今回は、満州事変のきっかけになった柳条湖事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
柳条湖事件とは
柳条湖事件とは、1931年9月、関東軍が南満州鉄道を爆破した事件のことを言います。
ん?自分達で作った鉄道を自らの手で爆破したってこと?
ちなみに柳条湖は、満鉄の真ん中あたり(長春〜旅順の中間。現在の瀋陽市の郊外)の地名です。湖ではありません!
柳条湖の目的は「鉄道を爆破すること」そのものではなくて、「鉄道の爆破を中国人の仕業に見せかけて、その報復として満州を軍事制圧すること」でした。
関東軍は前から満州を軍事制圧したがっていたんだけど、いきなり攻撃を仕掛けたら国際社会から非難されてしまう可能性がありました。
そこで『中国人が俺たちの鉄道を爆破したから、その正当防衛として仕方なく攻撃するだけだから!決して満州が欲しくて攻撃してるわけじゃないから!』って言い訳をして、満州を攻撃する口実を得ようとしたのが柳条湖事件なんだ。
ネタバレしてしまうと、この柳条湖事件の目的は成功します。
関東軍は、柳条湖事件をきっかけに満州で軍事行動を開始。満州事変へと発展していきました。
柳条湖事件が起きた時代背景【満蒙の危機】
柳条湖事件が起きた背景には、日本の強い危機感があります。
日露戦争でゲットした満州や内蒙古の権益が中華民国に奪われるかもしれない・・・!
※満州と内蒙古は合わせて満蒙と言って、場所はザックリと下図のとおりです。
※満蒙を手に入れた背景を詳しく知りたい方は、以下のポーツマス条約の記事が参考になりますよ。
いろんな言葉がいきなり登場したけど、ゆっくり説明するから安心してね!
日本は1904年の日露戦争に勝利した後、ロシアが持っていた満蒙の権益を手に入れることに成功しました。
しかし、満州や内蒙古はもともと中華民国(1912年までは清国)の領地。
中華民国が『権益を返せ!』と抵抗することも考えられたので、日本は満蒙の権益をどう維持していくか、頭を悩ませていました。
そこで日本が注目したのが中華民国で続く内紛です。
1912年に中華民国が建国して以降、中華民国は南北に分かれて対立を続けていたんです。
日本は、北方に拠点を持つ北京政府に接近して、こんな提案をします。
北京政府が内紛に勝てるように俺が裏からサポートしてあげる^_^
だから、北京政府は満蒙の権益に口出しするなよ。
この日本の目論見は大成功。しばらくの間、満蒙の権益は維持されましたが、1928年、事態が大きく動きます。
なんと、南方に勢力を持っていた国民政府が北京政府を滅ぼしてしまったのです・・・!(北伐)
満蒙の権益を守る大事なパートナーを失った日本政府は、生き残った北京政府のボス張作霖を引き続き支援して、国民政府に対抗させることで満蒙の権益を維持しようと考えました。
・・・が、この日本政府の方針に関東軍が大反対します。
張作霖はもともと野心を持っている男だ。これまで通り日本の言うことを素直に聞くとは思えない。
もっと日本の言いなりになるやつを選んで、いっそのこと満州を日本の操り人形にしてしまうべきだ。
こう考えた関東軍は、張作霖を中国人に見せかけて暗殺してしまいます。(張作霖爆殺事件)
しかし、張作霖爆殺事件は失敗に終わりました。なぜなら、張作霖の死が中国人ではなく日本の仕業であることがバレてしまったからです。
そして、これにブチギレたのが張作霖の息子で、その跡を継いだ張学良でした。
父を殺した日本と協力関係を結ぶぐらいなら、私が満州を統治することを条件に、ライバルの国民政府に降伏してしまおうと思う。
もはや日本の協力はいらぬし、日本の満蒙の権益を認める気などない・・・!
北京政府滅亡&張作霖爆殺事件の結果、日本は中華民国内で協力してくれる勢力を失い、満蒙の権益を維持するには武力を使わざるを得ない状況に追い込まれます。
しかし、軍事行動にはお金がかかるし、国際社会から非難を受けて外交面で孤立しかねません。そこでこの状況を打破しようとしたのが、外務大臣の幣原喜重郎でした。
幣原は、幣原外交と呼ばれる協調外交で満蒙の権益を守ろうと頑張りました。・・・が、話し合いだけでは満蒙の権益を取り返そうとする中華民国の勢いに勝てず、日本国内からも「弱腰外交!」との批判を受け失敗に終わります。
そして、幣原外交の生ぬるいやり方を見て、憤慨していたのが関東軍です。
現地の第一線で活躍していた関東軍は、年々日本の満蒙の権益が奪われ始めていることを肌身で感じていたため、「満蒙の権益を守るにはもはや軍事力を用いるしかない・・・!」と考えていました。(満蒙の危機)
そして、この考えが実行に移された事件こそが、今回紹介する柳条湖事件だったのです。
ここまでの経過は全て以下の記事でまとめているよ。ここまで読んでわからない部分があったら、経過をしっかり確認しておきましょう!
柳条湖事件の計画
柳条湖事件の作戦を主導したのは、関東軍の参謀だった石原莞爾という男。
石原莞爾には、こんな持論がありました。
近い将来、西洋の代表のアメリカと、東洋の代表の日本との間で全面戦争が起こるだろう。
この戦争に備えるためにも、満州は絶対に日本のものにしなくてはならないんだ・・・!
ちなみに、この予言は1941年に始まった太平洋戦争で現実のものとなりました。
1931年6月、陸軍は1年後に満州を軍事制圧する計画を決定します。しかし、現地(満州)では日本人と中国人のトラブルが絶えず、6月末には陸軍の要人が殺害される事件まで起こってしまいます。
このような情勢の中、石原莞爾とその協力者たちは1つの決断をします。
陸軍上層部からの命令は無視して、関東軍だけで今すぐにでも満州で軍事作戦を開始してしまおう!!
しかし、当時の関東軍の軍勢約1万に対して、満州の張学良が率いる軍は軽く10万を超えていました。
そのため、関東軍の兵力のみでは失敗することも予想されたため、石原たちは陸軍本部や朝鮮の日本軍に根回しを開始します。
作戦の決行日は9月末に決定します・・・が、9月上旬に計画が日本政府にバレてしまいます。
政府に計画がバレたら、計画中止に追い込まれるかもしれぬ。
決行日を早めて中止される前に行動してしまおう!
こうして1931年9月18日、ついに計画が実行に移されました。
柳条湖事件
1931年9月18日22:30頃、満州の柳条湖付近で南満州鉄道(略して満鉄)が突然爆破しました。
この事件は、日本のマスコミで次のように報道されます。
中国の兵300~400人が、計画的犯行により満鉄を爆破した。これに応戦した関東軍と中国兵が衝突し、戦いが始まった。
・・・しかし、この報道は石原莞爾たちの策略。事件の真相は全く異なるものでした。
満鉄を爆破した本当の犯人は関東軍。しかもニュースになるような大規模な爆破ではなかったのです。
中国人の仕業にする口実が欲しかっただけだから、爆破はかなりショボいものだったんだ。
満鉄は自分たちのものだし、被害を大きくしたくないからね。
どれぐらいショボいかというと、列車が爆破後のレールを普通に通れてしまうぐらいの本当に小さな爆破だったんだ。
関東軍は、鉄道爆破の仕返しを口実にすぐさま行動を開始。
19日深夜1:30に攻撃命令が出され、電光石火の速さで満州の軍事制圧作戦が始まります。
関東軍の兵力はわずか10,000程度で、張学良の兵力に勝てないため、電撃作戦で一気に満州各地を制圧しようとしたんだ。
さらに関東軍は、朝鮮の日本軍司令官だった林銑十郎に朝鮮からの援軍を要請。
その後も次々と軍事行動を続け、19日には、満鉄が敷かれている地域の主要都市(奉天・長春・営口など)の占領に成功します。
ここまでは、関東軍の計画通りです。
関東軍の電撃作戦が成功した背景には、張学良が関東軍との全面戦争を避けるため、あえて大きな抵抗をしなかったこともありました。
柳条湖事件をめぐる政府の対応
19日10:00、日本国内では、大臣たちが集まり緊急会議を開催。
当時外務大臣だった幣原喜重郎は、この事件の真相を関東軍の陰謀だと見抜きます。
関東軍のこれまでの行動を踏まえるに、柳条湖事件は満州を軍事制圧しようとする関東軍の仕業だろう。
こんなことをされたら、幣原外交がパーになり、日本は国際社会から批判を浴び孤立しかねない。これ以上の進軍を認めてはならぬ!
会議ではこの幣原の意見が採用され、戦線拡大をストップすることが決定。
林銑十郎たち朝鮮からの援軍の話も白紙となってしまいます。
張学良の兵力は40万を超えるんだぞ!奇襲&速攻で次々と都市を制圧しなければ、兵力が劣る我々に勝利はない。
戦線拡大をやめて敵に集結する隙を与えれば、奪った主要都市も次々と奪い返されてしまうだろう。
こんな命令が出たら、この作戦は失敗だ!こんな作戦俺はもうやめてやる!!!
柳条湖事件から満州事変へ・・・
戦意を喪失する石原莞爾をよそに奮闘したのが、石原と同じく関東軍参謀だった板垣征四郎という人物でした。
板垣は、とある作戦を考えます。
朝鮮からの援軍が政府の命令でストップしているのなら、こちらから援軍を送らざるを得ない状況を作り出してやる。
制圧した奉天の兵を吉林へ向けて、わざと奉天を手薄にする。こうすれば、否が応でも朝鮮から援軍を送らざるを得ないだろう。
林銑十郎なら、きっと動いてくれるはずだ。
柳条湖事件から3日後の9月21日、政府に1つの報告がもたらされます。
報告します!
林銑十郎が、政府の命令を無視して満州へ侵攻を開始しました!
林め!!なんてことするんだ!!
これでは満州で全面戦争が起こるではないか!!
当時の憲法(大日本帝国憲法)では、軍事作戦の最高指揮官は天皇であり、林銑十郎は天皇の命令を無視したということになります。
そして、命令を無視した場合、死刑になることもありました。
若槻がブチギレた命令無視ですが、林銑十郎にとっては、自らの命をかけた満州を守るための英断でもあったのです・・・。
22日、この報告を受けて政府では再び大臣の会議(閣議)は開かれますが、この閣議の結果、林銑十郎の行動が認められ、今後の戦争に向けた国家予算も認められることになりました。
林銑十郎が朝鮮から援軍を送った時点で、すでに引くに引けない状況になっていたから、それなら満州の軍事制圧を認めてしまったほうが得策・・・と、しぶしぶ関東軍の行動を認めたのです。
林銑十郎が命令無視をしなければ、柳条湖事件はここで終わって満州事変が起こらなかったかもしれません。そう考えると、林銑十郎の英断は、日本の歴史を大きく動かしたとも言えるんだよ。
こうして柳条湖事件から始まった満州制圧作戦は、政府公認の作戦となり、本格的な軍事行動が始まります。この軍事行動が満州事変となり、日本の歴史を大きく動かしていくことになります。
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