

今回は、鎌倉幕府の2代目執権・北条義時について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!承久の乱・父の追放・死因の謎まで全部まとめたよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
実は、北条義時は江戸時代・明治時代に「武士の風上にも置けない悪人」として語られてきた人物でした。父を追い落とし、将軍を暗殺した疑いをかけられ、後鳥羽上皇まで流罪にした——そんな義時が、なぜ今これほど再評価されているのでしょうか?
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でその名を知った方も多いと思います。義時は単なる野心家ではなく、武家政権を守り抜いた「静かな実力者」でした。この記事では、その生涯を丁寧に解説していきます。
北条義時とは?
- 鎌倉幕府の2代目執権(1163〜1224年)。執権とは将軍を補佐する幕府の最高職
- 承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇を配流し、武家政権の優位を確立した
- NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として注目を集めた人物

北条義時は、1163年(長寛元年)に北条時政の次男として生まれました。鎌倉幕府の初代執権である父のあとを継ぎ、2代目執権として幕府の基盤を固めた人物です。
義時が生きた時代は、武家政権がまだ安定していない激動の時代でした。頼朝の死後、将軍家が次々と倒れ、有力御家人が争うなかで、義時は着実に権力を掌握していきます。その冷静さと判断力が、幕府という組織を守り続けたのです。

執権っていうのは、今でいう「幕府の総理大臣」みたいな役職だよ!将軍は名目上のトップだけど、実際に政務を動かすのが執権。北条氏はこの執権職を代々世襲していくんだ。
「何代目の執権?」とよく聞かれますが、義時は2代目執権です。初代は父の北条時政で、3代目は義時の息子・北条泰時になります。この北条3代が執権政治の礎を築いていきました。
若き日の義時——源頼朝のそばで学んだ権力の使い方
義時が生まれた北条氏は、伊豆国(現在の静岡県)を拠点とする中級の武士団でした。有力な御家人であることは確かですが、三浦氏や千葉氏のようなトップクラスの勢力ではありませんでした。
そんな北条氏が急速に台頭するきっかけとなったのが、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵です。時政の娘・北条政子が頼朝の妻となっていたことから、北条一族は頼朝の最側近として戦いに加わりました。
■ 頼朝の右腕として台頭
当時18歳だった義時は、源平合戦(治承・寿永の乱)の全過程を頼朝のそばで経験しました。頼朝の信頼を得た義時は、幕府の草創期から重要な役割を担うようになっていきます。
石橋山の戦いで頼朝軍が敗れ箱根山中に逃げ込んだとき、北条時政と義時は頼朝と運命をともにして山中を共に逃げ延びました。他の武士が離散するなかで北条父子が頼朝の傍を離れなかったこの一件が、後に北条氏が頼朝から厚い信頼を得るきっかけのひとつになったとも言われています。
頼朝は義時の父・時政だけでなく、義時自身も高く評価していました。義時は政治的な判断力と冷静さで頼朝の目に留まり、1203年(建仁3年)には、御家人の統率・幕府の警察機能を担う機関である侍所(今でいう「防衛省+警察庁」のような役所)の所司(次官格)に任じられています。

義時ってもともと偉かったの?なんか急に出てきた感じがするんだけど…。

もともとは「そこそこ有力な御家人」って感じだったんだよ。でも、姉が頼朝の奥さん(北条政子)だったから、頼朝に近い立場にいられた。それに義時自身がめちゃくちゃ優秀で冷静だったから、だんだんと重用されていったんだ。
また、義時は北条氏の本家ではなく分家の出身でした。本家の嫡流ではないからこそ、権力への執着ではなく「幕府という組織を守る」という意識が強かった——そう評価する研究者もいます。
13人の合議制と頼朝の死

1199年(正治元年)、源頼朝が急死しました。享年53歳でした。頼朝という絶対的なカリスマが消えたことで、鎌倉幕府は一気に不安定化します。
後継となった源頼家(2代将軍)はまだ18歳で、政治的な経験も乏しく、独断的な行動が御家人たちの反発を招いていました。そこで設けられたのが「13人の合議制」です。
■ 13人の合議制とは?
1199年、源頼家の独断専行を抑えるために設けられた13名の有力御家人による集団指導体制です。
メンバーには北条時政・北条義時(父子)のほか、大江広元・三善康信・梶原景時・比企能員・三浦義澄・八田知家・和田義盛・中原親能・足立遠元・安達盛長・二階堂行政が名を連ねました。
しかし実際には合議が機能せず、内部対立が激化。やがて粛清の連鎖へと発展していきます。
合議制は発足早々から機能不全に陥りました。1199年末には梶原景時が御家人66人の連署で訴えられ失脚(梶原景時の変)。1203年には比企能員が北条時政に殺害され(比企氏の乱)、さらに1205年には畠山重忠が謀反の疑いで誅殺されます。
比企能員が討滅された場面は特に劇的でした。北条時政は比企能員を「2代将軍・頼家の病気平癒の祈祷について相談したい」と自邸に招き、そこで待ち伏せて討ち果たしたのです。このような謀略を、義時も側近として見聞きしながら育っていきました。権謀術数が渦巻く鎌倉政治の現場で鍛えられた義時の冷静さと判断力は、こうした経験の積み重ねによって磨かれていったのかもしれません。
こうして義時は、ライバルたちが次々と消えていくなかで着実に力を蓄えていったのです。

■ 義時は実朝暗殺の黒幕?
1219年(承久元年)1月、3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で公暁(2代将軍・頼家の子)に暗殺されました。義時はその場に居合わせており、「なぜか直前に後ろに退いた」という記録から、黒幕説が長く語られてきました。
実際に義時が黒幕だったとすれば、将軍家の断絶は北条氏が幕府の実権を独占するための布石だった——という見方になります。

義時が実朝を消したって本当なの?大河ドラマでもかなり謎めかして描かれてたんだけど。

現在の歴史学では「黒幕説は否定的」が主流だよ。史料(『吾妻鏡』)に直接的な証拠がなく、公暁は義時ではなく別の誰かを討つつもりだったという解釈が有力なんだ。ドラマ的には面白い説だけど、史実としては「謎のまま」が正直なところかな。
北条時政を追い落とした義時——父との権力闘争

1205年(元久2年)、義時の人生における最大の転換点が訪れました。それが「牧氏事件」です。
初代執権・北条時政の後妻・牧の方が、娘婿の平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしたことが発覚しました。これは義時や北条政子には容認できない行為でした。

わしが鎌倉を支配してやる……!朝雅を将軍に据えれば、北条がこの世を取れる。

義時と政子は協力してこの陰謀を阻止し、時政と牧の方を伊豆国に追放しました。父を追い落とすという非情な決断でしたが、義時にとって「幕府の安定」は何よりも優先されることでした。
■ 義時が執権に就くまでの道のり
父を追放した義時は、ほどなく政所の長官(別当)として執権職を事実上引き継ぎました。しかし権力の完全掌握にはもう一段階が必要でした。
1213年(建保元年)、有力御家人の和田義盛が義時との権力争いの末に兵を挙げました(和田合戦)。義時はこれを鎮圧し、義盛が持っていた侍所別当の職も奪取します。

政所っていうのは「財政・行政」担当で、侍所っていうのは「軍事・警察」担当。この2つを義時が1人で兼任したってことは、今でいう「財務大臣+防衛大臣を1人が兼ねる」ようなもの。これで鎌倉幕府の権力がほぼ義時1人に集まったんだよ!
政所・侍所の両別当を兼ねることで、義時は幕府の政治・軍事の両面を掌握しました。これが、北条氏による執権政治が本格化する出発点となります。
承久の乱——後鳥羽上皇との直接対決

義時の生涯最大の山場が、1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」です。
後鳥羽上皇は、かねてから幕府の力を削ごうと機をうかがっていました。義時が3代将軍・実朝の死後に後継将軍問題で朝廷と対立したことも、上皇の決断を早めました。1221年5月、後鳥羽上皇は「北条義時追討」の院宣を発しました。
この知らせが鎌倉に届くと、幕府内は大きく動揺します。「天皇(上皇)に逆らうなど、できるはずがない」——そう思う御家人も少なくありませんでした。
■ 政子の演説が御家人を動かした
そんな幕府の動揺を鎮めたのが、北条政子の有名な演説でした。政子は御家人たちを前にこう語りかけたとされます(『吾妻鏡』より意訳)。
「亡き頼朝さまの御恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそその御恩に報いるときです。ただし、上皇方に従いたい者はすぐに申し出なさい」
この言葉が御家人たちの心を動かし、幕府は一致団結して上皇方と戦うことを決意しました。
幕府軍は3方面から京都へ進軍し、わずか1ヶ月余りで上皇方を圧倒しました。特に注目すべきは、義時の息子・北条泰時の行動です。泰時は出陣命令が出る前に独断で少数の手勢を率いて進軍を始め、後から父・義時に報告したとされています。「父の命令を待っていては遅い——武家の棟梁として先んじて行動すべき」と考えた泰時の決断が、幕府軍の士気を大きく高めました。義時追討を訴えた側が敗れ、歴史上初めて「武家が朝廷を武力で屈服させた」という事態が現実となったのです。
■ 承久の乱の戦後処理の過酷さ
勝利した幕府の戦後処理は徹底的なものでした。
📌 承久の乱の戦後処理(3つのポイント)
①後鳥羽上皇を隠岐(島根県)へ配流、土御門上皇・順徳上皇も流罪
②上皇方の所領約3,000か所を没収し、東国の御家人に新たに与えた(西国支配の拡大)
③京都に六波羅探題を設置し、朝廷・西国の監視体制を確立

まさか……幕府軍がここまで迅速に来るとは。余の目算は完全に外れた。義時め、これほどの統率力があるとは思っていなかったぞ。
この乱の結果、武家政権は朝廷を完全に上回る政治的優位を獲得しました。以後、幕府が倒れるまで朝廷が武力で幕府に対抗することは二度となかったのです。
📖 歴史のif:もし幕府が承久の乱で敗れていたら?
上皇方が勝てば、義時は処刑され北条氏は滅亡。幕府も解体されて、朝廷が全国支配を取り戻していたとみられます。その後の武家政権の発展(室町・江戸)もなかった可能性が高く、日本史の流れが大きく変わっていたことでしょう。
北条義時の性格・人物像
北条義時とはどんな人物だったのでしょうか。『吾妻鏡』などの史料から見えてくる義時像は、「感情を表に出さない静かな実力者」です。
派手な個性や強烈なカリスマ性を持っていたわけではありません。しかし義時は状況を冷静に読み、必要なときに必要な行動を取る——そういう実務家タイプでした。父・時政が「俺が鎌倉を支配したい」という野心を見せたのに対し、義時は「幕府が安定することが最優先」という発想で動いていたように見えます。
■ なぜ「悪人」と呼ばれたのか
義時が長く「悪人」「謀反人」として語られてきた最大の理由は、江戸時代の儒教的倫理観にあります。
儒教では「忠(主君への忠誠)」と「孝(親への孝行)」が最高の徳とされます。義時は自分の主君筋にあたる将軍・実朝の暗殺に関与したとされ(黒幕説)、さらには父・時政を伊豆に追放しました。江戸時代の武士道的価値観からすれば、これは「主君と親の両方を裏切った不忠者」にほかなりません。
明治以降も状況は変わらず、天皇に刃向かった(後鳥羽上皇を配流した)人物として「賊臣」扱いされ続けました。承久の乱では「朝廷に反逆した武士」という側面が強調されたのです。
■ 現代における再評価——義時は何が「すごかった」のか
では、現代の歴史家はなぜ義時を再評価しているのでしょうか。
最大の評価ポイントは、「個人の欲よりも幕府全体の安定を優先した」という点です。義時は承久の乱に勝利した後、上皇を流罪にしながらも、朝廷を廃止したり傀儡化したりすることなく、朝廷と武家が共存する秩序を維持しました。
また、父・時政の「個人的な権力欲」が北条氏全体を危険にさらしかねないと判断し、断腸の思いで追放を決断したこともそのひとつです。幕府という「組織」を守るために、個人の感情を切り離して判断できるリーダーシップ——これが現代的な再評価の核心といえます。

将軍家のためなら……父上でも、例外ではありません。鎌倉が続くことが、すべてに優先します。

北条氏って本家じゃなくて分家から来たって聞いたけど、それって義時の行動に影響してるの?

面白い視点だね!北条氏は伊豆の小豪族で、東国の大御家人たちに比べればもともと格下だったんだ。だからこそ「北条氏として幕府を担わなければ」という使命感が強かった説があるよ。本家だったら「当然の権利」と思えるけど、分家だからこそ「実力で示さないといけない」という意識があったのかもしれないね。
北条義時の死——死因の謎と毒殺説
1224年(元仁元年)6月、北条義時は突然、この世を去りました。享年62歳。直前まで執権として政務をこなしていたとされており、その唐突な死は当時の人々にも驚きを与えました。
■ 毒殺説の根拠
義時の死には長く「毒殺説」がつきまとってきました。その根拠として語られるのが、妻・伊賀の方の存在です。
義時の死後、伊賀の方は自分の兄・伊賀光宗らと組んで、息子・北条政村(義時の子)を次の執権に据えようとする動きを見せました(「伊賀氏事件」)。これが発覚して失脚しますが、この一連の行動から「義時が急死した原因は伊賀の方が薬(毒)を盛ったためではないか」という疑惑が生じました。
また、藤原定家の日記『明月記』には、承久の乱の捕虜となった僧侶・尊長が「義時の妻が義時に薬を与えた」という趣旨の発言をしたという記述があります。これが毒殺説の傍証として引用されることもあります。なお、幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、義時は「脚気」と「暑気あたり(霍乱)」を患い死去したと記されており、病死説の主な根拠となっています。
■ 病死説と現在の定説
しかし現在の歴史研究では、病死説が多数を占めています。
義時が晩年に脚気や循環器系の疾患を患っていたとする見解が有力です。中世の武将は栄養バランスの偏った食生活から脚気になりやすく、突然死の一因とも考えられています。「薬を服用した」という記録も、当時の医療行為として普通のことであり、必ずしも毒殺を示すわけではありません。
伊賀の方の行動も、「夫が死んだ後に自分の息子を執権に就けようとした政争」であり、義時を殺した証拠にはなりません。むしろ、義時の急死があったからこそ伊賀氏が動いたという逆の見方もできます。

まとめると、毒殺説は「状況証拠から想像できる話」だけど、直接的な証拠はないんだよね。現在は病死説が学術的には主流。ただ「謎が残る死」であることは確かで、それが義時の人生の謎めいた魅力でもあるよ!
📌 義時の墓所:北条義時法華堂跡(鎌倉市西御門)。現在は国の史跡に指定されており、鎌倉散策の際に訪れることができます。
テストに出るポイント
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📌 暗記のコツ:承久の乱は1221年→「一二二一(ひとつふたつ、ふたたびひとつ)」と数字のパターンで覚えよう。六波羅探題は「承久の乱の結果として設置」と必ずセットで覚えること。

承久の乱と六波羅探題って同じ問題で出ることあるの?どうやって区別して覚えればいい?

よく出るのは「承久の乱の後に設置されたものは何か→六波羅探題」という流れの問題だよ!「承久の乱→六波羅探題」をワンセットで覚えてしまえばバッチリ。「六波羅探題の目的は京都・朝廷の監視」という役割もセットで頭に入れておこう!
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よくある質問
鎌倉幕府の2代目執権です。初代執権は父の北条時政で、義時は1205年の牧氏事件で時政を追放した後、執権職を引き継ぎました。その後、1213年の和田合戦で侍所別当も兼任し、政所・侍所の両方を掌握して幕府の実権を完全に握りました。
1221年(承久3年)に起きました。後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したことで始まりましたが、北条政子の演説で結束した幕府軍が圧勝。後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流罪となりました。この乱を境に、武家政権が朝廷に対して政治的優位に立つことが確定しました。
正確な死因は不明で、現在も謎のひとつとされています。妻・伊賀の方が薬(毒)を盛ったという毒殺説も語られますが、直接的な史料的証拠はありません。脚気や循環器系疾患による病死説が現在の研究では有力で、62歳での急死は当時としても高齢であったことが病死を支持する理由のひとつです。
感情を表に出さない「静かな実力者・実務家タイプ」として史料に描かれています。個人的な権力欲よりも幕府全体の安定を優先する判断をくり返しており、父・時政でさえ幕府の安定を脅かすと判断した際には躊躇なく追放しました。冷徹に見える一方で、幕府という組織への強い使命感を持っていたと評価されています。
はい、北条義時は13人の合議制のメンバーの1人です。父・北条時政とともに北条氏から2名が参加しました。当初は若手メンバーのひとりでしたが、梶原景時・比企能員・畠山重忠ら他のメンバーが次々と失脚・討滅されていく中で頭角を現し、やがて幕府の実権を握る執権へと上り詰めました。
義時が黒幕という説がありますが、現在の歴史学では否定的な見方が主流です。1219年(承久元年)に3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された際、義時は直前に後ろへ退いたという記録があります。しかし義時が実際に指示を出したとする直接的な史料は存在せず、「公暁が義時を討とうとした説」など諸説があり、真相は謎のままです。
まとめ——北条義時が残したもの

以上、北条義時のまとめでした!「悪人」とも「英雄」とも呼べる複雑な人物像、面白かったかな。下の関連記事も合わせて読んでみてください!
- 1163年北条義時、誕生
- 1180年源頼朝の挙兵に参加(源平合戦)
- 1199年頼朝死去→13人の合議制発足
- 1203年比企氏の乱→比企能員討滅
- 1205年牧氏事件→父・北条時政を追放・執権就任
- 1213年和田合戦→侍所別当も兼任・政所・侍所の両権力掌握
- 1219年源実朝が公暁に暗殺される(義時の黒幕説は否定的)
- 1221年承久の乱→後鳥羽上皇を隠岐へ配流・六波羅探題設置
- 1224年北条義時、急死(享年62歳)


📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「北条義時」(2026年5月確認)
コトバンク「北条義時」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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