

今回は幕末の風雲児・坂本龍馬について、薩長同盟・大政奉還・亀山社中の3大功績を中心に、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
坂本龍馬と聞くと、「剣の達人」「武力で幕府を倒した革命家」というイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし、実は龍馬が最も恐れたのは「戦争」でした。無血で江戸幕府を終わらせることに命をかけた、幕末随一の平和主義者だったのです。
わずか33年の人生で、敵同士だった薩摩藩と長州藩を結びつけ、日本初の商社的組織を作り、新しい国家のかたちを構想した男——。この記事では、そんな坂本龍馬の功績と生涯をわかりやすくたどっていきます。
坂本龍馬とは?3行でわかる
坂本龍馬は、幕末の土佐藩(現在の高知県)に生まれた志士です。
龍馬が活躍したのは、黒船来航(1853年)から明治維新(1868年)へと向かう激動の時代。260年以上続いた江戸幕府が崩壊し、日本が近代国家へと生まれ変わろうとしていた時期にあたります。
龍馬は藩の枠を超えて日本全体のことを考え、「戦争ではなく話し合いで国を変える」という信念のもとに行動しました。その功績は大きく3つに分かれます。

龍馬、生まれる〜脱藩への決断
■ 土佐藩の「郷士」として生まれた龍馬
坂本龍馬は1836年(天保6年)、土佐藩の郷士の家に生まれました。

郷士っていうのは、武士の中でも身分が低い「下級武士」のこと。土佐藩では上士(じょうし)と郷士の間に厳しい身分差があったから、龍馬は子どものころからそういう理不尽を肌で感じていたんだね。
少年時代の龍馬は、泣き虫でおねしょをする子どもだったと伝わっています。しかし、姉の乙女に鍛えられ、やがて剣術の修行に打ち込むようになりました。
■ 剣術で頭角を現し、江戸へ
龍馬は1853年(嘉永6年)、19歳のときに剣術修行のため江戸に上ります。入門した北辰一刀流の千葉道場で腕を磨きました。
ちょうどこの年、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航します。龍馬は品川の警備に駆り出され、巨大な西洋の軍艦を目の当たりにしました。

あんな大きな船が攻めてきたら、刀じゃどうにもならん……。日本は変わらんといかんぜよ。
黒船来航は、龍馬の人生を大きく変えるきっかけとなりました。「剣術だけでは日本を守れない」——そう痛感した龍馬は、しだいに国防と政治に目を向けるようになります。
■ 脱藩という命がけの決断(1862年)
1862年(文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩します。

脱藩って、今でいうとどういうこと?

今でいうと、会社(藩)を無断で退職して別の組織に行くようなもの。しかも当時は死罪になりかねない重大な決断だったんだよ! それでも龍馬は「藩の中にいたら日本を変えられない」と考えて、あえて脱藩したんだ。
脱藩した龍馬は、もう土佐藩の武士ではなく浪人です。身分も後ろ盾もない状態で、日本全体のために動き始めます。
人生の師・勝海舟との出会い
脱藩後、龍馬の人生を決定づける出会いが訪れます。それが幕府の軍艦奉行・勝海舟との出会いです。
龍馬はもともと、「幕府寄りの勝を斬ってやる」という気持ちで勝海舟のもとを訪れました。ところが、勝海舟が語る「世界の中の日本」の話に衝撃を受けます。


勝先生の話を聞いて、俺は刀を収めた。日本を変えるのは剣じゃない、と悟ったんじゃ。
龍馬は「攘夷の敵」と聞いていた勝海舟のもとへ、斬る覚悟で乗り込みました。まさに道場破りのような気持ちだったのです。
しかし勝海舟は、刀に手をかけた龍馬を前にして、まったく動じません。「まぁ座れ。話を聞いてからでも遅くない」——そう言って、龍馬に世界の話を語り始めたのです。
アメリカの蒸気船は日本の千石船の何倍もの速さで海を渡ること。イギリスは世界中に植民地を持ち、圧倒的な軍事力を誇ること。そして、日本がこのまま鎖国を続ければ、清国のように欧米列強に食い尽くされるということ——。
龍馬は衝撃を受けました。「攘夷だ」「外国人を斬れ」と叫んでいた自分が、いかに井の中の蛙だったか。刀で外国船を沈められるわけがない。日本に必要なのは、剣ではなく海軍だったのです。
龍馬はその場で膝を折り、「弟子にしてください」と頭を下げました。「斬りに来た相手に弟子入りを志願した」——この有名なエピソードは、龍馬の柔軟さと行動力を象徴しています。

でも龍馬って、最初は斬りに行ったんでしょ? それで弟子入りって、すごい切り替えだね…!

そうなんだ!普通なら「いや、自分は間違っていない」と意地を張るところだよね。でも龍馬は「この人が言っていることは正しい」と認められる素直さがあったんだ。この柔軟さが、龍馬最大の武器なんだよ。

暗殺しに行った相手に弟子入りするって、龍馬のスケールの大きさがすごいわね。

そうなんだ。龍馬のすごいところは、自分の考えに固執せず、「この人はすごい」と思ったら素直に学べる柔軟さなんだよね。これが後の薩長同盟の仲介にも活きてくるんだ。
龍馬は勝海舟が設立した神戸海軍操練所に入り、航海術や西洋の学問を学びました。ここでの経験が、のちに亀山社中や海援隊を設立する土台となるのです。
龍馬の視野は「土佐」から「日本全体」へ、そして「世界の中の日本」へと広がっていきました。
功績①:薩長同盟を実現させた男
■ 水と油——薩摩と長州の憎悪
龍馬の3大功績のうち、最も有名なのが薩長同盟の仲介です。
当時、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)は、単なるライバルではありませんでした。血を流し合った仇敵だったのです。
1864年の禁門の変では、長州藩が京都に攻め上り、薩摩藩は幕府側について長州藩を撃退しました。この戦いで長州藩は多くの仲間を失い、さらに「朝敵(天皇の敵)」の烙印まで押されてしまいます。
長州藩から見れば、薩摩藩は「仲間を殺した裏切り者」。薩摩藩から見れば、長州藩は「暴走して京都を焼いた危険な連中」。憎悪は根深く、「あんな奴らと手を組むくらいなら死んだほうがマシだ」——それが、当時の両藩の本音でした。
問題:「倒幕」という目標は同じなのに、薩摩と長州はお互いを信用できない

それほど憎み合っていた藩を、龍馬が結びつけたってこと? いったいどうやって…?
■ 龍馬、長崎〜京都〜鹿児島を駆け回る
龍馬が仲介役になれたのは、脱藩浪人だったからです。どの藩にも属さない「中立の人間」だからこそ、薩摩にも長州にも話を聞いてもらえたのです。

龍馬は長崎・京都・鹿児島を何度も往復して、西郷さんと桂さんの双方を説得して回ったんだ。船と徒歩で何百キロも移動する、命がけの交渉だったんだよ。
龍馬は薩摩の西郷隆盛・大久保利通と、長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)——両藩の中心人物に繰り返し接触しました。
しかし、言葉だけでは信頼は生まれません。龍馬は行動で示すことを選びました。
■ 亀山社中が架けた「信頼の橋」
龍馬が設立した亀山社中は、この同盟工作において決定的な役割を果たします。
当時、長州藩は「朝敵」の立場にあったため、武器を自由に買うことができませんでした。一方、薩摩藩には武器を購入するルートがありましたが、長州に直接売ることは政治的にできない。
そこで龍馬は、亀山社中を「仲介業者」として使いました。薩摩藩の名義で武器を購入し、それを長州藩に届ける——このスキームにより、長州は喉から手が出るほど欲しかった最新式のミニエー銃を手に入れることができたのです。
龍馬の仲介スキーム:薩摩名義で武器を購入→亀山社中が輸送→長州に納品。見返りに長州は薩摩に米を送る。互いに「助けてもらった」という実績を積み上げることで、不信感を少しずつ溶かしていったのです。
こうした実績を積み重ねるなかで、西郷も桂も「龍馬は口先だけの男ではない」と認め始めました。
■ 運命の日——1866年1月、同盟成立
1866年(慶応2年)1月21日、京都の薩摩藩邸・小松帯刀邸。ついに、西郷隆盛と桂小五郎が同じ部屋で向かい合いました。
しかし、交渉は最後の最後で暗礁に乗り上げます。桂小五郎が「薩摩側から先に同盟の言葉を出してほしい」と求めたのに対し、西郷は沈黙を守ったのです。
長州は「朝敵」の立場。自分から頭を下げたのでは、藩の面目が立たない。しかし薩摩も、幕府との関係がある以上、自分から「同盟しよう」とは言いにくい。プライドとプライドがぶつかり、部屋は重い沈黙に包まれました。

西郷さん! 今ここで手を結ばんかったら、日本は終わりぜよ。薩摩も長州も関係ない。ここにおるのは「日本を救いたい男」だけじゃろう!
龍馬の必死の訴えが、ついに西郷を動かしました。西郷が口を開き、桂が応じる。こうして薩長同盟は成立したのです。
龍馬は桂小五郎が記した同盟6か条の内容を確認し、その裏に「この通り相違ありません」と裏書き(保証の署名)をしています。これは龍馬がこの同盟の「保証人」として両藩から信頼されていた何よりの証拠です。

龍馬がいなかったら、薩長同盟は成立しなかったの?

「もし龍馬がいなければ、明治維新は10年遅れていた」という評価があるくらいだよ。脱藩浪人が日本の歴史を動かしたんだから、本当にすごいことなんだ。
薩長同盟の成立により、幕末の政治バランスは大きく倒幕側に傾くことになりました。
功績②:亀山社中・海援隊の設立
■ 亀山社中とは何をした組織か
龍馬の2つ目の功績は、1865年(慶応元年)に長崎で設立した亀山社中です。

亀山社中って何をする組織だったの?

亀山社中は、今でいう「商社」のような組織なんだ。武器や船の売買・仲介をしたり、貿易や物資の輸送を行ったりしていたよ。武士が会社を作るなんて、当時としてはとんでもなく革命的な発想だったんだよ!
亀山社中のメンバーは、龍馬をはじめとする脱藩浪人たち。薩摩藩の名義を借りて、外国(主にイギリスの商人グラバー)から武器や船を購入し、長州藩に提供するという仲介ビジネスを行いました。
この取引は、先述の薩長同盟を経済面で支える仕組みでもありました。つまり龍馬は、政治的な同盟と経済的なつながりの両方を作り上げたのです。
■ 海援隊への発展(1867年)
1867年(慶応3年)、亀山社中は土佐藩の公認を得て海援隊に改称されます。龍馬が隊長となりました。
海援隊は、航海・貿易だけでなく、政治活動や情報収集も行う多機能な組織に発展しました。

有名ないろは丸事件では、海援隊の船が紀州藩の船と衝突して沈没したんだけど、龍馬は万国公法(国際法)を根拠にして紀州藩から賠償金を勝ち取ったんだ。国際法を使って交渉するなんて、当時の日本人ではほとんどいなかったよ!
功績③:大政奉還を後押しした「船中八策」
■ 船中八策とは何か(1867年)
龍馬の3つ目の功績は、新しい国家のかたちを示した船中八策です。
1867年(慶応3年)6月、龍馬は長崎から京都へ向かう船の中で、土佐藩参政の後藤象二郎に新国家構想の8箇条を提案しました。これが船中八策です。
船中八策のおもな内容
- 第一策:天下の政権を朝廷に返す(大政奉還)
- 第二策:上下の議会を設ける(議会制度)
- 第三策:有能な人材を登用する(身分によらない人事)
- 第四策:外国との交際は万国公法に基づいて行う(国際法の遵守)
- 第五〜八策:海軍の強化・金銀為替の制度改革など

議会制度や国際法って、今の日本と同じ考え方じゃない?

そのとおり! まだ江戸時代なのに議会制度や国際法を取り入れようとした龍馬の先進性は、本当にすごいんだよ。明治政府の「五箇条の御誓文」にも船中八策の考え方が反映されていると言われているんだ。
■ 大政奉還(1867年10月)への働きかけ
船中八策の第一策——「天下の政権を朝廷に返す」。これこそが大政奉還です。
龍馬は後藤象二郎を通じて、土佐藩主・山内容堂に大政奉還の建白書を将軍に提出するよう働きかけました。
1867年(慶応3年)10月14日、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を決断。260年以上続いた江戸幕府の政権が、朝廷に返上されました。

戦さは要らん。政権を朝廷に返せば、血を流さずに済む。それが日本のためじゃ。
龍馬がこだわったのは、「戦争をせずに政権を交代させる」という点です。武力で幕府を倒すのではなく、将軍が自ら政権を返上すれば、内戦を避けられる——。龍馬はそう考えていました。
■ 龍馬が本当に実現したかった「新しい日本」
ただし、龍馬の構想がどこまで独自のものだったかについては、歴史研究者の間で議論があります。
「船中八策」の原文は現存しておらず、後世の写本のみが残っています。また、龍馬を一躍有名にした司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』は創作部分も多く、小説の龍馬像=史実の龍馬像ではない点には注意が必要です。ただし、龍馬が大政奉還に尽力し、新国家構想を持っていたこと自体は多くの史料で裏付けられています。
龍馬は大政奉還が実現した後、新政府の人事を考える際に自分の名前を入れなかったと伝わっています。権力を求めず、「世界の海へ出たい」と語ったという逸話からも、龍馬の志が個人の出世ではなく日本全体の変革にあったことがうかがえます。
近江屋事件——龍馬、志半ばで散る
■ 1867年11月15日——運命の夜
大政奉還が実現してから、わずか1ヶ月。日本中が新しい時代の到来に沸き立つなか、龍馬は京都にいました。
龍馬の頭の中は、すでに「次」のことでいっぱいでした。新政府の人事構想を練り、「これからは世界の海に乗り出して商売をするんだ」と目を輝かせていたといいます。「世界の海援隊でもやりますかな」——龍馬が語ったとされるこの言葉は、彼がまだ未来を信じていた証拠です。
1867年(慶応3年)11月15日の夜。京都・河原町の醤油商「近江屋」の2階で、龍馬は盟友の中岡慎太郎と今後の日本について語り合っていました。
この日は、奇しくも龍馬の33回目の誕生日(旧暦・諸説あり)だったとされています。
そのとき——。
「ご用改めである!」
階下から声が響きました。数人の刺客が階段を駆け上がり、障子を蹴破って部屋に踏み込んできたのです。
龍馬はとっさに刀の鞘(さや)で刃を受けました。しかし、不意を突かれた状況では防ぎきれません。額を深く斬られ、致命傷を負います。
龍馬はほぼ即死に近い状態でした。享年33歳。大政奉還からわずか1ヶ月——新しい日本の夜明けを見届けることなく、龍馬の生涯は閉じたのです。
■ 中岡慎太郎が2日間、語り続けたこと
龍馬とともに斬られた中岡慎太郎は、瀕死の重傷を負いながらも2日間生き延びました。
中岡は意識がある間、事件の状況を周囲に語り続けました。刺客の人数、襲撃の様子、龍馬が最期に発した言葉——。中岡の証言がなければ、近江屋事件の詳細は永遠に闇の中だったかもしれません。

龍馬…わしはまだ死ぬわけにはいかん。あの夜のことを、誰かに伝えなければ…。新しい日本を、この目で見届けたかった…。
中岡慎太郎は11月17日、龍馬の後を追うように息を引き取りました。
■ 犯人は誰なのか?——日本史最大の謎
近江屋事件の犯人については、150年以上経った現在でも確定的な結論は出ていません。

龍馬を暗殺した犯人って、今でもわかっていないの?

最も有力なのは、幕府側の京都見廻組(みまわりぐみ)が実行犯だという説だよ。見廻組の今井信郎が明治時代に「自分がやった」と証言しているんだ。でも、薩摩藩が裏で糸を引いていたという「薩摩藩黒幕説」や、新選組説もあって、日本史最大のミステリーとして今も研究が続いているんだよ。
龍馬の死後、わずか数ヶ月で戊辰戦争が勃発し、明治維新が始まります。龍馬が夢見た「血を流さない政権交代」は、残念ながら完全には実現しませんでした。
しかし、龍馬が残した薩長同盟・大政奉還・船中八策の構想は、新しい日本の土台となり、明治政府の政策に大きな影響を与えたのです。享年33歳——あまりにも短く、あまりにも濃い人生でした。
龍馬の名言
龍馬は多くの手紙を残しており、その中には現代にも通じる名言がいくつもあります。ここでは代表的なものを紹介します。
「日本を今一度せんたくいたし申し候」
龍馬が姉の乙女に宛てた手紙に登場する言葉です。「せんたく(洗濯)」とは、腐敗した政治を一新するという意味。龍馬は幕府の体制を「汚れた着物」に例え、日本を綺麗にしたいという決意を語っています。
「世の人は我を何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」
「世間が自分をどう言おうと構わない。自分のやるべきことは自分だけが知っている」という意味の和歌です。脱藩という大きなリスクを冒してまで自分の信念を貫いた龍馬らしい言葉と言えるでしょう。
「万事、見にゃわからん」
「何事も自分の目で見なければわからない」という意味です。龍馬が勝海舟に会いに行った理由もまさにこの精神。人から聞いた評判だけでなく、自分で直接確かめることを大切にした龍馬の行動原理が表れています。

龍馬の名言には「自分の目で見て、自分の頭で考えて、行動する」という共通点があるんだ。だからこそ、150年以上たった今でも多くの人に愛されているんだね。
テストに出るポイント
坂本龍馬に関連して、中学・高校の定期テストや入試で出題されやすいポイントを整理しました。

薩長同盟と大政奉還の年号、テストに出そうだからしっかり覚えないと!

「1866年 薩長同盟」「1867年 大政奉還」はセットで覚えるのがコツ! どちらも龍馬が深く関わった出来事だよ。
よくある質問
坂本龍馬が有名になった最大の理由は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1962〜1966年連載)です。この小説がベストセラーになったことで龍馬の知名度が爆発的に上がりました。もちろん、薩長同盟の仲介や大政奉還への働きかけなど、歴史的な功績そのものも大きいですが、「国民的ヒーロー」としての龍馬像は小説の影響が非常に大きいとされています。
薩長同盟(1866年)は、それまで対立していた薩摩藩と長州藩が手を結んだ軍事同盟です。この同盟により、倒幕を目指す勢力が大きくまとまり、幕府に対抗できる力を持つようになりました。結果的に、大政奉還や明治維新へとつながる大きな転換点となりました。
船中八策は、1867年に坂本龍馬が船の上で土佐藩参政の後藤象二郎に示した新国家構想の8箇条です。大政奉還(政権を朝廷に返す)・議会の設立・憲法の制定・万国公法(国際法)に基づく外交など、近代的な国家の基本方針が盛り込まれていました。ただし、原文は現存しておらず後世の写本のみが残っているため、内容の正確性については議論が続いています。
近江屋事件(1867年11月15日)の犯人は、現在も確定していません。最も有力なのは幕府側の京都見廻組による犯行とする説で、見廻組の今井信郎が明治時代に自らの関与を証言しています。ほかにも薩摩藩黒幕説や新選組説などがありますが、決定的な証拠は見つかっておらず、日本史最大の謎のひとつとして残っています。
龍馬と西郷隆盛は、薩長同盟の交渉を通じて深い信頼関係を築きました。龍馬は脱藩浪人の立場でありながら、薩摩藩の重鎮・西郷と対等に渡り合い、長州藩との橋渡し役を務めました。西郷は龍馬の人間的な魅力と行動力を高く評価していたとされ、龍馬の暗殺を聞いて深く悲しんだと伝わっています。
最も有名なのは高知県の桂浜にある坂本龍馬像です。太平洋を見つめる龍馬の姿が印象的で、高知県のシンボルとして観光名所になっています。ほかにも長崎市の風頭公園、京都市の円山公園などに龍馬像があります。
坂本龍馬をもっと深く知りたい人へ
まとめ:坂本龍馬の功績と人物像
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1836年土佐藩(現・高知県)に郷士の家に生まれる
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1853年黒船来航。江戸に剣術留学し北辰一刀流を修業
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1862年土佐藩を脱藩
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1862年勝海舟と出会い弟子になる。海軍操練所で学ぶ
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1865年亀山社中を長崎に設立(日本初の商社的組織)
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1866年1月薩長同盟を仲介し締結に成功
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1866年1月寺田屋事件。伏見の寺田屋で幕府の捕吏に襲撃されるも脱出
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1867年4月亀山社中を海援隊に改組(土佐藩公認)
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1867年6月船中八策を起草し後藤象二郎に提示
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1867年10月14日大政奉還。徳川慶喜が政権を朝廷に返上
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1867年11月15日近江屋事件で暗殺される。享年33歳

以上、坂本龍馬のまとめでした! 33年という短い人生で日本の歴史を大きく動かした龍馬のドラマ、伝わったかな? 下の記事で幕末の他のテーマもあわせて読んでみてください!
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📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「坂本龍馬」https://ja.wikipedia.org/wiki/坂本龍馬(2026年4月確認)
コトバンク「坂本龍馬」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)https://kotobank.jp/word/坂本龍馬(2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.282〜284(幕末・坂本龍馬の活動)
コトバンク「亀山社中」https://kotobank.jp/word/亀山社中-234081 「薩長同盟」「船中八策」「近江屋事件」(2026年4月確認)
高知県立坂本龍馬記念館「龍馬について」https://ryoma-kinenkan.jp/feat/(2026年4月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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