
今回は三枚舌外交について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!第一次世界大戦中にイギリスがやらかした「3つの矛盾した約束」が、なぜ100年たった今も中東のニュースに影響しているのか、しっかり押さえていこう!
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版『詳説世界史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応
「紳士の国」として、世界中から信頼を集めてきたイギリス。しかし実は、第一次世界大戦のさなか、たった2〜3年のあいだに、同じ中東の土地をアラブ人・フランス・ユダヤ人の三者に対してそれぞれ「あなたのものにしてあげる」と約束するという、歴史上まれにみる矛盾外交を行っていました。これがいわゆる三枚舌外交です。
そしてこの「3つの約束の矛盾」は、100年以上が過ぎた今もなお続くパレスチナ問題——イスラエルとパレスチナの対立、ガザでの戦争——の火種になっているのです。「ニュースで見るあの紛争の出発点は、実はイギリスの一通の手紙だった」と言われたら、驚きませんか?
三枚舌外交とは?
①第一次世界大戦中(1915〜1917年)、イギリスが中東の同じ地域をアラブ人・フランス・ユダヤ人の3者に相互矛盾する約束をした外交政策。
②3つの約束とは、フサイン=マクマホン協定(1915年)・サイクス・ピコ協定(1916年)・バルフォア宣言(1917年)。
③この矛盾が現代のパレスチナ問題(イスラエル・パレスチナ紛争)の歴史的根源のひとつとされている。
三枚舌外交とは、第一次世界大戦中(1914〜1918年)にイギリスが行った外交政策で、同じ中東の土地について、互いに矛盾する3つの約束を別々の相手と結んだことを指します。
「三枚舌」というのは、日本語で「ほら吹き・嘘つき」を意味する「二枚舌」をさらに上回る言い回し。たった2〜3年のあいだに、イギリスは次の3つの約束を別々の相手にしました。
約束①:フサイン=マクマホン協定(1915年)
アラブ人に対して「オスマン帝国に反乱を起こしてくれれば、戦後はアラブ人の独立国家を認めるよ」と約束
約束②:サイクス・ピコ協定(1916年)
フランス(とロシア)と「戦後はオスマン帝国領を山分けしようね」と秘密裏に取引
約束③:バルフォア宣言(1917年)
ユダヤ人に対して「パレスチナにあなたたちの民族的郷土(ナショナル・ホーム)を作るのを支持するよ」と宣言

「三枚舌」って、なんかひどい呼び名だね……。でも、結局3つの約束がどう矛盾するのか、まだピンと来ないんだけど?

ザックリ言うとね、イギリスはパレスチナという同じ土地を、アラブ人にもユダヤ人にも「あなたのものにしてあげる」と約束しちゃったんだ。さらに裏では、フランスと「いやいや、あそこは英仏で管理しよう」と取引もしてた。今でいうと「同じマンションの一室を、3人の客に同時に売っちゃった不動産屋さん」みたいなイメージだよ!
つまり三枚舌外交とは、「中東を独立させてあげる」「中東を山分けする」「中東にユダヤ人国家を作るのを応援する」という、本来は両立しえない3つの約束を、たった2年余りで重ねていた外交のことなのです。次の章では、なぜイギリスがこんな無理な外交をしたのか、その背景を見ていきましょう。
なぜイギリスは三枚舌外交をしたのか?
そもそも、なぜ「紳士の国」と呼ばれていたイギリスが、こんな無理筋の外交を行ったのでしょうか。答えはひと言で言えば、「第一次世界大戦に絶対に勝たねばならなかったから」です。

1914年に始まった第一次世界大戦で、イギリス・フランス・ロシアからなる連合国(協商国)は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国からなる同盟国と戦っていました。※オスマン帝国:14世紀から600年以上続いたイスラム系の大国。最盛期には中東・北アフリカ・バルカン半島まで支配していたが、20世紀には弱体化して「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた。
戦争はイギリスの予想に反して長期化し、ヨーロッパでは塹壕戦の泥沼にはまっていました。そこでイギリスは、ヨーロッパ以外の戦線でオスマン帝国を弱体化させ、戦線を有利にしたいと考えます。そのために——
戦略①:オスマン帝国内のアラブ人を独立心で煽り、反乱を起こさせる
→ フサイン=マクマホン協定(1915年)
戦略②:戦後の利権分け前を約束して、フランスとの同盟関係を強固にする
→ サイクス・ピコ協定(1916年)
戦略③:世界中のユダヤ人ネットワークを味方につけ、特にアメリカ参戦と戦費調達を有利にする
→ バルフォア宣言(1917年)

イギリスはなぜ矛盾するとわかっていて、3つも約束したんですか?わざと騙したの?

いい質問だね。実は、「最初から計画的に騙した」というよりは、「戦争に勝つために、各部門が必死で別々の交渉を進めるうちに、結果として矛盾した3つの約束が積み上がってしまった」という見方が、歴史家のあいだでは有力なんだ。とはいえ、約束した側のイギリスにとって「知らなかった」では済まされない話だよね……。
もちろん、これは「悪意がなかった」という弁護にはなりません。3つの交渉はいずれもイギリス政府の内部で進められたものであり、後から「うっかりしていた」では済まされません。それでも、当時のイギリスが「戦争に勝つために、使えるカードはすべて切る」という追い詰められた状況にあったことは、背景として知っておく必要があります。
では、いよいよ1915年——三枚舌の「1枚目」が切られた瞬間、フサイン=マクマホン協定の中身を見ていきましょう。
フサイン=マクマホン協定——アラブへの約束(1915年)
フサイン=マクマホン協定は、1915年7月から1916年3月にかけて、アラブの指導者フサイン・イブン・アリー(メッカの太守)と、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンのあいだで交わされた、計10通の書簡のやり取りのことを指します。

フサインは、預言者ムハンマドの血を引くと称する名門ハーシム家の当主で、イスラム教の聖地メッカを治める太守(シャリーフ)でした。当時のアラブ地域はオスマン帝国の支配下にありましたが、フサインたちは長らくアラブ人の独立国家樹立を夢見ていたのです。

イギリス政府の高官マクマホンが、書簡で「オスマン帝国に反乱を起こしてくれれば、戦後のアラブ独立を支持する」と約束してくれた。これは長年の悲願がついに叶うチャンスだ……。
マクマホンは1915年10月の書簡で、フサインに対しておおむね次のように約束しました。
① アラブ人がオスマン帝国に対して反乱(アラブ反乱)を起こせば、
② イギリスは、いくつかの地域を除いて、戦後のアラブ人独立国家の樹立を支持する。
③ ただし、「シリア西部(ダマスカス・ホムスなどより西側)」は純アラブ的地域ではないので除外する——という、後に大問題となる「除外条項」が付されていた。
フサインはこの約束を信じ、1916年6月、アラブ部族を率いてオスマン帝国に対する大規模な反乱を起こします。これが世にいう「アラブ反乱」であり、イギリス軍人T.E.ロレンス(後に「アラビアのロレンス」として有名になる人物)がこれを支援したことでも知られています。

フサイン=マクマホン協定って、要はアラブ人に「自分たちの国を作っていいよ」って約束したってことだよね?で、「除外条項」って何がそんなに大問題なの?

そう、超重要ポイント!マクマホンは「シリア西部は除外する」と書いたんだけど、その除外範囲に「パレスチナが含まれるのか・含まれないのか」をハッキリ書かなかったんだ。フサインは「パレスチナはアラブ独立の範囲に入る」と理解した。一方、後のイギリスは「パレスチナは最初から除外していた」と主張する。この曖昧さが、のちのバルフォア宣言(ユダヤ人への約束)と真正面から衝突することになるんだよ。
つまり、フサイン=マクマホン協定の「最大の罠」は、パレスチナの扱いがあいまいだったという点にあるのです。この曖昧さこそが、のちの矛盾外交を可能にしてしまったとも言えるでしょう。次の章では、その「裏でこっそり進行していた」サイクス・ピコ協定を見ていきます。
サイクス・ピコ協定——フランスとの秘密取引(1916年)
サイクス・ピコ協定は、1916年5月に、イギリス・フランス・ロシアの3か国のあいだで結ばれた秘密協定です。フサインに「アラブ独立を支持する」と約束したそのわずか半年後に、裏では英仏が「いやいや、戦後の中東は俺たちで山分けしよう」と取り決めていたのです。

協定の名前は、交渉にあたった2人の外交官——イギリスのマーク・サイクスとフランスのフランソワ・ジョルジュ=ピコ——の名前から取られています。
📌 サイクス・ピコ協定のポイント:英仏(+ロシア)が、オスマン帝国崩壊後の中東を直接支配地域・勢力圏・国際管理地域に色分けして取り決めた秘密協定。「フサインへの約束」とは別ラインで進行していた。
協定で取り決められた中東分割のおおまかな内容は、次のとおりです。
フランス:シリア・レバノン沿岸部を直接支配、内陸部(現在のシリア・モースル周辺)を勢力圏とする
イギリス:バグダードを含むメソポタミア南部(現在のイラク南部)を直接支配、ヨルダン川以東・現在のヨルダン周辺を勢力圏とする
パレスチナ:聖地エルサレムを含むため、英仏どちらの単独支配でもなく「国際管理地域」とする
ロシア:イスタンブール周辺・アルメニア地域を獲得(※ロシアは後に革命でこの権利を放棄)
ここで注目してほしいのが、パレスチナの扱いです。フサイン=マクマホン協定では「アラブ独立国家の範囲」とも読める地域だったのに、サイクス・ピコ協定では「国際管理(実質的に英仏の影響下)」になっています。さらに翌1917年には、そのパレスチナがバルフォア宣言で「ユダヤ人の郷土」として約束されることになるのです。

これって……アラブ人にも独立を約束しておきながら、その同じ土地を英仏で分け合う計画を裏で進めていたってことですよね?

その通り。しかも、これは「秘密協定」だからね。アラブ人は当然この協定の存在を知らされていない。フサインがイギリスを信じて命がけで反乱を起こしている裏で、英仏は地図を広げて中東を色塗りしていた——これが歴史の事実なんだ。
「アラブ独立」と「英仏分割」——この2枚舌の上に、さらに1917年、3枚目の舌が乗ることになります。次の章では、「ユダヤ人への約束」=バルフォア宣言を見ていきましょう。
バルフォア宣言——ユダヤ人への約束(1917年)
バルフォア宣言は、1917年11月2日、イギリス外務大臣アーサー・ジェイムズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人指導者ウォルター・ロスチャイルド卿(第2代ロスチャイルド男爵)に宛てた手紙の中で発表した、わずか数行の短い宣言です。短くても、その内容は世界史を大きく動かしました。

イギリス政府は、パレスチナにおけるユダヤ人のための「民族的郷土(national home)」の設立に賛意を示し、その実現のために最善の努力を尽くす。ただし、パレスチナにすでに住んでいる非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利、および他国でユダヤ人が享受している権利が、損なわれることがあってはならない——という条件付きの宣言だった。

戦争に勝つためだ。世界のユダヤ人ネットワークを味方につけ、アメリカに参戦してもらい、ロシアの政情も安定させたい……「民族的郷土」という言葉は意図的に曖昧にしてある。これが将来、どんな事態を招くかは——今は考えないことにしよう。
では、なぜイギリスはこの段階で、わざわざユダヤ人に対する宣言を出したのでしょうか。背景には、主に次の3つの戦略的事情があったと考えられています。
戦略①:アメリカ参戦への布石
当時のアメリカには影響力のあるユダヤ系金融資本が多く、ユダヤ人世論を味方につけることでアメリカの本格参戦・戦費支援を後押ししたかった
戦略②:ロシアのユダヤ人勢力への配慮
ロシア革命が進行する中で、革命勢力に多く参加していたユダヤ人にも、連合国側に好意を持ってもらいたかった
戦略③:シオニズム運動との結びつき
19世紀末から欧州で広がっていたシオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)の指導者たちが、長くイギリスに支援を働きかけていた
※シオニズム:「シオン(エルサレム)の地に帰る」を意味する、ユダヤ人のための国家をパレスチナに建設しようとする民族運動。19世紀末のテオドール・ヘルツルが理論的指導者となった。

バルフォア宣言って、すでに同じ時期にアラブ人に「独立を約束」していたのに、ユダヤ人にも「パレスチナでの建国を支持する」と言ったってことですよね……?

まさにそう!しかも、サイクス・ピコ協定では同じパレスチナを「英仏で国際管理しよう」とも決めていた。1915年(アラブに独立を約束)→1916年(英仏で山分け)→1917年(ユダヤ人に郷土を約束)と、わずか2年ちょっとの間に、3つの矛盾が積み重なってしまったんだ。「三枚舌」と呼ばれるゆえんだね。
ここまでで、3つの約束の中身は出そろいました。では、それぞれがどこで・どのように矛盾しているのか——次の章で整理してみましょう。
3つの約束はどこが矛盾しているのか?
ここで、3つの協定の矛盾点を一気に整理しましょう。「どこが・どう食い違っているのか」を3つの組み合わせで見ていきます。
矛盾①:フサイン=マクマホン協定 vs サイクス・ピコ協定
アラブ独立国を約束しつつ、裏ではフランスと中東領土の分割を秘密取引していた
矛盾②:フサイン=マクマホン協定 vs バルフォア宣言
アラブ人に「中東一帯にあなたたちの国を作っていい」と言いつつ、ユダヤ人にも「同じパレスチナにあなたたちの郷土を作るのを支持する」と宣言した
矛盾③:サイクス・ピコ協定 vs バルフォア宣言
フランスと「パレスチナは国際管理」と決めていたのに、ユダヤ人には「パレスチナをあなたたちの郷土に」と約束した
もっともわかりやすいのは矛盾②——フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言の食い違いです。同じパレスチナという土地について、片やアラブ人に「独立を支持する」、片やユダヤ人に「あなたたちの郷土の建設を支持する」と言っている。1つの土地に2つの民族の国家樹立を約束しているのですから、これが両立しないのは小学生でもわかる話です。

でも、イギリスは「最初からパレスチナはフサインへの約束に入っていない」って後から言ったんでしょ?それって本当のことなのかな?

これは今でも歴史家の意見が分かれているところなんだ。イギリス側は戦後「マクマホンの除外条項にはパレスチナも含まれていた」と主張した。一方アラブ側は「パレスチナは独立範囲に含まれると当然理解していた」と反論した。文書の文言が曖昧だったぶん、後付けでどうとでも解釈できてしまった——これも三枚舌外交の根深い問題点だよ。
マクマホン書簡には「ダマスカス・ホムス・ハマー・アレッポの諸地区より西側のシリア地域」を除外すると書かれていました。イギリスは戦後、「これにはパレスチナも含まれる」と主張。しかし、地理的にこれら4都市はパレスチナのはるか北にあり、アラブ側の読み方では「パレスチナは独立範囲内」と理解するのが自然でした。要するに、イギリスは曖昧な書き方をすることで、後から都合よく解釈する余地を残していた——三枚舌外交がここまで尾を引いた本当の理由は、この「文言の曖昧さ」にあると言われています。

3つの矛盾を整理したところで、次は——イギリスに裏切られた形になったアラブ人たちが、この事実をいつ・どのように知ったのか。そして、それがどんなドラマを生んだのかを見ていきましょう。
アラブ人はどう受け止めたか——反乱と裏切り
3つの矛盾した約束を受け取った側は、それぞれどう動いたのでしょうか。とくに大きく動いたのが、フサインに率いられたアラブ人です。彼らは1916年、オスマン帝国に対して武装蜂起します。これが世界史の教科書で「アラブの反乱」と呼ばれる出来事です。
📌 アラブの反乱(1916〜1918年):メッカの太守フサインが、息子のファイサルらを指揮官として、オスマン帝国の支配下にあったアラブ諸都市で起こした武装蜂起。イギリスの後方支援を受け、ヒジャーズ鉄道などを破壊しながら、最終的にダマスカスを陥落させた。
このアラブの反乱に、もうひとり有名な人物が深く関わっています。映画『アラビアのロレンス』で世界的に知られるイギリス軍人、T.E.ロレンス(トマス・エドワード・ロレンス、1888〜1935年)です。
ロレンスはアラビア語と中東文化に精通した連絡将校として派遣され、フサインの息子ファイサルとともにアラブ軍を率いて戦いました。ラクダ部隊を組織し、砂漠を移動しながらオスマン軍の補給線を断ち、1918年にはダマスカス入城を果たします。ロレンス自身は、戦いの中でアラブ側に立つ気持ちが強くなり、戦後はイギリス政府にアラブ独立を訴え続けました。

われわれは、イギリスの紳士的な約束を信じて武器を取った。息子たちの血が砂漠に流された。その代償として、われわれは独立を手にするはずだった——そうではなかったのか?
ところが、です。命がけで戦ったアラブ人たちが戦後に手にしたのは、独立国家ではありませんでした。サイクス・ピコ協定にもとづく英仏の委任統治と、パレスチナにユダヤ人国家が建設されることを後押しするバルフォア宣言の現実化——そして、フサイン家自身も後にアラビア半島の覇権をサウード家(後のサウジアラビア王家)に奪われ、メッカを失います。

アラブ人は、イギリスに裏切られたことをいつ知ったの?戦争中に気づいたの?

戦争のさなかは、まだイギリスを信じていたんだ。秘密協定(サイクス・ピコ)の存在が公になったのは、なんと1917年11月——ロシア革命がきっかけなんだよ。次の章で、その劇的な暴露の瞬間を見ていこう!
アラブ側の落胆と怒り——これが現代まで尾を引く中東情勢の出発点になります。では、その「秘密がバレる瞬間」は、どこからやってきたのでしょうか。次の章でロシア革命との意外なつながりを見ていきましょう。
ロシア革命と秘密協定の暴露
1917年——三枚舌外交にとって、まさに歴史を動かす1年でした。3月(ロシア暦2月)の二月革命で帝政ロシアが倒れ、11月(ロシア暦10月)の十月革命でレーニン率いるボルシェビキが政権を握ります。そして、これが三枚舌外交にとって決定的な転機になるのです。

ボルシェビキ政権が掲げた外交政策のひとつが、「秘密外交の廃止」でした。レーニンらは「労働者・農民の革命政府は、帝政ロシアが結んだ恥ずべき秘密協定を、すべて公開する」と宣言。そして実際に、外務省の金庫から取り出した文書を、革命政府のメディアで次々と暴露していきます。
📌 なんとロシアが暴露!:1917年11月、ボルシェビキ政権はサイクス・ピコ協定をはじめとする秘密協定の文書をイズベスチヤ紙などに掲載。世界に向けて「英仏は裏でこんな分割をしていた」と公表した。アラブ人やトルコ側は、ここで初めて秘密協定の存在を知った。
暴露されたサイクス・ピコ協定は、すぐにオスマン帝国を経由してアラブ世界に伝わりました。アラブ人にとっては、衝撃の連鎖です。イギリスから「独立を支持する」と書簡をもらっていたまさに同じ時期に、英仏が裏でわが土地を分け合っていた——「裏切られた」という思いは、ここで決定的になります。

ロシア革命が中東問題の暴露につながるなんて……世界史って本当に意外なところでつながっているんですね。

まさにそう!ロシアでは社会主義革命が起きて、それが中東の秘密外交の暴露につながり、最終的にはパレスチナ問題にまでつながっていく——歴史って、一見バラバラの出来事が裏で深くつながっているんだ。このとき日本は寺内内閣の時代。シベリア出兵の準備に追われていて、中東のことを気にしている余裕はなかったんだよ。
イギリスは秘密協定の暴露後、アラブ側に「協定の内容は変更可能だ」「アラブの独立は引き続き支持する」と弁明します。しかし、戦争が終わってフタを開けてみれば、現実はサイクス・ピコ協定とバルフォア宣言の路線でほぼ動いていきました。次の章では、その結末がどのように現代のパレスチナ問題につながったのかを見ていきましょう。
三枚舌外交がもたらしたパレスチナ問題
第一次世界大戦が終わった1918年以降、中東はどう変わっていったのでしょうか。結論からいうと、イギリスが3者に約束した中で実際に動き始めたのは、英仏分割(サイクス・ピコ)とユダヤ人の郷土建設(バルフォア宣言)の2つでした。アラブ独立——これがもっとも置き去りにされたのです。
1920年代:英仏の委任統治体制スタート
国際連盟の委任統治制度のもと、シリア・レバノンはフランス領、パレスチナ・トランスヨルダン・イラクはイギリス領となった
1920〜30年代:ユダヤ人のパレスチナ移住が本格化
バルフォア宣言を後ろ盾に、ヨーロッパからユダヤ人がパレスチナに大量移住。アラブ人住民との衝突が頻発
1947年:国連パレスチナ分割決議
国連がパレスチナをユダヤ国家・アラブ国家・エルサレム国際管理地区に分割する案を採択。アラブ側は受諾を拒否

1948年:イスラエル建国宣言・第一次中東戦争
イスラエルが建国を宣言、周辺アラブ諸国が即座に侵攻して戦争に。多くのアラブ人がふるさとを追われ、「パレスチナ難民」として流出した

この1948年のイスラエル建国とそれに続く中東戦争で、約70万人のアラブ人が故郷を追われたとされ、現代まで続く「パレスチナ難民問題」が生まれました。そして以降も第二次〜第四次中東戦争、インティファーダ(パレスチナの民衆蜂起)、ガザ紛争と、衝突は今日まで続いています。これらすべてのルーツをたどると、1915〜1917年の三枚舌外交にたどり着くわけです。
三枚舌外交の本当の怖さは、100年以上経った今でも、同じ土地をめぐる紛争が続いていることです。2023年から続くガザ情勢、エルサレムの帰属問題、ヨルダン川西岸地区の入植問題——どれも、突きつめれば「あの土地は誰のものか?」という三枚舌外交が残した問いです。
歴史を学ぶ意味は、ニュースを「単なる遠い国の悲しい話」ではなく、「100年前のこういう約束の結果として、今こうなっている」と立体的に理解できるようになること。三枚舌外交は、まさにその力をくれる学習テーマなのです。

ニュースで「ガザ問題」「イスラエルとパレスチナの対立」と聞くたびに、ピンとこなかったんですけど……三枚舌外交が出発点だと知ると、見え方が変わりますね。

そう。歴史を知ることは、現代のニュースを読み解く力につながるんだ。「三枚舌外交」を知っていると、テレビでガザのニュースを見たときに「あ、あのときの約束の続きだ」と立体的に理解できる。これがあゆみさんやゆうき君に届けたい、いちばん大事なことだよ。
パレスチナ問題のさらに詳しい歴史や現状は、別記事で詳しく解説しています。あわせて読んでみてください。
ここまでで、三枚舌外交の歴史的経緯と現代への影響は押さえられました。次の章では、これらをテストでどう答えるかを整理していきましょう。
三枚舌外交の理解を深めるおすすめ本

三枚舌外交・パレスチナ問題についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を2冊紹介するよ!どちらも中高生から読めるわかりやすい入門書だから、ぜひチェックしてみてね!
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにもこのまま使ってください。
| 協定名 | 年 | 主体 | 相手 | 主な内容 |
|---|---|---|---|---|
| フサイン=マクマホン協定 | 1915年 | イギリス | アラブ人(フサイン) | アラブ独立国家建設の支持 |
| サイクス・ピコ協定 | 1916年 | イギリス・フランス(+ロシア) | 相互 | 中東のオスマン帝国領の秘密分割 |
| バルフォア宣言 | 1917年 | イギリス | ユダヤ人(ロスチャイルド卿) | ユダヤ人の民族的郷土建設支持 |
📌 暗記のコツ:3協定を「年代順(1915→1916→1917)」で覚える。頭文字なら「マ(マクマホン)→ピ(ピコ)→バ(バルフォア)」の順で並べると、矛盾が積み重なる時系列とリンクして覚えやすい。試験では「サイクス・ピコだけ秘密協定」「バルフォアだけ宣言(書簡ではない)」というポイントを必ず押さえること。

「なぜパレスチナ問題が起きたのか?」って試験で1文で答えるとしたら、どう書けばいいの?

模範解答はこう書こう!
「第一次世界大戦中にイギリスが同一地域をアラブ人とユダヤ人の双方に約束した三枚舌外交が、戦後のアラブ・ユダヤ間の領土をめぐる対立を生み、現代に続くパレスチナ問題の歴史的根源となったから」
キーワードは 「三枚舌外交」「同一地域」「アラブ人・ユダヤ人双方」「領土の対立」「歴史的根源」 の5つ。これが入っていれば満点回答に近づくよ!
テスト対策はこれでバッチリです。次の章では、よくある質問への回答をまとめておきましょう。
よくある質問
第一次世界大戦中(1915〜1917年)に、イギリスが中東の同じ地域をアラブ人・フランス・ユダヤ人の3者に対して、相互に矛盾する約束をした外交政策のことです。具体的にはフサイン=マクマホン協定(1915年)・サイクス・ピコ協定(1916年)・バルフォア宣言(1917年)の3つを指し、戦後の中東紛争・パレスチナ問題の出発点となりました。
日本語の「二枚舌(うそをつくこと・口先で別々の約束をすること)」をもじった呼び方です。アラブ人・フランス・ユダヤ人の3者に対して、それぞれ別の・しかも矛盾する約束をしたため、「2枚どころか3枚の舌を使い分けた」という意味で日本では「三枚舌外交」と呼ばれるようになりました。世界史用語として高校教科書にも掲載されています。
フサイン=マクマホン協定(1915年)では、イギリスはアラブ人に対し「パレスチナを含むと読める地域」での独立国家建設を約束しました。一方、バルフォア宣言(1917年)では、まさにその同じパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを支持すると宣言しています。1つの土地を2つの民族に約束したのが矛盾の中身で、これが現代まで続くアラブ・ユダヤ対立の出発点になりました。
三枚舌外交はパレスチナ問題の「歴史的根源」と位置づけられています。バルフォア宣言を後ろ盾にユダヤ人がパレスチナに移住し、一方でフサイン=マクマホン協定で独立を期待していたアラブ人と衝突。これが1948年のイスラエル建国・第一次中東戦争・パレスチナ難民問題へとつながり、現代のガザ紛争まで尾を引いているのです。
歴史的にはアラブ人が最も大きな代償を払ったとされています。イギリスへの協力と引き換えに独立国家建設を期待していたアラブ人は、戦後に英仏の委任統治とパレスチナでのユダヤ人国家建設という二重の打撃を受けました。約束を信じて反乱を率いたフサイン家自身も、アラビア半島の覇権をサウード家に奪われ、メッカを失うことになります。
直接的な関係があります。現代のイスラエル・パレスチナ紛争やガザ情勢の根源には、三枚舌外交によって生まれたアラブ人とユダヤ人の領土をめぐる対立があります。100年以上前のイギリスの矛盾した約束が、現代の中東紛争の出発点として今も影響を及ぼしているのです。歴史を学ぶことで、いまのニュースの背景を立体的に理解できるようになります。
まとめ
最後に、三枚舌外交の流れを年表で総ざらいしておきましょう。第一次世界大戦の勃発からイスラエル建国までを、1本のラインで理解できれば完璧です。
- 1914年第一次世界大戦が始まる
- 1915年フサイン=マクマホン協定:イギリスがアラブ人に独立国家建設を約束
- 1916年サイクス・ピコ協定:英仏がオスマン帝国領を秘密裏に分割
- 1917年バルフォア宣言:イギリスがユダヤ人の民族的郷土建設を支持
- 1917年ロシア革命:ボルシェビキがサイクス・ピコ協定を暴露
- 1918年第一次世界大戦終結・オスマン帝国解体 → 英仏の中東委任統治が始まる
- 1948年イスラエル建国宣言 → 第一次中東戦争勃発・パレスチナ難民の発生

以上、三枚舌外交のまとめでした!「マ→ピ→バ」の3協定をセットで覚えて、それぞれが「いつ・誰に・何を約束したか」を整理できれば、テストはバッチリだよ。下の関連記事もあわせて読むと、第一次世界大戦からパレスチナ問題までを一気通貫で理解できるからオススメ◎
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説世界史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「三枚舌外交」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「フサイン=マクマホン協定」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「サイクス・ピコ協定」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「バルフォア宣言」(2026年5月確認)
コトバンク「三枚舌外交」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説世界史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




