今回は、1884年に朝鮮で起こった甲申事変という事件についてわかりやすく解説していきます。
最初に甲申事変の概要を簡単にまとめておきます。
この記事では甲申事変について以下の点を中心にわかりやすく解説していきます。
甲申事変が起こった理由と時代背景
まず最初に甲申事変が起こるまでの流れを時系列で確認しておきます。
- 1882年①壬午軍乱(壬午事変)が起こる
朝鮮で米不足による暴動が起こる。清国の軍隊によって鎮圧。
以後、清国が朝鮮の支配を強め、日本の支配が弱まる。
- 1882年〜1883年金玉均、来日。日本の超発展(近代化)にビビる。
金玉均は朝鮮の政治家。「清国よりも日本と関係を深めて、朝鮮も近代化を進めるべき」という思想を持っていました。
来日すると日本の近代化に衝撃を受けます。同じ考えを持つ福沢諭吉と仲良くなり、朝鮮の近代化に向けて支援を得ることに成功する。
- 1884年6月清仏戦争始まる
清国とフランスがベトナムの支配権をめぐって戦争を開始。
そして、その隙を金玉均が狙う
金玉均清国が南方のベトナムに戦力を投入している今こそ、朝鮮が清国から独立するチャンスである・・・!!
- 1884年12月甲申事変←この記事はココ
金玉均、新政府の樹立を目指しクーデターを決行!
当時の朝鮮は、清国と日本から狙われる板挟み状態にあり、朝鮮の世論も大きく「日本派」と「清国派」に分かれていました。
日本と清国の朝鮮をめぐる争いに大きな変化をもたらしたのが壬午軍乱です。1882年、米不足により朝鮮で暴動が起こると、日本と清国は「暴動鎮圧」の名目で軍隊を派遣。
日清両国は、そのまま軍隊による朝鮮の実効支配を目指しましたが、勝者は清国でした。
壬午軍乱の後、清国の軍事的な圧力を受けた朝鮮政府は、清国とズブズブの関係になっていきます。
しかし、朝鮮の中には「朝鮮を清国に支配されてはいけない!清国にも日本にも支配されない独立国家を目指そう!」という思想を持つ人々もいまだに健在していました。
このような思想を持つ代表人物こそが、この記事の主役となる金玉均です。
金玉均はこう考えました。
朝鮮独立のためには朝鮮の近代化が必要
↓
近代化を急速に進める日本に接近して朝鮮の近代化を進める。
↓
そして、力をつけたら朝鮮は独立する
金玉均のような考え方を持つ人々の集団のこと「独立党」と呼びます。
仕事で頻繁に来日していた金玉均は、同じく「朝鮮は独立を目指すべき!」と考える福沢諭吉と親しくなり、親密な関係を築くことになります。
その金玉均が、朝鮮の独立を目指し、清国とベッタリな朝鮮政府をクーデターにより潰そうとしたのが、甲申事変となります。
金玉均のクーデター計画
金玉均がクーデターを起こすきっかけとなったのは、1884年に起こった清仏戦争(清国とフランスの戦争)でした。
戦争で清国の朝鮮への監視が手薄になっている今こそ、清国とベッタリな朝鮮政府を撃ち倒し、朝鮮独立に向けた新政府樹立の絶好のチャンスである・・・!
しかし、金玉均は朝鮮政府を滅ぼすための兵力を持っていません。そこで、金玉均が頼ったのが日本でした。
金玉均が朝鮮の日本公使館にクーデター計画を打ち明けると、日本はこれに協力する姿勢を示します。
当時、外務省のトップ(外務卿)だった井上馨にとってもこれは悪い話ではありませんでした。
このクーデターは日本にとってもチャンスである。
日本と関係を持つ独立党が政権を取れば、壬午軍乱で清国に奪われた朝鮮支配権を日本の手中に取り戻すことができるかもしれない。積極的に介入はしないが、できることは協力すべきだろうな。
ちなみに、金玉均の計画はこうです↓↓
- STEP1王宮で開催される政府高官らの宴会を狙う
- STEP2王宮に放火
- STEP3国王「高宗」がクーデターを口実に日本へ援軍要請する。
- STEP4慌てて逃げる高官たちを日本軍が討ち取る
- STEP5日本の軍事力を背景に金玉均が新政権を樹立する
甲申事変
1884年12月4日、金玉均は計画を実行に移します。
そしてクーデターは成功しました。日本軍は閔妃の高官を次々と討ち取り、高宗の名の下に新政権が誕生。そして、その護衛には日本公使館に駐在していた約150名ほどの兵士たちが担うことになりました。
・・・しかし成功は束の間、12月6日には清国の大軍が王宮に攻め込んできます。金玉均の「清国は清仏戦争で朝鮮に構う余裕なんてない」と言う目論見は完全に外れてしまったのです・・・。
1000を超える清国兵が王宮に攻め込み、王宮は清国に制圧。少数の日本兵では敵うわけもなく日本公使館に非難しますが、清国兵や暴徒化した朝鮮人に襲撃され陥落。日本人は容赦なく襲われ、甲申事変に関係ない民間人もこの時に多く殺されました。
そして、逃げ場を失った公使館の人々は日本へと緊急帰国することになります。一方のクーデターに失敗した独立党のメンバーは捕らえられた後、その多くが残酷な拷問を受け、凄惨な最期を迎えることになります。
金玉均は日本公使館の人々と共に日本へ亡命して助かりましたが、10年後の1894年、上海で暗殺されることになります。
・・・と、こんな感じで甲申事変は失敗に終わりました。
おそらく、失敗の決定的な原因は「清仏戦争=清国が朝鮮に攻め込んでこない」と安易に判断してしまったことにあったのだろうと思います。
甲申事変の影響
甲申事変によって元々仲の悪かった日本と清国はさらに悪化します。
しかし、幸い?にも「日本と清国が戦争に突入する」と言う事態にはなりませんでした。と言うのも、日本と清国は互いを嫌っていましたが戦争までは望まなかったからです。
と言うわけで、清国と日本の間で今後の朝鮮支配について話し合いが行われました。
話し合いは、日本側は伊藤博文、清国側は李鴻章との間で清国の天津にて行われ、1885年4月に天津条約が結ばれ、
「日本も清国も朝鮮に兵を常駐させない。兵を送る必要がある時は事前にお互いに通知を送り合うこと」
ということとなりました。
福沢諭吉「朝鮮はもうダメ。脱亜論書くわ」
日本国内では甲申事変についての情報統制が行われ、「日本がクーデターに加担していた」ということは隠されたまま「日本人が野蛮な朝鮮人に殺された!」という部分だけが新聞などのマスメディアで報じられました。
そのため、日本国民の多くは清国や朝鮮に対して敵対心を持つようになり、明治政府はそんな国民感情も利用して将来起こりうる戦争に向けて軍備拡大を進めることになります。(軍備拡大は国民に負担を強いるため、国民が敵対心を持ってくれた方が、負担に対する反対運動が少なくて済む)
おまけに、日本はクーデターに加担していたくせにいざクーデターが失敗すると朝鮮に対して「公使館を襲ったり日本人を殺した賠償と謝罪をしろ!」と朝鮮に強く要求します。
もちろん朝鮮は「勝手に手のひらを返しやがってふざけんなっ!」とこれを拒絶。そして、両者の間で話し合いが行われ、妥協案を盛り込んだ漢城条約が結ばれました。
一方、甲申事変以前から金玉均を裏から支援していた福沢諭吉は、甲申事変の後に独立党メンバーが残虐な拷問・処刑を受けて次々と亡くなっていくのを知り、深く失望したと言われています。
朝鮮は自らの手で近代化への道を閉ざしてしまったのか・・・。
私は、列強国(イギリス・ロシアなど)にアジアの国々が肩を並べるには、清国や朝鮮も近代化を進めて東アジアが一致団結する必要があると考えていたが甲申事変によってその可能性もなくなってしまった。
残念だが、こうなったら日本だけもアジアの文明から脱して、列強国の仲間入りを目指すべきだ。
こう考えた福沢諭吉は1885年に「脱亜論」を書き、その内容は新聞の社説として世に広まりました。脱亜論では、アジアの文明に縛られている清国や朝鮮を痛烈に批判し、「日本だけでも近代化を進め、清国や朝鮮と同じだと思われないようにしないといけない」と福沢諭吉の考えを述べています。
朝鮮はアジアの火薬庫へ・・・
天津条約によって日本と清国の朝鮮をめぐる争いは一旦落ち着くますが、同じ頃、北方のロシアが朝鮮半島を虎視眈々と狙い始めるようになります。
こうして、朝鮮は日本・清国・ロシアの勢力がぶつかる「アジアの火薬庫」となっていきます。そして、この火薬庫が爆発したのが1894年に起こる日清戦争と1904年に起こる日露戦争となるわけです。
甲申事変後の朝鮮半島には、日本の商人や企業が多く入り込み朝鮮の経済を荒らしました。壬午軍乱のきっかけにもなった日本人による米の買占めは続けられ、漁業でも日本の船が勝手に漁を始めるため、朝鮮の手元に残る魚が減少。
こうして外国資本に搾取されて貧困化していく朝鮮では「西洋の文明は悪。旧来の東洋文明こそ正義」という考える東学党という新興宗教集団が登場。1894年にこの東学党が反乱を起こし(東学党の乱または甲午農民戦争)が起こることになります。
コメント
写真の井上馨の「馨」はいいのですが、本文中の名前は「薫」となってます。
今日初めてこのサイトを見ました。大変わかりやすくてまた利用させてください。
金玉均らが暗殺されてしまって福沢諭吉が失望した理由がいまいちわからなかったです。
閔妃らも清国に依存していたとはいえ、近代化を進めようとする意志はあったのではないでしょうか。