壬午軍乱を簡単にわかりやすく解説【日本と清の関係や、高宗・閔妃・大院君の複雑な関係がわかります】

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壬午軍乱

もぐたろう
もぐたろう

今回は1882年に朝鮮で起きた「壬午軍乱(じんごぐんらん)」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!大院君・閔妃・高宗と、日本・清国が入り乱れる複雑な事件だから、一緒に整理していこう!

📚 この記事のレベル:高校日本史 / 高校世界史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 共通テスト・大学受験対応

この記事を読んでわかること
  • 壬午軍乱の読み方と別名(壬午事変・壬午の変との違い)
  • 壬午軍乱が起きた原因(別技軍と旧軍の対立・俸給米の腐敗)
  • 大院君・閔妃・高宗の複雑な関係(人間ドラマとして理解できる)
  • 日本と清国がどう動いたか(済物浦条約と中朝商民水陸貿易章程)
  • 壬午軍乱から甲申事変・日清戦争への流れ(近代東アジア史のつながり)

「壬午軍乱の大院君だいいんくん=開国を拒んだ守旧派の悪役」。教科書だけ読むと、そんなイメージを持ってしまいがちです。

でも実は、大院君は単なる悪役ではありませんでした。外国勢力から朝鮮の自主独立を守ろうとした、ある種の愛国者という見方もできるのです。

壬午軍乱は、朝鮮という小国が日本と清という二つの大国の間で翻弄された、悲劇の事件でもありました。この記事では、そんな壬午軍乱の読み方・原因・経過・結果を、登場人物の人間ドラマも交えながらわかりやすく解説していきます。

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壬午軍乱とは?読み方と3行まとめ

壬午軍乱とは?3行でわかる

① 1882(明治15)年に朝鮮で起きた軍事クーデター・反乱事件。読み方は「壬午軍乱じんごぐんらん」で、別名「壬午事変(じんごじへん)」とも呼ばれます。
② 給料に不満を持つ旧式軍の兵士が閔妃びんぴ政権と日本公使館を襲撃し、一時大院君だいいんくんが政権を握りました。
③ 清国が出兵して大院君を拉致・鎮圧し、日本とは済物浦条約を結んで日本の朝鮮駐兵権が認められました。

あらためて整理すると、壬午軍乱とは、1882年に朝鮮の首都・漢城かんじょう(現在のソウル)で起きた軍人たちの反乱事件です。「壬午」はこの年の干支えと(みずのえうま)からつけられた名前です。

読み方は「じんごぐんらん」が正しく、「しんごぐんらん」と読まれることもありますが、テストでは「じんごぐんらん」と覚えておけば安心です。

呼び名にはいくつかバリエーションがあります。「壬午事変」「壬午の変」「壬午事件」などです。すべて同じ事件を指しているので、別々のものと勘違いしないようにしましょう。

そして、この事件のカギを握るのが3人の人物です。当時の朝鮮国王・高宗こうそう、その妃で実権を握った閔妃、そして高宗の実父で前の実力者だった大院君。この3人と、背後で動く日本・清国の関係を押さえることが、壬午軍乱を理解する近道になります。

ゆうき
ゆうき

「じんごぐんらん」って読むの?「しんご」だと思ってた…。そもそも「壬午」ってなんでこんな難しい字なの?

もぐたろう
もぐたろう

「壬午」は十干十二支(昔のカレンダー)の組み合わせで「じんご(みずのえうま)」って読むんだ。1882年がちょうど壬午の年だったから、この名前がついたんだよ。テストでは漢字で書けることが大事だから、セットで覚えちゃおう!

では、なぜこの軍人たちの反乱は起きてしまったのでしょうか。まずは事件の前提となった、当時の朝鮮が置かれていた状況から見ていきましょう。

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壬午軍乱が起こった背景

興宣大院君(こうせんだいいんくん)の肖像画
大院君(興宣大院君)の肖像/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

壬午軍乱の背景には、当時の朝鮮が「開国」をめぐって大きく揺れていた事情があります。少し時間をさかのぼって整理しましょう。

そもそも日本では、1873年に「武力で朝鮮を開国させよう」という征韓論が高まっていました。その流れの中で、1876年、朝鮮は日本との間に江華条約(日朝修好条規)を結び、長く続けてきた鎖国政策をやめて開国に踏み切ります。これは前年の江華島事件を口実に、日本が朝鮮へ開国を迫った結果でした。

雲揚号の兵士が永宗城を攻撃する様子を描いた浮世絵
月岡芳年「雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図」/1875年の江華島事件の場面。この事件を口実に日本は朝鮮へ開国を迫り、翌1876年の江華条約締結につながりました(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

開国後の朝鮮では、国王・高宗の妃である閔妃と、その一族「閔氏びんし」が政治の実権を握っていました。閔氏政権は日本に近づき、近代化を進めようとします。

その近代化の一つが、軍制改革でした。閔氏政権は日本の協力を得て、日本式の訓練を受ける新しい軍隊「別技軍べつぎぐん」をつくります。日本人将校が直接、近代的な教練を行う部隊です。

📌 別技軍(べつぎぐん)ってなに?:1881年につくられた朝鮮初の近代的な軍隊。日本人将校・堀本礼造らが教官となり、最新の銃や西洋式の訓練を取り入れた「エリート部隊」です。「別技」は「特別な技」という意味で、それまでの旧式軍とは別格の存在でした。

一方で、閔氏政権より前に朝鮮の実権を握っていたのが、高宗の実の父である大院君でした。大院君は外国を強く嫌い、開国に反対する攘夷じょうい(外国を打ち払う)政策をとった人物です。

しかし、高宗が成長して親政を始めると、閔妃らによって大院君は政治の表舞台から追われていました。つまり開国直前の朝鮮では、「閔氏(親日・開化)」と「大院君(攘夷・反開化)」が対立していたのです。

あゆみ
あゆみ

大院君って悪者なの?でも「外国に頼らず自分たちでやる」って、日本の幕末の攘夷派みたいで、なんだか応援したくなる…。

もぐたろう
もぐたろう

いいところに気づいたね!大院君は「鎖国・排外主義の頑固者」として習うことが多いけど、見方を変えれば「朝鮮を大国の支配から守ろうとした人」でもあるんだ。日本の尊王攘夷派にちょっと近い感覚だね。だから善悪だけで割り切れない人物なんだよ。

このように、開国による近代化を急ぐ閔氏政権の足元では、不満がじわじわとたまっていました。そして、その不満は意外なところから爆発します。次の章で、反乱の直接の引き金を見ていきましょう。

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壬午軍乱が起こった理由・原因

壬午軍乱が起きた直接の原因は、近代化政策によって割を食った「旧式軍の兵士たち」の怒りでした。原因は大きく2つに分けて整理できます。

■別技軍と旧軍の対立

1つ目の原因は、新しくつくられた別技軍と、昔ながらの旧式軍との間にできた大きな格差です。

✅ 別技軍(新式軍):優遇された

日本式の訓練を受ける別技軍は、政権の「目玉」だったため、給料も装備も手厚く扱われました。閔氏政権が力を入れていた近代化の象徴だったのです。

❌ 旧式軍:冷遇された

一方、昔から朝鮮を守ってきた旧式軍の兵士たちは、軍制改革で人員を減らされ、給料の支払いも後回しにされました。「自分たちは用済みなのか」という不満が広がっていったのです。

ゆうき
ゆうき

なんで軍人が反乱を起こすところまでいっちゃったの?給料が遅れたくらいで?

もぐたろう
もぐたろう

それがね、「給料が遅れた」だけじゃなかったんだ。やっと支払われた給料の中身がひどすぎて、兵士たちの怒りが爆発しちゃったんだよ。次でその中身を見てみよう!

■腐った米が給料として支給された

2つ目の原因が、反乱の直接の引き金になった「給料の米」の問題です。

当時、兵士の給料は俸給米ほうきゅうまい(給料として支払われる米)で支払われていました。ところが旧式軍の兵士たちには、この米が13か月ものあいだ支払われていなかったといわれます。

そしてようやく支払われたとき、米の中身はひどいものでした。腐った米や、砂・もみ殻が混ぜられた屑米だったのです。まともに食べられない米を給料として渡されたわけです。

長い間冷遇されてきた兵士たちにとって、これは最後の一押しでした。「俺たちをここまでバカにするのか」という怒りが頂点に達し、1882年7月、ついに武装蜂起へとつながっていきます。

当時、米の配給を管理していた宣恵庁せんけいちょうの担当役人は、粗悪な米の支給が判明したあとも「これが正式の支給品だ」と言い張ったとも伝わります。何か月もの我慢が限界を超えた兵士たちは、その夜のうちに仲間を呼び集め、翌朝には数百人が武器を手にして街へ繰り出していきました。

大院君
大院君

開国などせん!朝鮮は朝鮮のやり方で進むのだ。日本の言いなりになって、古くからの兵を腐った米で追い払う……そのようなやり方を、わしは断じて認めぬ!

軍制改革への不満を抱える兵士たちと、政権から追われた大院君。この2つの不満が結びついたとき、事件は一気に大きくなっていきます。次の章で、反乱がどう展開したのかを時系列で追ってみましょう。

壬午軍乱の経過

1882年7月、給料への不満を爆発させた旧式軍の兵士たちが、ついに武装蜂起しました。ここからの展開を、2つの場面に分けて見ていきます。

■反乱の勃発と日本公使館の襲撃

蜂起した兵士たちは、まず給料を管理していた役所を襲い、続いて閔氏一族の高官たちの屋敷を襲撃しました。閔氏政権への積もり積もった怒りが、一気に表に出たのです。

さらに兵士たちは、近代化と軍制改革の象徴である日本に矛先を向けます。日本式訓練を行っていた別技軍の教官・堀本礼造ほりもとれいぞうらを殺害し、日本公使館を包囲・襲撃しました。

このとき日本公使だった花房義質はなぶさよしもとは、公使館に火を放って脱出し、命からがら仁川じんせんから船で日本へ逃れました。外国の公使館が襲われるという、大きな国際事件になったのです。

もぐたろう
もぐたろう

今でいうと「軍人たちのクーデター」に近い事件だね。給料への不満から始まったけど、近代化を進める閔氏政権と、それを後押しする日本の両方に怒りが向かったんだ。

壬午軍乱(1882年)の様子を描いた浮世絵
壬午軍乱(1882年)の様子を描いた浮世絵。旧式軍の兵士たちが反乱を起こし、日本公使館を焼き打ちにした。この事件で清の朝鮮への影響力が一気に強まった(Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

■閔妃の脱出と大院君の復権

反乱の本当の標的は、政権を握る閔妃でした。兵士たちは王宮にまで押し寄せ、閔妃を捜し回ります。

しかし閔妃は、宮女に変装するなどして王宮から脱出し、地方へ身を隠して難を逃れました。一時は行方がわからなくなり、「閔妃は死亡した」とのうわさまで流れたといわれます。

実際には、閔妃は武官の洪啓薫こうけいくんらに守られながら女官に変装して王宮を脱出したと伝わります。兵士たちが宮内を隅々まで捜し回るなか、彼女はひそかに地方へ逃れ、そこから清国への使者を送ることで援軍を要請していたのです。

混乱を収めるため、国王・高宗は実父である大院君に事態の収拾を任せました。こうして大院君は、閔氏政権が崩れた隙をついて、ふたたび政権の座に返り咲いたのです。

大院君はさっそく軍制改革を取り消し、別技軍を廃止するなど、閔氏政権の近代化路線を次々と元に戻していきました。反乱は、大院君の復権という形でいったん落ち着くかに見えました。

ところが、身を隠した閔妃は黙っていませんでした。彼女は清国に助けを求めるという、思い切った一手に出ます。これが、事件を一国の反乱から「日本と清の対立」へと一気に押し広げることになりました。次の章で、日本と清国の動きを見ていきましょう。

日本と清国の介入

壬午軍乱は、もはや朝鮮国内だけの問題ではなくなりました。閔妃の要請を受けた清国と、公使館を襲われた日本が、それぞれ軍を動かして朝鮮へ介入していきます。

■清国の出兵と大院君の拉致

身を隠していた閔妃は、ひそかに清国へ来援を求めていました。清国にとっても、これは「朝鮮への影響力を取り戻す絶好のチャンス」でした。

清国はすばやく大軍を朝鮮へ派遣します。このとき清国軍を率いた一人が、外交官の馬建忠ばけんちゅうでした。清国軍は漢城に入り、瞬く間に反乱を鎮圧していきます。

そして清国は、復権したばかりの大院君に対し、衝撃的な行動に出ます。馬建忠らは大院君を自軍の陣営へ招き入れ、そのまま捕らえて清国の天津へ連行(拉致)してしまったのです。

大院君が再び実権を握り、朝鮮が清国の言うことを聞かなくなることを恐れた清国の、計算ずくの行動でした。大院君はこのあと、約3年間も天津で軟禁生活を送ることになります。

大院君
大院君

頼みの綱だった清国に、まさかこのような形で裏切られるとは……。外国の力を借りればこうなる。やはり朝鮮は、自らの足で立たねばならぬのだ。

■日本の対応と花房義質の交渉

一方、公使館を襲われた日本も黙ってはいませんでした。日本は軍艦と陸軍を派遣し、いったん逃れた花房義質公使を、今度は軍を率いて朝鮮へ送り返します。

花房は朝鮮政府に対し、公使館襲撃の責任を厳しく追及しました。日本人が殺され、公使館が焼かれた以上、賠償と謝罪を求めるのは当然という立場です。

こうして日本と朝鮮の間で交渉が行われ、のちに済物浦条約さいもっぽじょうやくが結ばれることになります(条約の詳しい内容は次の章で解説します)。

ここで注目したいのは、清国が日本より一足先に大軍を送り込み、大院君まで連れ去ってしまったことです。日本にとっては、「朝鮮が清国に強く引き寄せられた」と感じさせる出来事でした。

山県有朋
山県有朋

清国はここまで朝鮮に深く踏み込んでくるか……。いずれ清国とは戦になるかもしれん。日本も軍備を急がねばならぬ。

日本と清国、二つの大国が軍を出して介入したことで、壬午軍乱は2つの重要な条約を生み出すことになります。そして、ここで生まれた日清の対立は、のちの日清戦争韓国併合へとつながっていきます。次の章では、まずその済物浦条約と中朝商民水陸貿易章程の内容を見ていきましょう。

壬午軍乱の結果:済物浦条約と中朝商民水陸貿易章程

壬午軍乱が鎮圧されたあと、朝鮮は日本・清国それぞれとの間で重要な条約を結ぶことになりました。ここで結ばれた2つの条約こそ、壬午軍乱の「結果」として最も大事なポイントです。

1つは日本との済物浦条約、もう1つは清国との中朝商民水陸貿易章程です。どちらも1882年に結ばれ、朝鮮が日清両国に大きく踏み込まれていく入口になりました。順番に見ていきましょう。

■済物浦条約(日朝間)

済物浦条約さいもっぽじょうやくは、1882年8月、壬午軍乱の後始末として日本と朝鮮の間で結ばれた条約です。「済物浦」は、現在の仁川じんせんの古い地名にあたります。

この条約のねらいは、日本人が殺され、公使館が焼かれたことへの責任を朝鮮に取らせることでした。日本にとっては、被害者として賠償を求めるという立場です。朝鮮には賠償金50万円(ほかに見舞金5万円)の支払いが課されました。

とくに重要なのが、日本公使館を守るための日本軍の駐留が認められた点です。これによって日本は、朝鮮の首都に堂々と軍隊を置く口実を手に入れました。テストでもこの「駐兵権」が一番の狙い目になります。

済物浦条約(1882年)の主な内容

① 朝鮮が日本に対して賠償金50万円を支払う(ほかに被害者・遺族への見舞金5万円)。
日本公使館を護衛するための日本軍の駐留を認める。
③ 朝鮮が日本へ謝罪の使節を派遣する。
※ 賠償金は当時としては多額で、朝鮮側がもっとも強く反発した条件でした。

つまり済物浦条約は、日本が朝鮮国内に軍を置くきっかけになった条約です。これが、のちに朝鮮で日本と清国の軍が「にらみ合う」状況を生み出していきます。

■中朝商民水陸貿易章程(清朝間)

もう一つの条約が、清国と朝鮮の間で1882年に結ばれた中朝商民水陸貿易章程ちゅうちょうしょうみんすいりくぼうえきしょうていです。名前は難しいですが、ポイントはたった一つに絞れます。

それは、この章程の前文で「朝鮮は清国の属国である」とはっきり書き込まれたことです。清国は壬午軍乱の鎮圧を口実に、朝鮮への宗主権そうしゅけん(親分・子分のような上下関係)を文章の形ではっきり示したのです。

📌 宗主権(そうしゅけん)ってなに?:ある国が、別の国の外交などに口を出せる「親分・子分」のような上下関係のこと。清国は古くから朝鮮を「属国」とみなしてきましたが、それを近代的な条約の文章として明文化したのが、この中朝商民水陸貿易章程でした。

これによって清国は、朝鮮での通商や政治への発言力を一気に強めました。日本が江華条約で開いた朝鮮に、今度は清国が「宗主国」として強く食い込んできたわけです。

ゆうき
ゆうき

済物浦条約と中朝商民水陸貿易章程、名前が似てないのに両方覚えるのキツい…。どっちがどっちか混ざっちゃう!

もぐたろう
もぐたろう

2つセットで「相手」で覚えるといいよ!済物浦条約=相手は日本(日本の駐兵権)、中朝商民水陸貿易章程=相手は清国(清の宗主権を明文化)。「壬午軍乱で日本と清が同時に朝鮮へ食い込んだ」と一言でまとめれば、論述でも使えるよ!

こうして壬午軍乱は、日本と清国の両方が朝鮮へ深く介入する結果を残しました。では、この事件はその後の朝鮮や東アジアにどんな影響を与えたのでしょうか。次の章で見ていきましょう。

壬午軍乱のその後と影響

壬午軍乱は、ただの一回きりの反乱では終わりませんでした。この事件をきっかけに朝鮮の政界は大きく揺れ動き、やがて日本と清国の本格的な衝突へとつながっていきます。

■開化派の分裂:穏健派と急進派

壬午軍乱のあと、清国の影響力が一気に強まったことで、近代化を目指す「開化派」の人々の間に深い対立が生まれました。彼らは大きく2つの路線に分かれていきます。

① 穏健開化派(事大党):清国と協調しながら、ゆるやかに近代化を進める路線

一つは、清国との関係を大事にしながら少しずつ改革を進めようとする穏健開化派です。「大きな国(=清)に従う」という意味で、後に「事大党(じだいとう)」とも呼ばれました。

② 急進開化派(独立党):日本に倣い、清からの独立と一気の近代化を目指す路線

もう一つは、日本の明治維新を手本に、清国の支配から抜け出して一気に近代化を進めようとする急進開化派です。中心人物は金玉均きんぎょくきんで、清からの独立を掲げたことから「独立党」とも呼ばれました。

あゆみ
あゆみ

同じ「近代化したい」グループなのに、清につくか日本につくかで割れちゃったのね。それって、その後どうなったの?

もぐたろう
もぐたろう

この対立がエスカレートして、2年後の甲申事変につながるんだ。急進開化派が日本の力を借りてクーデターを起こす事件だよ。壬午軍乱は、その「前ふり」になった事件なんだね。

■日清関係の悪化と日清戦争への道

壬午軍乱で日本と清国が同時に朝鮮へ介入したことで、両国の対立は決定的になりました。朝鮮という一つの国をめぐって、日本と清がにらみ合う構図ができあがったのです。

この対立は、その後さらに激しくなっていきます。流れを追うと、壬午軍乱(1882年)→甲申事変(1884年)→天津条約(1885年)という形で、日清の緊張が積み重なっていきました。

天津条約では、日清両国がいったん朝鮮から軍を引きあげ、「今後どちらかが出兵するときは相手に知らせる」と約束しました。しかし、この約束はあくまで一時的なもので、対立の火種は消えませんでした。

そして1894年、朝鮮で起きた農民反乱(東学党の乱)をきっかけに、日清両国は再び朝鮮へ出兵し、ついに日清戦争へと突入していきます。壬午軍乱は、その10年以上前から続く「日清対立のはじまり」として、とても重要な事件だったのです。

🌏 現代とのつながり:壬午軍乱は、「小さな国が大国に挟まれて翻弄される」という構図をはっきり示した事件でした。朝鮮半島がその後、日本・清国・ロシアといった大国の力関係の中で揺れ動いていく出発点でもあります。大国に囲まれた地域がどう自立をめざすのか——その難しさは、現代の国際関係を考えるうえでも通じるテーマです。

テストに出るポイント

ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 壬午軍乱(1882年):読み方「じんごぐんらん」・別名「壬午事変」と漢字をセット暗記
  • 別技軍と旧軍の対立:反乱の直接原因(俸給米の腐敗・処遇格差)
  • 大院君の復権と清国の介入:清国が大院君を天津へ連行した経緯
  • 済物浦条約(1882年):日本の朝鮮駐兵権・賠償金(相手は日本)
  • 中朝商民水陸貿易章程(1882年):清国の朝鮮宗主権の明文化(相手は清国)
  • 壬午軍乱→甲申事変→天津条約→日清戦争→三国干渉:東アジア近代史の流れ

比較項目壬午軍乱(1882年)甲申事変(1884年)
起こした勢力給料に不満を持つ旧式軍の兵士急進開化派(金玉均ら・独立党)
頼った国大院君が復権/閔妃は清国に依存日本の援助を受けてクーデター
結果清国が鎮圧・大院君を天津へ連行清国軍の介入で3日で失敗(三日天下)
主な条約済物浦条約・中朝商民水陸貿易章程天津条約(1885年)

📌 暗記のコツ:壬午軍乱の結果は「日本と清が同時に朝鮮へ食い込んだ」と覚えるのが一番。済物浦条約(相手=日本)と中朝商民水陸貿易章程(相手=清国)を「相手」で区別すると混ざりません。「壬午で条約2つ、甲申事変で天津条約1つ」と数で整理すると、論述でも使いやすいです。

ゆうき
ゆうき

結局、テストで一番ねらわれるのってどこなの?

もぐたろう
もぐたろう

「済物浦条約で日本の駐兵権が認められた」という結果は特によく出るよ!それと、原因としての「別技軍と旧軍の対立」もセット。この2つを押さえれば、壬午軍乱の問題はかなり対応できるよ!

壬午軍乱の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

壬午軍乱をきっかけに朝鮮近代史をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!岩波新書の定番で、壬午軍乱・甲申事変から日韓関係の起点まで、この1冊でしっかり理解できるよ。

①朝鮮近代史をまるごと理解したいなら|大院君から日韓併合まで一気に読める岩波新書

近代朝鮮と日本

趙景達 著|岩波書店

よくある質問(FAQ)

「じんごぐんらん」と読みます。「壬午(じんご・みずのえうま)」は十干十二支の組み合わせで、1882年の干支に当たります。「しんごぐんらん」と読まれることもありますが、正式には「じんごぐんらん」です。別名「壬午事変(じんごじへん)」とも呼ばれます。

主な原因は2つです。①日本式の近代軍「別技軍」が優遇される一方、旧式軍の兵士が差別的に扱われていたこと。②旧式軍兵士への俸給米(給料の米)が長期間支払われず、ようやく支払われた際も腐敗した屑米だったことです。この不満が爆発し、1882年7月に反乱が起きました。

壬午軍乱(1882年)は旧式軍の兵士による反乱で、大院君が一時復権し、清国が鎮圧しました。甲申事変(1884年)は急進開化派(金玉均ら)が日本の援助を受けて起こしたクーデターで、清国軍の介入により3日で失敗しました。2年違いの別事件ですが、「壬午軍乱で清国の影響力が増し、独立を目指す急進派が焦った」という流れでつながっています。

済物浦条約(さいもっぽじょうやく)は、1882年8月に壬午軍乱の後始末として朝鮮と日本が結んだ条約です。主な内容は、①朝鮮から日本への賠償金支払い、②日本公使館を護衛するための日本軍の朝鮮駐留を認めることなどです。この条約で日本は、朝鮮に軍隊を常駐させる権利を得ました。

閔妃の要請で朝鮮へ出兵した清国側の馬建忠(ばけんちゅう)らが、復権したばかりの大院君を陣営へ呼び出し、そのまま捕らえて天津へ連行しました。大院君が再び権力を握って清国の影響力が及ばなくなることを恐れた、清国の計算ずくの行動です。大院君はこのあと約3年間、天津で軟禁生活を送りました。

壬午軍乱で清国が朝鮮への宗主権を強め、日本も駐兵権を得たことで、朝鮮をめぐる日清の対立が深まりました。その後、甲申事変(1884年)→天津条約(1885年)→日清戦争(1894年)という流れで緊張が高まっていきます。壬午軍乱は「日清戦争の遠因」として、とても重要な事件です。

まとめ

壬午軍乱は、1882年に朝鮮で起きた旧式軍兵士による反乱事件でした。別技軍との格差や俸給米の腐敗をきっかけに反乱が起こり、一時は大院君が復権します。

しかし閔妃が清国に助けを求めたことで、清国と日本がそろって朝鮮へ介入。済物浦条約と中朝商民水陸貿易章程が結ばれ、日本と清が同時に朝鮮へ深く食い込む結果となりました。この日清対立が、やがて甲申事変や日清戦争へとつながっていきます。

壬午軍乱・関連年表
  • 1876年
    江華条約(日朝修好条規)/朝鮮が開国
  • 1882年7月
    壬午軍乱(壬午事変)が発生・大院君が復権
  • 1882年8月
    清国が出兵・大院君を天津へ連行
  • 1882年8月
    済物浦条約を締結(日本の朝鮮駐兵権)
  • 1882年
    中朝商民水陸貿易章程(清国の宗主権を明文化)
  • 1884年
    甲申事変(急進開化派のクーデター)
  • 1885年
    天津条約(日清の朝鮮出兵を相互に取り決め)
  • 1894年
    日清戦争が勃発

もぐたろう
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以上、壬午軍乱のまとめでした!大院君・閔妃・高宗と、日本・清の三つ巴の関係、ぜひ整理して覚えてみてね。下の記事では、続いて起きた甲申事変や、その先の日清戦争もくわしく解説しているよ。あわせて読むと、近代東アジア史の流れがぐっとつかめるはず!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

Wikipedia日本語版「壬午軍乱」「済物浦条約」「中朝商民水陸貿易章程」(2026年6月確認)
コトバンク「壬午軍乱」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
Historist(山川出版社)「壬午事変」「済物浦条約」「大院君」(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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