今回は、1871年に清国と日本の間で結ばれた日清修好条規についてわかりやすく解説していきます。
最初に手元の教科書に書かれている内容をまとめておきます↓
【領事裁判権】
自国で外国人が犯罪を犯しても、外国のルールで裁判をする権利のこと。清と日本はお互いに領事裁判権を認めあいました。
ちなみに、日本が欧米諸国(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシア)と結んでいた条約では領事裁判権は欧米諸国にのみ認められていたので不平等な内容となっています。
【批准】
条約に対する国家の最終的な確認、確定的な同意(の手続き)。
この記事では、日清修好条規について以下の点を中心に解説をしていきます。
日本と清の関係
最初に、日清修好条規が結ばれた当時の日本と清の関係を確認しておきます。
幕末から明治初期にかけての両者の関係は比較的平穏なもので、明治初期には、日本は長崎、清は上海でお互いに居住・貿易を認め合っている状態でした。
しかし、お互いに口頭でルールを決めていても、それが国と国の間の条約として形に残ることはありませんでした。清が大信不約として、条約を通じて国交を結ぶことを拒んでいたからです。
【大信不約】
約束をしなければ守られないようなことは、本当の信頼関係とはいえないということ。
中国の昔からの言い伝えの1つ。
一方の日本側では「国際化が進んでいる以上、少なくとも近隣の国とは正式に国交を持つべきだろう」と考えていました。
【国交】
国交(こっこう)とは、二国間の外交関係のこと。国交は、互いの国が相手国を主権国家と認める国家承認を前提として行われ、 大使(特命全権大使)を長とする外交使節団の交換を伴うのが通常である。外交使節団は相手国(複数の国家を担当する場合はそのいずれか)に大使館を設置し、外交活動や自国民の保護などの業務を行う。
引用:wikipedia「国交」
しかし、当時の日本の関心は清よりも朝鮮にありました。なので、清に対して強引に国交を迫るようなことはしませんでした。
朝鮮「日本の国書は生意気だから受け取らぬ」
1868年(明治元年)、王政復古により天皇親政の新政府(明治政府)が樹立すると、日本は朝鮮に対して早速使者を派遣します。
主な目的は、「明治政府の樹立を知らせること」「朝鮮に明治政府との国交を開くこと」でした。
・・・ところが、朝鮮はこの使者を追い返します。それどころか日本が持ってきた国書すらまともに読みませんでした。
その理由はシンプルでした。
日本の国書が上から目線だったから
というものでした。
朝鮮は清と君臣関係を結んでいました。君主は清、その臣下に朝鮮がいる・・・という関係です。それゆえに朝鮮は、清以外の格上の国の存在を認めませんでした。
そのため朝鮮は、清以外の東アジアの国々は野蛮な国々であるし、西洋諸国もまた同様である・・・と考えていたんです。
そこに、明治政府の国書を携えた使者がやってきます。使者がやってくること自体は問題ありません。問題になったのはその国書の文字にありました。
日本の国書に「皇」とか「勅」という文字があるな。
「皇」は、日本の君主を天子と言い、「勅」はその天子の意思を示す。
しかし、朝鮮にとっての天子は清国の君主のみだ。そもそも、日本のような野蛮な国がその王を自ら天子と名乗るとは一体何様のつもりなのか。ふざけるのもいい加減にしろ。
こんな国書は内容以前に、受け取ることすら不愉快である。
*会話はイメージです。
こんな感じで、使者は追い返されてしまいます。
明治政府が樹立する前は江戸幕府が使者を送っていたので、そこに天皇に関する「皇」とか「勅」という文字が使われることはありませんでした。しかし、天皇親政の明治政府が樹立したことで、朝鮮との関係に亀裂が生じることになってしまったんです。
日清修好条規の締結に向けて
1868年の朝鮮とのイザコザを通じて明治政府は閃きました。
・・・そうか!
日本が清と条約を結ぶことで、清と対等または日本の方が清より格上であることを公式に示せば、朝鮮も反論できなくなるんじゃね?
1870年、明治政府は外務省の柳原前光という人物を清国へ派遣し、日清修好条規の締結に向けた事前交渉に臨みました。
柳原前光は、苦難の末にようやく清国の高官である李鴻章と直接話す機会を得ました。
ここだけの話だが、実は日本は西洋列国を快く思っていない。清国も同じだろう。
そこで、清国と協力して西洋列国と対抗したいと思っている。そして、協力関係を結ぶためにもまずは条約を締結して、互いのルールを定める必要があると考えるが清国の意見は?
清国も西洋列国を快く思っていない。・・・わかった。条約締結に向けて動こう。
日本は隣国だから味方になれば頼もしいが、これを敵にするのも厄介であるからな・・・。
・・・と、「協力して西洋列国に対抗する」という大義名分の下で話が進みますが、これは日清修好条規を締結するための方便に過ぎません。日本は西洋列国に対抗することなど考えてもいませんでした。
英仏米「日本と清が怪しい動きをしている」
日本に西洋列国に対抗する意図はなくとも、イギリス・フランス・アメリカは日本と清の不穏な動きに強い警戒感を抱きました。
1871年、英仏米の3国は日本に対して「清と軍事同盟など結べば、日本がどうなるかわかってるよな?」という脅しまでしています。東アジアの二大強国である清と日本の同盟は、なんとしても避けたかったのです。
1871年6月、伊達宗城を代表とした使者が清国に入り、具体的な条約内容について清との交渉を開始します。
こちらの条約案は、欧米諸国が用いた不平等条約だ。
清国には日本に有利な条件で条約を締結してもらう。
・・・はっ?そんなの無理に決まってるだろう。
こちらの案も見てもらう。
・・・おいおい、この条文はなんだ!?
第二条「友好の証として、他国から何かされた時には、お互いに助け合うこと」
これは完全に軍事同盟じゃないか。こんな内容が西洋列国に知られたら、大変なことになる!
西洋列国は、私たちの関係を怪しんでいる。西洋列国に悟られないようにするためにも、ここはなんとかして西洋風の不平等条約を締結し、敵を欺くべきだ。
そんなに西洋列国に疑われるのが嫌なら、そもそも清国になど来なければよい。それが最も良い方法だぞ。
(そんな詭弁に騙されるか・・・!)
両者譲らぬまま交渉が続き、終わってみれば日清修好条規の内容はお互いに平等なものとなっていました。
グダグダに終わる日清修好条規
伊達宗城は帰国すると交渉成果を政府に報告し、日清修好条規の締結に向けた国内手続を終えようとしますが、政府内からその内容に猛反対が起こります。
反対の理由はいろいろありました。ここでは2点だけ紹介しておきます。
日清修好条規の当初の目的は、「清と条約を結ぶことで、朝鮮に対して日本が格上の国であることを示すため」です。
朝鮮に日本を格上だと認識させるには、天皇が清国の皇帝と少なくとも同程度の地位にあることを公式に示す必要があります、しかし、条約中に「天皇」という文字すらないのでは、それは不可能。反対が起こるのは当然です。
そして、理由2も非常に悩ましい問題でした。
実際に、欧米諸外国から「おい!なに清と軍事同盟結んでるんだよ!!」と責められますが、「あれは軍事同盟に見えるけど実は違うから!日常の他国との些細なトラブル時に、間に入って調停してくれる場合がある・・・ってだけだから!!!軍事同盟とかありえないから!!!!(強引)」と諸外国を説得。
さらに、国内の猛反対により日清修好条規の締結は延期。実際に締結されたのは2年後の1873年になります。しかも、このわずか2年の間で日本を取り巻く国際事情は大きく変わっていました。
しかし、朝鮮・清・ロシアの3方面に対して戦争をすることは不可能。そこで、1873年に日清修好条規のために清に使者を派遣するついでに「清と台湾の関係」「清と朝鮮の関係」を探ることにしました。
その結果、日本が戦う相手に選んだのは台湾でした。征韓論は封印され、ロシアに対しては条約を結ぶことで領土問題の解決を図ります(1875年の千島・樺太交換条約)
1874年、日本は台湾へ出兵し、清と大いに揉めることになります。お互いに平等の条約を結んだからと言って、決して清と日本が友好関係となったわけではなく、両者の微妙な関係は1894年に起こる日清戦争まで続き、日清戦争を機に日清修好条規は解消されることになります。
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