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面白いほどわかる甲申事変!簡単にわかりやすく徹底解説!【金玉均and日本による閔妃政権へのクーデターです】

この記事は約8分で読めます。

今回は、1884年に朝鮮で起こった甲申事変こうしんじへんという事件についてわかりやすく解説していきます。

先に甲申事変の概要を簡単にまとめておきます。

甲申事変とは・・・

1882年に起こった壬午軍乱によって、朝鮮政権(閔妃びんひによる政権)は清国への依存を強めた。

これに対し、日本と結んで朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均きんぎょくきんらの親日改革派(独立党)は、1884年の清仏戦争しんふつせんそうを好機と判断し、日本公使館の援助を得てクーデターを起こしたが、清国軍の来援で失敗した。(甲申事変)

この記事では甲申事変について以下の点を中心にわかりやすく解説していきます。

  • 甲申事変が起こった理由や時代背景は?
  • 甲申事変の経過は?
  • 甲申事変の後、日本はどうなったの?
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甲申事変が起こった理由と時代背景

まず最初に甲申事変が起こるまでの流れを時系列でまとめておきます。

甲申事変が起こるまで

朝鮮は、朝鮮の支配を狙っている清国と日本の間で板挟みとなり、世論も「日本派」と「清国派」に分かれていました。

1882年に米不足から朝鮮で暴動(壬午軍乱)が起こると、日本と清国は「暴動鎮圧」の名目で軍隊を派遣。日清両国は朝鮮の実効支配を目指し、それを勝ち取ったのは清国でした。

壬午軍乱の後、朝鮮政府は清国とベッタリな関係となりますが、朝鮮の中には「清国にも日本にも支配されない独立国家を目指そう!」という思想もあり、その代表格が金玉均でした。

金玉均はこう考えました。

金玉均
金玉均

朝鮮独立のためには朝鮮の近代化が必要

近代化を急速に進める日本に接近して朝鮮の近代化を進める。

そして、力をつけたら朝鮮は独立する

金玉均のような考え方を持つ人々の集団のこと「独立党」と呼びます。

仕事の関係で日本へ行く機会の多かった金玉均は、日本で同じく「朝鮮は独立を目指すべき!」と考えていた福沢諭吉と親しくなり、親密な関係を築くことになります。

そして1884年12月、清国がフランスと戦争をしている隙を狙って朝鮮でクーデターを起こし、清国に支配されない独立政府を樹立しようとしたのが甲申事変です。

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金玉均のクーデター計画

1884年6月に清国とフランスがベトナムをめぐって本格的な戦争に突入した頃から、金玉均は、「清国の朝鮮への監視が手薄になっている今こそ、朝鮮から清国を排除するチャンスなのでは?」と考えるようになります。

言い換えると「この機に、今の朝鮮政府をクーデターにより討ち倒し、清国に依存しない新政府を独立党の手で樹立する!」という壮大な野望を抱いた・・・ということです。

しかし、朝鮮政府を滅ぼすには兵力が必要です。そこで、金玉均が頼ったのが日本でした。

金玉均が朝鮮の日本公使館にクーデター計画を打ち明けると、日本はこれに協力する姿勢を示します。

当時、外務省のトップ(外務卿)だった井上薫いのうえかおるにとってもこれは悪い話ではありませんでした。

井上馨
井上馨

このクーデターは日本にとってもチャンスである。

日本と関係を持つ独立党が政権を取れば、壬午軍乱で清国に奪われた朝鮮支配権を日本の手中に取り戻すことができるかもしれない。積極的に介入はしないが、できることは協力すべきだろうな。

ちなみに、金玉均の計画はこうです↓↓

金玉均のクーデター計画
  • STEP1
    王宮で開かれた政府高官らの宴会を狙う
  • STEP2
    王宮に放火
  • STEP3
    国王「高宗こうそう」がクーデターを口実に日本へ援軍要請する。
  • STEP4
    慌てて逃げる高官たちを日本軍が討ち取る
  • STEP5
    日本の軍事力を背景に金玉均が新政権を樹立する
朝鮮の国王「高宗」ってどんな人?

突然登場した高宗について少しだけ紹介しておきます。

高宗は国王でしたが、実権を持つことができず、実際に権力を握っていたのはその妃である閔妃でした。

閔妃は清国に強く依存し、政治では不正や汚職が多発しており、高宗はこれを憂いていました。

そこに金玉均から「閔妃を追放して、国王(高宗)の下に新しい政権を樹立しようと思う。」と打ち明けられると、これに協力した・・・というわけです。

高宗

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甲申事変

1884年12月4日、金玉均は計画を実行に移します。

そしてクーデターは成功しました。日本軍は閔妃の高官を次々と討ち取り、高宗の名の下に新政権が誕生。そして、その護衛には日本公使館に駐在していた約150名ほどの兵士たちが担うことになりました。

・・・しかし成功は束の間、12月6日には清国の大軍が王宮に攻め込んできます。金玉均の「清国は清仏戦争で朝鮮に構う余裕なんてない」と言う目論見は完全に外れたわけです。

1000を超える清国兵が王宮に攻め込み、王宮は清国に制圧。少数の日本兵では敵うわけもなく日本公使館に非難しますが、清国兵や暴徒化した朝鮮人に襲撃され陥落。日本人は容赦なく襲われ、甲申事変に関係ない民間人もこの時に多く殺されました。

そして、逃げ場を失った公使館の人々は日本へと緊急帰国することになります。一方のクーデターに失敗した独立党のメンバーは捕らえられた後、その多くが残酷な拷問を受け、凄惨な最期を迎えることになります。

金玉均は日本公使館の人々と共に日本へ亡命して助かりましたが、10年後の1894年、上海で暗殺されることになります。

・・・と、こんな感じで甲申事変は失敗に終わりました。

おそらく、失敗の決定的な原因は「清仏戦争=清国が朝鮮に攻め込んでこない」と安易に判断してしまったことにあったのだろうと思います。

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甲申事変の影響

甲申事変によって元々仲の悪かった日本と清国はさらに悪化します。

しかし、幸い?にも「日本と清国が戦争に突入する」と言う事態にはなりませんでした。と言うのも、日本と清国は互いを嫌っていましたが戦争までは望まなかったからです。

清国の立場

フランスと戦争中であり、日本と戦争をする余裕がない

日本の立場

軍備拡大を進めている最中で、この時点では外国と戦う本格的な戦力がない。

と言うわけで、清国と日本の間で今後の朝鮮支配について話し合いが行われました。

話し合いは、日本側は伊藤博文いとうひろぶみ、清国側は李鴻章りこうしょうとの間で清国の天津にて行われ、1885年4月に天津条約が結ばれ、

日本も清国も朝鮮に兵を常駐させない。兵を送る必要がある時は事前にお互いに通知を送り合うこと」

ということとなりました。

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福沢諭吉「朝鮮はもうダメ。脱亜論書くわ」

日本国内では甲申事変については情報統制が行われ、「日本がクーデターに加担していた」ということは隠されたまま「日本人が野蛮な朝鮮人に殺された!」という部分だけが新聞などのマスメディアで報じられました。

そのため、日本国民の多くは清国や朝鮮に対して敵対心を持つようになり、明治政府はそんな国民感情も利用して将来起こりうる戦争に向けて軍備拡大を進めることになります。(軍備拡大は国民に負担を強いるため、国民が敵対心を持ってくれた方が、負担に対する反対運動が少なくて済む)

おまけに、日本はクーデターに加担していたくせにいざクーデターが失敗すると朝鮮に対して「公使館を襲ったり日本人を殺した賠償と謝罪をしろ!」と朝鮮に強く要求します。

もちろん朝鮮は「勝手に手のひらを返しやがってふざけんなっ!」とこれを拒絶。そして、両者の間で話し合いが行われ、妥協案を盛り込んだ漢城条約かんじょうじょうやくが結ばれました。

一方、甲申事変以前から金玉均を裏から支援していた福沢諭吉は、甲申事変の後に独立党メンバーが残虐な拷問・処刑を受けて次々と亡くなっていくのを知り、深く失望したと言われています。

福沢諭吉
福沢諭吉

朝鮮は自らの手で近代化への道を閉ざしてしまったのか・・・。

私は、列強国(イギリス・ロシアなど)にアジアの国々が肩を並べるには、清国や朝鮮も近代化を進めて東アジアが一致団結する必要があると考えていたが甲申事変によってその可能性もなくなってしまった。

残念だが、こうなったら日本だけもアジアの文明から脱して、列強国の仲間入りを目指すべきだ。

こう考えた福沢諭吉は1885年に脱亜論だつあろんを書き、その内容は新聞の社説として世に広まりました。脱亜論では、アジアの文明に縛られている清国や朝鮮を痛烈に批判し、「日本だけでも近代化を進め、清国や朝鮮と同じだと思われないようにしないといけない」と福沢諭吉の考えを述べています。

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朝鮮はアジアの火薬庫へ・・・

天津条約によって日本と清国の朝鮮をめぐる争いは一旦落ち着くますが、同じ頃、北方のロシアが朝鮮半島を虎視眈々と狙い始めるようになります。

こうして、朝鮮は日本・清国・ロシアの勢力がぶつかる「アジアの火薬庫」となっていきます。そして、この火薬庫が爆発したのが1894年に起こる日清戦争と1904年に起こる日露戦争となるわけです。

甲申事変後の朝鮮半島には、日本の商人や企業が多く入り込み朝鮮の経済を荒らしました。壬午軍乱のきっかけにもなった日本人による米の買占めは続けられ、漁業でも日本の船が勝手に漁を始めるため、朝鮮の手元に残る魚が減少。

こうして外国資本に搾取されて貧困化していく朝鮮では「西洋の文明は悪。旧来の東洋文明こそ正義」という考える東学党という新興宗教集団が登場。1894年にこの東学党が反乱を起こし(東学党の乱または甲午農民戦争)が起こることになります。



明治時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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