道元とはどんな人?簡単にわかりやすく徹底解説【只管打坐と曹洞宗、禅を極めたその生涯】

この記事は約9分で読めます。

今回は鎌倉仏教の1つ曹洞宗の開祖である道元どうげんについて、わかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • 道元はどんな生涯を生きたの?
  • 道元はなぜ曹洞宗そうとうしゅうを開いたの?
  • 只管打坐って何?
  • 時宗ってどんな宗派なの?
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子供の頃に両親を亡くして出家

道元は1200年、京都で生まれました。

父が誰かはっきりとわかっていませんが、一説には土御門つちみかど(藤原)通親みちちかという高い身分の貴族だと言われています。

1200年といえば、源平合戦から10年ほどが経って、世の中が少し落ち着いてきた時代です。当時の朝廷の権力者は後鳥羽上皇

道元の父である藤原通親は、後鳥羽上皇を裏で操る影の権力者でもありました。

しかし、その父は道元が生まれてすぐ(1202年)に亡くなり、8歳の頃には母を失います。

その後、養子として育てられましたが、10代前半になると世の無情を感じて出家を決意。比叡山に入り、僧侶としての修行に励むようになりました。

養父はこれに驚き引き留めましたが、道元の決意は固かったと言われています。

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仏法の真理を追い求めて・・・

しかし、仏法の真理を追求したい道元にとって、比叡山は少しばかり物足りない場所でした。

道元
道元

僧侶たちの多くが名声や高い地位を求めているが、本来の仏教のあり方とは違うのではないだろうか・・・

道元
道元

比叡山での教えでは、人間にはもともと仏の性質が備わっているとされている。それなのに、どうして仏になることを願って厳しい修行をしなくてはならないのだろうか?

道元はこのような疑問を持つようになりますが、比叡山ではその答えを見出すことができません。

道元
道元

仏法の真理を追求するには、インドや中国で仏教を学ぶ必要があるのではないか・・・!?

こう考えた道元は、わずか数年で比叡山を降り、新たな師匠を見つけるため各地の寺院を訪れました。

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道元、禅の教えを知る

そして1214年、道元はとある寺院で、ついに自分の求めていた師匠を見つけることになります。

その寺院とは、今も京都に残っている建仁寺というお寺。臨済宗開祖である栄西が開いた由緒あるお寺です。

道元は建仁寺で栄西の弟子だった明全みょうぜんと出会います。そして、明全を師として建仁寺で禅の教えを学びました。

禅は、仏教の教えのとして日本でも昔から知られていた教えの1つです。しかし、禅に特化した本格的な宗派が誕生したのは、栄西の臨済宗りんざいしゅうが初めてでした。

つまり、道元が建仁寺で学んだ禅の教えは、当時の日本としてはかなり最先端の教えだったのです。これを深く学ぶには、やはり禅宗の本家である中国(宋)へ行く必要がありました。

また、師の明全も道元と同じく中国(宋)への留学を志しており、2人は同じ志を持つ同志でもありました。

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道元、宋へ留学

1223年、道元はついに念願の宋への留学を実現することになります。道元はこの時24歳、師匠の明全と共に商船に乗って宋へ渡りました。

約10日間の航海を経て宋に到着すると、日本産の椎茸しいたけを求めて1人の老僧が船にやってきました。

道元
道元

さっそく、本場中国(宋)の僧侶を見つけたぞ!!

道元は、喜びのあまりにその老僧を船室に招いて歓談を始めます。

話をしていると、その老僧はお寺の炊事すいじ係で、はるばる阿育王山あいくおうざんという山を降りてきたということでした。

道元は、この老僧を夜にもてなそうと老僧の帰りを引き止めますが、老僧はこれを拒否します。

老僧
老僧

今日中に山に戻らなければ、明日の供養に必要な食事が準備できませんので、すぐに帰らなければいけません。

道元
道元

なぜ、あなたはご高齢なのに炊事の担当などされているのですか?

もっと修行や学問に励むべきだと思うのですが・・・。

老僧
老僧

外国の方、そなたは仏教の何たるかをわかっておらぬようですな。

宋で本気で修行に励もうとしていた道元にとって、炊事係を全うしようとする老僧の行動はどうしても理解することができませんでした。

しかし、この老僧との出会いは、道元が禅の教えに目覚める大きなきっかけとなります。

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只管打坐(しかんたざ)

老僧との出会いの後、道元と明全は天童山てんどうざんという山に入り、仏道に励みます。

道元が本を読んで学問に励んでいると、1人の僧侶が道元にこう言いました。

本など読んで何のためになる?

道元
道元

古き人々の修行方法を学んでいるのです。

修行方法など学んで何のためになる?

道元
道元

人々へ仏教の教えを広めるためです。

仏教の教えを広めて何のためになる?

道元
道元

人々にとって仏教の教えを知ることは利益となります。

・・・という問答を繰り返すうちに、道元は答えに詰まってしまいます。

ここで、道元は禅の本質に気付きました。

道元
道元

言葉や知識だけでは仏法の真理はわからぬということだな。

ということはつまり、仏法の真理は「行」にある。

禅の教えに基づいて坐禅をすることこそが、悟りを開く道なのかもしれない。船であった老僧に『なぜ修行・勉学に励まないのか?』と聞いたときに、『そなたは何もわかっていない』と一蹴されたのは、修行も勉学も仏法の本質ではないからだったのだな。なるほど!

こうして禅の教えに目覚めた道元は、曹洞宗の僧侶である如浄禅師にょじょうぜんじのもとで禅を極めることを決意します。

このときに禅修行として行われたのが、只管打坐しかんたざでした。

只管打坐とは?

雑念を捨てて、ひたすらに坐禅をすること

如浄禅師は、「座禅こそが悟りそのものである。であるから、ただ座禅すればよい。」と考えていたのです。

只管打坐を続けているうちに、道元は長年の疑問に答えを見出し、師である如浄禅師からも禅を極めたことを正式に認められることになりました。

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帰国後の道元

1227年、道元は宋から帰国しました。しかし、そこに師匠であり同志でもあった明全の姿はありません。

明全は宋で帰らぬ人となり、道元はその遺骨を抱いて日本に戻ってきたのです。(明全は道元の人生を大きく変えたとても大切な人物でした・・・)

帰国後は建仁寺で暮らし、少しずつ曹洞宗の信者が増えていきました。1233年には、有名な著書「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」の執筆も始めます。

しかし、曹洞宗が世に広まると天台宗がこれを弾圧し始めました。1243年、天台宗のさ弾圧を避けるため、道元は弟子の勧めで越前へ向かい、今の永平寺えいへいじへと拠点を移します。

道元は永平寺を本格的な禅寺とし、禅修行のための最高の環境を作り上げました。(永平寺は、今でも曹洞宗の大本山となっています)

静寂に包まれた環境の中で、道元は自分を見つめ直し、正法眼蔵の執筆を進めていきます。

その後、鎌倉や京を転々とした後、道元は1253年に54歳で亡くなりました。(結局、正法眼蔵は未完で終わりました)

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曹洞宗と道元

道元は、宋でマスターした曹洞宗の教えを日本でも広めました。これが道元が、曹洞宗の(日本での)開祖と言われる理由です。

しかし、道元自身は自分の教えを宗派と見なすことを嫌いました。師から学んだ曹洞宗の教えは、正統なお釈迦様の教えであり特定の宗派に属するものではない・・・と考えたからです。

道元の教えが曹洞宗と呼ばれるようになったのも、道元の約60年後に生まれた瑩山(けいざん)禅師という人物が、道元の教えを全国に広めたおかげです。

道元は若き頃、比叡山で「なぜ僧侶なのに名声や地位を求めるのか?」と疑問に思っていました。この名声・地位というのは組織やコミュニティがあって初めて成立するものです。

「ならば、教団や宗派などないほうが良いのでは?」なんてことも考えたのかもしれません。

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曹洞宗の教え

すでにお話ししたように、曹洞宗は、文字・言葉よりも行いそのものを重要視します。つまり、曹洞宗の教えは、言葉だけで伝えることができません。

なので、曹洞宗の教えは、以心伝心いしんでんしんによって、師匠から弟子へと受け継がれる形で広められました。(道元も、如浄禅師から認められることで、曹洞宗の教えを受け継いでいます。)

もう1つ曹洞宗の大きな特徴として、曹洞宗は平安時代末期から流行った末法思想を否定します。

末法思想とは

お釈迦様(ブッダ)が亡くなって長い時間が経つと、お釈迦様の教えが人々に届かなくなって、誰も悟りを開かなくなる(浄土に行けなくなる)という思想のこと。

末法思想を踏まえて、「じゃあ、自分で悟りを開くんじゃなくて、阿弥陀如来様に浄土に連れてってもらえばいいんじゃね?」って発想をしたのが浄土宗です。

一方で、曹洞宗は、「禅をマスターすれば悟りを開ける」と自分で悟りを開けることを主張する宗派なので、末法思想を真っ向から否定しました。(もちろん、浄土宗も否定した。)

道元自身、浄土宗が唱える念仏には否定的な意見を持っていました。

道元
道元

念仏は、ただ禅の行いから逃げているだけ。

舌を動かすことだけが仏事と思ってい人々は、なんと虚しいものか。

そんなもの、昼夜を問わず鳴いているカエルの泣き声のようなものだ。

また、道元は座禅のみが禅の行いだとは考えませんでした。「行」そのものが大切なのであって、食事の作法や炊事など、日常の全ての行動が禅と結びつく・・・と考えました。

行住坐臥の考え方

行住坐臥ぎょうじゅうざが」が曹洞宗の禅の大きな特徴と言われています。

・「行」とは歩くこと

・「住」とはとどまること

・「坐」とは座ること

・「臥」とは寝ること

を意味し、全体では日常の全ての行いということになります。つまり、読経、清掃、食事など日常の全ての行動に際し、禅の心から離れないということです。

きっと、昔に出会った老僧の行動(椎茸の買い出し)もある意味で禅の一部だったのだろうと思います。

そして、禅の教えそのものから、日常生活の作法まで幅広く自分の教えを書き残したのが、正法眼蔵です。

正法眼蔵はとても分厚い本で、道元の超大作です。ちなみに、正法眼蔵は、西洋哲学に近い部分もありヨーロッパからも人気があります

初めて読んでみる方にオススメ!
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道元の生涯まとめ【年表付】

道元の生涯(年表まとめ)
  • 1200年
    道元、生まれる

    父親は諸説あるものの、高貴な貴族だった・・・!

  • 1207年
    母を失う。

    父もすでに他界していたので、道元は両親を失ったことになり、養子として育てられる。

  • 1211年頃
    出家の意思を固め、比叡山に向かう
  • 1214年
    比叡山の教えに疑問を感じ、比叡山を降りる

    比叡山を降りた後、建仁寺の臨済宗僧侶である明全を師匠として禅を学ぶ

  • 1223年
    宋へ留学する

  • 1227年
    宋から帰国

    宋で禅をマスターしての帰国となる。

    帰国後は建仁寺を拠点として布教活動を続け、正法眼蔵の執筆を始める

  • 1243年
    弟子の人脈を通じて、拠点を越前の永平寺に移す

    京都で禅の教えを広めていると、天台宗から弾圧を受けたため、拠点を移した

  • 1247年
    鎌倉に赴き、北条時頼に禅の教えを説く
  • 1253年
    道元、亡くなる

    大著「正法眼蔵」は未完に終わる・・・。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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