今回は、1874年に起こった台湾出兵についてわかりやすく解説していきます。
まずは、手元の教科書から台湾出兵に関する内容を抜粋しておきます↓
この記事では、台湾出兵について以下の点を中心に解説をしていきます!
琉球漂流民殺害事件
まず最初に、1871年に起きた琉球漂流民殺害事件について簡単に解説しておきます。
事件を超簡単にまとめるとこんな事件でした↓
宮古島(琉球の島の1つ)の漁師たちが遭難して台湾に漂流したら、台湾の原住民が敵と勘違いして、漂流民を殺害してしまった事件
日本はこれに対して報復として台湾出兵を検討します。これは、台湾がムカつくとか台湾を征服したいとか、そんなシンプルな理由ではなく以下の2つの理由によるものでした。
要するに「琉球王国(今の沖縄県)をゲットできるチャンス」と同時に、「民衆の不満を抑えるチャンス」でもあったわけです。
・・・しかし、当時の台湾は清国の属国のような状態であり、台湾への攻撃は清国との戦争に発展する可能性もありました。
そこで1873年、清国に使節を派遣して、清国の出方を探ります。柳原前光という人物がこう交渉します。
日本国民(実際は琉球王国民)を無残に殺した賠償金を払え。
すると清国は「そもそも琉球王国は日本ではないからな。あと、台湾は清国の領土だけど、原住民のことには関与してないから今回の件は清国は関係ねーから」と賠償金の支払いを拒否。
ふーん。関与しないってことは、日本が台湾に攻め込んでも文句は言わないってことだな。
こうして台湾出兵が実現しそうでしたが、この計画は白紙撤回されてしまいます。
というのも、今回の交渉で「台湾よりも鎖国を続ける朝鮮に攻め込んだ方が良くね?」という意見が政府内で強くなったからです。これが征韓論というやつです。
当時、日本の戦争相手の候補は3つありました。
日本が戦争を望んだ大きな理由の1つが「民衆の政治不満を外に向ける」だったので、とても乱暴な言い方をすればどこと戦争をしてもOKでした。
そして、強いロシアとの戦いは望まず外交による問題解決を目指します。こうして戦争候補が台湾と朝鮮に絞られますが、1873年の清国との交渉結果、政府の意見などから朝鮮が標的となったわけです。
台湾出兵、始まる
ところが1873年10月、征韓論を主張する政府の要人たちが政争に敗れ、明治政府を去ってしまいました(明治六年の政変)。
これによって次は征韓論が封印され、白紙撤回されたはずの台湾出兵の話が再び浮上することになります・・・。
私は西郷隆盛らが言う「士族たちによる征韓論」には反対した。士族に軍事力を与えれば、後に明治政府を逆らいかねないからだ。だからこそ、私は明治六年の政変で親友の西郷を追放した・・・。
しかし、民衆の不満を外にそらす戦争自体には賛成だ。兵士にはもちろん士族ではなく徴兵令で集めた兵を用いる。
一方、台湾出兵には反対の声もありました。
明治六年の政変で朝鮮との戦争はダメだとして西郷らを追放したのに、なぜ台湾に攻め込むのはOKなんだ?いくらなんでも節操がなさすぎる。
今は苦しんでいる民衆をなんとかするために内政に集中するのが先だろ・・・!
木戸孝允は台湾出兵の決定に激怒し、政府を去ることになります。
しかも、この台湾出兵にはアメリカの支援もありました。もちろん、「日本を助けてあげよう!」なんて親切心なんかではありません。清国の植民地化に遅れとっていたアメリは、日本に台湾を攻めさせ隙あらばその利権を奪おうと考えていたんです。
1874年4月、遂に台湾出兵の準備が整いました。アメリカと日本の連合軍であり、艦隊には多くのアメリカ船が用いられました。
ところが、直前になって清国の支配を目指すイギリスがこれに猛抗議。さらに、イギリスとの不測の事態を恐れたアメリカは台湾出兵をストップしてしまいます。
こうして日本は戦艦の多くを失い、まともに出発することすらできなくなってしまいました。
そこで明治政府は、汽船を多く持っている岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(通称「三菱」)から船を買い上げることにします。
「戦争で外国を頼るとロクなことがない」と学んだ明治政府は、この後も三菱に戦艦の手配をまかせ、その代わり三菱を優遇することになります。この政府と三菱のズブズブの関係によって、三菱は大財閥に成長することになります。
一方、清国に対して使節を派遣し、台湾出兵について弁明します。
前に清国は『台湾の原住民のことは関与しない』と言った。日本はその原住民に対して侵攻をするのだから、決して清国を攻撃するわけじゃないから!
この弁明は、清国の背後にいるイギリスがブチギレたことを考慮して行われました。しかし、清国は「そーゆー問題じゃねーから。台湾は清国の領土だから!!」と猛抗議。対話は平行線のまま、岩崎弥太郎から買い上げた船により日本軍は台湾へ向かいます。
台湾出兵の経過
1874年5月、日本軍が台湾に上陸。原住民と交戦状態に入ります。日本軍の司令官は西郷従道。西郷隆盛の弟です。
戦いは日本軍の圧勝。6月には原住民らを制圧します。日本はわずかな原住民たちを征討するために、3,600人もの大軍を送り込んでいました。圧勝するのも当然です。
台湾出兵の理由は台湾そのものではなく、「民衆の不満を外に向ける」であり、そのためにはどうしても大軍による演出が必要だったんです。
戦死者もわずかであり余裕かと思われた台湾出兵ですが、ここに予期せぬダークホースが現れます。それがマラリアです。南国の気候に慣れない日本兵は次々とマラリアに感染し、約500人が命を落としました。(戦死者よりも圧倒的に人数が多い・・・!)
台湾出兵の交渉続く・・・
清国は交渉途中に出兵した日本に対して大激怒。そして、イギリスもまたこれに猛抗議します。
清国と日本の交渉はまたもや平行線のまま。日本の主張は以下のようなものでした。
もちろん、清国はこれを認めるわけにはいきません。
結局、最後はイギリスが仲介に入り、以下の内容で交渉がまとまります。
台湾出兵は失敗か成功か
台湾出兵は成功か失敗かで考えれば、おそらく失敗でした。
まず、賠償金が貰えなかったので戦費が大きな負担となりました。しかも国内へのパフォーマンスのため、過大な軍を送ったためコスパも決してよくありません。
おまけに、強引に出兵したせいで清国やイギリスとの関係が悪化してしまいました。
一見すると無益に見える台湾出兵には、国内からも多くの批判があったと言われています。ただ、良いこともありました。それは清国が、日本が殺された漂流民のために攻撃を仕掛けたことを認めたことです。
これはつまり、清国が「琉球民」=「日本の民」であることを公に認めたことと同じ・・・と解釈できるわけです。ただし、清国は「琉球民」=「日本の民」とは一言も言ってないし、日本が琉球王国を支配することには反対しています。
しかし、日本は清国の意向を無視。1879年には、琉球王国を廃止し、強硬に沖縄県を設置して琉球王国を日本の領土の一部としてしまいました。(琉球処分)
この頃から、日本と清国の関係は少しずつ悪化。台湾出兵の翌年(1875年)には江華島事件で、次は朝鮮半島を巡って清国と日本が対立し、この両者の関係は1894年の日清戦争まで続くことになります。
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