結城合戦を簡単にわかりやすく徹底解説するよ!【結城氏VS室町幕府】

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結城合戦の主人公、結城氏朝(ゆうきうじとも)

今回は1440年に起きた結城合戦(ゆうきかっせん)という戦いのお話。応仁の乱より一足早く始まった関東地方の騒乱の1つです。

最初に室町時代中期に起こっていた関東の戦乱を時系列で整理しておきます。

1416年:上杉禅秀の乱

関東管領の上杉禅秀と鎌倉公方の足利持氏が争い。上杉禅秀の敗死。

1438年:永享の乱

上杉禅秀の乱に勝った足利持氏が室町幕府と戦争。持氏敗死する。

1440年:結城合戦 ←今回の内容!

持氏の残党が室町幕府に反発する。室町幕府の勝利。一応、関東が平定される。

1441年:嘉吉の変

将軍が暗殺される。結城合戦がパーに。再び関東は戦乱の世へ。

1455年:享徳の乱

関東版「応仁の乱」。28年続く。乱が終わると戦国時代へ。関東地方は北条早雲が支配する。

戦国時代になり、北条早雲が関東を支配するまでの長い間、関東地方はカオスと化します。今回メインの結城合戦もそんな戦乱の1つです。

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永享の乱から結城合戦へ

まずは、「なぜ結城合戦は始まったのか?」という話から。

結論から言ってしまうと、永享の乱の第2ラウンド的な位置付けになります。なので、以下の永享の乱の記事も合わせて読んでいただくと理解がスムーズになると思います。

1438年に起こった永享の乱で鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)が敗死すると、勝者の足利義教は、次の鎌倉公方に自らの息子を送り込むことにします。

永享の乱は、見方を変えると足利一族内における宗家(将軍家)VS分家の争いとも見ることができます。なので、自分の息子を送り込んでおけば、とりあえず争いは治まるだろうと考えたのです。

しかし、永享の乱の際に足利持氏に味方していた人々の中には、室町幕府が関東統治に介入してくることに強い拒否反応を示す者もいました。

その一人が、この記事の主役である結城氏朝(ゆうきうじとも)という人物でした。持氏が亡くなった一年後の1440年3月、結城氏朝は、生き残っていた足利持氏の遺児春王丸・安王丸を次期鎌倉公方に擁立して幕府に対して挙兵することになります。

これが「結城合戦」の名前の由来です。

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プチ応仁の乱

結城氏朝は各地に挙兵を呼びかけますが、これで広範囲にわたって賛同者を増やすことになります。

その大きな理由の1つが、各一族でトラブっていた家同士の争いです。例えば、山田一族というのがいて、一族の中に山田A家と山田B家があって争っていたとします。

山田A家が幕府寄りだった場合、山田B家は結城氏朝の呼びかけに応じて反幕府側に立ち、山田A家と徹底的に争います。

こんなことが各地で行われました。(もちろん、本当に足利持氏の遺児を鎌倉公方にしたい人たちもいましたよ)

室町幕府はこれに対応するため、上杉清方(うえすぎきよかた)を総大将として、反乱軍の追討命令を出します。

上杉清方は上杉憲実(うえすぎのりざね)の弟に当たります。上杉憲実は鎌倉公方を補佐する関東管領という立場でありながら、永享の乱で鎌倉公方の足利持氏を討ち取った重要人物です。

永享の乱の後は隠居気味で、後のことは弟の上杉清方に託していました。おそらくは主君だった持氏を殺してしまったことをきっかけに政治の世界から身を引きたくなったのだと想像します。

幕府軍の主力には今川憲忠(いまがわのりただ)という人物もいましたが、今川氏も一族で揉めており、憲忠と敵対する今川氏広(いまがわうじひろ)は結城氏に味方しています。

他にも、宇都宮氏・佐竹氏などの関東の有力一族も幕府派と結城派に分裂しており、まさに応仁の乱の縮図となっていることがわかります。

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結城合戦

結城氏朝の本拠地は結城城。今でいう茨城県結城市にありました。

ここを攻め落とせば幕府側の勝利ですが、一族のお家争いと結びついてしまったことで戦火が広範囲に渡り、幕府軍は戦力を分散しなければならず、苦戦を強いられます。

そのため、幕府側の兵力が多かったにも関わらず、結城城を攻め落とすのに一年もの月日を要し、1441年4月、ようやく乱を鎮圧することができました。

結城氏朝は敗死し、持氏の遺児である春王丸と安王丸も命を奪われます。しかし、もう一人の遺児だった永寿王丸は奇跡的に一命を取り留め、後に足利成氏(あしかがしげうじ)として関東の戦乱において主人公の一人となります。

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結城合戦の祝勝会で将軍が暗殺される(嘉吉の変)

結城合戦の平定によって、ようやく関東地方の情勢が落ち着くかと思った矢先、衝撃的な事件が起こります。将軍の足利義教が闇討ちされてしまったんです。

時は1441年6月24日、赤松満祐(あかまつみつすけ)の家で開かれた酒宴の場で足利義教は斬られます。首謀者は家の主人である赤松満祐。

先ほど、足利持氏の遺児である永寿王丸が奇跡的に助かったという話をしましたが、これは嘉吉の変で足利義教が消え去ったおかげだと言われています。そう考えると、永寿王丸本当に運が良かったことになります。

足利義教が死亡して、関東地方が権力者不在になると、1449年、永寿王丸(足利成氏)が鎌倉公方に就任。

1455年になると、次は足利成氏と上杉氏の間で紛争が始まり、これが「享徳(きょうとく)の乱」となって28年に及ぶ関東の戦乱へと続くのです。

もし永寿王丸の命が結城合戦で奪われていたら、関東の歴史は大きく変わったかもしれませんね。結城合戦に嘉吉の変と、様々な事件に身を委ねながら、室町時代の歴史は紡がれていきます。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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