嘉吉の土一揆とは?徳政令を勝ち取った日本史初の民衆蜂起をわかりやすく解説

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土一揆

もぐたろう
もぐたろう

今回は嘉吉の土一揆について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「嘉吉の乱とごっちゃになる」「徳政令ってどういうこと?」そんな疑問をスッキリ解消していこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応

この記事を読んでわかること
  • 嘉吉の土一揆とは何か(1441年に起きた民衆蜂起の基本)
  • 嘉吉の乱との違い(混同しやすい2つの事件の関係)
  • なぜ幕府が徳政令を出したのか(室町幕府が初めて民衆に屈した理由)
  • 正長の土一揆との比較(テスト頻出の違いポイント)
  • 歴史的意義(民衆が政権を動かした初めての事例)

嘉吉の土一揆」と「嘉吉の乱」——この2つの名前、どっちがどっちかわからなくなっていませんか?実は、この2つは全く別の事件です。嘉吉の乱は将軍が暗殺された政変で、嘉吉の土一揆は民衆が起こした蜂起——片方は権力者の殺し合い、もう片方は借金帳消しを求めた民衆の戦いです。そして嘉吉の土一揆こそが、日本史上初めて民衆が幕府を屈服させ、徳政令とくせいれいを勝ち取った歴史的な瞬間でした。数万人が京都に押し寄せ、将軍すら動かした——その一部始終を、わかりやすく解説していきます。



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嘉吉の土一揆とは?

3行でわかる嘉吉の土一揆
  • 1441年(嘉吉元年)、足利義教あしかがよしのり暗殺による政治的空白に乗じて馬借ばしゃく・農民ら数万人が京都に押し寄せた一揆
  • 代始だいはじめ徳政とくせい」を根拠に酒屋・土倉どそう・寺院を実力行使で打ち壊し、幕府に徳政令を迫った
  • 正長の土一揆(1428年)が徳政令を勝ち取れなかったのに対し、嘉吉の土一揆は室町幕府から初めて徳政令を引き出した歴史的一揆

嘉吉の土一揆(かきつのどいっき)とは、1441年(嘉吉元年)に近畿地方の馬借ばしゃく・農民・地侍じざむらいらを中心とした数万人が蜂起した民衆一揆のことです。別名「嘉吉の徳政一揆とくせいいっき」とも呼ばれます。

この一揆の最大の特徴は、幕府に徳政令とくせいれい(借金帳消し令)の発布を要求し、それを実際に勝ち取ったことです。それまでの一揆では幕府が民衆の要求を認めたことはなく、嘉吉の土一揆は日本史上初めて「民衆が政権を動かした」事件として歴史に刻まれています。

一揆の参加者は8〜9月にかけて京都に押し寄せ、酒屋さかや・土倉・寺院の抵当ていとう物を実力で取り戻す「私徳政とくせい」を行いました。その勢いを前に、室町幕府は徳政令を発布せざるを得ませんでした。

もぐたろう
もぐたろう

徳政令っていうのは、今でいう「国家による借金帳消し令」のことだよ。土倉(どそう)や酒屋(さかや)といった当時の金融業者から借りたお金を、全部チャラにしてしまう命令なんだ。現代なら「政府が国民の借金を全部帳消しにしてあげる」みたいなイメージに近いね!

ゆうき
ゆうき

嘉吉の乱と嘉吉の土一揆って、どう違うの?テストで混同しそうで心配…。

もぐたろう
もぐたろう

いい質問!超重要なポイントだよ。簡単に言うと、嘉吉の乱は「将軍が暗殺された事件」、嘉吉の土一揆は「その後に民衆が起こした借金帳消し運動」。全然別の話だね。次の章で詳しく整理していこう!



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嘉吉の乱と嘉吉の土一揆の違い

この2つの事件は「嘉吉」という元号が付いていて同じ1441年に起きているため、混同されがちです。しかし原因も主役も全く異なる、独立した別々の事件です。まずそれぞれの概要を整理しましょう。

嘉吉の変(1441年6月)は、6代将軍・足利義教あしかがよしのりが播磨国の守護大名・赤松満祐あかまつみつすけに暗殺された政変です。義教は「万人恐怖ばんにんきょうふ」とも呼ばれた強権的な将軍で、その死によって室町幕府は深刻な権力の空白に陥りました。

一方、嘉吉の土一揆(1441年8〜9月)は、義教暗殺からわずか2〜3ヶ月後に起きた民衆蜂起です。将軍の死による政治的混乱を利用して、近畿の馬借・農民らが徳政令を求めて京都に押し寄せました。乱の混乱に「乗じた」という点で、2つの事件は間接的につながっていますが、あくまで別の事件です。

比較項目嘉吉の乱嘉吉の土一揆
時期1441年6月1441年8〜9月
主役足利義教(将軍)・赤松満祐(守護大名)馬借・農民・地侍ら(民衆)
内容将軍が守護大名に暗殺された政変徳政令を求めた民衆蜂起
結果将軍の死・幕府権威の大幅な低下室町幕府が初めて徳政令を発布

あゆみ
あゆみ

なんで同じ時期にこんなにいろいろ起きてるの?偶然?

もぐたろう
もぐたろう

偶然じゃないよ!民衆は将軍が死んで幕府がバラバラになったタイミングを「今しかない!」と狙って動いたんだ。混乱の中では幕府も軍事力で鎮圧できない。まさに民衆が権力の空白をついた瞬間だね。

「嘉吉の乱」と「嘉吉の土一揆」は原因も主役も結果も異なります。テストでは「乱=将軍暗殺事件、土一揆=民衆蜂起」と必ず区別して覚えておきましょう。では、そもそもなぜ民衆はこれほど激しい一揆を起こすことになったのでしょうか。次の章では一揆の背景を見ていきます。



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一揆が起きた背景

嘉吉の土一揆が起きた背景には、複数の要因が重なっていました。単純な「貧しい民衆の暴動」ではなく、社会的・経済的・政治的な条件が積み重なった必然の爆発でした。

① 足利義教暗殺による権力の空白

1441年6月、6代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺されました(嘉吉の乱)。義教は「万人恐怖」と呼ばれた強権的な将軍であり、その死によって室町幕府は指導者を失い、幕府内では誰が実権を握るかをめぐる争いが始まりました。 民衆にとって、これはまたとない好機でした。

② 馬借・農民の深刻な借金問題

室町時代中期、近畿地方の馬借ばしゃく(馬で物資を運ぶ輸送業者)や農民たちは、土倉どそう・酒屋などの高利貸しから多額の借金を抱えていました。当時の金融業者は年利が高く、借金は雪だるま式に膨らむため、多くの民衆が土地や財産を失いかけていました。

📌 土倉(どそう)・酒屋(さかや)とは:室町時代の金融業者。土倉は質屋兼高利貸し、酒屋は酒の醸造業者だが副業で金融業も営んでいた。今でいう消費者金融・銀行に近い役割。一揆の打ち壊しのターゲットになった。

当時の借金の深刻さは、記録が示す通りです。近江の馬借や農民の多くは、毎年の収入のほとんどを返済に充てても元本が一向に減らず、田畑や家屋まで担保に取られてしまう者が続出していました。「このままでは子どもに何も残せない」——追い詰められた民衆の積もり積もった怒りが、数万人の蜂起へと膨れ上がっていったのです。

③「代始の徳政」という民衆の根拠論理

嘉吉の乱で6代将軍・義教が死に、翌年(1442年)に7代将軍となる足利義勝あしかがよしかつ(1434年生・1441年当時7〜8歳)が後継者として擁立されました。民衆はこれを利用して「代始だいはじめ徳政とくせい」を主張します。代始の徳政とは、新たな将軍(代)に替わったタイミングで、幕府は慣習的に徳政令を出すべきだという考え方です。

📌 「代始の徳政」とは:新しい将軍が就任した(代が変わった)ときに徳政令を出すのが当然という慣習的な考え方。民衆はこれを根拠に「7代将軍が就任したのだから徳政令を出すべきだ」と幕府に迫った。

〔深掘り〕幕府内の権力争い——細川持之 vs 畠山持国

この一揆の背後には幕府内の権力闘争も絡んでいたとされます。将軍義教の死後、管領かんれい(将軍補佐の最高職)の細川持之ほそかわもちゆきとライバルの畠山持国はたけやまもちくにが実権をめぐって対立していました。土倉と深い関係にあった細川持之が守護大名への出兵命令の見返りに土倉から多額の賄賂を受け取ったことが露見すると守護大名たちは出兵を拒否。一方、畠山持国の被官が一揆勢に多く参加していたことから、持国が一揆を利用して細川持之を政治的に追い詰めようとしたという説が有力です。嘉吉の土一揆は「民衆 vs 幕府」の単純な対立ではなく、幕府中枢の権力争いとも深く絡み合っていたのです。



一揆の経過——数万人が京都を制圧した

1441年8月、ついに一揆が動き出しました。この一揆が他の土一揆と一線を画しているのは、その規模と組織力の高さです。単なる暴動ではなく、目標を持った組織的な行動でした。

📌 馬借(ばしゃく)とは:馬を使って物資を運んだ輸送業者のこと。今でいうトラック運転手。近江(滋賀)を拠点とした者が多く、土倉・酒屋への借金が多かったため徳政令を最も切実に求めていた。一揆の先頭に立つことが多かった。

一揆勢は近江(滋賀)を中心に集結し、8月中旬には数万人規模で京都へ進入しました。その行動は3つの段階で展開されました。

段階①:東寺・北野社を占拠して組織的拠点を構築

一揆勢はまず京都の要所である東寺とうじ(教王護国寺)と北野社(北野天満宮)を占拠しました。これは単なる暴徒の行動ではなく、京都への入り口を抑えて立てこもりの拠点を確保するという戦略的な行動です。 幕府軍が武力鎮圧に動こうとしても、数万人の立てこもりを突破するのは容易ではありませんでした。

段階②:酒屋・土倉・寺院を「私徳政」で実力行使

一揆勢は京都市中の酒屋・土倉・寺院に押し入り、借金証文(借用書しゃくようしょを奪い取って焼き払いました。これを「私徳政(じとくせい)」と言います。 幕府の命令を待たずに、自分たちで強引に借金を帳消しにしてしまうことです。

段階③:京都全体を封鎖——幕府に選択肢を与えない

一揆勢は8月末から9月にかけて、京都の各所を封鎖する形で展開しました。比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじも独自の経済利害から完全な徳政令に抵抗しましたが、一揆の勢いを前に幕府もこれ以上の鎮圧は不可能と判断しました。

ゆうき
ゆうき

なんで農民や馬借みたいな人たちが、こんなに組織的に動けたの?

もぐたろう
もぐたろう

2つのポイントがあるよ。1つ目は馬借が職業集団として横のつながりが強かったこと。「連絡網」がすでにあったんだ。2つ目はタイミング——将軍が死んで幕府がバラバラになった直後で、軍事力による鎮圧が事実上できない状態だった。この2点が重なって、民衆が幕府に勝てたんだよ。

こうして数万人の民衆が京都を実質的に制圧し、幕府は武力鎮圧も交渉拒否もできない窮地に追い込まれました。次の章では、ついに幕府が徳政令を発布するまでの経緯を見ていきます。



幕府、ついに徳政令を発布

1441年9月、室町幕府はついに民衆の要求を認め、徳政令とくせいれいを発布しました。これは日本史上初めて、幕府が民衆の実力行使に屈して徳政令を出した歴史的瞬間です。

しかし、そこに至る経緯は単純ではありませんでした。幕府内部では徳政令発布をめぐって激しい対立があり、段階的な形での発布となりました。

幕府の当初の対応:鎮圧しようとしたが失敗

当初、幕府は軍勢を動かして一揆を鎮圧しようとしましたが、数万人規模の一揆勢を前に武力行使は事実上不可能でした。管領・細川持之は土倉から賄賂一千貫を受け取って保護のための出兵命令を出しましたが、これが露見すると守護大名たちは出兵を拒否。一方、ライバルの畠山持国は被官が一揆に参加するかたちでこれを利用し、持之への政治的圧力を強めました。

比叡山延暦寺の抵抗——完全な徳政令を阻止しようとした

比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじは当時、土倉・酒屋に対して多額の出資(融資)を行っており、徳政令が発布されると大きな経済的損失を被る立場でした。そのため延暦寺は幕府に強く働きかけ、農民限定の徳政令にとどめさせようとしました。

段階的な徳政令の発布——農民限定→公家・武家へと拡大

最終的に幕府が発布したのは段階的な徳政令でした。最初は農民限定の徳政令から始まり、その後、公家・武家も含む「一国平均の徳政」へと拡大していきました。これは一揆勢の粘り強い交渉と圧力の結果でした。

足利義勝
足利義勝(7代将軍・後継者)

…父上が亡くなり、私はまだ子ども。管領の細川持之殿が動けぬ中、民衆が京都を数万人で囲んでいる。もう幕府に止める力はない。徳政令を認めるしかない……。

この徳政令は、7代将軍となる予定の足利義勝あしかがよしかつ(1441年当時7〜8歳)の代替わりを根拠として発布されました。義勝は幼くして父(義教)を殺され、管領・細川持之らに擁立されて後継者となりましたが、正式な将軍就任(元服)は翌1442年11月のことです。わずか8ヶ月後の1443年7月には病死した、室町幕府史上最短命の将軍です。

嘉吉の徳政令の内容と、その後の「分一徳政令」への発展

なお、嘉吉の土一揆の徳政令は農民に限定した「山城一国平均の徳政令」として発布されました。その後、室町幕府は徳政令を出すたびに財政が悪化することを学び、1454年(享徳3年)以降は「分一徳政令 ぶいちとくせいれい」という制度を採用します。分一徳政令とは、借金を帳消しにする代わりに債務額の一定割合(10分の1〜5分の1)を幕府に手数料として納める仕組みです。幕府が徳政令を財政収入に変えた、嘉吉以後の発展形と言えます。

あゆみ
あゆみ

嘉吉で出た徳政令って、全国の借金が帳消しになったわけじゃないの?それに、後の「分一徳政令」って何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

嘉吉の時点では「山城一国平均の徳政令」——つまり山城国(今の京都府南部)限定の徳政令が発布されたんだ。「全国一律」じゃなかったんだね。そして幕府は「徳政令を出すと財政が傷む」と学習し、1454年以降は分一徳政令を採用する。手数料を払えば帳消しOK、という有料制に変わっていくわけだ!

こうして嘉吉の土一揆は、日本史上初めて民衆が幕府から徳政令を引き出すことに成功しました。その歴史的意義は非常に大きく、以降の室町時代における土一揆の「教科書」ともなりました。次の章では、この一揆が歴史的に「なぜ重要なのか」を正長の土一揆との比較を通じて見ていきます。



正長の土一揆との違いを比較

嘉吉の土一揆と並んでテストに頻出するのが、正長の土一揆(1428年)との比較です。2つは時期こそ違いますが、どちらも室町時代に民衆が借金帳消しを求めた土一揆です。しかし幕府の対応に決定的な違いがあります。

正長の土一揆は、称光天皇しょうこうてんのうの崩御という政治的な節目に乗じて、近江・大和などの民衆が蜂起した一揆です。しかしこのとき、室町幕府は徳政令の発布を拒否しました。幕府が民衆の要求を突っぱねたのです。一揆勢は自分たちで酒屋・土倉を打ち壊す「私徳政」を行いましたが、幕府公認の徳政令は得られませんでした。

一方、嘉吉の土一揆では、幕府は初めて公式に徳政令を発布しました。民衆が政権を動かすことに成功した——正長と嘉吉の最大の違いはまさにこの1点です。

比較項目正長の土一揆(1428年)嘉吉の土一揆(1441年)
発生の契機称光天皇の崩御(政治的節目)足利義教暗殺による権力の空白・「代始の徳政」要求(嘉吉の乱の直後)
主な担い手近江・大和などの馬借・農民近江を中心とした馬借・農民・地侍(数万人規模)
幕府の対応徳政令の発布を拒否初めて徳政令を発布(段階的に拡大)
徳政令の有無なし(民衆の要求を認めず)あり(日本史上初の幕府による徳政令)
規模・組織性自然発生的・各地でバラバラ東寺・北野社を占拠した組織的行動

もぐたろう
もぐたろう

テストで絶対に押さえるのは「正長→徳政令なし、嘉吉→初めて徳政令あり」というこの対比だよ!記述問題でも「正長との違い」が問われることが多いから、この1点をしっかり覚えておこう。

ゆうき
ゆうき

じゃあ、正長のときはなんで民衆は失敗したの?

もぐたろう
もぐたろう

正長のときは、幕府にまだ軍事力で鎮圧できる力があったんだよ。嘉吉では将軍が暗殺されて幕府がバラバラ——それが決定的な差だね。「政治的空白に乗じた」かどうかが勝敗を分けたんだ。

📌 土一揆の「進化」という見方:正長(1428)→ 嘉吉(1441)→ 寛正(1457〜61)と、土一揆はしだいに組織化・大規模化していきます。正長で「やれる」とわかった民衆が、嘉吉でさらに洗練された戦術を取った——その積み重ねが徳政令獲得につながったとも言われています。

正長と嘉吉の対比は、単なる「成功か失敗か」の話ではありません。民衆の組織化が時代を追うごとに進み、室町幕府の権威が徐々に崩れていった——その流れの中でこそ、嘉吉の土一揆の歴史的意義が浮かび上がってきます。次の章では、この事件が日本史に残した「意味」をより深く掘り下げます。



歴史的意義——民衆が幕府を動かした初めての事件

嘉吉の土一揆が「歴史的」と呼ばれる理由は、単に借金が帳消しになったからではありません。それまでの日本史において、民衆が政権(幕府)を動かして要求を実現させた事例は存在しませんでした。この事件が初めてその「前例」を作ったのです。

意義①:「民衆が政権を屈服させた」初めての成功事例

嘉吉の土一揆以前、土一揆や農民一揆が幕府に要求を認めさせたことはありませんでした。正長の土一揆(1428年)でも幕府は徳政令を出さず、民衆の「私徳政」は法的に無効のまま終わりました。ところが嘉吉の土一揆では、数万人という規模と将軍暗殺直後という「絶好のタイミング」が重なり、ついに幕府が正式に頭を下げることになったのです。

意義②:室町幕府の権威失墜を決定的に加速させた

幕府が民衆に屈した事実は、守護大名や地方の武士たちにも大きな衝撃を与えました。「幕府も民衆に負ける」という事実が広まったことで、各地の守護大名が自立化を強め、中央集権的な幕府支配が揺らぎ始めました。この動きは後の応仁の乱(1467年)へとつながる「下剋上げこくじょうの時代」の萌芽でもありました。

意義③:以降の土一揆・徳政一揆の「教科書」になった

嘉吉の土一揆が「勝てた」という事実は、その後の民衆運動に大きな影響を与えました。寛正の土一揆(1457〜61年)などでも民衆は組織的に蜂起し、徳政令を求め続けます。「一揆を起こせば幕府が動く」という前例が、以降の室町時代を通じた民衆運動の活発化を後押ししたのです。

あゆみ
あゆみ

徳政令で借金が帳消しになっても、また借金するしかなくなるんじゃない?根本的な解決にはなってないよね?

もぐたろう
もぐたろう

そう、まさにその通り!徳政令で借金がなくなっても、また高利貸しから借りなければ生活できない人は多かった。さらに土倉・酒屋が「どうせまた帳消しになる」と警戒して貸し渋るようになり、かえって経済が停滞するという副作用もあったんだよ。でも「政権に民衆が勝てる」という前例を作ったこと自体が、日本史の大きな転換点だったんだ。

📌 現代とのつながり:民衆が政治を動かすという発想は、現代の民主主義・デモ・市民運動にも通じるものがあります。「数の力で権力を動かす」という手法を、室町時代の民衆はすでに実践していました。嘉吉の土一揆は、日本における「下からの政治参加」の原型の1つとも言えます。

こうして嘉吉の土一揆は、日本史における民衆運動の一大転換点となりました。次の章では、テストで必ず問われる重要ポイントをまとめて確認します。



テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 嘉吉の土一揆(1441年):室町幕府が初めて民衆に徳政令を発布した一揆。別名「嘉吉の徳政一揆」
  • 正長との違い(最重要):正長の土一揆(1428年)は徳政令なし→嘉吉の土一揆(1441年)は初の徳政令あり
  • 馬借・土倉・酒屋:一揆の主な担い手(馬借)と打ち壊し対象(土倉・酒屋)
  • 代始の徳政:新将軍就任時に徳政令を求める民衆の根拠論理
  • 嘉吉の乱との区別:乱=1441年6月・足利義教の暗殺事件(赤松満祐が主役)、土一揆=同年8〜9月・民衆蜂起(別事件)
  • 一国平均の徳政:農民限定から始まり、公家・武家にも適用が拡大された徳政令の形態

📌 暗記のコツ:「正長(1428)は出さず、嘉吉(1441)は出した(徳政令)」とセットで覚えよう。年号の順序は1428→1441。「嘉吉の乱」と「嘉吉の土一揆」は同じ1441年に起きた全く別の事件——乱は「将軍暗殺」、土一揆は「民衆蜂起」と整理しておこう。

ゆうき
ゆうき

一番テストで出るポイントってどこ?記述問題で聞かれそうなの教えて!

もぐたろう
もぐたろう

ダントツで「正長の土一揆との違い(徳政令の有無)」だよ!記述なら「嘉吉の土一揆が歴史的に重要な理由を説明せよ」という形で出ることが多いんだ。答えは「日本史上初めて民衆が幕府に徳政令を発布させた事件だから」——この1文を覚えておこう!



よくある質問(FAQ)

嘉吉の乱は1441年6月に起きた政変で、6代将軍・足利義教が守護大名の赤松満祐あかまつみつすけに暗殺された事件です。主役は守護大名と将軍。一方、嘉吉の土一揆は同年8〜9月に起きた民衆蜂起で、借金帳消し(徳政令)を求めた一揆です。主役は馬借・農民ら数万人の民衆。2つは同じ年に起きましたが、原因も主役も結果も全く異なる別の事件です。

はい、同じ事件です。正式には「嘉吉の徳政一揆とくせいいっき」とも呼ばれ、1441年(嘉吉元年)に起きた民衆による一揆のことです。「土一揆」は農民・馬借らが起こした一揆の総称「徳政一揆」は徳政令(借金帳消し令)の発布を要求した一揆という意味合いの違いがありますが、指す事件は同じです。教科書によっては「嘉吉の土一揆」「嘉吉の徳政一揆」どちらで表記されることもありますが、両方知っておくと安心です。

最大の違いは幕府が徳政令を出したかどうかです。正長の土一揆(1428年)では幕府は徳政令の発布を拒否しました。嘉吉の土一揆(1441年)では、室町幕府が日本史上初めて民衆の要求を認めて徳政令を発布しました。どちらも徳政令(借金帳消し)を求めた一揆ですが、「幕府が認めたか否か」という点でまったく結果が異なります。テストでは「正長は徳政令なし・嘉吉は徳政令あり」というセットで覚えると確実です。

主に3つの理由が重なりました。①足利義教の暗殺(嘉吉の乱)による権力の空白:強力な将軍が死に、幕府が弱体化して一揆を鎮圧できない状況になった。②馬借・農民の深刻な借金問題:土倉・酒屋などの高利貸しへの借金が積み重なり、生活が限界に達していた。③「代始の徳政」という論理的な根拠:後の7代将軍・足利義勝が後継者として擁立されたことで(正式な将軍就任は翌1442年)、民衆は「将軍代替わりの際には徳政令を出すべき」という慣習を盾に幕府に迫ることができた。この3点が同時に重なったことが、一揆を成功に導いた要因です。

大きく2点あります。①日本史上初めて民衆が幕府(政権)を屈服させた事件:それまで民衆の要求を認めなかった室町幕府が、初めて公式に徳政令を発布しました。「民衆が政治を動かせる」という前例を作った点で、日本史の大きな転換点です。②室町幕府の権威失墜を加速させた:幕府が民衆に負けたことで、守護大名の自立化が進み、後の応仁の乱・下剋上の時代への流れを早めました。この事件は「室町時代の末期的症状の始まり」とも位置付けられています。

頻出パターンは主に3つです。①正長との比較:「正長の土一揆と嘉吉の土一揆を比較して、異なる点を述べよ」→ 答えは「嘉吉では幕府が初めて徳政令を発布した」。②年号の穴埋め:「嘉吉の土一揆は( )年に起きた」→ 答えは「1441年」。③嘉吉の乱との区別:「嘉吉の乱と嘉吉の土一揆のうち、民衆蜂起はどちらか」→ 答えは「嘉吉の土一揆」。この3点をしっかり区別しておけば、嘉吉関連の問題はほぼ対応できます。



まとめ

嘉吉の土一揆のポイントまとめ
  • 1441年(嘉吉元年)、馬借中心の数万人が京都で蜂起した民衆一揆(別名:嘉吉の徳政一揆)
  • 嘉吉の乱(将軍・足利義教の暗殺)の政治的空白に乗じて起きた別事件
  • 「代始の徳政」を根拠に東寺・北野社を占拠し、酒屋・土倉を打ち壊して徳政令を要求
  • 幕府は初めて民衆に屈し、徳政令を発布——正長の土一揆(1428年)との最大の違い
  • 室町幕府の権威失墜・下剋上の時代への転換点となった歴史的事件

室町時代 土一揆の歴史年表
  • 1428年
    正長の土一揆(幕府は徳政令を拒否)
  • 1441年6月
    嘉吉の乱(足利義教、赤松満祐に暗殺される)
  • 1441年8〜9月
    嘉吉の土一揆(数万人が蜂起・幕府が初めて徳政令を発布)
  • 1454年
    分一徳政令の導入(享徳の徳政一揆を機に、幕府が徳政令に手数料制を導入)
  • 1457〜61年
    寛正の土一揆(嘉吉以降も続く民衆蜂起の流れ)
  • 1467年
    応仁の乱(室町幕府の権威失墜が決定的となる)

もぐたろう
もぐたろう

以上、嘉吉の土一揆のまとめでした!下の記事で正長の土一揆もあわせて読んでみてください!「正長→嘉吉→寛正」の流れを押さえると、室町時代の土一揆がぐっとわかりやすくなるよ!

嘉吉の土一揆の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

嘉吉の土一揆をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①土一揆・一揆の仕組みをしっかり学びたいなら|定番の学術入門書

一揆

勝俣鎮夫 著|岩波書店

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Historist(山川出版社オンライン辞典)「嘉吉の土一揆」(2026年5月確認)
Historist(山川出版社オンライン辞典)「嘉吉の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「嘉吉の土一揆」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「嘉吉の徳政一揆」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「足利義勝」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「細川持之」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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