今回は、1941年に結ばれた日ソ中立条約について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
日ソ中立条約とは
日ソ中立条約とは、1941年4月に日本とソ連が「お互いに戦わないようにしような!」ってことを約束した条約です。
1941年4月当時、
ソ連は、ドイツと一触即発の状態で、
日本も日中戦争で余力を失っている状態でした。
そんな中、ソ連・日本はこんなことを考えます。
もしドイツが日本と連携して攻め込んできたら、ソ連は東西から挟み撃ちにされて、苦戦を強いられることになる・・・
今ソ連に攻め込まれたら、日中戦争で手一杯だから満州国や朝鮮を守り切ることができない・・・
こうしてお互いの利害が一致して結ばれたのが日ソ中立条約です。
日ソ中立条約が結ばれた時代背景
日ソ中立条約が結ばれた背景を理解するため、当時の日本とソ連の置かれていた状況を紹介しておきます。
日本の事情
日本は、1929年の世界恐慌で大不況に陥ると、その打開策の一つとして、領地拡大を目論むようになります。
イギリス・フランスが、広大な植民地を活かしたブロック経済で不況を乗り切ったのを見て、日本も支配領域を増やしたいと考えるようになったんだ。
こうして起きたのが、満州事変(1931年)や華北分離工作(1935年〜)でした。
満州事変などで中国北部を支配下に置いた日本は、次のターゲットをソ連に定めます。
1936年には、同じくソ連を敵対視しているドイツと日独防共協定を結んで、ソ連を東西から牽制しました。
・・・ところが、1930年代後半に入ると、ソ連侵略の計画は大きく頓挫することになります。
頓挫した理由は大きく2つあります。
理由その1:1937年に起きた盧溝橋事件が日中戦争に発展してしまった
日中戦争の勃発によって、日本はソ連に全力を注ぐことができなくなりました。
理由その2:ノモンハン事件(1939年)で日本軍がソ連軍にフルボッコにされたこと。
ノモンハン事件でソ連と戦った日本は、ソ連が思っていた以上に強いことを知り、「ソ連侵略の前に、そもそもソ連に勝てないのでは?」という議論が浮上し、政府内でもソ連侵略(北進論)に賛成する人が減っていきました。
日中戦争に目を転じると、日本は中国に対して苦戦を強いられていました。
なぜかというと、中国が東南アジアなどから軍事物資の後方支援を受けていたからです。(この軍事物資の輸送ルートのことを歴史用語で援蒋ルートと言います。)
この援蒋ルートの封鎖するため、日本の侵略計画は次第にソ連から東南アジア(イギリス・フランスなどの植民地)へと変更されることになりました。
言い換えると、日本は侵略方針を北進論から南進論に変更したってことだね。
東南アジアにターゲットを変更すると、逆にソ連との争い避けるため、日本はソ連との外交交渉を模索するようになります。
その外交交渉の結果結ばれたのが、日ソ中立条約でした。
ソ連の事情
ソ連は、もともと日本とドイツに対して強い警戒心を持っていました。
※1936年に日本とドイツが、ソ連対策で日独防共協定を結んだこともソ連を強く刺激しました。
・・・ところが1939年8月、ソ連はそのドイツと独ソ不可侵条約を結びます。
ソ連はドイツと密約して、ソ連とドイツの間にある国々(ポーランド・バルト三国)へ侵攻し、ドイツとソ連で領地を分け合おうと計画したのです。
※バルト三国:エストニア・ラトビア・リトアニアのこと(ドイツとフィンランドに南北に挟まれたあたりです)
1939年9月、ドイツがポーランド侵攻を開始。これに呼応してソ連もポーランド・バルト三国へ攻め込み、領地をドイツと分け合うことに成功しました。
・・・ところが、ドイツとソ連は東欧の支配領域をめぐって再び対立するようになり、1940年に入るとドイツはソ連との戦争を計画するようになります。
ドイツからの不穏な空気を感じたソ連は、再びドイツを警戒するようになります。この時、ソ連が一番懸念していたのが、「ドイツと日本がソ連を挟撃してくるのでは?」という可能性でした。
日本とドイツは、1940年9月に日独伊三国同盟を結んでいたから、ドイツと日本が共闘する可能性は十分にあったんだ。
そこで、ソ連はドイツ対策に専念するため、日本が攻め込んでこないよう外交交渉を検討するようになりました。
日ソ中立条約の交渉経過
日ソ中立条約にむけて、積極的に動いたのは日本でした。
交渉の主役となるのは、当時(1940年)外務大臣だった松岡洋右という人物。
松岡は、ドイツに仲介役になってもらえば、ソ連との交渉はスムーズに進むはずだ!と考えました。
ドイツは、ソ連と独ソ不可侵条約、日本とも日独伊三国同盟を結んでいたから、パイプ役にうってつけだと考えたんだね。
・・・しかし、先ほど話したように、ドイツは密かにソ連侵攻計画(バルバロッサ作戦)を立案しており、仲介役などできるわけがありません。
1940年に入ってソ連とドイツの関係が冷え切っていることを知った松岡は焦ります。
ヤバい、このままだとソ連と交渉することすらできない・・・!
松岡はソ連とドイツの関係を自分の目で確認するため、1941年3月、日独伊三国同盟の同盟強化とソ連との交渉を目的にヨーロッパへと向かいました。
ドイツに仲介役を頼んだところ、ヒトラーはこれを拒否。仲介を拒否された松岡は、次はソ連に向かい、ソ連と直接交渉に臨むことにしました。
1941年4月12日、松岡とソ連外務大臣のモロトフとの間で、交渉が開始。
しかし、モロトフは「ソ連と戦いたくないのなら、日本が持つ北樺太の権益(油田開発権)をソ連に返せ!」と交換条件を持ち出してきて、交渉は決裂に終わりました。
※北樺太の話は、日ソ基本条約で詳しく解説しているので合わせて読んでみてください。
やはり、ドイツ抜きでの交渉は厳しかったか・・・
松岡が、成果を得られぬまま帰路に着こうとすると、12日の夜にスターリン(ソ連のトップ)から突如連絡があり、13日に改めて会談の場が設けられます。
するとスターリンは、難しい条件を付けずにあっさりと日本の提案を受けれ、突如として条約締結が決まりました。
日ソ中立条約の内容
こうして結ばれた日ソ中立条約ですが、内容は超ざっくりまとめるとこんな感じでした↓↓
3点目については、少し補足説明をしておきます。
有効期間5年ということは、日ソ中立条約の有効期間は1946年4月まで。そして、条約の有効期間は、期間満了の1年前までにソ連・日本のどちらかが「条約の更新はしないから!」と言わない限り、5年間自動更新されるルールとなりました。
日ソ中立条約が日本に与えた影響
日本、南進論を実行に移す
日本は、日ソ中立条約を結んだおかげで、安心して南方に兵力を集中することができるようになりました。
日本は南進論を実行前に、大国アメリカとの戦争を避けるため、アメリカとの外交交渉を開始しますが、1941年11月に交渉が決裂。
日本は1941年12月に、イギリス植民地のマレー半島、ハワイの真珠湾へ奇襲攻撃を仕掛け、東南アジアの支配権をめぐる太平洋戦争が勃発することになります。
【悲報】日本、ソ連に裏切られ領土を奪われる
日ソ中立条約が結ばれた2ヶ月後(1941年6月)、ドイツがソ連への侵攻を開始。いわゆる独ソ戦が始まりました。
ソ連は、ドイツと対立しているアメリカ・イギリスと連携し、ドイツに応戦。
序盤はドイツが優勢でしたが、戦争が長引くについれドイツが劣勢となり、1943年のレーニングラードの戦いでドイツに決定的な勝利を収め、ヨーロッパでは連合国(ソ連・イギリス・アメリカなど)が優勢となりました。
そして、ヨーロッパの戦いに終わりが見えてきた1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連はヤルタという場所で、今後の方針について会談を実施。(ヤルタ会談)
この会談でソ連たちは、「ドイツを倒した後の戦後処理の方法」と「ドイツが降伏してから3ヶ月後に、日本を倒すため、ソ連が太平洋戦争に参戦すること」を決めました。
あれ?日ソ中立条約で1946年まで、日本とソ連はお互いに攻撃しない約束したはずでは?
ソ連は、日本に勝ち目がないことを確信していて、日ソ中立条約を破って日本に攻め込み、樺太や千島列島などの日本に奪われていた領地を奪い返そうと考えたんだよ。
ドイツが1945年5月に降伏すると、その3ヶ月後の1945年8月9日、ソ連は案の定、日ソ中立条約を破って日本への侵攻を開始。(ソ連対日参戦)
日本が8月15日に降伏を宣言した後もソ連は侵攻をやめず、満州国・朝鮮・千島列島・樺太で次々と日本軍を蹴散らし、侵攻は9月5日まで続きました。
その後、千島列島と樺太はそのままソ連の領土となり、日本は領土の一部をソ連に奪われました。
終わってみれば、日本は、ソ連に日ソ中立条約を破られ、手痛い仕打ちを受ける結果となったのです。
コメント
役に立った。
地理の勉強に使った。