に立ち、足助重範を挑発します。

 

荒尾弥五郎「足助重範って弓の名手らしいけど噂ほどではない。俺はここにいるからさ、ほら、もう一度胸を狙って弓矢を放ってみろww」

 

 

足助重範は、確かな感触があったのに荒尾九郎が生きているのは鎧の下に鎖かたびらでも巻いているからだろうと考え、次は頭を狙うことにします。

 

 

そして2本目の矢は、見事に荒尾弥五郎の頭に命中の荒尾兄弟は2人共々命を落としました。

 

 

正直に言っちゃいますけど、私には弥五郎が結局何をしたかったのかよくわかりません!(汗。一時的に兄の死を隠せても、弟も亡くなってしまったら結局バレるんじゃなの?とか野暮なことを考えてしまうわけです。

 

 

しかし、この足助VS荒尾の戦いをきっかけに、両軍は遂に全面衝突することになりました。

本性房「岩ぶん投げて、敵ぶっ倒すぜーww」

(出典:wikipedia「笠置山の戦い」)

 

笠置山で大活躍した人物の一人に、本性房(ほんじょうぼう)という僧兵がいました。般若寺というお寺の僧兵で、コイツの凄いところは何と言ってもその超怪力!!

 

 

笠置山は岩山なので岩がゴロゴロあるわけですが、その岩を城壁から落とし、城に登る敵をコテンパンにしたわけです。笠置山には今でも、笠置山の戦いで用いられたと思われる巨石が残っています。

(出典:京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

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笠置山、陥落!!

こうして笠置山で後醍醐軍が粘っている間、各地で次々と倒幕に立ち上がる者が現れます。それが・・・この二人(ドン!)

 

河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)
備後国の桜山茲俊(さくらやまじしゅん)

 

 

「笠置山は未だ落とせず!さらに楠木、桜山がそれぞれ挙兵!!」

 

 

この事態に六波羅探題だけでは手に負えなくなった幕府は、鎌倉から20万もの援軍部隊を送り込みます。

 

 

こんな大軍がやってきたら、流石の難攻不落の笠置山も遂におしまいか・・・と思いますが、実はこの大軍が押し寄せる前に笠置山は陥落してしまいます。

 

 

鎌倉から送られた20万の大軍が近江国(今の滋賀県あたり)に到着した9月28日、当初から戦っていた幕府軍の陶山義高(すやまよしたか)小見山次郎(こみやまじろう)らはこんなことを言い始めます。

 

「この数日間、なんの功績も上げられずに命を落とした者は多い。これらの者は、骸骨が乾いてしまう前に、その名は消え去ってしまうだろう。同じく死ぬのであれば、このような死に方はしたくない。源平合戦の際、多くの者が名を残し、恩賞を貰っているが、どれも大した功績ではない。俺らが今、この難攻不落の城を攻めとせれば、我々はこの名を轟かせ、その忠はどんな者よりも高いものとなろう。武者たちよ!今宵の雨嵐に乗じ、今こそ城を夜襲により攻め落とそうぞ!!」

 

 

そこにいたのは50人余り。皆、この意見に賛同し、死を覚悟で笠置山へ夜襲を仕掛けることを決意。そして、決死の覚悟で断崖絶壁を登りきり、敵の城へ忍び込むことに成功したのです。

 

 

笠置山に侵入した陶山義高・小見山次郎は、後醍醐軍側の警備兵になりすまし、後醍醐天皇の位置を確認。その後、空き家や櫓などに次々と火をかけていきます

 

 

これを見た幕府軍も、事態をすぐに把握。「あの煙は、内部から幕府に寝返った者が現れたに違いない。今こそ攻め時ぞ!!」

 

 

いくら天然の要塞と言えども、敵に侵入されてしまえば弱いもの。次々と建物が炎上する中、幕府の大軍が侵入し、笠置山はあっという間に陥落してしまいます。

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笠置山の戦い〜終〜、後醍醐天皇捕らえられる

後醍醐天皇は、命からがら笠置山を脱出。わずか2人の共を連れて、楠木正成のいる河内の赤坂城へ向かうも、進む方向すらわかりません。

 

飢えと渇き、見知らぬ道、そしていつ敵が襲ってくるかもわからぬ恐怖、その全てに苛(さいな)まれながら、後醍醐天皇は山野を彷徨います。

 

 

その途中、遂に後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、六波羅探題に幽閉。関係者も処分され、1332年3月、隠岐へ島流しになってしまいます。一方で後醍醐天皇とライバル関係にあった持明院統は、1331年10月、光厳天皇を即位させました。

 

 

この戦いは、一見すると後醍醐天皇VS鎌倉幕府ですが、厳密には後醍醐天皇VS鎌倉幕府・持明院統という関係でもあったのでした。

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後醍醐天皇の倒幕計画はこれで終わったかに見えますが、実はこれだけでは終わりません。

 

 

楠木正成・桜山茲俊が未だ交戦中ですし、幸い、後醍醐天皇の息子の護良親王は笠置山から無事に脱出していました。その護良親王が天皇に代わって、各地に挙兵を呼びかけ続けていたのです。

 

 

こうして笠置山で戦っていた幕府軍の目は、楠木正成のいる赤坂城へと向くこととなり、楠木正成の篭る赤坂城が次の戦場となるのです。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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