義和団事件・北清事変とは?原因・経過・日英同盟への影響をわかりやすく解説

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義和団

もぐたろう
もぐたろう

今回は義和団事件(北清事変)について、原因・経過・日本の役割・日英同盟への影響を、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
「義和団事件」と「北清事変」の違いも、この記事を読めばスッキリ整理できるよ◎

📚 この記事のレベル:高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応

この記事を読んでわかること
  • 義和団事件とは何か(原因・背景・スローガン「扶清滅洋」の意味)
  • 北清事変との違い(義和団事件と北清事変はどこが違うのか)
  • 8カ国連合軍の北京制圧と北京議定書(辛丑条約)の内容
  • 日本が最大兵力を派遣した理由と柴五郎の活躍
  • 義和団事件から日英同盟へつながる歴史の流れ

「義和団事件」と聞くと、清国(しんこく=当時の中国)の農民たちが外国人を襲った”反乱事件”というイメージを持つ人が多いかもしれません。

でも実は、それだけではありません。義和団事件は、列強国による清国分割という”外国の横暴”に対する民衆の怒りが爆発し、ついには清国政府までもが義和団に同調して、列強8カ国に宣戦布告するという、教科書1ページにはおさまりきらない超複雑な国際事件だったんです。

そしてこの事件は、4年後の日露戦争や、その前段となる日英同盟へと一直線につながっていきます。この記事では、その流れをまるごと整理していきます。

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義和団事件とは?清国を揺るがした排外運動

3行でわかる義和団事件
  • 1899年、清国の山東省で義和団ぎわだん(秘密結社)が「扶清滅洋」を掲げて蜂起した排外運動。
  • 1900年、清国政府が義和団に同調して列強8カ国に宣戦布告し、戦争(北清事変)に発展。
  • 1901年の北京議定書(辛丑条約)で、清国は多額の賠償金と列強の北京駐兵権を認めさせられた。

義和団事件ぎわだんじけんとは、1899年に清国の山東省さんとうしょうで始まった、外国勢力を排除しようとする民衆運動(排外運動)のことです。

運動を起こしたのは「義和団」と呼ばれる人々。彼らは「外国人と、外国の宗教であるキリスト教を追い出せ!」と叫び、教会を焼き、外国人や、キリスト教に入信した中国人を襲撃していきました。

義和団の団員
義和団の団員たち(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

■義和団の正体:白蓮教系の秘密結社

義和団のルーツは、白蓮教びゃくれんきょうという、古くから清国で活動していた民間宗教の流れをくむ秘密結社にあるとされます。もともとは「義和拳ぎわけん」という武術・拳法を修練する集団で、「拳を鍛えれば刀や鉄砲の弾も体を通り抜けない(=不死身になれる)」と信じられていました。

なぜ農村に一気に広まったの?

当時の清国の農村は、日清戦争の敗北や自然災害(黄河の洪水・干ばつ)で生活が苦しく、人々は強い不満を抱えていました。そこへ「外国人さえいなくなれば暮らしは良くなる」という義和団の主張がぴたりとはまり、貧しい農民や失業者を中心に爆発的に支持を広げていったのです。

■扶清滅洋(ふしんめつよう)スローガンの意味

義和団が掲げたスローガンが、扶清滅洋ふしんめつようです。これは「清を扶(たす)け、洋(外国)を滅ぼす」という意味になります。

ここで少しややこしいのが、義和団はもともと「清朝(=当時の政府)に反抗する集団」だったという点です。それがいつの間にか「清を扶(たす)ける」と言い出したわけです。なぜ手のひらを返したのか――その理由は、共通の敵である「外国」の存在でした。「政府への不満よりも、外国を追い出すことのほうが大事だ」という空気が、義和団を反政府から親政府へと変えていったのです。

ちなみに事件の後半になると、清国政府が頼りにならないと分かり、スローガンは「掃清滅洋(そうしんめつよう)=清国政府もまとめて掃き出してしまえ」へと変化していきます。民衆の怒りの矛先が、外国だけでなく無力な自国政府にも向かっていったわけです。

ゆうき
ゆうき

義和団ってテロリスト集団みたいなもの?ただ外国人を襲いたかっただけ?

もぐたろう
もぐたろう

たしかに暴力で外国人を襲ったのは事実だから、現代の感覚だと「過激だ」と感じるよね。
でも背景には、外国に土地も利権も奪われ、生活まで壊された農民たちの「正当な怒り」があったんだ。「ただの乱暴者」と片づけると本質を見失うから、”追いつめられた民衆の抵抗運動”という側面も覚えておくと理解が深まるよ◎

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義和団事件の原因・背景

では、なぜ義和団はこれほど激しく外国を憎んだのでしょうか。その背景には、「列強国による清国分割」「民衆の根深い反外国感情」という、2つの大きな要因がありました。

■列強国による清国分割の圧力

きっかけは、1894〜95年の日清戦争でした。この戦争で清国が日本に敗れると、「眠れる獅子」と恐れられていた清国が、実は張り子のトラだったことが世界中に知れ渡ります。

すると、それまで遠慮していた列強国(ロシア・ドイツ・イギリス・フランスなど)が、いっせいに清国へ群がり、港や周辺地域を租借そしゃく(=期限を決めて土地を借り、実質的に支配すること)していきました。

列強による清国分割を風刺した絵
清国というパイを列強が切り分けようとする様子を描いた風刺画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

列強による主な租借地:ドイツ=膠州湾こうしゅうわん/ロシア=旅順りょじゅん大連だいれん/イギリス=威海衛いかいえい・九龍半島/フランス=広州湾こうしゅうわん

とくにロシアは、日清戦争の直後に三国干渉でドイツ・フランスと組んで日本に圧力をかけ、日本が獲得した遼東半島りょうとうはんとうを清国へ返還させました。そのうえで、その遼東半島の旅順・大連を、ちゃっかり自分が租借してしまいます。清国にとっては、外国に好き放題されている状況だったのです。

🌍 このとき世界では:アメリカが米西戦争(べいせいせんそう・1898年)でスペインに勝ち、フィリピンを獲得していました。帝国主義(強い国が弱い国を植民地化していく動き)が東アジアにまで及び、列強が競って清国の利権を奪い合っていた時期にあたります。

■民衆の反外国感情(鉄道と雨のエピソード)

もう一つの大きな原因が、民衆のあいだに広がっていた強烈な反外国感情です。これは経済的な不満だけでなく、迷信や誤解にもとづく恐怖とも結びついていました。

たとえば外国人が敷いた鉄道や電信線に対して、農民たちは「鉄道が大地の龍脈りゅうみゃく(=大地に流れる気の道)を断ち切ったせいで雨が降らなくなった」「電線が天の怒りを招いている」と本気で信じ込んでいました。日照りや凶作が続くと、その原因がすべて外国人のせいにされていったのです。

さらに、キリスト教の宣教師や、その保護を受ける中国人信者(教民)が、裁判などで特別扱いされる場面も多く、「外国人だけがずるい」という反感が地域社会にくすぶっていました。こうした不満と恐怖がひとつにまとまり、「扶清滅洋」という旗印のもとに爆発したのが義和団事件だったのです。

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北清事変とは?義和団事件との違い

「義和団事件」と並んでよく出てくるのが北清事変ほくしんじへんという言葉です。この2つはどう違うのでしょうか。実は、ほぼ同じ出来事を別の角度から呼んだものなのですが、テストでも問われやすいポイントなので整理しておきましょう。

義和団事件と北清事変の違い
  • 義和団事件=義和団という民衆による排外運動の全体を指す言葉。
  • 北清事変=そのなかでも、清国政府が義和団に同調して列強8カ国に宣戦布告した「戦争」の部分を指す言葉。とくに日本ではこの呼び方が使われる。
  • ざっくり言えば、「義和団事件」という大きな出来事の後半(国どうしの戦争に発展した段階)が「北清事変」というイメージ。

つまり、「民衆の暴動」だったものが、「清国 vs 列強8カ国」という国家どうしの戦争にまでエスカレートした――その段階を区別して「北清事変」と呼んでいるわけです。「事件」と「事変」の言葉の違いが、運動から戦争への変化を表しているとも言えます。

■清国政府が義和団に同調した理由

ここで最大の疑問が浮かびます。なぜ清国政府は、暴れ回る義和団を取り締まるどころか、味方につけて列強に宣戦布告までしたのか?――この判断を下したのが、当時の清国で実権を握っていた西太后せいたいごうでした。

西太后は、皇帝(光緒帝こうしょてい)をしのぐ権力を持つ実力者でした。彼女は列強に清国を食い物にされていることに強い不満を抱いており、「義和団の力を使えば、憎き外国を追い払えるかもしれない」と考えたのです。こうして政府は鎮圧の方針を一転させ、義和団を後押しする側に回りました。

西太后
西太后

列強どもが我が清国を好き放題に食い物にしているというのに、なぜ我らが義和団を取り締まらねばならぬのか…。よかろう、義和団と手を組んで、外国どもを叩き出してやる!

こうして1900年6月、清国政府は列強8カ国に対して正式に宣戦布告します。民衆の暴動が、国家間の戦争(=北清事変)へと姿を変えた決定的な瞬間でした。しかし、近代的な軍備を整えた列強を相手に、清国と義和団に勝ち目はほとんどありませんでした。

南方の総督は宣戦布告を無視した——東南互保

清国政府の宣戦布告が出された直後、南方の有力総督たちが動きました。張之洞ちょうしどう劉坤一りゅうこんいつら南方の督撫(地方長官)は「これは義和団に操られた偽の詔勅だ」と判断し、列強と独自に「互保条約」を結んで、自分の管轄エリアでは戦争に参加しないと宣言しました。これを東南互保とうなんごほといいます。

この動きのおかげで、北清事変は清国全土の戦争にならず、北中国だけの局地戦にとどまりました。一方で、中央政府の命令すら無視できる地方実力者が登場したという事実は、清朝の権威がいかに地に落ちていたかを如実に示すエピソードでもありました。

■8カ国連合軍の北京制圧

清国の宣戦布告を受け、列強は8カ国連合軍はちかこくれんごうぐんを結成します。参加したのは、日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・イタリア・オーストリアの8カ国です。

8カ国連合軍の兵士たち
8カ国連合軍の各国兵士(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

連合軍は天津てんしんから進軍し、1900年8月には清国の首都・北京を制圧。実権を握っていた西太后は、皇帝の光緒帝を連れて西安せいあんへ逃亡しました。義和団も連合軍によって徹底的に鎮圧され、運動は事実上崩壊します。

あゆみ
あゆみ

日本はなんでこんなに積極的に出兵したの?しかも8カ国の中で最大兵力を送ったって聞いたわ。

もぐたろう
もぐたろう

いい着眼点だね!日本が最大兵力を送ったのには、ちゃんと理由があるんだ。詳しくは後の章で解説するけど、ざっくり言うと「①清国に一番近かった(だから一番早く軍を送れた)②大陸での利権がほしかった ③欧米に存在感をアピールしたかった」の3つだよ。この出兵が、のちの日英同盟への大きな布石になるんだ◎

義和団事件・北清事変の経過

ここで、義和団事件から北清事変、そして講和までの流れを時系列で整理しておきましょう。「いつ・何が起きたのか」を押さえると、テストでも迷わなくなります。

■1899年:山東省での蜂起開始

義和団の蜂起が本格化したのは、1899年、山東省でのことでした(「1900〜1901年」という表記を見かけることもありますが、これは後述の北清事変の年であり、義和団そのものの蜂起は1899年が正確です)。

このとき山東省の責任者だったのが、のちに中国近代史で大きな役割を果たす袁世凱えんせいがいです。袁世凱は義和団を危険視して厳しく取り締まり、山東省から追い出すことに成功します。ところが、その結果として義和団は隣の直隷省ちょくれいしょう=北京を含む地域へと流れ込んでしまいました。

袁世凱
袁世凱

義和団を我が山東省から追い出して、隣の直隷省へ押し出してしまえば、ひとまず山東は平和になる…。まさかこれが、北京を巻き込む大事件の引き金になるとはな!

結果論ですが、袁世凱が義和団を北京方面へ押し出したことが、事態を一気に深刻化させました。一方で、義和団との直接対決を避けて自分の軍隊(北洋軍)を温存できた袁世凱は、この後の混乱のなかで実力者としての地位をどんどん高めていくことになります。

■1900年:北京包囲と宣戦布告

直隷省に流れ込んだ義和団は、1900年5月ごろから北京に入り込み、各国の公使館(外国の大使館にあたる施設)が集まる地区を包囲しました。外国の外交官やその家族、キリスト教の信者たちが、公使館に立てこもることになります。

そして前述のとおり、1900年6月には清国政府が列強8カ国に宣戦布告。義和団と清国軍による公使館への攻撃は、なんと約55日間(およそ2か月)にも及びました。立てこもった各国の人々は、わずかな守備隊で必死に防戦します。この籠城戦こそ、次の章で紹介する日本人軍人・柴五郎が世界的に名を上げた舞台でした。

最終的に、天津から進軍してきた8カ国連合軍が北京に到達し、籠城していた人々は救出されます。北京は連合軍に占領され、北清事変は列強側の勝利で終結に向かいました。

■1901年:北京議定書(辛丑条約)の内容

戦争に敗れた清国は、1901年に列強と講和条約を結びます。これが北京議定書ぺきんぎていしょ辛丑条約しんちゅうじょうやくとも呼ばれます)です。その内容は、清国にとって非常に厳しいものでした。

北京議定書(辛丑条約)の主な内容:①賠償金4億5千万両(テール)の支払い ②北京と海港(天津方面)のあいだへの列強の駐兵権を承認 ③大沽だいこ砲台の破壊 ④排外運動の責任者の処罰

とくに重いのが、賠償金と列強の北京駐兵権です。外国の軍隊が自国の首都の近くに堂々と駐留することを認めさせられたわけで、清国の独立は名目上残ったものの、事実上は列強の言いなりに近い状態になってしまいました。

庚子賠款ってどのくらいの金額?

北京議定書で課された賠償金は、庚子賠款こうしばいかんと呼ばれます。「庚子(こうし)」は1900年を表す干支(えと)の呼び名です。

金額は4億5千万両(テール)。これを39年かけて利子(年利4%)つきで分割払いする取り決めだったため、最終的な支払総額は利払いを含めると8億5千万両にのぼるとされます。これは当時の清国の国家予算の数年分にあたる、まさに天文学的な金額でした。この莫大な負担が、清朝の財政をさらに圧迫し、清朝崩壊(辛亥革命)を早める一因にもなっていきます。

📖 庚子賠款の意外な後日談——清華大学はここから生まれた:アメリカ政府は1907年以降、庚子賠款の自国取り分の一部(約1070万ドル)を清国に返還しました。その資金を使って中国人学生をアメリカへ送り出す「庚款留学生」制度が設けられ、その留学生を育てた準備学校が、のちに名門清華大学の前身となります。「賠償金がアジア有数の大学を生んだ」という数奇なエピソードとして知られています。

柴五郎と日本の役割

北清事変は、日本にとっても大きな転機となった出来事でした。なかでも、北京の籠城戦で活躍した日本人軍人・柴五郎しばごろうの存在は、近代日本外交を語るうえで欠かせません。ここでは「日本の役割」という観点から掘り下げていきます。

■日本が最大兵力を派遣した3つの理由

前の章でも触れたとおり、日本は8カ国連合軍のなかで最大規模の兵力を派遣しました。その理由は、大きく次の3つに整理できます。

  1. 地理的に最も近かった:列強のなかで日本は清国に最も近く、最速で大軍を送ることができた。
  2. 大陸での利権を確保したかった:朝鮮や満洲まんしゅうへの影響力を強めるための布石にしたかった。
  3. 欧米列強に存在感をアピールしたかった:三国干渉で煮え湯を飲まされた日本は、「日本も列強の一員だ」と認めさせたかった。

連合軍に占める日本軍の割合:8カ国連合軍の兵力のうち、日本軍は全体のおよそ半数前後を占めたとされ、各国のなかで最も多くの兵を送り込みました。「アジアで一番近くて頼れる国」という存在感を、欧米に強く印象づけることになります。

■柴五郎の指揮と国際評価

柴五郎
柴五郎(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

柴五郎は、戊辰戦争ぼしんせんそうで新政府軍に敗れた会津藩あいづはんの出身でした。1868年の会津落城のとき、わずか9歳だった柴五郎の祖母・母・妹・兄嫁らは、捕虜になる屈辱を避けるために一族で自刃して命を絶ちました。生き残った柴五郎は兄とともに流浪の日々を送り、極限まで追い詰められた体験が、後の北京での冷静沈着な指揮の原点になったとも言われています。この壮絶な半生は晩年に書き残され、後に「ある明治人の記録」(中公新書)として刊行されており、司馬遼太郎も高く評価したことで知られています。

北京籠城戦のとき、柴五郎は現地に駐在していた日本の武官として、わずかな日本兵を率いて防衛戦の最前線を担いました。とくに彼が活躍したのが、公使館地区の北側に聳える城壁(タタール壁)の防衛です。柴は兵力の少なさを機動力で補い、危機的な状況でも冷静に陣地を守り抜きました。ともに籠城したイギリスやアメリカなど各国の人々は、この指揮ぶりに絶大な信頼を寄せ、後に各国の関係者から「籠城戦の影の指揮官は柴だった」とまで称賛されたと伝えられています。

事件後、柴五郎はイギリス・フランス・アメリカなど複数の国から勲章を授与されました。一介の日本人軍人が多国間から表彰されるという、当時としては異例の出来事でした。欧米各国が「この国(日本)と同盟を結ぶ価値がある」と感じた背景には、柴五郎の存在が確かにありました。

🕊️ 現代における義和団事件の位置づけ:現在の中国では、義和団事件は「帝国主義に立ち向かった民族の抵抗運動」として評価される一面があります。一方で、外国人宣教師や中国人キリスト教徒への暴力・迫害があったことは、反省すべき点としても語られています。立場によって評価が分かれる、複雑な歴史的事件なのです。

■義和団事件から日英同盟へ

柴五郎らの活躍によって、日本は「規律正しく、信頼できる国」というイメージを欧米、とくにイギリスに強く印象づけました。これが、その後の日本外交を大きく動かします。

北清事変が終わったあとも、ロシアは大軍を満洲に居座らせ続けました。これは、満洲・朝鮮への進出をねらう日本にとっても、清国での利権を守りたいイギリスにとっても、共通の脅威でした。「ロシアを抑えるために手を組もう」――こうした利害の一致が、1902年の日英同盟の締結へとつながっていったのです。

もぐたろう
もぐたろう

流れを整理すると「義和団事件で日本が活躍 → イギリスの信頼を獲得 → ロシアの満洲居座りという共通の敵が出現 → 日英同盟(1902年)→ 日露戦争(1904年)」という一本道なんだ。義和団事件は、日本が世界の大国へと駆け上がっていく”スタート地点”のひとつ。ここを押さえると近代史がグッと見通しよくなるよ◎

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 扶清滅洋(ふしんめつよう・1899年〜):義和団のスローガン。「清を扶け、外国(洋)を滅ぼす」の意味
  • 北清事変(1900〜1901年):清国政府が義和団に同調して列強8カ国に宣戦布告した戦争。日本ではこの呼び方を使う
  • 北京議定書(辛丑条約・1901年):賠償金4億5千万両・列強の北京駐兵権などを清国が認めさせられた条約
  • 庚子賠款(こうしばいかん):北京議定書で課された賠償金の呼称。39年・年利4%の分割払いで利払いを含む総額は8億5千万両
  • 日英同盟(1902年)への影響:義和団事件での日本の活躍がイギリスの信頼を勝ち取り、翌1902年の日英同盟締結につながった

📌 暗記のコツ:「北清事変=義和団事件の後半(戦争に発展した段階)」「辛丑条約=北清事変の講和条約」「庚子賠款=辛丑条約の賠償金の別名」をセットで覚えるのがコツ。さらに「義和団事件(1899〜1901)→ 日英同盟(1902)→ 日露戦争(1904)」と年号を並べて、近代日本外交の流れごと暗記してしまうと得点源になります。

ゆうき
ゆうき

テストで一番大事なポイントってどこ?「義和団事件」と「北清事変」の違いって、やっぱり聞かれる?

もぐたろう
もぐたろう

めちゃくちゃ出るよ!とくに「宣戦布告したのは誰か(=清国政府)」「北京議定書の内容」「日英同盟との関係」の3つは要チェック。
記述問題なら「義和団=民衆の運動/北清事変=清国政府が宣戦布告した戦争」と書き分けられればバッチリだよ◎

義和団事件の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

義和団事件についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!どちらも新書で読みやすいから、ぜひチェックしてみてね。

①義和団事件の経緯を深く知りたいなら|中公新書の定番解説書

②日清戦争〜日露戦争の文脈で義和団事件を学びたいなら|シリーズ日本近現代史の定番

日清・日露戦争

原田 敬一 著|岩波書店

よくある質問(FAQ)

義和団事件は、義和団による排外運動の全体を指す言葉です。一方で北清事変は、そのなかでも清国政府が義和団に同調して列強8カ国に宣戦布告した「戦争」の部分を指します。日本では事件全体を北清事変と呼ぶことも多く、ざっくり言えば「義和団事件の後半(戦争に発展した段階)=北清事変」というイメージです。

「清を扶(たす)け、洋(外国)を滅ぼす」という意味です。もともと反清朝だった義和団が、清国政府に同調した際に掲げたスローガンでした。事件の後半には、頼りにならない清国政府への失望から「掃清滅洋(そうしんめつよう)=清国政府もまとめて掃き出せ」へと変化していきました。

1901年に清国と列強8カ国のあいだで結ばれた講和条約です。賠償金4億5千万両(庚子賠款)の支払い・列強の北京〜海港間への駐兵権の承認・大沽砲台の破壊などを清国が認めさせられました。清朝の独立は名目上維持されたものの、事実上は列強の言いなりに近い状態に追い込まれました。

主な理由は3つです。①列強のなかで清国に最も近く、最速で大軍を送れたこと。②朝鮮や満洲への影響力を強める布石にしたかったこと。③三国干渉で煮え湯を飲まされた日本が、「日本も列強の一員だ」と欧米に存在感をアピールしたかったこと。この出兵での活躍が、のちの日英同盟締結の伏線になりました。

会津藩出身の陸軍軍人です。北京籠城戦のとき、わずかな日本兵を率いて防衛戦の最前線を担い、その冷静沈着な指揮ぶりがイギリスやアメリカなど各国から絶大な信頼を集めました。彼の活躍は、日本という国への国際的な評価を高め、日英同盟締結への伏線のひとつになったと言われています。

義和団事件で日本が最大兵力を派遣し、柴五郎らが活躍したことで、日本はイギリスの信頼を獲得しました。一方で、事件後もロシアが大軍を満洲に居座らせたことが、日本とイギリス共通の脅威となります。「ロシアを抑えるために手を組もう」という利害の一致から、1902年に日英同盟が締結されました。

義和団の蜂起が本格化したのは1899年(山東省)です。清国政府の宣戦布告(北清事変)が1900年6月、終結となる北京議定書が1901年です。「1900〜1901年」という表現は北清事変(戦争に発展した段階)の年であり、義和団そのものの蜂起は1899年が正確です。

まとめ:義和団事件の歴史的意義

最後に、義和団事件(北清事変)の歴史的意義を3つに整理しておきましょう。

  • 清朝の権威失墜を決定づけた:莫大な賠償金と列強の駐兵権を認めたことで、清朝の弱体化が加速し、のちの辛亥革命による清朝崩壊へとつながった。
  • 列強による中国侵略の深化:列強が清国に軍隊を常駐させる体制が固まり、中国は半植民地的な状態へと押し込まれていった。
  • 近代日本外交の転換点:日本の出兵と柴五郎らの活躍が国際的評価を高め、日英同盟(1902年)、そして日露戦争(1904年)へとつながる流れをつくった。

義和団事件・北清事変の年表
  • 1899年
    山東省で義和団が蜂起。「扶清滅洋」を掲げ排外運動が拡大
  • 1900年5月
    義和団が北京に入り、列国公使館の地区を包囲
  • 1900年6月
    清国政府が義和団に同調し列強8カ国に宣戦布告(北清事変へ)
  • 1900年8月
    8カ国連合軍が北京を制圧。西太后・光緒帝が西安へ逃亡
  • 1901年
    北京議定書(辛丑条約)締結。庚子賠款4億5千万両などを課される
  • 1902年
    日英同盟締結。義和団事件での日本の活躍が下地に

もぐたろう
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以上、義和団事件(北清事変)のまとめでした!
この事件は、日英同盟や日露戦争へとつながる近代史の大事な入り口だよ。下の記事で日清戦争・日英同盟・日露戦争のあたりもあわせて読むと、流れがまるごとつながって理解が深まるよ◎

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「義和団の乱」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「北清事変」(2026年6月確認)
コトバンク「義和団事件」「北清事変」「扶清滅洋」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「柴五郎」「庚子賠款」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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