簡単にわかる第一次長州征討!わかりやすく徹底解説【原因と西郷隆盛の活躍を中心に】

この記事は約5分で読めます。
幕府軍の様子

今回は、1864年7月〜12月に起こった第一次長州征討だいいちじちょうしゅうせいとうについてわかりやすく解説していきます。

簡単にまとめると第一次長州征討は次のような事件でした。

1864年7月に御所を襲った(禁門の変)長州藩への幕府による報復攻撃。

西郷隆盛さいごうたかもりの作戦により、戦闘は起こらず平和に問題は解決した。

この記事ではそんな第一次長州征討について以下の点を中心に解説していきます!

  • 第一次長州征討が起こった原因と経過
  • 当時の長州藩の様子
  • 西郷隆盛の活躍
スポンサーリンク

【悲報】長州藩、戦う前に既にボロボロ

1864年7月、幕府から攻められることになった長州藩ですが、実は戦う前から疲労困憊のボロボロの状態とでした

というわけで、まずは第一次長州征討までの流れをチェックしておきます。

第一次長州征討までの流れ
スポンサーリンク

揺れ動く長州藩

幕末の初期の頃から攘夷を強く推していた長州藩でしたが、禁門の変→四国艦隊下関砲撃事件と続く挫折で、長州藩では正義派せいぎは俗論派ぞくろんはの2つの派閥の対立が深まっていきます。

正義派

無闇に戦うだけでは攘夷は不可能だとわかり、国家一丸となり富国強兵を目指す考え。国家一丸となるには江戸幕府が邪魔と考えていたため、倒幕の思想を持つ。

俗論派

攘夷が不可能だとわかったから、ここは大人しく幕府に従うべきと言う考え。

ちなみに、後に明治維新で活躍する長州藩出身の木戸孝允きどたかよし伊藤博文いとうひろぶみ井上馨いのうえかおる山県有朋やまがたありともなんかはみんな正義派に属しています。

四国艦隊下関砲撃事件で欧米諸国の脅威を目の当たりにした長州藩では、俗論派の意見が優勢となり、幕府への歩み寄りの可能性が浮上してきました。

スポンサーリンク

西郷隆盛「戦いたくないから俗論派と交渉するぞ」

この俗論派に目をつけたのが薩摩藩の西郷隆盛です。西郷隆盛は、長州に攻め込む幕府軍の参謀。戦局を左右する重要なポジションにいました。

第一次長州征討のキーパーソン!西郷隆盛

西郷隆盛は幕府の命令で参戦していますが、心の内ではこの戦いに否定的でした。戦争は、藩の人々と財政に大きな負担を強いるからです。欧米諸国の脅威が目の前にある中で、無駄な浪費は避けなければならない・・・と考えていました。

西郷隆盛は長州へ向かう途中、大阪で幕府の元海軍トップだった勝海舟かつかいしゅうと出会います。

勝海舟
勝海舟

今は国内で戦っている場合ではない。もはや幕府は無能であり、これからは雄藩(勢力のある藩)が連携し、国を動かさなければならぬ。

勝海舟がこう言うと、「幕府の中にもこのような人物がいるのだなぁ」と感心したと言います。西郷隆盛も、遠かれ近かれ勝海舟と似たような気持ちだったのです。

ちなみに、この2人は三年後(1867年)に江戸城の無血開城で活躍することになります。

西郷隆盛は1864年11月ごろから長州藩との交渉をはじめ、その結果、以下の条件で長州と幕府の戦争は回避されることになりました。

  • 禁門の変の責任者を処分する
  • 八月十八日の政変で長州に逃げ込んだ公卿を他の藩へ移す
  • 山口城を破棄する
  • 長州藩主は父子ともに謝罪文をだす

12月の中頃にはこれらの条件がすべて満たされ、12月下旬に長州征討軍はあっさりと解散してしまいます。参戦していた多くの藩も西郷隆盛と同じことを考えていたのです。

一方でどうしても長州藩に一撃を与えたい幕府の中枢は、西郷隆盛の勝手な和平に強い不満を持ちました。しかし、長州藩が謝罪を含めしかるべき対応をして筋を通してきた以上、西郷隆盛を強く責めることもできませんでした。

これは西郷隆盛の計画通りであり、こうして誰も被害を被ることなく、第一次長州征討は終わります。西郷隆盛の完全な作戦勝ちです。

スポンサーリンク

第二次長州征討へ

第一次長州征討は西郷隆盛の策略で未然に防ぐことができました。しかし、幕府は長州征討を諦めませんでした。幕府に反抗し続ける長州藩をこらしめて、幕府の威厳を保ちたかったのです。

1865年、幕府はすぐに2回目の長州征討計画を企てます。

しかし、藩をこれ以上疲弊させたくない多くの藩主はこれに反対。薩摩藩の西郷隆盛もこれに反対し、1866年には長州藩と薩長同盟さっちょうどうめいを結んでしまいます。

求心力を幕府はフランスを頼るようになり、最新鋭の武器を揃えて長州に攻め込みますが、1866年に敗北。(これを第二次長州征討と言う)

幕府の二度にわたる長州征討の失敗は、「幕府のくせにたった1つの藩にすら勝てない」ということを公に知らしめることとなり、幕府の権威は地の底に落ちることに。

そして、これと同時に倒幕運動が一層盛んとなり、世は幕末のクライマックスへと進んでいきます。

コメント