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面白いほどわかる帝国議会! 貴族院と衆議院の仕組み、初期議会と選挙の様子まで完全に理解できます

この記事は約12分で読めます。
昔の議会の外観

今回は日本で最初に作られた議会「帝国議会ていこくぎかい」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んで分かること
  • そもそも帝国議会のしくみは?
  • なぜ貴族院と衆議院があるの?その違いは?
  • 議員になれる(選挙権がある)のはどんな人?
  • 開催された帝国議会の様子はどんなだったの?
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そもそも議会って何?

帝国議会について話を進める前に、「そもそも議会って何?」ってところを確認しておきます。

議会とは

選挙によって選出された議員によって構成され、法律の制定(立法)などを行う機関のこと。(wikipediaより)

今では「国会」と呼ばれていますが、当時は帝国議会と呼ばれていました。

議会には大きく一院制と二院制の2つの種類があります。

  • 一院制:議会が1つだけある制度
  • 二院制:議会が2つある制度

そして、帝国議会では後者の二院制が採用されました。つまり、日本には2つの議会が設けられていたんです。この2つの議会はそれぞれ、衆議院しゅうぎいん貴族院きぞくいんと呼ばれました。

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なぜ帝国議会は設けられたのか?

帝国議会は1889年に発布された大日本帝国憲法に定められ、その翌年の1890年に日本で初めての帝国議会が開かれました。

ところで、なぜ日本は議会を設置したのでしょうか。その理由は・・・

選挙によって民衆から選ばれた議員が政治に参加することで、民衆の国に対する不満や怒りを和らげるため(不満のガス抜きをするため)

でした。

帝国議会が設置されるまで、日本政府には民衆の意見(民意)を政治に反映されるための組織がありませんでした。

これでは重税などで苦しむ民衆の意見が政治に反映されません。政治に意見することができないため、国の政策に不満を持つ民衆は実力行使によって政府に訴えを起こします。

その最大規模の実力行使になったのが、1877年に起こった西南戦争でした。

しかし、西南戦争が明治政府に鎮圧されると、実力行使は政府に対しては意味がないことを民衆は理解し、訴え方にも変化が見られます。

西南戦争の結果を見て、実力行使で政府に訴えても無駄だということがわかった。

これからは政府に要求を訴えるだけじゃなく、「政府に正式に訴えるための場(議会)を創設しろ!」という根本的なところから訴えていく必要があるぞ!

民意を反映できる場(議会)の設置を訴える運動は、自由民権運動と呼ばれ、その中心人物になったのが板垣退助いたがきたいすけです。

議会開設を求めて自由民権運動を主導した板垣退助

そして、民衆の暴動や自由民権運動が続く中で、色々あって政府も議会の設置を考えるようになります。

伊藤博文
伊藤博文

民衆が言いたい放題意見を言うと政治が乱れる恐れがあるから、政府はこれまでずーっと議会の設置は避けてきた。

しかし、民衆の不満を強引に封じるのはもはや限界。多くの列強国が議会を設置しているわけだし、そろそろ日本にも議会を置くべきかもしれないな・・・。

こうして設置されたのが帝国議会です。自由民権運動による民衆VS日本政府の戦いで、民衆は議会の設置を勝ち取った形です。

帝国議会が設置されるまでの詳しい経過は、以下の自由民権運動を読んでみてくださいね。

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帝国議会の仕組み

こうして出来上がった帝国議会。次はその仕組みがどうなっているかを解説していきます。

帝国議会の仕組みは、国の組織を図にしてみるとわかりやすいです。

大日本帝国憲法における国の組織図

この記事では上図の組織を詳しく知る必要はありません。注目して欲しいのは矢印の向きだけです。

天皇を頂点に上から下へ向かう矢印(↓)が「国から民衆への様々な命令や行為」で、下から上に向かう矢印(↑)が「民衆から国へ意見を物申す行為」

ポイントになるのは(↑)の矢印。

帝国議会が設置される前は(↓)しかありませんでしたが、帝国議会設置後は、民衆から衆議院に対して初めて(↑)が登場しました。

民衆たちは国の政治に不満がある時は、選挙によって議員を衆議院に送り込んで、そこで国に対して意見を言うことができるようになったわけです。(この点が、帝国議会の画期的なところ!)

具体的にどんな意見を言えるようになったのかというと、「法律制定の承認」「国家予算の承認」です。

国の政策の多くは法律に基づき予算を確保した上で行われます。帝国議会はその両方に影響を持つことができたので、帝国議会は確かな力を持っているように見えます。

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衆議院と貴族院の仕組み

・・・、「見えます」なんて微妙な表現を使ったのは、帝国議会の仕組みはもう少し複雑だからです。

帝国議会設置の中心人物になったのは伊藤博文いとうひろぶみという男。伊藤博文は、民衆の意見を吸い上げる議会の必要性を感じながらも、吸い上げた意見を実際の政治に反映させることに強いためらいを持っていました。

伊藤博文
伊藤博文

暴動を起こし、言いたい放題言うだけの民衆に政治の大権を与えることはできない。それに日本は天皇がトップに立つ国である。その天皇の権力を議会が脅かすことはあってはならない。だから議会は必要だけど、議会に大きな力を持たせてはならない。

一方では、民衆の不満をガス抜きするためにも民衆の希望となるような議会を作らなければならない。

この相反する難問を解決するため、議会に民意反映のための力を与えながら、裏ではその力を弱めるためのトラップを仕掛け、見えないところで議会の力を抑えようとしたのだよ!

当時の伊藤博文のように、「議会が政府(内閣)の政策に大きな影響を与えてはならない。」として政府の意向を重視して、議会の意向を軽んじる考え方のことを超然主義ちょうぜんしゅぎと言います。

議会が設置された当初は、政府要人の多くは超然主義を採っていました。しかし、実際に議会が運営されるにつれ、議会を重んじる人も現れました。

伊藤博文も当時は超然主義でしたが、実際に議会が始まると少しずつ議会を重要視するようになります。

伊藤博文が考えたその1つの案が二院制です。

伊藤博文
伊藤博文

選挙によって議員が選ばれるのは衆議院だけにして、貴族院が衆議院の暴走にストップをかけれるようにしよう・・・。

大日本帝国憲法には以下のようなルールが設けられていました。貴族院で法律が否決されると、衆議院でどんなに頑張っても法律を制定することはできない仕組みです。(両院の可決が必要)

大日本帝国憲法第39条

両議院の一方において否決した法律案は、同会期中において再び提出することはできない。

貴族院の議員になれるのは、皇族や華族といった高い身分の者だけ。特定の身分の中の互選によって議員が決められました。

互選の意味

関係者の中からある役に就く人を互いに選挙して選び出すこと。

貴族院の議員は、華族内や皇族内で決められました。

華族とは?

貴族階級の人たちのこと。華族の身分は明治初期の1869年に定められました。

貴族院議員の範囲を明確にする準備として、1884年に華族令が制定されて華族の条件や華族内で序列などが細かく整備されました。

皇族や華族は政府との関係が深い人たちが多いため、貴族院には政府の意図を汲んで衆議院を牽制する役割が期待されたわけです。

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厳しすぎる選挙権と被選挙権

もう1つ、民意反映を大きく妨げたのは厳しすぎる選挙権と被選挙権です。

選挙権と被選挙権

【選挙権】

選挙で投票する権利

【被選挙権】

選挙に立候補する権利(選挙で選ばれる側になる権利)

選挙権と被選挙権には次のような条件が設けられていました。

選挙権は満25歳以上の男性で15円以上納税している男性に与えられる。

被選挙権は満30歳以上の男性で15円以上納税している男性に与えられる。

以下のサイトを参考にすると、おおむね「当時の1円」=「今の2万円」とされています。

参考URL明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?

これを参考にすると、当時の15円は今の30万円に相当ってことになります。

今の日本の税制だと、一般的なサラリーマンが30万の納税をするには大雑把に年収500万円以上が必要です。

つまり、当時の選挙権・被選挙権を今風に言い換えると・・・

選挙で投票できるのは満25歳以上で年収500万円以上の男性だけ

選挙に立候補できるのは満30歳以上で年収500万円以上の男性だけ

となります。ちなみに、薄給の私にはもちろん選挙権はありません ・・・(´;ω;`) 

当時、選挙権を持っている者は人口の約1%強に過ぎなかったとも言われています。

要するに衆議院の選挙制度は金持ちしか参加できない設計になっていたんです。

お金持ちは自分の財産を守るため保守的な人が多かったので、過激な思想が衆議院に入り込まない仕組みになっていたんです。

選挙権が制限されている点は、後に大きな争点となり大正時代になると選挙権が緩和されます。

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帝国議会の様子

1890年7月、日本で初めての選挙が行われます。

選挙の枠は300人。結果は以下のようになりました。

この円グラフで重要なのは立憲自由党りっけんじゆうとう立憲改進党りっけんかいしんとうの存在。

この2つの党は民衆寄りの政党で、立憲自由党130人+立憲改進党41人=171人います。

立憲自由党

自由民権運動の主導者である板垣退助が立ち上げた政党。生活に苦しむ多くの民衆から支持を得ていました。

立憲改進党

伊藤博文との政争(開拓使官有物払い下げ事件)に敗れて政府を去った大隈重信おおくましげのぶが立ち上げた政党。

反政府の立場をとり、立憲自由党と比べると裕福な中間層の支持が多い政党でした。

立憲自由党や立憲改進党などの民衆よりの政党のことを民党みんとうと言います。

以下のルールがあるため、議会が何か決定する際には過半数の賛成が必要となります。

大日本帝国憲法第47条

両議院の議事は、過半数をもって決する。可否同数のときは、議長の決するところによる。

衆議院議員の枠が300人なので、議会で意見を反映させるには150人の賛成が必要です。

立憲自由党+立憲改進党(171人)はこれをクリアしているため、衆議院は民衆の意見が通しやすい状況となりました。

第一回帝国議会

1890年、第一回帝国議会が開かれます。議会で大きな話題になったのは予算の使い道。

当時の内閣トップ(内閣総理大臣)だった山県有朋やまがたありともは、将来起こりうる朝鮮をめぐる清国との戦争に備え、軍事費に多くの予算を充てるべきと主張します。(これは後の日清戦争で現実のものとなります。)

そして、衆議院の過半数以上を占める民党は、重税などで苦しむ民衆たちに休む時間を与えるべきと「民力休養」を主張し、山縣有朋の軍事費UPに反対しました。

山県有朋
山県有朋

衆議院の過半数以上が政府(内閣)の予算案を拒否したら何もできねーじゃねーか。

これじゃあ、清国と戦争になった時に勝てなくなるぞ(汗。

議会で予算を通すのがこんな難しいと思わなかった・・・。もう俺、内閣総理大臣やってく自信ないわ。

最終的に政府側が立憲自由党員に対して離反工作を実施。一部の党員が政府側に寝返りました。

これにより、立憲自由党+立憲改進党で衆議院の過半数を下回り、政府の軍事費拡大の予算案が認められることになります。

しかし、議会運営の難しさを理解した山縣有朋が内閣総理大臣を辞職。後任には松方正義まつかたまさよしが就任します。

山県有朋の後継者として内閣総理大臣になった松方正義

第二回帝国議会

1891年11月、2回目の帝国議会が開かれます。

最初の帝国議会で政府の離反工作を受けた立憲自由党は党の名前を自由党に改め星亨ほしとおるという人物を中心に党の結束を強化します。

自由党を立て直した星亨

その結果、軍事費に関する政府予算案はことごとく否決。

離反工作もできず完全に詰んでしまった政府(松方内閣)は、大日本帝国憲法第7条のルールを使って衆議院を解散させてしまいます。

大日本帝国憲法第7条

天皇は、帝国議会を召集し、その開会、閉会、停会及び衆議院の解散を命じる。

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流血の選挙【第二回衆議院議員選挙】

2回目の選挙で立憲自由党と立憲改進党を当選させたくない政府は、過激な選挙干渉(妨害)を行います。

選挙妨害を主導したのは内務省トップ(内務大臣)の品川弥二郎しながわやじろう内務省は警視庁を管轄する組織だったので、警察を動員して各地の民党による選挙運動を妨害しました。

品川弥二郎
露骨な選挙干渉は、民衆のみならず政府内からも批判を受けました。

特に高知での選挙妨害は凄まじく、大暴動が起こり、選挙のために多くの血が流れました・・・。

各地で負傷者と死者を伴ったにも関わらず、選挙の結果はまたしても民党の優勢。政府は弾圧まがいの選挙妨害をしたにも関わらず、再び民党に敗北してしまったのです。

第三回帝国議会

流血の選挙の後の1892年5月、第三回の帝国議会が開かれます。

議会会場には品川弥二郎の選挙干渉によって負傷し、包帯を巻き松葉杖をつく者の姿も見られました。

政府の予算案はことごとく否決され、議会では露骨な選挙干渉を行った政府への責任追及が行われます。

「衆議院の解散」という必殺技を使っても民党に勝てなかった松方内閣は、政府内でも意見が割れた末に、内閣解散に追い込まれることになります。

第四回帝国議会

松方正義の後任として内閣総理大臣となったのは伊藤博文。伊藤博文の内閣総理大臣就任は二回目なので、これを「第二次伊藤内閣」と言います。

伊藤博文は帝国議会を創設した中心人物。おそらく、日本で最も帝国議会に精通していた人物です。伊藤博文には秘策がありました。

伊藤博文
伊藤博文

いくつかトラップを破られたか・・・。

しかし全然甘い。こんなこともあろうかと、大日本帝国憲法には帝国議会を切り抜ける最終手段がしっかりと用意されている。

大日本帝国憲法は伊達ではないのだよ・・・!

1892年11月に第4回目の帝国議会が開かれると、例の如く民党は政府の案をことごとく否決していきます。

そこで伊藤博文は天皇からの直接命令である詔勅を書面にした詔書しょうしょを利用します。証書には超訳するとこんな感じのことが書かれていました。

「私(明治天皇)も頑張って経費削減に努めるよ。そして浮いた資金は軍艦建造費に充ててもらうつもりだよ。だから、議会も政府に協力してほしいんだ」

天皇の命令は基本的に絶対です。こんな詔書を出されては、議会は無力。何もできません。

天皇からの直接命令(詔勅)というのはあくまで最終手段。この手段は、重要な局面でしばしば使われることになります。

こうして、第四回帝国議会では政府の軍事費拡大案が認められることになりました。

この後も議会と政府の対立が続きますが、1894年に日清戦争が起こると、議会と政府は日本の勝利に向けて協力するようになります。

さらに議会が設置されてからちょうど10年後の1900年、超然主義から議会重視に考え方を転換した伊藤博文は自ら立憲政友会りっけんせいゆうかいという政党を立ち上げ、議会に臨むことになります。

帝国議会の様子を追っていくとまるで生き物のようで、いろんな出来事を経験しながら少しずつ成長・変化していくのがわかると思います

「明治・大正時代の政治史ってわかりにくい・・・」と感じている人は、この変化が原因かもしれません。言葉の丸暗記ではなく、帝国議会の成長過程を我が子のように追っていくイメージが重要です。(自戒の意味も込めて)



明治時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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