今回は、1885年に清国と日本の間で結ばれた天津条約についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
この記事では、天津条約について以下の点を中心に解説を進めます。
壬午軍乱→甲申事変→天津条約
最初に天津条約が結ばれるまでの時代の流れを確認しておきます。
- 1882年
朝鮮で起こった暴動鎮圧を理由に、清国軍と日本軍が朝鮮に出兵。(日清共に朝鮮の実効支配を狙っていた)
清国は壬午軍乱後も大量の兵を朝鮮に常駐させ、朝鮮を実効支配した。(逆に日本は朝鮮の実効支配に失敗した)
- 1884年
「日本と連携して朝鮮の近代化を進めるべき」と考えた金玉均が、清国とズブズブな関係だった朝鮮政府に対してクーデターを決行。そして、壬午軍乱のリベンジを果たすべく日本もそのクーデターに加担。
クーデターは清国軍によって防がれ、朝鮮の日本公使館は焼かれ多くの日本人が亡くなりました。
- 1885年1月漢城条約
甲申事変の事後処理をめぐって、日本と朝鮮の間で結ばれた条約
- 1885年4月天津条約←この記事はここ
甲申事変の事後処理を巡って、日本と清国の間で結ばれた条約
天津条約はなぜ結ばれたのか?
クーデター(甲申事変)には日本も加担し朝鮮駐在の日本兵が動員されましたが、清国軍にクーデターを防がれると、日本は態度を一変します。
日本「日本兵は朝鮮国王に呼ばれて王宮にいただけなのに、清国兵に襲われてしまった。しかも、日本公使館を襲撃され、無関係な多くの日本民間人も清国兵の手によって殺められてしまった。清国はこれに対してどう落とし前をつけるつもりだ?」
こう言って、自分に都合の悪いこと(日本がクーデターに加担していたこと)は一切言わず清国の行動を強く非難します。清国から見れば日本は甲申事変の首謀者の1人であり、決して日本の言い分を認めるわけにはいきません。
日本国内でも政府は、日本がクーデターに加担していたことを伏せて、「朝鮮で無関係な日本人が清国兵に殺された!」という点のみしか情報を流さない情報統制を行ったため、国内では反清感情が高まり、「清国なんかぶっ潰せ!」という世論が大きくなりました。
朝鮮では甲申事変の後も日本兵と清国兵が駐在しており、いつ日清の間で戦争が起こってもおかしくない一触即発の状態となりますが、日本も清国も互いに外国と戦争をしている場合ではなかったので、武力ではなく話し合いにより両者の妥協点を探ることになります。
当時、清国はフランスと戦争中(清仏戦争)であり、日本は軍事力強化中で外敵に本格投入できる軍隊が完成していませんでした。
そして、その妥協結果が反映されたものが天津条約になる・・・というわけです。
天津条約の交渉の経過
交渉には、日本からは伊藤博文が、清国からは李鴻章がそれぞれ臨むことになります。
【伊藤博文】
当時は宮内省のトップでありながら、明治政府の中ではその発言力から実質的な最高権力者として君臨していた。
【李鴻章】
清国外交・軍事で絶大な権限を持っていた実力者。
両国の人選から、日本も清国もこの交渉を非常に重要視していたことがわかります。
伊藤博文と李鴻章の言い分を超ザックリとまとめると、それぞれこんな感じでした。
清国兵のせいで無関係な日本人が多く殺された。
そして今も漢城(朝鮮の首都。今のソウル市)では日本兵と清国兵が残り緊張感が高まっている。
ここは日本も清国も一度、兵を撤退させようではないか。
清国が兵を送り込んだのは、そもそも朝鮮の反乱分子と日本がグルになってクーデターを起こしたせいだからな。だから、そっちの言い分はおかしい。
さらに言うと、無関係な民間日本人を殺したのは暴徒と化した朝鮮人だ。清国兵はそのようなことはしていない。
両者の意見が真っ向から対立していることがわかると思います。
特に大きな論点になったのは「日本も清国も一旦兵を引く」という点です。清国が壬午軍乱の後に大量の兵を朝鮮に駐在させていた一方、日本はわずかな兵しか駐在させていません。なので、「日清共に」とは実質的に「清国は朝鮮から撤退せよ」と言っているのと同じことでした。もちろん、李鴻章も伊藤博文の言うことが詭弁だとわかっているので、これを簡単には認めません。
この状態からどう交渉を進めていくか。その道筋を示したのが駐清公使だった榎本武揚と言う人物でした。
1885年当時、清国はベトナムの支配権をめぐってフランスと戦争真っ最中でした。清国の情勢に精通する榎本武揚は、このように考えたと言われています。
清国はフランスと戦争中(清仏戦争)であり、日本との戦争は望んでいないので、強硬な姿勢を示せばある程度のことなら譲歩してくれるはず。
清国は「両軍撤退する」だけでは受け入れないだろうが、「両軍は撤退するが、朝鮮で有事が起こった際には兵を送り込んで良い」と言う風に「条件さえ満たせば再び出兵することができる」という内容とすれば、条件を受け入れるはずだ。
榎本武揚の意見も取り入れた上で伊藤博文は李鴻章との交渉を続けます。実力者同士の交渉は高度な心理戦・頭脳戦であり、このやりとりを見ていた榎本武揚は「伊藤という人物はなかなか凄い人物だ」と感心した・・・とも言われています。
交渉は榎本武揚の予想どおりの展開となり、議論は「兵を撤退させるかどうか」から「撤退させた後、朝鮮に再び出兵するための条件はどうすべきか」という議論へと移っていきました。
天津条約の内容
そして、数回にわたる交渉の末に結ばれた天津条約は主に以下の3つの内容でまとまりました。
天津条約の内容は榎本武揚の予想どおり、清国が日本に対して大幅な譲歩をしたものとなりました。
日本は「清国が清仏戦争で手一杯なこと」「交渉が長引けば日本とフランスが接近するかもしれないという清国やイギリスの不安」を巧みに利用した交渉によって、清国から譲歩を引き出すことに成功したのでした。
伊藤博文が交渉に臨んでいる間、日本では山縣有朋によって福岡に兵が集められ、朝鮮の漢城や交渉中の天津に対して無言の圧力をかけていました。
こんな感じで、裏では榎本武揚や山縣有朋といった人物たちが天津条約締結に向けて伊藤博文を支えました。
甲申事変(クーデター)による朝鮮支配には失敗した日本ですが、それでも天津条約によって「朝鮮から清国を追い出す」という点には成功したのでした。
ロシア・清国・日本「朝鮮は誰にも渡さん!!」
天津条約によって日本と清国の戦争は回避されますが、結果的にこれはただの時間稼ぎに過ぎませんでした。清国が朝鮮から撤退すると、引き続き清国と日本の間で冷戦状態が続き、おまけに北方からはロシアが朝鮮を狙うようになります。
さらには清国・日本・ロシアに加えてイギリスなどの列強国からも干渉を受ける朝鮮の政治情勢は非常に不安定であり、1894年には甲午農民戦争と言われる暴動まで起こります。
そして、暴動が起こると清国と日本は天津条約に基づいて互いに通知を出し合い朝鮮に出兵。この出兵がそのまま清国と日本の戦争に発展し、これが日清戦争となりました。そして戦争の背後ではロシアVSイギリスの対立があり、朝鮮の情勢は混迷を極めていきます・・・。
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