天津条約・北京条約を簡単にわかりやすく解説【内容・目的・背景をバッチリ抑える!】

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もぐたろう
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今回は、アロー戦争の際に清が結んだ「天津条約」「北京条約」について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 天津条約・北京条約ってどんな条約なの?
  • 天津条約・北京条約はなぜ結ばれたの?
  • 天津条約・北京条約はどんな内容だったの?
  • 天津条約・北京条約は清にどんな影響を与えたの?
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天津条約・北京条約とは?

天津条約・北京条約は、アロー戦争に敗北した清が、勝者のイギリス&フランスに結ばされた条約のことを言います。

天津条約は1858年北京条約は1860年に結ばれました。

勝者のイギリス&フランスが清に結ばさせた条約なので、その内容は清に不利だったり不平等なものでした。

清は、天津条約・北京条約の締結によって大きな足枷をはめられる結果となりました。

もぐたろう
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天津条約と北京条約は密接な関係を持っているから、2つセットでまとめ覚えてしまうのがオススメです!

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天津条約が結ばれた理由

実は、清が不利で不平等な条約を結ばされたのは天津条約が初めてではありません。

最初に条約を結ばされたのは、アヘン戦争に敗北してイギリスに結ばされた南京条約(1842年)でした。

イギリスは、南京条約で主に次のことを清に要求しました。

・香港をイギリスに渡すこと

・主要な5つの港を開港すること

・貿易規制(公行制度)を廃止して、自由貿易を認めること

もぐたろう
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南京条約については、下の記事も参考に読んでみてください!

イギリスの狙いは、清の貿易規制を緩めてイギリスの商品を清へ売り込み、がっぽり大儲けすることでした。

・・・が、思っていたようにイギリスの商品は売れません。

イギリス
イギリス

なんで俺んとこの商品売れないんだろ?

・・・あっ、わかった!きっと南京条約の内容が生ぬるかったからだ!

清に南京条約に追加して新しい条約でも結ばさせてやるかー。

とはいえ、不平等な条約に清が簡単に応じるわけがありません。

そこでイギリスは、清に追加で条約を結ばさせるため、清との戦争の機会をうかがうことにしました。

イギリス
イギリス

うーん、なんか清に攻め込む口実でもないかなー。

戦争に持ち込めば、俺が確実に勝つし、清に簡単に条約を結ばさせることができるのになー。

1856年、その機会が訪れます。

清が、イギリス籍の船であるアロー号からイギリス国旗を引きずり下ろしたのです。

イギリス
イギリス

「国旗を引きずり下ろす」=「イギリスを侮辱!」=「報復で清に攻撃」ってことで、清と戦争すんぞ!

最近仲が良いフランスも戦争に誘ったから、負けることは100%ありえない!

こうして同年(1856年)、アロー戦争が起こります。

・・・結果は、清の敗北。清はイギリス・フランス連合軍に降伏し、1858年8月、天津で天津条約を結ぶことになりました。

※アロー戦争のことを知りたい方は、下の記事も読んでみてくださいね↓↓

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天津条約の内容

天津条約の内容はこんな感じでした。

天津条約の内容
  • 清は、外国の外交官が北京に滞在することを認めること
  • 清は、新たに10港を開港すること
  • 清は、外国人が国内で自由に旅行することを認めること
  • 清は、国内でのキリスト教の布教を認めること
  • 清は、イギリス・フランスに賠償金を支払うこと
  • ・・・など
イギリス
イギリス

要するに『イギリス人が清国で自由に活動できるようにしろ!』ってことを要求したのさ。

イギリス・フランスが天津条約を結ぶことを知ると、これに便乗してアメリカ・ロシアも清に対して条約の締結を要求します。

アメリカ
アメリカ

俺も清くんとたくさん貿易したいな〜。俺とも条約結んでくれるよね?

ロシア
ロシア

清くんとはお隣さんだし、仲良しの印に俺も条約結びたいな・・・。

・・・えっ?内容が不平等だから仲良しの印にならないって?まぁ細かいこと気にすんなって!

敗戦国となった清にアメリカ・ロシアに対抗する力はなく、清はなす術もなくイギリス・フランス・アメリカ・ロシアとの条約締結に応じました。

※ロシアと結ばれた条約は、アイグン(町愛琿)という場所で結ばれたのでアイグン条約と言います。

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北京条約が結ばれるまでの流れ

こうして天津条約の締結が決まりました・・・が、厳密にはこれで条約締結が終わったわけではありません。

条約の締結にはいろいろと手続きが必要で、まだもう1つだけ手続きが残っていました。

その手続きっていうのが、批准書ひじゅんしょの交換手続きです。

批准書っていうのは国同士の契約書みたいなもので、お互いに批准書サインをして、その批准書をお互いに交換しあうことで、条約は始めて効力を持ちます。

イギリス・フランスは、本国で批准書作成の手続を進め、翌年(1859年)に批准書を交換するため、再び清に向かいました。

・・・ところが、1859年6月、清は批准書の交換を阻止するため、イギリス船に砲撃を浴びせます。

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天津条約を結びたくなかった清は、最後の最後までイギリス・フランスに抵抗しようとしたわけです。

当然、イギリス・フランスは清の不意打ちにブチギレ。

イギリス
イギリス

あのさー、今さら抵抗しても俺たちを阻止できるわけねーだろ。やられたらやり返すからな、覚悟しとけ。

フランス
フランス

天津条約だけじゃ生ぬるいから、もっと厳しい条件つけてやんよ!

1860年夏、イギリス・フランス連合軍は、清への侵攻を再開。

イギリス・フランスは首都の北京にまで迫りますが、最終的にはロシアが仲介に入って、清とイギリス&フランスは仲直りしました。

その後清は条約締結に応じ、1860年10月、北京で改めて条約が結ばれることになります。

この時に改めて結ばれた条約のことを北京条約と言います。

北京条約の内容
  • 清は、天津条約をしっかり結ぶこと。
  • 清に対する賠償金は増額する。
  • 清は、イギリスに香港に隣接している九龍半島の南部を渡すこと。
  • 清は、天津条約による10港の開港に加え、天津も開港すること
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天津条約に追加して、主に賠償金増額・九龍半島南部の割譲を要求したのが北京条約です。

もう1つの北京条約

イギリス&フランスと北京条約を結んだ翌月(1860年11月)、清は別の国とも北京で条約を結びました。・・・というか、結ばされました。

その国とは、天津条約の際も登場したロシアです。

ロシアは天津条約に続いて北京条約でも、便乗して清にさらなる要求をしてきたのです。

ロシア
ロシア

俺が仲介に入ってアロー戦争を終わらせてやったんだから、それなりの見返りはいただくぞ。

1860年11月、清はロシアと北京で条約(北京条約)を交わし、清は沿海州えんかいしゅう(今のウラジオストクがあるあたり)を、ロシアに奪われました。

上の地図の赤い場所が沿海州
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天津条約・北京条約のまとめ

ここまでの話をまとめると、

・天津条約は、アロー戦争に負けた清がイギリス&フランスと結ばされた不平等条約

・北京条約は、約束を破った清に対する追加の不平等条約

というわけです。

天津条約+北京条約の内容を、まとめるとこんな感じになります↓↓

天津条約と北京条約の内容は、セットで説明されることが多いから、まとめて覚えてしまいましょう!

天津条約+北京条約の内容
  • 清は、外国の外交官が北京に滞在することを認めること
  • 清は、新たに11港を開港すること
  • 清は、外国人が国内で自由に旅行することを認めること
  • 清は、国内でのキリスト教の布教を認めること
  • 清は、イギリス・フランスに賠償金を支払うこと
  • 清は、イギリスに香港に隣接している九龍半島の南部を渡すこと。
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開港された港の場所をまとめてみたよ。

南京条約のときと比べて、清の北部や内地にまで開港された港が増えています。

清のアヘン戦争アロー戦争の二度にわたる敗北、そして南京条約、天津条約、北京条約と立て続けに結ばされた不平等条約によって、「強国って言われてたけど、実は清ってそんな強くないんじゃね!?」ってことが世界に知れ渡ってしまいます。

アヘン戦争・アロー戦争以降、列強国たちは清を富を搾り取れるカモとみなし、清は列強国に逆らえ無くなってしまいました。

清は、列強国による支配から脱するため、国力を高めようとする動き(洋務運動ようむうんどう)が活発になります。

・・・が、成果は思うように上がらず、その後は日清戦争(1894年)で日本に敗北し、1912年に起きた辛亥しんがい革命によって清は滅亡することになりました。

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教育系歴史ブロガー。
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