マリアナ沖海戦とは?なぜ負けた?敗因・七面鳥撃ち・絶対国防圏崩壊をわかりやすく解説

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マリアナ沖海戦を題材にした空母と艦載機のイラスト
もぐたろう
もぐたろう

今回は1944年(昭和19年)6月に起きた「マリアナ沖海戦」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ日本海軍があれほど一方的に負けたのか、「マリアナの七面鳥撃ち」って何なのかを見ていくので、最後まで読んでみてね!

太平洋戦争の全体像はYouTubeでも解説しています◎

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • マリアナ沖海戦とは何か(1944年6月・太平洋戦争最大規模の空母決戦の全体像)
  • 「マリアナの七面鳥撃ち」(なぜ日本の艦載機は一方的に撃墜されたのか)
  • アウトレンジ戦法の誤算と敗因3つ(なぜ日本は勝てると信じて負けたのか)
  • 絶対国防圏崩壊と東条英機内閣総辞職(この海戦が日本の敗戦へつながった流れ)

実は日本海軍は、この海戦を「有利な条件で戦える」と確信していました。敵の攻撃範囲の外から先に叩く「アウトレンジ戦法」がある以上、数で劣っていても勝てるはず——そう信じていたのです。ところが、その計算は完全に外れました。日本は艦載機400機近くを失い、アメリカ側から「七面鳥撃ち」と揶揄されるほど一方的な敗北を喫したのです。

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マリアナ沖海戦とは?わかりやすく解説

3行でわかるまとめ
  • 1944年(昭和19年)6月19〜20日、日本海軍とアメリカ海軍がマリアナ諸島沖で激突した大規模空母決戦
  • 日本は艦載機を大量に失い、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれるほど一方的な敗北を喫した
  • この敗北で絶対国防圏が崩壊し、東条英機内閣が総辞職。B-29による本土空襲の起点となった

マリアナ沖海戦とは、1944年(昭和19年)6月19〜20日に西太平洋のマリアナ諸島沖(フィリピン海)で行われた、太平洋戦争最大規模の空母艦隊決戦です。日本側は小沢治三郎こざわじさぶろう中将率いる第1機動艦隊、アメリカ側はスプルーアンス大将率いる第5艦隊が激突しました。

この戦いの規模は史上類を見ないものでした。日本側:空母9隻・艦載機約439機、アメリカ側:空母15隻・艦載機約896機という圧倒的な戦力差の中で決戦が行われたのです。結果は日本の壊滅的敗北——機動部隊はこの一戦で再起不能となり、太平洋戦争の行方を決定づけることになります。

ゆうき
ゆうき

マリアナ沖海戦って、太平洋戦争でどのくらい重要な戦いだったの?

もぐたろう
もぐたろう

めちゃくちゃ重要な海戦だよ!ここで日本が負けたことで、B-29が日本本土に飛んでこれるようになって、東京大空襲への道が開いてしまったんだ。

次の章では、そもそもなぜ日本とアメリカがマリアナで戦うことになったのか——その背景にある「絶対国防圏」と「あ号作戦」について解説していきます。

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なぜマリアナで戦うことになったのか?——絶対国防圏とあ号作戦

■絶対国防圏とは?

1943年9月、大本営御前会議で重大な決定が下されました。「絶対国防圏ぜったいこくぼうけん」の設定です。※絶対国防圏とは:ここまで守れば日本本土は守れるという防衛ラインのことで、今でいう「最後の防衛ライン」のようなものです。

この絶対国防圏には、マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)・パラオ・ニューギニア西部などが含まれていました。特にマリアナ諸島は、日本本土まで約2,400kmの位置にある要衝です。ここを失えば、敵の爆撃機が日本本土を直接攻撃できる距離に入ってしまう——。そのため「絶対に守る」と位置づけられていたのです。

📌 絶対国防圏:1943年9月に大本営御前会議で決定した戦略防衛ライン。マリアナ諸島・パラオ・西ニューギニアなどを含む。「ここを守れば本土は守れる」とされたが、1944年6〜7月に次々と突破され崩壊した。

■あ号作戦の発動

1944年6月、アメリカ軍がマリアナ諸島への上陸作戦を開始しました。これを受けて日本海軍が発動したのが「あ号作戦」です。小沢治三郎中将率いる第1機動艦隊は、フィリピン海に進出して米機動部隊を迎え撃つ計画でした。

この作戦の肝は「アウトレンジ戦法」にありました。日本の艦載機は米軍機より航続距離が長い——この利点を活かして、米空母の攻撃射程外から一方的に攻撃できると考えていたのです。「今でいうミサイルの射程外から先に攻撃するようなイメージ」と思うとわかりやすいでしょう。さらに攻撃後はマリアナ島の基地(グアム・テニアン)に着陸して燃料補給し、再攻撃する「往復作戦」も計画していました。

もぐたろう
もぐたろう

つまりマリアナは「ここを守れば日本は安全」という最後の砦だったんだ。東條英機内閣も絶対国防圏の維持を国策の最優先に掲げていた。だから日本海軍は全力でマリアナに向かった——でも結果は惨敗だったんだよ。

では、なぜ日本はこれほど数の上でも不利だったのでしょうか。次の章では、戦闘前の日米の戦力差を詳しく見ていきます。

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日米の戦力差——空母・艦載機・パイロット

■空母・艦載機数の比較

比較項目日本(小沢艦隊)アメリカ(スプルーアンス艦隊)
空母数9隻15隻
艦載機数約439機約896機
護衛空母なし多数
パイロット練度低(ベテラン不在)高(実戦経験豊富)

数字を見るだけで、いかに一方的な戦力差だったかがわかります。空母数は日本9隻対アメリカ15隻、艦載機に至っては日本約439機対アメリカ約896機と、約2倍以上の差がありました。これだけの差を覆すためにこそ、日本は「アウトレンジ戦法」に賭けていたのです。

■ベテランパイロットの減少という致命傷

戦力差よりも深刻だったのが、パイロットの「質」の差でした。第二次世界大戦の太平洋戦線において、日本は1942年の珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦、さらに1943年のソロモン諸島戦などで熟練パイロットを次々と失っていました。

1944年時点の日本の新人艦載機パイロットの平均飛行時間は、ベテランが積んでいた数千時間に比べてはるかに短く、約250時間程度にとどまったとされています。一方、アメリカのパイロットは実戦経験を積み重ね、高い技量を維持していました。アウトレンジ戦法は「航続距離が長い艦載機を精確に操作できる熟練パイロット」を前提とした戦術でした。ところがその前提は、すでに崩れていたのです。

あゆみ
あゆみ

これだけ戦力差があったのに、なぜ日本は戦いに出たの?最初から無謀じゃない?

もぐたろう
もぐたろう

それが「アウトレンジ戦法」があったから、数では負けていても勝てると思っていたんだよ。遠くから一方的に攻撃できれば、空母の数の差は関係ない——そう計算していたんだ。しかし実際には、その計算を根底から崩す誤算があったんだよ。

しかし実は、戦闘が始まる前から日本には致命的な「誤算」がありました。次の章では、あまり知られていない「海軍乙事件」という情報漏洩の可能性について解説します。

開戦前の誤算——海軍乙事件と情報漏洩(1944年)

海軍乙事件とは?

1944年3月31日、連合艦隊参謀長・福留繁ふくとめしげる中将の乗った飛行艇がセブ島沖に不時着し(機体大破)、フィリピンのゲリラに捕らえられた事件。このとき福留中将が携行していた新Z号作戦計画書(連合艦隊の全般作戦計画書)がアメリカ側に渡った可能性が高いとされています。日本の切り札であるはずの「アウトレンジ戦法」の詳細が、開戦前に敵に知られていたかもしれない——という衝撃的な事実です。

海軍乙事件によって、アメリカは日本の作戦計画の概要を把握していた可能性があります。万全の迎撃準備を整えることができたとすれば、「なぜ日本の攻撃はこれほどまでに的外れだったのか」という疑問への答えの一つになるかもしれません。

この事件は、マリアナ沖海戦における「もう一つの敗因」として近年注目されています。ただし、これが実際の敗北にどれだけ影響したかについては、歴史家の間でも議論が続いています。

もぐたろう
もぐたろう

作戦がバレていたかもしれない——日本はスタートラインから不利な戦いをしていた可能性があるんだよ。ただし、実際の戦闘への影響には諸説あるよ。

このように、日本はいくつもの「誤算」を抱えたまま決戦に臨みました。では、1944年6月19日、実際の戦闘はどのように展開したのでしょうか。次の章では、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれた壮絶な戦いを解説します。

「マリアナの七面鳥撃ち」——6月19日の戦い

■アウトレンジ戦法とは?

1944年6月19日早朝、小沢艦隊は4波にわたる攻撃隊を次々と発艦させました。総計約400機にのぼる大編隊です。その作戦の核心が「アウトレンジ戦法」でした。

日本の艦載機(天山てんざん・彗星すいせいなど)は米艦載機より航続距離が長く、最大で約500〜600海里(約900〜1,100km)飛行できるとされていました。これにより、米空母の攻撃射程の外——つまり「アウトレンジ(射程外)」から先に攻撃できるという理論です。さらに攻撃後は、マリアナ諸島の島嶼基地(グアム・テニアン)に着陸して燃料補給し、再攻撃する「往復作戦」も計画していました。

📌 アウトレンジ戦法の弱点:①航続距離が長い分、目標まで長時間飛行するため、敵のレーダーに早期に発見されやすい。②未熟なパイロットが長距離飛行しながら精密攻撃を行うのは困難。③中継着陸を予定していたグアム・テニアン島も米軍の空爆下に置かれており、着陸が難しかった。

■なぜ「七面鳥撃ち」と呼ばれたのか

ところが、日本の攻撃隊は目標に到達する遥か手前で迎撃されました。米軍のレーダーは約250kmという早い段階で日本機を探知し、大量のF6Fヘルキャット(迎撃戦闘機)が次々と発進しました。さらに、米艦隊は「VT信管ぶいてぃーしんかん(近接信管)」という革命的な新兵器を装備した対空砲を持っていたのです。

※VT信管とは:電波を発して目標との距離を測り、至近距離で自動爆発する砲弾のこと。今でいう「スマート砲弾」に近い革命的な兵器で、日本機に直撃しなくても爆発破片で撃墜できました。アメリカは1943年から実戦投入していましたが、日本にはこの技術がありませんでした。

結果、日本の攻撃隊は一方的に撃墜されていきました。6月19日の日本側の損失は約240〜315機——対して米軍の損失はわずか約29機です。この圧倒的な差を見た米軍パイロットが無線で「まるで七面鳥撃ちだ(It was like a turkey shoot!)」と叫んだことが、「マリアナの七面鳥撃ち」という呼称の由来となりました。

ゆうき
ゆうき

日本が240〜315機失ったのに、アメリカは29機しか失ってないの?それって本当にそんなに差があったの?

もぐたろう
もぐたろう

そう!数字だけ見ると信じられないくらい一方的な結果だよね。アウトレンジ戦法のつもりが、レーダーとVT信管という当時の最新技術でとっくに捕捉・迎撃されていたんだ。さらにグアムへの中継着陸も米軍の空爆で阻まれて、帰還できない機体も続出したんだよ。

6月19日だけで機動部隊の主力を失った日本艦隊。翌20日にはさらなる悲劇が待っていました。次の章では、マリアナ沖海戦の第2日目を解説します。

6月20日の戦い——夜間攻撃と日本軍の撤退

6月19日の大損害を受けながら、小沢艦隊はなおも戦場に留まっていました。そして6月20日、米軍の偵察機が日本艦隊の位置を発見します。スプルーアンス大将は日没が近い夕刻(日本時間17時頃)にもかかわらず、大規模な攻撃隊を発進させることを決断しました。

攻撃を受けた日本艦隊では、前日19日の米潜水艦攻撃で撃沈された空母「大鳳たいほう」「翔鶴しょうかく」に続いて、空母「飛鷹ひよう」がこの日に米軍航空攻撃で撃沈されました。残る艦艇にも重大な損害が出ました。

小沢治三郎
小沢治三郎(機動部隊司令長官)

アウトレンジ戦法でかならず勝てると信じていた。しかし……敵はすでにわれわれの動きを知っていた。機動部隊はここで潰えた。これは私の責任だ。

米軍にとっても、この夕刻攻撃はリスクを伴うものでした。攻撃を終えて帰還する頃には完全に日没となり、燃料切れで着水した米軍パイロットが多数出たのです。しかしスプルーアンスは夜間に全艦隊の灯火をつけて海面を照らす「救助作戦」を実施し、燃料切れで着水した多くの搭乗員を救出しました。勝負への決意と人命救助を両立させた指揮は、戦後も高く評価されています。

2日間の戦闘が終わった時、日本機動部隊の損害は壊滅的でした。

【日本の総損害】空母3隻撃沈(大鳳・翔鶴・飛鷹)、航空機約476機喪失(艦載機約378機+基地航空機・水上機)、機動部隊は事実上再起不能

【米国の総損害】空母喪失ゼロ、艦載機約130機損失(うち大半は燃料切れ・着水による事故的損失)

この敗北で日本海軍の機動部隊は再起不能となり、特攻隊による戦術への転換を余儀なくされることになります(のちのレイテ沖海戦でその傾向が顕著になります)。マリアナの喪失は、単なる一戦闘の敗北ではなく、日本の戦争遂行能力そのものを根底から揺るがすものだったのです。

次の章では、この戦いで日本がなぜここまで一方的に負けたのか、3つの敗因に分けて詳しく解説していきます。

なぜ負けたのか?——敗因3つ

敗因①:アウトレンジ戦法の失敗(射程誤算・VT信管の技術差)

敗因②:ベテランパイロットの消耗(ガダルカナル以来の消耗で新米パイロットだらけ)

敗因③:情報漏洩の疑い(海軍乙事件で作戦計画が米軍に渡った可能性)

■①アウトレンジ戦法の失敗——「射程外から叩く」作戦の誤算

アウトレンジ戦法は「理屈の上では正しい」戦術でした。しかし実際には、複数の誤算が重なり完全に失敗しました。

第一に、アメリカは「FD(Fighter Direction)システム」と呼ばれる高性能なレーダー管制システムを持っており、日本機を約250kmという距離で早期探知していました。長距離を飛んでくる間にすっかり位置を把握され、大量のF6Fヘルキャット迎撃戦闘機が待ち構えていたのです。

第二に、VT信管ぶいてぃーしんかん(近接信管)という最新兵器が米軍の対空砲弾に搭載されていました。日本機に直撃しなくても至近距離で自動爆発するため、対空砲火の有効性が飛躍的に向上していたのです。今でいう「スマート砲弾」に近い革命的な技術で、日本にはなかった兵器でした。

そして攻撃後の帰路もまた問題でした。中継着陸を予定していたグアム・テニアンの基地も米軍の空爆下に置かれており、燃料切れで海に墜落する機体が続出しました。「アウトレンジから攻撃→島に着陸して再攻撃」という計画の前提が、すでに崩れていたのです。

■②ベテランパイロットの消耗——新米ばかりの機動部隊

アウトレンジ戦法の前提は「高度な操縦技術を持つ熟練パイロット」でした。しかし1944年時点の日本海軍には、その前提がすでにありませんでした。

1942年のミッドウェー海戦・珊瑚海海戦、1943年のソロモン諸島戦・ガダルカナル攻防戦など、太平洋各地の消耗戦で日本のベテランパイロットの多くが失われていました。1944年当時の日本の新人艦載機パイロットの平均飛行時間は約250時間程度にとどまったとされており、これはアメリカのパイロットの数分の一以下でした。

アメリカのF6Fヘルキャットのパイロットたちは実戦経験を積み重ねた精鋭。対して日本側は、数百時間しか飛行経験のない新人が、長距離飛行・洋上航法・精密爆撃という複合的な高難易度の作戦を実行しなければなりませんでした。この「人材の差」こそが、七面鳥撃ちを決定づけた要因の一つでもあります。

■③情報漏洩の疑い——海軍乙事件という「もう一つの敗因」

もう一つ見逃せないのが、「作戦がすでに敵に漏れていたかもしれない」という事実です。

H2-4で解説した「海軍乙事件」(1944年3月31日)により、日本の新Z号作戦計画書がアメリカ側に渡った可能性があります。もしアメリカがこの計画書を手に入れていたとすれば、アウトレンジ戦法の詳細・来攻方向・使用兵力を事前に把握したうえで迎撃準備を整えていたことになります。

ただし、この情報が実際の米軍の迎撃行動にどれだけ活かされたかは、歴史家の間でも議論が続いています。確実なのは、アメリカがあらゆる面で万全の準備をしていたということ——そして日本は3つの誤算が重なって、手も足も出ないまま壊滅した、ということです。

💭 歴史のif:もし海軍乙事件がなかったら?
仮に作戦計画が漏洩していなかったとしても、①アウトレンジ戦法への過信と②ベテランパイロット不足という根本的な問題は残っていました。米軍のVT信管・レーダー技術・F6Fの性能差は確実な事実であり、計画漏洩の有無にかかわらず日本が圧倒されていた可能性は高いと考えられています。

あゆみ
あゆみ

海軍乙事件・ベテランパイロット不足・アウトレンジ戦法の誤算……3つとも問題だったのはわかった。でも、それが重なっているとわかっていたのに、なぜ誰も「これはまずい」と止めなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

それが当時の日本軍の組織的な問題でね。「マリアナを守れなければ本土が直接攻撃される」という恐怖が、無謀とわかっていても決戦に向かわせてしまったんだ。不利な状況でも「なんとかなる」「最後は精神力で勝つ」という空気があって、客観的な判断が難しかったのが一番の悲劇だよ。

マリアナ沖海戦の結果と影響(1944年)

■絶対国防圏の崩壊

マリアナ沖海戦での壊滅的な敗北後、日本はマリアナ諸島の制海権・制空権を完全に失いました。日本海軍の機動部隊が事実上消滅したことで、もはやマリアナ諸島を守る術がなくなったのです。

1944年7月9日、サイパン島が陥落しました。守備隊(約3万人)は玉砕ぎょくさいし、島にいた日本人民間人の多くも命を落としました。大本営が「絶対に守る」と宣言した絶対国防圏の核心部分が崩れ落ちた瞬間でした。アメリカはこれでマリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)に巨大なB-29爆撃機基地を建設できる位置を手に入れることになりました。

■東條英機とうじょうひでき内閣の総辞職

サイパン陥落の衝撃は政局も直撃しました。太平洋戦争開戦を主導し、絶対国防圏の設定・維持を推進してきた東條英機首相は、その責任を取る形で1944年7月18日に内閣総辞職を余儀なくされました。

後任には小磯国昭こいそくにあきが首相に就任しましたが、すでに日本の戦局は取り返しのつかない段階に入っていました。東条内閣の総辞職は、「日本が実質的に戦争継続の見通しを失った」ことを内外に示す出来事でもありました。

■B-29による本土空襲の起点に

マリアナ諸島を制圧したアメリカは、サイパン・テニアン・グアムの3島に大型のB-29爆撃機基地を急ピッチで建設しました。B-29の行動半径は約2,400kmに達し、マリアナ諸島からほぼ日本全土をカバーできる距離です。

1944年11月24日、マリアナ基地から出撃したB-29が東京を初爆撃しました。そして翌1945年3月10日の「東京大空襲」では約300機のB-29が東京下町を焼き尽くし、約10万人が犠牲となりました。これもすべて、マリアナ諸島から飛んできたB-29によるものでした。マリアナ沖海戦の敗北がなければ、この本土空襲もなかったのです。

あゆみ
あゆみ

この海戦の影響ってそんなに大きかったの?一回の海戦で、日本の運命がここまで変わったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!「マリアナ沖海戦→サイパン陥落→絶対国防圏崩壊→東条内閣総辞職→B-29本土空襲」という流れがすべてここにつながるんだ。ここからおよそ1年後の1945年8月に日本は終戦を迎えるわけだから、この海戦が「戦争の終わりの始まり」と言えるくらい決定的な転換点だったんだよ。

📌 現代とのつながり:マリアナ沖海戦の教訓は現代の防衛政策にも通じます。「情報の優位性(レーダー・暗号解読)が勝敗を決する」「パイロット・技術者の育成には長い時間がかかる」「制空権・制海権を失うと本土が直接攻撃される」——これらは現代の安全保障においても根本的に変わらない課題です。日本の防衛戦略を考えるとき、マリアナの教訓は今もなお重い示唆を与えています。

よくある質問(FAQ)

1944年(昭和19年)6月19〜20日、西太平洋のマリアナ諸島沖(フィリピン海)で行われた日米の空母艦隊同士の決戦です。日本海軍が「あ号作戦」として発動し、小沢治三郎中将率いる機動部隊(空母9隻・艦載機約439機)とスプルーアンス大将率いる米第5艦隊(空母15隻・艦載機約896機)が激突しました。アウトレンジ戦法が完全に失敗し、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれるほど一方的な日本の大敗に終わりました。

1944年6月19日の戦闘で、日本の艦載機が米軍のレーダー・VT信管(近接信管)・迎撃戦闘機F6Fヘルキャットによって次々と撃墜された状況を、米軍パイロットが「七面鳥撃ち(turkey shoot)」と揶揄した言葉です。七面鳥は動きが鈍く簡単に射落とせる鳥として知られており、それほど一方的に日本機が撃墜されたことを表しています。日本側の損失約240〜315機に対し、米側はわずか約29機という記録的な差がありました。

主な敗因は3つです。①アウトレンジ戦法の失敗——米軍の高性能レーダー(約250km先から探知)とVT信管により、遠距離攻撃の意味が失われた。②ベテランパイロットの消耗——ミッドウェー・ガダルカナル以来の消耗戦で熟練パイロットがほぼ全滅し、平均飛行時間約250時間程度の新人が複雑な作戦を担った。③情報漏洩の可能性——海軍乙事件(1944年3月31日)で新Z号作戦計画書が米軍に渡った可能性があり、米軍は万全の迎撃準備を整えていた疑いがあります。

1944年6月20日夕刻、米軍の追撃攻撃で空母「飛鷹」が撃沈され、小沢艦隊が撤退したことで事実上終了しました。2日間(6月19〜20日)の戦闘で日本は空母3隻撃沈・航空機約476機喪失という壊滅的な損害を受けました。この結果、日本海軍の機動部隊は再起不能となり、マリアナ諸島の制海権・制空権をアメリカに完全に奪われました。

どちらも日本が大敗した空母決戦ですが、歴史的意義が異なります。ミッドウェー海戦(1942年6月)は日本が空母4隻を失い「太平洋戦争の転換点」となった海戦で、日本の攻勢はここで終わりました。一方マリアナ沖海戦(1944年6月)は、機動部隊が完全に壊滅した海戦で、絶対国防圏崩壊・東条内閣総辞職・B-29本土空襲という「日本敗戦への連鎖」の起点となりました。「ミッドウェーで攻勢が終わり、マリアナで防衛も終わった」と覚えると整理しやすいです。

マリアナ沖海戦の敗北は3つの大きな影響を日本に与えました。①絶対国防圏の崩壊——サイパン陥落(1944年7月9日)により大本営の防衛ラインが崩れた。②東條英機内閣の総辞職——1944年7月18日に責任を取る形で東条内閣が退陣した。③B-29による本土空襲の本格化——マリアナ諸島に建設されたB-29基地から1944年11月以降、日本各都市への戦略爆撃が始まり、1945年3月の東京大空襲にもつながった。この海戦は「日本の終戦の始まり」となった決定的な転換点でした。

まとめ

1944年6月、太平洋の広大な海でマリアナ沖海戦が始まったとき、日本海軍は「アウトレンジ戦法で必ず勝てる」と確信していました。しかし現実は、3つの敗因——①アウトレンジ戦法の誤算、②ベテランパイロットの消耗、③情報漏洩の疑い——が重なり、2日間で航空機約476機(艦載機約378機を含む)を失うという壊滅的な敗北に終わりました。

この海戦がきっかけとなり、日本はマリアナ諸島を失い、サイパン陥落で絶対国防圏が崩壊し、東条英機内閣が総辞職し、B-29による本土空襲が始まりました。マリアナ沖海戦は、単なる一海戦の敗北ではなく、日本の敗戦へとつながる決定的な転換点だったのです。

マリアナ沖海戦の年表
  • 1943年9月
    絶対国防圏の設定
    大本営御前会議でマリアナ諸島を含む防衛ラインを「絶対国防圏」と設定。ここを守れば本土は安全とされた
  • 1944年3月31日
    海軍乙事件——作戦計画書流出の疑い
    連合艦隊参謀長・福留繁中将がセブ島沖に不時着し、新Z号作戦計画書が米軍に渡った可能性が浮上
  • 1944年6月上旬
    あ号作戦発動・小沢艦隊出撃
    米軍のマリアナ上陸開始を受け、日本海軍は第1機動艦隊(空母9隻・艦載機約439機)を出撃させる
  • 1944年6月19日
    「マリアナの七面鳥撃ち」——4波の攻撃隊が壊滅
    日本は4波の攻撃隊(約400機)を発進させるも、VT信管とレーダーで次々撃墜。日本機約240〜315機を喪失(米軍損失約29機)
  • 1944年6月20日
    夜間攻撃・空母飛鷹撃沈・日本艦隊撤退
    米軍の夕刻追撃で空母「飛鷹」撃沈。小沢艦隊は撤退し機動部隊は再起不能に。2日間の総損害:空母3隻・航空機約476機(艦載機約378機含む)
  • 1944年7月9日
    サイパン島陥落・絶対国防圏崩壊
    守備隊が玉砕しサイパン陥落。絶対国防圏の核心部が崩壊し、日本本土がB-29の爆撃圏内(約2,400km)に入る
  • 1944年7月18日
    東條英機内閣総辞職
    サイパン陥落の責任を取り東条内閣が総辞職。後任は小磯国昭内閣。「戦争継続の見通しを失った」ことが内外に示された
  • 1944年11月〜
    B-29による日本本土空襲の本格化
    マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)のB-29基地から日本本土への戦略爆撃が本格化。1945年3月の東京大空襲もここから出撃

マリアナ沖海戦についてもっと詳しく知りたい人へ

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昭和史 1926-1945

半藤一利 著|平凡社

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以上、マリアナ沖海戦のまとめでした!アウトレンジ戦法の誤算・七面鳥撃ち・絶対国防圏崩壊・東条内閣総辞職……それぞれのつながりを振り返ってみてね。下の記事で太平洋戦争全体の流れや関連する戦いもあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「マリアナ沖海戦」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「海軍乙事件」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「アウトレンジ戦法」(2026年6月確認)
コトバンク「マリアナ沖海戦」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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