独ソ不可侵条約を簡単にわかりやすく解説するよ!【ポーランド侵攻そして第二次世界大戦へ】

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もぐたろう
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今回は、1939年にドイツとソ連の間に結ばれた独ソ不可侵条約についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 独ソ不可侵条約ってそもそもなに?
  • 独ソ不可侵条約はどんな内容だったの?
  • 独ソ不可侵条約はなぜ結ばれたの?
  • 独ソ不可侵条約は世界にどのような影響を与えたの?
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独ソ不可侵条約とは

独ソ不可侵条約とは、1939年8月にドイツとソ連の間で結ばれた「お互いに侵略行為をせずに仲良くしようぜ!」という内容の条約のことを言います。

当時、ヨーロッパでは、ヴェルサイユ体制で利益を享受していたフランス・イギリスと、不利益を被っていたドイツが対立を続けていました。

ヴェルサイユ体制とは?

第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約に基づいたヨーロッパの国際秩序のこと。

ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の勝者となったイギリス・フランスに有利な内容であり、敗者となったドイツには厳しい制約が課せられることなりました。

そして、膠着こうちゃくしていたドイツVSイギリス・フランスという対立構図を大きく揺るがす可能性を秘めていたのが強国のソ連の存在でした。

当時、ドイツ・イギリス・フランスのいずれの国も、共産主義を否定する立場をとっており、ソ連とは距離を置いていました。

もし、ソ連がドイツかイギリス&フランスのいずれかに加担することになれば、膠着こうちゃくしていたヨーロッパのパワーバランスが一気に崩れ、ヨーロッパの社会情勢は大きく変化します。

このような情勢の中、ソ連がドイツに加担することを決定付けたのが独ソ不可侵条約でした。

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独ソ不可侵条約が結ばれた時代背景

独ソ不可侵条約は、世界中に大きなショックを与えました。

というのも、それまでドイツとソ連は犬猿の仲だったので、この2国が条約を結ぶことは多くの国にとって想定外の出来事だったからです。

もぐたろう
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本題に入る前に、当時のソ連とドイツの関係をもう少し詳しく紹介しておくね。

ドイツでは1933年、ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)の党首だったヒトラーが首相に選ばれました。

当時のドイツは世界恐慌で苦境に立たされており、ヒトラーはドイツを立て直すため、ドイツ民族(ゲルマン人)の一致団結を訴えていました。

そして、ヒトラーが、ドイツ民族が団結する上で邪魔な存在の一つと考えたのが共産主義の思想でした。共産主義は、民族を資本階級(ブルジョワシー)労働階級(プロレタリアート)に分断してしまう思想だったため、ヒトラーの思想とは相容れない考え方だったのです。

そのため、ヒトラーは共産主義を掲げているソ連を痛烈に批判。ソ連もドイツを強く警戒するようになり、両者は次第に対立するようになります。

ヒトラーの思想

ヒトラーは、ドイツを繁栄させるためには、ドイツ民族が国のために自由を捨てて一致団結することが必要だと考えていました。

個人から自由や人権を奪って、国のために総力を挙げる政治思想のことをファシズム(国家主義)と言います。

そんな仲が悪いのに、なぜドイツとソ連は条約を結んだの?

もぐたろう
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条約が結ばれた背景を理解するため、ドイツの事情・ソ連の事情をもうちょっと詳しく見ていくことにするね。

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ドイツの事情

ドイツは、第一次世界大戦での敗戦によって、巨額の賠償金を背負うと同時にイギリス・フランスらとの植民地の争奪戦に敗れ、苦汁くじゅうを飲まされていました。

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1929年に起きた世界恐慌では、植民地を多く持つイギリス・フランスは、ブロック経済を展開して不況を乗り切りました。

ところが、植民地を持たないドイツはブロック経済を行うことができず、世界恐慌の影響をモロに受け、国内に多くの失業者が溢れかえっていました。

そこでヒトラーは、ドイツ国内で独裁体制を整えた後、強力なリーダーシップによって領地拡大を狙います。

ヒトラーは1938年3月にはオーストリアを手に入れ、

同年9月にはチェコスロバキアのズデーテン地方をゲットすることに成功します。

ナチス・ドイツ(黄色)による領地拡大前のヨーロッパ

オーストリア併合後(オーストリア(緑色)が消えてドイツの一部になっている)

ズデーテン地方を奪った後(チェコスロバキア(水色)の西側一部がドイツの領地になっている)

次にヒトラーが目標に定めたのがポーランドでした。

特にヒトラーが欲していたのは、下図の赤丸部分。

この赤丸の場所は、もともとドイツの領地でしたが、第一次世界大戦によるドイツの敗北によってポーランドの領地になった場所でした。赤丸の場所は、歴史用語で「ポーランド回廊」とも呼ばれています。

ドイツは、ポーランド回廊のせいで国土が2つに分断されてしまっていて、これを1つに戻すことがドイツの悲願でもありました。

1939年3月、ヒトラーはポーランドとの外交交渉によってポーランド回廊の返還を求めましたが、交渉は決裂。

外交交渉が失敗すると、ヒトラーはポーランドへの軍事侵攻を計画するようになります。

しかし、ポーランドの背後には、ドイツの勢力拡大を防ぎたいイギリス・フランスがついていたため、「ポーランドへ侵攻する」=「イギリス・フランスと戦争になる」ことを意味します。

ドイツはソ連と不仲だったので、もしポーランドへ侵攻して戦争が始まれば、最悪の場合、ドイツはソ連・フランス・イギリスという3つの強国を同時に相手にしなければなりません。

これはあまりに無謀な作戦です。

そこでヒトラーは、ポーランド侵攻に備えて少しでも敵を減らすため、ソ連との関係回復を目論むようになりました。

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ソ連の思惑

ソ連も、イギリス・フランスと同じくドイツの領土拡大を強く恐れていました。

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ヒトラーが領土侵略を狙ったポーランドやチェコスロバキアは、ドイツとソ連の中間に位置しています。

つまり、このままドイツの侵略行為が続けば、ドイツがソ連の国境に迫ってくるってことなので、ソ連がドイツを警戒するのはごく当然のことでした。

実はソ連には、ドイツの他にもう一国、警戒しなければならない国がありました。

・・・その国とは、日本です。

日本は1930年代に入ってから、ソ連と国境を接していた中国北部を侵略するようになりました。

日本は1931年には満州事変を起こし、その翌年(1932年)には日本が裏で支配する満州国まんしゅうこくの建国にも成功していました。

満州国は国境北部をソ連と接しており、日本とソ連は国境付近で小競り合いを起こすようになります。

ソ連と日本の関係

日本は、以下2つの理由からソ連のことを敵国とみなしていました。

理由1:長年、ソ連(昔はロシア帝国)が中国北部・朝鮮への侵略を狙っていること。

理由2:ソ連の掲げる共産主義を日本へ広げられると政治が不安定になること。

もぐたろう
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理由は違えど、日本もドイツと同じくソ連を敵視していたってことだね。

ちなみに、日本とドイツは1936年にソ連対策のために日独防共協定(※)という協定を結んでいるよ。

※1937年にはイタリアも加わって日独伊防共協定

日本とソ連の小競り合いは次第に激化し、1939年5月、ついに大きな武力衝突が起こりました。(ノモンハン事件

日本との争いが激化すると、ソ連はドイツ・日本の二方面に軍を割く必要に迫られますが、ソ連といえど強国のドイツ・日本を同時に相手にするのキツイところ。

そこでソ連は、二方面作戦を避けるため、ヨーロッパでの外交交渉を始めました。

1939年4月〜5月にかけて、ソ連はイギリス&フランスとドイツの双方を天秤にかけながら交渉を開始。最終的にソ連はドイツと協力することを選び、独ソ不可侵条約が結ばれました。

ドイツ
ドイツ

ポーランドへ侵攻したらイギリス・フランスとも戦争になるかもしれないから、ソ連とは戦わないようにしたい!

ソ連
ソ連

日本とドイツの両方に兵を割くのは厳しいから、どちらか一方とは戦わないようにしたい!

こうした両者の思惑をきっかけに結ばれたのが、独ソ不可侵条約だったのです。

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独ソ不可侵条約の内容

独ソ不可侵条約の内容は、ザックリとこんな感じの内容でした↓↓

独ソ不可侵条約のザックリとした内容
  • ドイツとソ連は互いに侵攻しない
  • 一方が第三国から攻撃された場合、他方はこの第三国を援助しない
  • ドイツとソ連が喧嘩をしたら、話し合いの場を設けて解決する

この条約の内容は要するに「積極的な助け合いはしないけど、ひとまず敵対するのはやめようぜ!」っていうもので、よくある一般的な条約内容でした。

・・・が、それだけに多くの国が、独ソ不可侵条約に対して不信感を持ちます。

イギリス
イギリス

水と油の関係だったドイツとソ連が、今さらそんなありきたりな条約だけを本当に結ぶだろうか?

条約の裏では、何かもっと重要な密約のようなものが交わされているのでは・・・?

この不信感はバッチリ的中していて、実は独ソ不可侵条約の裏で次のような密約が交わされていました。

ドイツとソ連の間で交わされた密約の一部
  • ドイツのポーランド侵攻の際は、ポーランド領土を両国で分割する。
  • ソ連がバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)やフィンランドを侵攻した際は、ドイツとソ連の国境はリトアニア北部の国境線とする。・・・など
もぐたろう
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ドイツもソ連も、隣国へ侵攻する気満々で、侵攻した時のお互いの取り分を決めたのがこの密約内容だったんだ。

こうやって事前に約束をしておけば、後で揉めることもなくスムーズに侵攻が進められますからね。

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独ソ不可侵条約が世界に与えた影響

ドイツによるポーランド侵攻→第二次世界大戦へ・・・・

後顧こうこの憂いを取り除いたヒトラーは、条約を結んだ翌月(1939年9月)、さっそくポーランド侵攻を開始。

するとポーランドを支援していたイギリス・フランスがドイツへ宣戦布告。こうして、第二次世界大戦が勃発することになります。

9月中旬には、ソ連もポーランド侵攻に参戦し、ポーランド領土はドイツ・ソ連でそれぞれ分割されてしまうことになりました。

一方のソ連も少し遅れて侵略行為をスタートし、1939年11月にはフィンランドへの侵攻を開始。(冬戦争

1940年6月頃には、バルト三国へ侵攻しこれを占領しました。

もぐたろう
もぐたろう

独ソ不可侵条約のおかげで、ドイツもソ連も安心して他国へ侵略できるようになったというわけだね。

ドイツに裏切られた日本

日本は1936年、ソ連に対抗するためドイツと日独防共協定(1937年から日独伊防共協定)を結んでいました。

・・・が、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだことで、この協定がパーになってしまいます。

独ソ不可侵条約が結ばれた1939年8月当時、日本では日独伊防共協定をさらに発展させ、ドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶことを考えていました。

もぐたろう
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日本は1939年5月に起きたノモンハン事件でソ連がかなり手強い相手だと認識していたから、防共協定を軍事同盟に発展させて、もしソ連と戦争になった際にはドイツ・イタリアと共闘できるようにしておきたかったんだ。

・・・ところが、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約の結んだことで日本の計画は全て白紙に。日本はドイツとの関係を見直す必要に迫られることになります。

当時首相だった平沼騏一郎ひらぬまきいちろうは、ドイツの思惑を見抜くことができずに「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と述べて、外交方針の行き詰まりを理由に内閣を総辞職してしまいました。

もぐたろう
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独ソ不可侵条約は、日本政府の政権運営にも大きな影響を与えていたんだね。

※ちなみに、この平沼騏一郎の発言は、日本がヨーロッパの情勢を正確に把握していなかったことを意味していて、当時の日本の外交戦略の甘さを象徴する発言として有名です。

独ソ戦へ・・・

もともと犬猿の仲だったドイツとソ連。協力関係はあくまで一時的なものであり、長くは続きませんでした。

1939年〜1940年にかけて、ドイツとソ連が密約に基づく侵略行為を終えると、双方にとって独ソ不可侵条約のメリットが薄れてきます。

メリットが薄れれば、もともと仲の悪かった両者が協力する必要性もなくなり、1941年にはドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連への攻撃を開始します。(独ソ戦

こうして独ソ不可侵条約は破棄され、第二次世界大戦は新しい局面を迎えることになりました。

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. 通りすがり より:

    パレスチナ問題について、調べていて、
    歴史背景を理解するために、検索したところ、まなれきドットコムさんにたどり着きました!
    第一次世界大戦、第二次世界大戦の流れ、すっごくわかりやすいです!
    今まで見た中で一番わかりやすいです!
    おかげで世界大戦を勉強する手間が省けました!!
    本当にありがとうございます!
    お礼が言いたく、コメントいたしました。
    ブログぜひ続けてください!