

今回は、1871年に日本と清が結んだ日清修好条規について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
日清修好条規——。明治政府が清(中国)と結んだ日本初の対等条約として、教科書にも登場する重要な条約です。
しかし実は、この条約は日本側にとって「不満だらけ」のものでした。条約を調印してから2年間も批准を渋り、最大の目的だった朝鮮問題もほとんど解決しなかったのです。
「勝ち取った対等条約」というイメージとは裏腹に、日清修好条規はグダグダな幕開けだったのです——。
この記事では、日清修好条規の読み方・背景・内容・評価まで、わかりやすくまとめていきます。
日清修好条規とは?読み方・成立年を3行でわかる
①日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年(明治4年)に日本と清が締結した最初の条約。
②日本が欧米と結ばされた不平等条約とは異なり、相互対等な内容(両国に領事裁判権を相互付与)。
③しかし日本側の批准は2年遅れの1873年で、成果も限定的だった。
日清修好条規の読み方は「にっしんしゅうこうじょうき」です。1871年(明治4年)9月、中国の天津で調印されました。
日本側の代表は伊達宗城、清側の代表は李鴻章です。
この条約は、日本が外国と結んだ条約のなかで初めての「対等条約」とされています。
当時の日本は、アメリカやイギリスなどの欧米諸国とのあいだに日米修好通商条約をはじめとする不平等条約を結ばされていました。日清修好条規はそれとは違い、日本と清が互いに対等な立場で結んだ点が大きな特徴です。

ところで、なんで「条約」じゃなくて「条規」って言うの?

いい質問だね!「条約」も「条規」も、国と国の間で結ぶ約束事という点では同じなんだ。ただ、当時の日本や清では「条約」という言葉よりも「条規」のほうがよく使われていたんだよ。明治時代の日本は、まだ国際法の用語が定まっていなかったんだね。
「条規」と「条約」はどちらも国際的な取り決めを意味します。明治初期の日本では「条規」という呼び方が一般的で、のちに「条約」に統一されていきました。テストでは「日清修好条規」と「日朝修好条規」をセットで覚えておきましょう。
なぜ日清修好条規を結んだのか?背景・目的をわかりやすく
日清修好条規が結ばれた背景には、東アジアをめぐる国際情勢の大きな変化がありました。当時の日本と清が、なぜ条約を結ぶ必要があったのかを見ていきましょう。
■欧米列強の東アジア進出
19世紀後半、欧米列強は東アジアへの進出を活発化させていました。イギリスはアヘン戦争(1840年)やアロー戦争(1856年)で清を圧倒し、不平等条約を押しつけています。
日本もまた、1858年にアメリカと日米修好通商条約を結ばされ、領事裁判権の承認や関税自主権の喪失など、不利な内容を受け入れていました。
つまり、日本も清も欧米列強に押されている側だったのです。

欧米列強に対抗するには、近くにいる国同士で協力したほうがいい——そういう発想が、日清修好条規の出発点になったんだよ。
■朝鮮問題と日本の思惑
日清修好条規を結んだ日本の最大の目的は、実は朝鮮問題にありました。
明治維新を成し遂げた日本は、朝鮮(李氏朝鮮)に対して新政府の成立を知らせる国書を送ります。ところが、朝鮮はこれを拒否しました。

日本の国書に「皇」とか「勅」という文字があるぞ。これは日本の天皇を清の皇帝と同格に位置づけるものだ。我が国は清に従う立場——そんな無礼な国書は受け取れない!
朝鮮は長年、清の冊封体制のもとにあり、清の皇帝だけが「皇」を名乗れるという考えを持っていました。日本の国書に「皇」「勅」という文字が使われていたため、朝鮮はこれを受け入れなかったのです。
困った日本は、ある策を思いつきます。

そうだ!日本が清と対等な条約を結べば、日本の天皇と清の皇帝は同格ということになる。そうすれば朝鮮も反論できなくなるのでは?
こうして、朝鮮に対する外交上の切り札として、清との対等条約締結が目指されるようになりました。
目的①:外交ルートの確立——清との正式な外交関係を築く
目的②:朝鮮への牽制——清と対等であることを示し、朝鮮の国書拒否に対抗する
目的③:欧米向けの外交実績——国際社会における日本の信用を高める

つまり、朝鮮を狙っているのは日本だけじゃなかったんだよ。清とうまくやっておかないと、朝鮮問題で足を引っ張られる——そういう計算があったんだ!
交渉から調印まで——柳原前光と伊達宗城の奮闘
日清修好条規は、一朝一夕にまとまったわけではありません。事前交渉から調印まで、約1年にわたるやりとりがありました。その経緯を見ていきましょう。
■柳原前光の事前交渉(1870年)
1870年(明治3年)、明治政府は外務大丞の柳原前光を清に派遣しました。柳原の任務は、清との条約締結に向けた下準備です。
柳原は清の実力者・李鴻章と面会し、巧みな交渉を展開します。

ここだけの話ですが、実は日本は西洋列国を快く思っていません。清国も同じでしょう。ならば日本と清国、力を合わせて西洋の脅威に備えませんか?
柳原は「欧米列強に対抗するために日清が手を結ぶべきだ」という論法で、清側の警戒心を解こうとしました。これに対して李鴻章も前向きな反応を示します。

たしかに清国も西洋列国には手を焼いている。日本は隣国だから、味方になれば頼もしいが、敵に回すのも厄介だ……。わかった、条約締結に向けて動こう。
こうして清側も条約交渉に応じる姿勢を見せ、本格的な交渉へと進んでいきます。
■伊達宗城と李鴻章の駆け引き(1871年)
1871年(明治4年)、日本政府は大蔵卿・欽差全権大臣として伊達宗城を清に派遣しました。伊達宗城は旧宇和島藩主で、幕末には「四賢侯」の一人として活躍した人物です。
伊達宗城は、当初日本に有利な不平等条約を清に認めさせようとしました。欧米諸国が日本に押しつけたのと同じやり方を、今度は日本が清に対して使おうとしたのです。

こちらの条約案は、欧米諸国が用いた不平等条約の形式を参考にしたものだ。清国には日本に有利な条件で結んでもらいたい。
しかし、李鴻章はこれをあっさり拒否します。

……はっ? そんなの無理に決まっているだろう。こちらの案も見てもらおう。
清側は逆に、日清軍事同盟的な内容(他国から攻撃されたら互いに助け合う条項)を盛り込もうとしました。これに対して伊達宗城は猛反発します。

軍事同盟だと? そんなものを結んだら、清がどこかの国と戦争を始めた時に日本が巻き込まれてしまう。到底受け入れられない!
こうした駆け引きの末、軍事同盟条項は削除され、相互に対等な内容で条約がまとまりました。1871年9月13日、天津にて日清修好条規が調印されます。

日本側は不平等条約を押しつけようとしたし、清側は軍事同盟を入れようとした。お互いの思惑がぶつかり合って、結局どちらも妥協する形で「対等条約」に落ち着いたんだね。
日清修好条規の条文・内容——全18条のポイント
日清修好条規は全18条からなる条約です。ここでは、試験でも問われやすい重要な条文のポイントを整理していきます。
| 条文 | 内容 | ポイント |
|---|---|---|
| 第1条 | 両国の永遠の和好 | 日本と清が対等な立場で友好関係を結ぶことを宣言 |
| 第2条 | 相互不可侵 | 互いの領土を侵さないことを約束(軍事同盟条項は削除された) |
| 第8条 | 開港場の設定 | 互いに港を開き、貿易を行う |
| 第13条 | 領事裁判権の相互承認 | 互いの国で犯罪を犯した場合、本国の法律で裁く(相互対等) |
特に重要なのが第13条の領事裁判権です。日本が欧米諸国と結んだ不平等条約では、領事裁判権は欧米側にだけ認められていました。しかし日清修好条規では、日本と清の双方に領事裁判権が認められています。

欧米との不平等条約と何が違うの?

欧米の不平等条約では、領事裁判権は「欧米にだけ」認められていたんだ。でも日清修好条規では「お互いに」認め合った。これが「対等条約」と呼ばれるいちばんの理由だよ!
日米修好通商条約などの欧米不平等条約では、①領事裁判権は欧米側のみに認められ、②関税自主権は日本にはなく、③最恵国待遇は欧米側に一方的に付与されていました。一方、日清修好条規では領事裁判権は相互に認め合い、最恵国待遇条項は含まれていません。この点が「日本初の対等条約」と呼ばれる根拠です。
ただし、注意点があります。日清修好条規には最恵国待遇の条項が含まれていませんでした。最恵国待遇とは、今でいう「どこかの国にもっと良い条件で条約を結んだら、自動的にこちらにも同じ条件を適用してね」というルールです。
この最恵国待遇がなかったことが、後に日本国内で不満の種となります。
日清修好条規の評価と限界——なぜグダグダだったのか
日清修好条規は「日本初の対等条約」として歴史的な意義があります。しかし、当時の日本政府はこの条約に大きな不満を抱えていました。その理由を見ていきましょう。
問題①:日本側が2年間も批准を渋った
日清修好条規は1871年に調印されましたが、日本が正式に批准したのは1873年です。なんと2年間も批准が遅れました。
最大の理由は、最恵国待遇が含まれていなかったことです。当時の日本は、欧米との不平等条約を改正するための交渉を進めていました(岩倉使節団の派遣など)。ところが日清修好条規に最恵国待遇がないと、清が将来欧米と結ぶ有利な条約の恩恵を日本が受けられないことになります。
さらに、日清修好条規には関税率の取り決めが不十分な部分もあり、日本政府内部では「こんな条約を批准していいのか」という声が上がりました。

対等条約なのに、なんでそんなに不満だったの?

日本は本音では「清より上の立場で条約を結びたかった」んだよ。結果的に対等になったけど、欧米列強への不平等条約改正にも使えない中途半端な条約だった——だから不満が残ったんだね。
問題②:最大の目的・朝鮮問題は未解決のまま
日本が日清修好条規を結んだ最大の目的は、朝鮮との外交問題の突破口にすることでした。「日本と清は対等だ」と示すことで、朝鮮の態度を変えさせようとしたのです。
しかし結果として、朝鮮問題はまったく解決しませんでした。朝鮮は相変わらず日本の国書を拒否し続け、日本国内では征韓論が台頭します。最終的に日本は1875年の江華島事件を経て、1876年に日朝修好条規を朝鮮に押しつけることになります。

日本と清が勝手に条約を結んだからといって、我が国が態度を変える理由にはならない……。
■日清修好条規の歴史的意義
不満だらけの条約とはいえ、日清修好条規にはいくつかの歴史的意義がありました。
まず、日本と清の間に初めて国際法に基づく条約関係が成立したことです。それまでの東アジアでは、清を中心とする冊封体制(朝貢外交)が外交の基本でした。日清修好条規は、そうした旧来の秩序から脱却し、近代的な国際関係の枠組みを築く第一歩となりました。
また、日本が清と対等な条約を結んだことは、欧米諸国に対しても「日本は近代国家である」というアピールにもなりました。不平等条約改正へ向けた外交実績の一つとなったのです。
しかし、日清修好条規で築かれた日清間の友好関係は長くは続きません。1874年の台湾出兵で両国関係は緊張し、やがて1894年の日清戦争で日清修好条規は事実上崩壊することになります。

日清修好条規は「対等条約」として画期的だったけど、その後の日清関係は悪化の一途をたどったんだ。「友好のはじまり」のはずが、結局は衝突への序章だったとも言えるね……。
日清修好条規と日朝修好条規の違いは?
日清修好条規と日朝修好条規は、名前がよく似ていますが中身はまったく異なります。テストでも頻出の比較ポイントなので、しっかり整理しておきましょう。
| 比較項目 | 日清修好条規 | 日朝修好条規 |
|---|---|---|
| 締結年 | 1871年(明治4年) | 1876年(明治9年) |
| 相手国 | 清(中国) | 朝鮮(李氏朝鮮) |
| 対等 / 不平等 | 対等条約 | 不平等条約(日本有利) |
| 領事裁判権 | 相互に認め合い | 日本側のみ |
| 関税 | 相互に関税権あり | 朝鮮に関税自主権なし |
| 背景 | 東アジアでの外交関係構築 | 江華島事件を経て日本が圧力 |
この表を見ると、日清修好条規と日朝修好条規の性格が正反対であることがわかります。
日清修好条規では、日本と清は対等なパートナーとして条約を結びました。しかし日朝修好条規では、日本は朝鮮に対して領事裁判権を一方的に認めさせ、関税自主権も奪ったのです。

つまり、日本は清には「対等にやりましょう」と言いつつ、朝鮮には「こちらの条件をのみなさい」と迫ったんだ。欧米から押しつけられた不平等条約のやり方を、今度は日本が朝鮮に使った——皮肉な歴史だよね。
なぜこのような違いが生まれたのでしょうか。その理由は相手国の国力の差にあります。
清はアジア最大の大国であり、日本が一方的に不利な条件を押しつけることは不可能でした。実際、交渉の場でも伊達宗城が不平等条約を提案して李鴻章に拒否されています。一方、朝鮮は鎖国状態にあり、近代的な軍事力で圧倒的に劣っていたため、日本は江華島事件で武力を背景に開国を迫ることができたのです。

テストでこの2つの違いが出たら、どう答えればいいの?

ポイントは「日清は対等、日朝は不平等」——この一言を軸にして、領事裁判権と関税自主権の違いを書けばバッチリだよ!
テストに出る!日清修好条規のポイントまとめ
ここまでの内容から、定期テストや入試で特に狙われやすいポイントを5つに絞って整理します。

記述問題では「なぜ日清修好条規を結んだのか」もよく問われるよ。答え方は「朝鮮問題への対処と、東アジアでの外交関係を国際法に基づいて構築するため」——これを自分の言葉で書ければ完璧!
混同注意:「日清修好条規」と「下関条約」はまったく別物です。日清修好条規は1871年の友好条約、下関条約は1895年の日清戦争の講和条約。名前に「日清」が付くので混同しやすいポイントです。
日清修好条規をもっと詳しく知りたい人へ

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よくある質問(FAQ)
「にっしんしゅうこうじょうき」と読みます。「条約(じょうやく)」ではなく「条規(じょうき)」なので注意しましょう。清国との修好(友好関係を結ぶこと)のための条規(取り決め)という意味です。
主な理由は3つあります。①欧米列強が東アジアに進出する中で日清間の外交ルートを確立すること、②朝鮮問題で清と連携(または牽制)する足がかりを得ること、③欧米に対して日本が近代国家であることを示す外交実績を作ることです。
形式上は対等条約です。欧米との不平等条約では領事裁判権は欧米側にだけ認められていましたが、日清修好条規では日本と清の双方に領事裁判権が認められました。ただし、最恵国待遇条項がなかったため日本国内では不満も多く、完全に理想的な条約とは言えませんでした。
最大の原因は、日本政府内で最恵国待遇が含まれていないことへの不満が強かったことです。最恵国待遇がないと、清が他国と結ぶ有利な条約の恩恵を日本が受けられません。さらに関税率の取り決めが不十分だったことや、政府内の外交方針をめぐる対立も批准の遅れに影響しました。
最大の違いは「対等か不平等か」です。日清修好条規(1871年)は日本と清が対等な立場で結んだ条約で、領事裁判権も相互に認め合いました。一方、日朝修好条規(1876年)は日本が朝鮮に一方的に押しつけた不平等条約で、領事裁判権は日本側のみ、朝鮮に関税自主権はありませんでした。
日清修好条規は、日本と清の間に初めて国際法に基づく条約関係を成立させた点に意義があります。それまでの東アジアは冊封体制(朝貢外交)が中心でしたが、この条約によって近代的な国際関係の枠組みが築かれました。また、日本が清と対等な条約を結んだことは、欧米に対する「近代国家としての日本」のアピールにもなりました。
まとめ
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1868年明治維新新政府が発足し、清との外交関係構築を模索し始める
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1870年柳原前光が清に渡航日本側の事前交渉が開始。李鴻章と接触する
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1871年9月日清修好条規・調印(天津)全権大臣・伊達宗城(大蔵卿)と李鴻章が交渉し、対等条約として調印
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1873年日清修好条規・批准交換調印から2年遅れで日本側が批准。最恵国待遇なしへの不満が原因
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1874年台湾出兵日清関係が急速に緊張。条約の友好関係に早くも亀裂が入る
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1876年日朝修好条規の締結日本が朝鮮に不平等条約を押しつける。日清修好条規とは対照的な内容
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1894年日清戦争の勃発日清修好条規は事実上崩壊し、日清関係は戦争へと突入する

以上、日清修好条規についてのまとめでした!「対等条約」なのに不満だらけだった理由、なんとなく伝わったかな? 下の記事で日朝修好条規や日清戦争の流れもあわせて読んでみてください!
最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「日清修好条規」(2026年4月確認)
コトバンク「日清修好条規」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.249付近(明治初期の対外政策・日清修好条規)
外務省外交史料館(デジタル公開資料)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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