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ヤルタ会談・協定を簡単にわかりやすく解説するよ【内容・目的をバッチリ理解しよう!!】

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もぐたろう
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今回は、1945年2月にアメリカ・イギリス・ソ連のトップたちが集まったヤルタ会談について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • ヤルタ会談ってなに?
  • ヤルタ会談はなぜ開かれたの?
  • ヤルタ会談の内容は?
  • ヤルタ会談は世界にどんな影響を与えたの?
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ヤルタ会談とは

ヤルタ会談とは、第二次世界大戦中の1945年2月に、アメリカ・イギリス・ソ連の3国によって開かれた会談のこと。

メンバーは

アメリカ:ローズヴェルト

イギリス:チャーチル

ソ連:スターリン

・・・と、それぞれの国のトップが集まった形です。

ローズヴェルト
チャーチル
スターリン

ヤルタ会談でテーマになったのはザックリと、

『ドイツが敗北した後の対応』

『日本を無条件降伏に追い込む方法』

『日本が敗北した後の対応』の3つです。

連合国サイドの3大国がコミュニケーションを取り合うことで、敗戦処理も含めた今後の対応をスムーズに行うことがヤルタ会談の目的でした。

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ヤルタ会談当時の第二次世界大戦の戦況

ヤルタ会談の話に入る前に、当時(1945年2月)の戦況をおさらいしておきます。

1945年は、第二次世界大戦も終盤に差し掛かっていた時期でした。

戦争を有利に進めていたのは連合国サイド(アメリカ・イギリスなど)。

一方の枢軸国サイド(日本・ドイツ・イタリアなど)は、連合国にボコボコにやられており、敗北寸前の状態まで追い詰められていました。

イタリアは、1943年にすでに降伏。

ドイツは、1941年からソ連との戦争(独ソ戦)を開始し、序盤はどんどんソ連の領土へ侵攻していったものの、1943年2月にスターリングラードの戦いでソ連に大敗。この大敗以降、ドイツはソ連に対して防戦に転じることになります。

さらに1944年6月には、アメリカ・イギリス軍が、フランス北部のノルマンディーに上陸してドイツへの侵攻を開始。(ノルマンディー上陸作戦

ドイツは東西からの挟み撃ちを受けることとなり、窮地に立たされていました。

日本の状況もドイツに似ています。日本は1941年に真珠湾攻撃をきっかけに、アメリカとの戦争を開始して、序盤は連戦連勝で広大な支配地(大東亜共栄圏)をゲットしました。

・・・が、1942年6月のミッドウェー海戦、1943年2月にガダルカナル島の戦いで、アメリカに2度の大敗を喫し、この大敗以降、勢いは失速。

さらに、1944年7月にサイパン島をアメリカに奪われると、日本列島がサイパン島から発進するアメリカ爆撃機(B-29など)の射程圏内に入ってしまい、日本本土は度重なる空爆を受けることになり、日本もまた、窮地に立たされていました。

・・・なにが言いたいかというと、ヤルタ会談が開かれた1945年2月の戦況は、『連合国の勝利はほぼ確定しており、日本・ドイツは敗北寸前に追い込まれていた』ということです。

そんな戦況なので、ヤルタ会談のテーマも「日本・ドイツをいかに倒すか?」というよりも、「日本・ドイツを倒した後、連合国はどう動くべきか?」という点に重きが置かれたのです。

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ヤルタ会談の内容

ローズヴェルト、チャーチル、スターリンの三大巨頭による会談の結果、ザックリと次のような話がまとまり、ヤルタ協定が結ばれることになります。

ヤルタ会談で決まったこと(ヤルタ協定の内容)
  • 1.敗戦後のドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の四か国で統治する。
  • 2.ドイツ敗戦後のドイツとポーランドの国境
  • 3.ドイツが敗北した三ヶ月後に、ソ連は日本に対して開戦する。
  • 4.日本が敗北した後、ソ連は日本から南樺太みなみからふと千島列島ちしまれっとうをゲットする。 ・・・など

ソ連は当時、日本と日ソ中立条約を結んでいたから、日本に関する内容である3・4は公式には発表されない秘密協定となりました。

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ヤルタ会談が第二次世界大戦に与えた影響

ヤルタ会談が終わると、第二次世界大戦の戦況はヤルタ協定のシナリオ通りに進んでいきました。

1945年5月8日にドイツが無条件降伏すると、三ヶ月後の1945年8月8日、ソ連はヤルタ協定に従って日本に対して宣戦布告。

ソ連は満州国・朝鮮半島・南樺太・千島列島に向けて一気に進軍。

・・・そして1945年8月15日、日本が無条件降伏すると、ソ連はヤルタ協定に沿って日本から南樺太と千島列島を奪い取りました。

ドイツの戦後処理も、ヤルタ協定に沿って進められ、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国により統治されることになります。

もぐたろう
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戦後にソ連VSアメリカの冷戦が起こると、ドイツ統治をめぐってアメリカ・フランス・イギリスの3国とソ連が対立して、後にベルリンの壁(1961年〜)が築かれることになるよ。

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北方領土問題が勃発する

ヤルタ協定は、今もなお続いている北方領土問題の引き金にもなりました。

ソ連が千島列島を奪い取ったとき、1つ大きな問題が起こります。

それは、『千島列島とは具体的にどの島までが範囲なのか?』という問題です。

ソ連
ソ連

千島列島は、根室からカムチャッカ半島の間にある全ての島!

だから全ての島が俺のものだ!!

・・・とソ連が主張して、島全体を支配下に置いたのに対して、

一方の日本は・・・

日本
日本

いやいや!千島列島は、あくまで択捉島より北にある島のことだから!択捉島より南にある島は昔からの日本領土であって千島列島ではないから!!

と主張し、択捉島より南にある4島(択捉島えとろふとう国後島くなしりとう色丹島しこたんとう歯舞群島はぼまいぐんとう)をソ連が支配するのは不法占拠であると抗議したのです。

※択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島のことを、北方領土(または北方四島)と言います。

日本が、北方領土を日本の領土と主張したのは、

1855年(江戸時代)に交わされた日露和親条約で、『択捉島より南は日本領で、北はロシア領!』とロシアと約束をしていたからです。

敗北した日本は、過去に戦争で手に入れた支配地を失うことは受け入れました。

・・・しかし、昔からの日本固有の領土を奪われることは、到底受け入れることはできず、ソ連に抗議をしたのです。

日露和親条約で決められた国境線(出典:北方領土問題対策協会
もぐたろう
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日本は今でもロシアに対して北方領土を日本に返還するよう抗議や外交交渉を続けているよ。

・・・という感じで、ヤルタ協定の内容は、戦後のドイツ・日本に大きな影響を与えました。

特に日本にとってヤルタ協定は、ソ連が日本に攻め込む原因となり、北方領土問題の始まりになったという点で後世への影響が大きく、日本史・歴史総合の教科書では日本に関連した説明が多くなっています。

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