ノモンハン事件を簡単にわかりやすく解説するよ!【原因・勝敗を地図付で紹介】

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もぐたろう
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今回は、1939年5月に起きたノモンハン事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • ノモンハン事件ってどんな事件?
  • ノモンハン事件はなぜ起きたの?
  • ノモンハン事件の経過は?
  • ノモンハン事件は、ソ連や日本にどんな影響を与えたの?
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ノモンハン事件とは

ノモンハン事件とは、満州国とモンゴルの国境をめぐって、1939年5月に日本軍とソ連軍が戦った事件のことを言います。

満州国は、1932年に建国された日本の傀儡かいらい国家であり、

※傀儡:あやつり人形のこと

モンゴルは当時、ソ連と同じ社会主義国家で、バックにはソ連が付いていました。

その満州国とモンゴルが国境をめぐって争えば、当然、バックにいる日本とソ連が出てくるわけで、満州国VSモンゴルの争いは、実質的に日本VSソ連の争いになりました。

結論を先に言っておくと、ノモンハン事件は日本の敗北に終わりました。

もともと日本は、中国北部の支配権をめぐっていずれソ連と戦争になることを想定していました。

・・・ところが、ノモンハン事件によってソ連がメチャクチャ手強い相手であることがわかると、日本はソ連との戦争を避けることを決定。

日本は、『ソ連との戦争に備える』から『ソ連との戦争を避ける』へと外交戦略を大きく転換して、その代わりとして東南アジアを次の標的としました。

もぐたろう
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何が言いたいかというと、ノモンハン事件は日本の外交方針を大きく変えた重要な事件だから、教科書に載ってるんだよ!ってことです。

そんなノモンハン事件、いったいどんな事件だったのか、詳しく見ていくことにするね!

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ノモンハン事件が起きた時代背景

ノモンハン事件が起きた大きな要因になったのは、1932年に日本によって建国された満州国の存在でした。

満州国は、国境をソ連・モンゴルと陸続きで大きく接していたので、自然とソ連・モンゴルとの争いが増えるようになったわけです。

満州国ができる前の国境線(出典:https://ostellus.com/ 以下同じ)

満州国ができた後の国境線
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満州国ができる前は、日本とソ連・モンゴルの間に中国があったんだけど、満州国ができると日本は、ソ連・モンゴルと直接国境を接するようになったんだ。

国境付近での小競り合いは、年々増え続け、1937年には国境紛争の件数が100件を超え、争いは次第に激化していきます。

1938年には、ソ連と日本は張鼓峰という場所の国境をめぐって大規模な戦闘まで起こすようになりました。(張鼓峰事件ちょうほうこじけん

張鼓峰の場所

張鼓峰事件は、

日本軍約7,000

VS

ソ連軍約22、000

という大規模な戦いであり、両国にとっては日露戦争以来はじめての本格的な戦闘となりました。

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ソ連は最新の兵器を多く持っていたから、日本は張鼓峰事件によってソ連の強さを思い知らされることになったんだ。

こんな感じで、日本とソ連の紛争が頻繁に起こる中、その最大規模の紛争だったのがノモンハン事件でした。

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ノモンハン事件のきっかけ

満州国とモンゴルが揉めていたのが、下図の赤丸の地域でした。

国境付近にはハルハ河という川があって、

モンゴルが「国境線はハルハ河の東方20km先だから!」と主張するのに対して、

満州国は「は?国境線はハルハ河だろ。」と主張しており、国境をめぐって対立が続いていたのです。

下地図の赤い線がモンゴルが主張する国境線青い線が満州国が主張する国境線です。

実際のところ、モンゴルの主張の方が正しい主張でした。というのも、満州国ができる前のモンゴルと中国の国境が、ハルハ河の東20km先だったからです。

・・・が、満州国は支配地を少しでも増やすため、ハルハ河を国境線にすることを主張したのです。

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満州国のバックには関東軍がついていたから、「満州国の主張」=「関東軍の主張」と考えてもらってOKです。

※関東軍:中国北部の軍事を任されていた日本陸軍の組織の1つ。

1939年当時、日本は日中戦争の真っ最中で兵力を割けないため、小競り合いこそ続いていた者の、本格的にモンゴル(とその背後にいるソ連)と戦うつもりはありませんでした。

・・・ところが、満州国を支配していた関東軍は、政府の意向を無視して、ハルハ河の国境問題を解決しようと独自の軍事行動をするようになります。

1939年4月になると関東軍は、国境紛争について新しい方針を打ち出し「国境線をしっかり確定させるべきであり、もし紛争が起こったら武力によって勝利せよ」という伝達を出しました。

そして新しい方針が打ち出された翌月(1939年5月)、ハルハ河付近でさっそく満州国とモンゴルの小競り合いが起こりました。

この小競り合いが、ノモンハン事件にまで発展していくことになります。

「ノモンハン」とは?

ここまで、ノモンハン事件の『ノモンハン』の名が登場していなかったので、少し補足説明しておきます。

ノモンハンは「法の王」という意味で、チベット仏教の偉い人のことを意味していました。国境紛争をしていた地域には、ちょうどノモンハンの塚があったので、日本ではこの地域のことをノモンハン地方と呼んでいたのです。

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ノモンハン事件

ノモンハンの平原を進軍する日本軍

1939年5月11日、揉めていたノモンハン地方で満州国軍とモンゴル軍の戦闘が起こります。

関東軍は新方針に従って、ノモンハン地方のモンゴル軍を殲滅すべく援軍を派遣。張鼓峰事件に続き、国境紛争は大規模な戦闘に発展していきました。

当初の兵力は、

日本・満州国連合軍:約1,700

VS

ソ連・モンゴル連合軍:約2,300

兵力でソ連・モンゴル連合軍が有利なのに加え、ソ連の大砲・戦車は質・量ともに日本を上回っており、日本は陸上戦では敗北を喫しました。

・・・が、その後日本は戦闘機による空中戦で挽回。5月末、初戦は両者引き分けに終わりました。

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日本は主戦力を日中戦争に投じていたので、ノモンハン事件に参戦した兵の質は低く、与えられた武器も古いものであり、その差が、結果にもろに影響してしまったんだ。

6月上旬、両軍は束の間の休戦状態となり、体制の立て直しを図ります。

日本政府は、関東軍が勝手にソ連に戦闘を仕掛けたことに不快感を示し、事態を大きくしないよう関東軍に指示を出しますが、関東軍はこれを無視。

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満州事変の時と同じように、政府が意図せぬままに関東軍の暴走によって交戦が始まってしまったってことだよ。

6月18日、体制を立て直したソ連が反撃に転じます。ソ連の戦闘機部隊が国境を超えて、関東軍へ攻撃してきたのです。

7月〜8月にかけてノモンハン地方で激戦が交わされ、8月20日、ソ連が大きく動きます。

少しずつ集めていた兵力を一斉に投入し、日本に対して総攻撃を開始。日本・満州国軍の殲滅に乗り出したのです。

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ソ連は総力戦に向けて兵力を集めていることを日本に気付かれないように小規模な攻撃を続けていたため、日本は敵の兵力を見極めることができませんでした。

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ノモンハン事件の結果

敵の総攻撃を想定できなかった日本軍は、ソ連の圧倒的な物量を前に太刀打ちすることができません。

敗北が濃厚となり窮地に立たされた日本ですが、ソ連が総攻撃を仕掛けた3日後の8月23日、大事件が起こりました。

・・・8月23日、ソ連がドイツとの間に独ソ不可侵条約を結んだのです。

日本は、1936年にドイツとソ連対策で協力する日独防共協定を結んでいました。東西からソ連を牽制することで、ソ連を自由に動けないようにする作戦でした。

ところが、ソ連とドイツが協力関係を結んだことで、この作戦は破綻。西(ドイツ)を気にしなくてよくなったソ連が、東(日本)に対して兵力を集中させることが可能になりました。

さらに独ソ不可侵条約が結ばれた翌月(1939年9月)、ドイツがポーランド侵攻を開始。するとソ連も、ドイツと連携してポーランドへの侵攻を始めます。

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独ソ不可侵条約の時に、実はソ連とドイツは裏で「ポーランドに侵攻した後、その領土をソ連とドイツで分割する」っていう密約が交わされていました。

日本政府は、この目まぐるしい国際情勢の変化に対応することができませんでした。

ソ連とドイツの意図を見抜けなかった政府は、ノモンハン地方でのこれ以上の戦闘継続は危険と判断し、関東軍に対してノモンハンでの戦闘を中止するよう命令。

最終決戦を計画していた関東軍はしぶしぶこの命令に応じ、日本は戦闘を中止してソ連との停戦交渉に臨むことになりました。

一方のソ連も、ポーランド侵攻に専念するため、日本との停戦を望んだため、9月15日には停戦が成立します。

ノモンハン事件に動員された兵力は、

日本:約60,000に対して、ソ連:約70、000

戦死者は、

日本:約8,000に対して、ソ連:約10、000

戦いに負けた日本ですが、ソ連に与えた被害も大きく、ノモンハン事件は両者痛み分けに終わりました。

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ただ、ソ連の最新鋭戦車の強さを思い知らされた日本は、人的被害以上に大きな精神的ダメージを受けることになりました。

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ノモンハン事件の影響

ノモンハン事件による日本の敗北は、その後のアジアの歴史に大きな影響を与えました。

当時、日本には、今後の領土拡大方針として『北進論』『南進論』の2つの方針を持っていました。

北進論:アジア北部(中国北部・ソ連)への領土拡大を狙う方針

南進論:東南アジアへの領土拡大を狙う方針

1930年代の日本は北進論を採用しており、満州事変華北分離工作などで中国北部の支配を狙うようになりました。

・・・ところが、ノモンハン事件でソ連の強さを知った日本は、これ以上の北進論は困難だと考え、南進論へと舵を切ります。

この方針変更は、日本が戦うべき敵が変わったことを意味しています。

北進論の場合、領土拡大に邪魔となるのはソ連でしたが、南進論の場合、敵となるのは東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリスです。

南進論を採用したことにより、ノモンハン事件以降、ソ連との関係は回復し(1941年には日ソ中立条約が結ばれる。)、逆にアメリカ・イギリスとの関係が悪化。

1940年には、日本の南進(南部仏印進駐)にブチギレたアメリカが、日本への石油輸出を停止。

資源難に陥った日本は短期決戦で戦争を終わらせようと、1941年、ハワイにある真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、日本とアメリカとの戦争(太平洋戦争)に発展していくことになります。

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ノモンハン事件は確かに日本の敗北に終わったんだけど、ソ連への被害も大きくて、見方を変えれば最新兵器を相手に善戦したと見ることもできます。

もしそう考えて北進論の採用を継続して、ソ連との戦争を続けていれば、太平洋戦争は起こらず、第二次世界大戦の様子も大きく変わっていたかもしれません。

そんな意味で、ノモンハン事件は日本のみならず世界の歴史を大きく変えた可能性もある重要な一戦となったのです。

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教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. たかさん より:

    旧満州で今稼働している油田を見つけて、同時にオイルサンドから石油を取り出す技術を確立できたなら、東南アジアへ攻め込む必要はなく、ナチスドイツとも同盟を結ばなければ、英米との関係が悪化することもなかったでしょう。ノモンハンも正しく分析できていたら変わっていたかもしれません。今の日本はアメリカべったりで軍拡に走っていますが、本当に正しいのかよくよく考えるべきだと思います。東南アジアは基本親中派です。インドはちゃっかりロシアから石油を大量に買っています。そういうしたたかさが日本も必要です。