今回は、日中戦争の最中に日本を苦しめた『ABCD包囲網』について、わかりやすく丁寧に解説していくね
ABCD包囲網とは
ABCD包囲網とは、日中戦争の際に日本に対して行われたアメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済制裁のことを言います。
アメリカ(America)のA
イギリス(Britain)のB
中国(China)のC
オランダ(Dutch)のD
このABCDからの経済制裁がまるで日本を包囲しているかのようだったので、日本はこの経済制裁のことをABCD包囲網と呼びました。
アメリカ・イギリス・オランダは、それぞれ東南アジアに植民地を持っていました。
・アメリカ領フィリピン
・イギリス領ビルマ
・オランダ領東インド(今のインドネシア)
アメリカ・イギリス・オランダ本土と中国に加え、これらの植民地を合わせると、日本を包囲しているように見えるのでABCD包囲網というわけです。
ABCD包囲網が作られた時代背景
ABCD包囲網が作られた背景を理解するポイントは2点あります。それは・・・
・アメリカの経済制裁
・援蒋ルート
です。
それぞれわかるように解説していくね!
アメリカの経済制裁
ABCD包囲網の中心的存在だったのがアメリカです。
アメリカは1890年代に起きた中国分割以降、特定の国が中国を支配してしまうことを嫌い、「中国はどの国にも開かれた国であるべきだ!」と門戸解放・機会均等を唱えていました。
その中国に日本が戦争を仕掛けると、アメリカは中国が日本に支配されることを恐れ、1939年に日本に対して経済制裁を行うことを決定します。(日米通商航海条約の破棄)
アメリカは1940年から、本格的な経済制裁をスタートし、日本が過激な行動をするたびに経済制裁を強化していきました。
援蒋ルート
アメリカの経済制裁は、日本が援蒋ルートを封鎖しようと東南アジアに進出すると、より一層厳しくなりました。
1940年9月に日本が北部仏印へ進軍(北部仏印進駐)し、さらに日独伊三国同盟を結ぶと、アメリカの経済制裁は一層激しさを増し、8月には航空機用燃料、9月に鉄屑の日本への輸出を全面禁止としました。
当時、日本は軍事物資の多くをアメリカからの輸入に依存していたため、このままアメリカの経済制裁が続けば、戦争を継続することができなくなります。
そこで日本は、自力で石油などを資源を確保するため、資源が豊富にあるオランダ領東インドに注目します。
ABCD包囲網、完成
オランダは、1940年5月に第二次世界大戦でドイツに敗北して力を失っていました。
オランダに『ちゃんと金払うからインドネシアの石油資源をたくさん日本に売ってくれ!』って交渉すれば、向こうも国がボロボロでお金に困ってるだろうし、案外交渉に応じてくれるんじゃね?
・・・と考え、日本は1940年9月、オランダとの交渉を開始しました。
ところが、日本の予想に反してオランダの態度は強硬でした。オランダは、日本の要求を一部は飲んだものの、肝心の航空機用燃料については日本が希望する購入量を拒否しました。
結局、オランダと日本の交渉はうまくいかず、1941年6月に交渉は決裂してしまいます。
なぜ、ドイツに敗北して力を失ったはずのオランダが日本に逆らったのか。日本は、これをアメリカからの圧力だと考えました。(実際、オランダの背後にはアメリカの存在がありました。)
アメリカはオランダ・イギリスとタッグを組んで、徹底的に日本を兵糧攻めにする気だ。
もはや日本は、中国だけと戦っているのではない。実質的に中国にアメリカ・イギリス・オランダを加えた4国と戦っているようなものなのだ・・・!
外交による資源確保はアメリカの圧力で不可能と判断した日本は、次第に実力行使での資源確保を目論むようになります。
1941年7月末、日本は資源確保の一環として、フランス領インドシナの南部に軍を駐屯。(南部仏印進駐)
すると、これにブチギレたアメリカは、とうとう日本への石油輸出の全面禁止を発表。
この石油輸出全面禁止をきっかけに、日本国内では、日中戦争は単なる中国との戦争ではなく、中国にアメリカ・イギリス・オランダを加えたABCD包囲網を突破するための戦いである・・・と叫ばれるようになり、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦論が沸き起こるようになります。
ちなみに、ABCD包囲網っていうのは、日本が勝手に名付けた呼び名であって、アメリカ・イギリス・オランダ・中国が意図的に「包囲網を組もうぜ!」と日本を包囲したわけではありません。
日本「ABCD包囲網を突破するぞ!」→太平洋戦争→敗戦
アメリカの石油輸出全面禁止によって長期の戦争が不可能になると、日本はめちゃくちゃ焦ります。
ヤバい、このままだと長期戦になってしまった日中戦争に100%勝てない。
こうなったら、一か八かの短期決戦に打って出るしかない・・・!!
追い詰められた日本は1941年9月に、10月までにアメリカとの交渉がまとまらなければ、ABCD包囲網を破壊するため、アメリカ・イギリス・オランダに対して開戦することを決定。
※日本は、オランダと同時並行でABCD包囲網解除に向けてアメリカとも交渉をしていました。
・・・しかし、アメリカとの交渉がまとまることはありませんでした。日本は11月末まで交渉を粘りますが、アメリカがABCD包囲網の解除条件として無理難題を日本に要求したため、交渉は決裂。
12月1日、日本はアメリカ・イギリスに奇襲攻撃を仕掛けて一挙にしてABCD包囲網を破壊する作戦を決定。
作戦の決行日は12月8日と決まり、同日、日本はマレー半島(イギリス領)とハワイ(アメリカ領)への同時奇襲攻撃を開始します。こうして太平洋戦争が始まりました。
※ハワイへの奇襲攻撃は、真珠湾攻撃(パールハーバー)と呼ばれています。
日本はこの奇襲攻撃でイギリス・アメリカに大打撃を与えると、その勢いに乗じてオランダ領東インドを占領。
こうしてABCD包囲網の破壊、そして石油資源が豊富なインドネシアの占領にも成功し、さらには援蒋ルートの1つであるビルマルートの封鎖、フィリピン(アメリカ領)の制圧にまで成功しました。
大博打に勝った!!
ABCD包囲網も援蒋ルートも全て破壊した。あとは中国を蹂躙するだけ!!
・・・と日本は歓喜しましたが、実はこの大成功に大きな落とし穴がありました。
日本は、想定以上の快進撃により広大な占領地を手に入れたが故に、その防衛に多くの兵を割かなければならず、中国との戦争に全力を注ぐことができなくなってしまったのです。
日本は快勝を続けたものの、中国との戦いはこう着状態のままであり、「資源が枯渇する前に短期決戦でケリをつける!(または交渉に持ち込んで有利な条件で終戦する!)」という当初の作戦には失敗してしまったのです。
序盤は快進撃を続けた日本ですが、短期決戦に失敗すると、日本は資源不足によって次第にジリ貧となり、アメリカ・イギリスらの反撃によって攻め込まれ、状況を挽回できないまま、1945年に日本は降伏することになります。
日本は、瞬間風速的にABCD包囲網の破壊に成功したんだけど、結局、それだけで戦局を大きく変えることはできなくて、ジリ貧のまま敗戦してしまったってことだね・・・。
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