今回は、1930年前後の満州などの状況を表す「満蒙の危機」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
満蒙の危機とは
満蒙の危機とは、日本が1904年の日露戦争以来、長い間勝ち取ってきた満州やモンゴルのいろんな権益が失われ始めた1920年代後半の状況のことを言います。
満州の「満」
モンゴル東部のことを内蒙古と呼んだので「蒙」
そして、
「長年築いてきた満蒙の権益が失われるかもしれない・・・!
という日本の危機的な状況を表現したのが、満蒙の危機です。
満州と内蒙古の歴史
本題に入る前に、日本と満州・内蒙古がどんな関係にあったのか、おさらいしておくね!
日本が、満蒙で権益を手に入れたのは、ロシアとポーツマス条約を結んだ1905年までさかのぼります。
日露戦争に勝った日本は、ロシアが持っていた満州の様々な権益を、ロシアから奪うことに成功。
この時に日本が手に入れたのが、満州にある長春〜旅順までの鉄道の経営権です。
※日本は、鉄道事業を実施するため、南満州鉄道株式会社という会社を立ち上げてました。
その後も不定期にロシアとの交渉が続き、1910年代に入ると、ロシアが持つモンゴルの一部(内蒙古)の権益も譲り受けることが決まり、日本は満州・内蒙古に多くの権益を持つようになりました。
満蒙の危機に陥るまで
ところが1920年代後半から、この権益が脅かされるようになります。
なぜかというと、中華民国が日本に対して満蒙の権益を返すよう圧力をかけ始めたからです。
さっきからロシアから権益をもらった・・・という話をしてきたけど、そもそも満州も内蒙古も中華民国の領地。返還を求めるのは当然と言えば当然だったんだ。
中華民国は、1912年の辛亥革命で滅びた清国に代わって、新しく建国された国です。
日本は、満蒙に権益を持つことを清国に渋々認めさせていましたが、清国が滅びたことで満蒙の権益の話は白紙となってしまいました。そこで日本は、中華民国に対して、改めて「日本が満蒙の権益を持つこと」を認めさせることにします。
中華民国が文句を言えないよう強引に満蒙の権益に触れないよう約束させてやる!
こうして、中華民国に対して突きつけた要求が、二十一ヶ条の要求です。
中華民国はこの要求を受け入れ、日本は中華民国に対しても満蒙の権益を認めさせることに成功しますが、そのやり方には少しばかり問題がありました。
二十一ヶ条の要求の中には無理難題な内容も含まれていたのに、日本は中華民国と対等な外交交渉を行わず、上から目線で強引に要求を受け入れさせてしまったのです。
日本のムチャクチャなやり口に、中華民国は強く反発し、人々の反日感情が高まりました。
この二十一ヶ条の要求への反発が、「満蒙の権益を日本から取り戻せ!」という考えのきっかけとなっていくのです。
とはいえ、すぐに日本の権益が脅かされることはありませんでした。というのも、出来たてホヤホヤの中華民国では国を大きく南北に分けた内紛状態に陥っていて、それどころではなかったからです。
当時、中華民国では、北京に政府を置く北京政府と、南方に拠点を置いていた孫文が激しく対立をしていました。
さらに1916年、北京政府をまとめていた袁世凱が亡くなると、北京政府内で軍事派閥(軍閥)同士の争いが激化。
北京政府VS孫文の争いに、北京政府の軍閥争いも加わり、中華民国の情勢はカオスになると、日本はひらめきます。
・・・あっ!
どっかの軍閥に『お前のことを支援してやるから、俺(日本)の言うことを聞いて、満蒙の権益については一切触れるなよ!』って、持ちかけたら案外乗ってくれるんじゃね!?
この日本の目論見は上手くいきました。
日本は、最初は安徽派と呼ばれる軍閥に資金援助(西原借款)を行い、安徽派が内紛で滅びると、次は奉天派と呼ばれる軍閥を支援するようになりました。
地理的に満蒙に近い北京政府内の軍閥と良好な関係を結ぶことで、満蒙を取り返そうとする中華民国の動きを抑えようとしたんだね。
※北京政府は、いくつかの軍閥が集まって組織されていました。そして政府内で大きな力を持っていたのが奉天派軍閥だったのです。
軍閥は内心では日本のことを快く思っていませんでした。しかし、内紛に勝ち残るため日本に接近する道を選びました。
ところが1925年以降、中華民国の情勢が大きく動きます。
1925年5月、上海で日本への反日感情から五・三〇運動が起こり、この反日感情の受け皿となる形で南方の広州で国民政府が樹立されたのです。
この国民政府は、1925年3月に亡くなった孫文の意思を受け継ぎ、中華民国を列強国支配から解放する革命運動を主導します。もちろん、日本が満蒙で権益を持つことにも反対です。
さらに悪い動きが続きます。1926年、国民政府のトップだった蒋介石が、北京政府へ侵攻を開始しました。(北伐)
しかも1928年に、北京政府は蒋介石に敗北します。北京政府と国民政府に分かれていた中華民国が、国民政府に統一されることになったのです。
これは、日本にとってかなーーーりマズい事態です。
中華民国の内乱のおかげで満蒙の権益を守ることができたのに、その内乱が終わってしまった。
しかも、日本が支援していた北京政府が滅び、満蒙の権益に反対する国民政府が勝ってしまった・・・。
ヤベェ、これからどうやって満蒙の権益を守ろう・・・(絶望)
実際に1928年〜1929年にかけて、日本と中華民国の不平等条約の一部が撤廃されたり、日本の権益が一部が奪われ始めました。
満蒙をめぐる日本の対応
満蒙の権益が失われようとしている現状を日本政府は黙って見ていたわけではありません。
幣原外交
1924年〜1927年にかけてこの満蒙問題に対応したのは、憲政会率いる加藤高明&若槻禮次郎内閣でした。
直接問題に取り組んだのは、外務大臣の幣原喜重郎。
幣原は、「幣原外交」と呼ばれた得意の協調外交で中華民国との話し合いによる解決を目指します。
こちらが強硬な姿勢をとれば、向こうもますます強硬となり、解決の道は遠くなるばかりだ。
日本としては、譲歩できるものは譲歩して、満蒙の権益を話し合いで守り抜かなければならぬ。
・・・が、この幣原の方針は、国内から「弱腰すぎる!」との批判があり、1927年の政権交代に合わせて、頓挫します。
1927年4月、若槻内閣は政府内の幣原外交への批判や、1927年に起きた金融恐慌への対策ミスの責任を取り、総辞職。
代わりに、立憲政友会による田中義一内閣が誕生します
田中義一の強硬外交
立憲民政党→立憲政友会の政権交代に合わせて、中華民国への外交方針も大きく転換しました。
幣原外交のような生ぬるい方法では、中華民国が調子に乗るだけだ。
満蒙の権益は絶対死守しなければならないから、必要ならば中華民国への武力攻撃や内政干渉を行なってでも、問題解決に取り組むべきだ!
田中義一は北京政府を支援するため、1927年〜1928年にかけて山東半島へ兵を送り込み、蒋介石率いる革命軍を牽制。(山東出兵)
1928年5月の山東出兵では、日本軍と革命軍が実際に武力衝突する事件(済南事件)が起こるなど、積極的な外交を繰り広げます。
さらに同月(1928年5月)、北京政府が革命軍によって滅ぼされると、日本政府はすぐに方針を転換。一転して蒋介石に対して「革命軍は満州に侵攻しない」と約束させ、なんとか満蒙の権益を守り切ることに成功します。
しかし、この約束は単なる時間稼ぎに過ぎません。国内統一を果たした国民政府は、当時こそ統一したばかりで日本に抵抗する余裕がありませんでした。しかし、一旦内政が安定してしまえば、いずれ満蒙の権益の返還を強く迫ってくることは火を見るより明らかです。
そこで田中義一は、生き残った北京政府のボスである張作霖を支援して、満州の統治を任せようと考えます。
北京政府は滅びたが、その残党を利用すれば、これまで通り満蒙の権益を守れるはずだ。
しかし、1928年6月、張作霖を嫌った関東軍が、田中の意見を無視して張作霖を不慮の事故に見せかけて爆殺してしまいました。(張作霖爆殺事件)
・・・こうして、田中義一の目論見も失敗に終わります。
さらに1929年、田中義一は、張作霖爆殺事件への事後対応で昭和天皇の逆鱗に触れてしまい、その責任をとって総辞職へ追い込まれます。
田中義一の積極外交は、失敗に終わったばかりではなく、日中関係を大きく悪化させ、満蒙問題の解決をより一層困難としました。
日本が内乱に紛れて済南事件で中国人を殺めたり、不慮の事故に見せかけた張作霖の爆殺が日本の仕業だとバレてしまったことで、中華民国の反日感情が高まってしまったんだ。
満蒙の危機
田中内閣が解散すると、立憲政友会→立憲民政党へと政権交代が起こり、浜口雄幸が首相となりました。
そして浜口は、再び幣原喜重郎を外務大臣に任命し、「武」ではなく「和」による満蒙問題の解決に取り組みます。
幣原外交が復活したってことだね!
・・・が、田中内閣で悪化した日中関係は、もはや話し合い程度では解決不可能なほど深刻化していました。
こうして日本は、満蒙問題の解決手段を失い、満蒙の権益は風前の灯となってしまいます。
この状況に強い危機感を感じていたのが陸軍でした。特に現地の第一線で活躍していた関東軍は、政府の対応に強い憤りを感じ、新たな解決策を模索するようになります。
幣原外交なんて軟弱なことをしていたら、満蒙の権益なんか簡単に吹き飛ぶぞ。
こうなったら政府なんか頼らず、俺たちだけで満蒙の危機を守ってやる・・・!!
陸軍が政府の対応に不信感を持ったことで生まれたのが、この記事で紹介する「満蒙の危機」という言葉になります。
関東軍の作戦
関東軍が考えた満蒙の危機の打開策は、至ってシンプルなものでした。
もうさ、満州とか内蒙古を軍事制圧して、日本の言いなりの独立国家にしちゃえばいいんじゃね??
実は関東軍は、北京政府が滅ぼされた時から満州を独立させる計画を考えていました。
だから関東軍は、張作霖を爆殺したんだ。
関東軍は、これまでのやり方じゃダメで満州を独立させる必要があると考えていて、独立させるには張作霖よりもっと従順な人物を担ぎ出す必要があると考えていたんだよ。
1931年6月、陸軍は1年後の1932年に満蒙を武力制圧する計画をまとめ、その準備に取り掛かります。
・・・が、6月27日、重大な事件が起こります。
反日感情が高まる中華民国で、陸軍の要人が殺害される事件が起こったのです。
関東軍は憤慨しましたが、同時にこの事態を満蒙の危機を打開する絶好のチャンスとも考えました。
この事件の責任を追及して中華民国に圧力をかければ、満蒙の権益を認めさせることができるのでは・・・?
しかし、日本政府は事件の事後処理を外務省に任せ、関東軍に出番を与えません。
しかも、外務大臣の幣原は、中華民国に対して謝罪や賠償、責任者の処罰を求めるだけで、満蒙の権益について強く迫ることをしませんでした。
おまけに8月上旬、陸軍省では満州への攻撃を三年遅らせることが決まりました。
日本政府は、内心では満州への攻撃をためらっていました。
しかし、関東軍が政府を無視して攻撃を始めそうだったので、陸軍省は満州制圧計画を作って攻撃を先延ばしにしたのです。
計画実行が1年後と決まれば、少なくとも1年は平和だと考えたわけです。これをさらに3年に延長して、計画そのものをうやむやにしてしまおうという作戦だったんだ。
この政府の対応に、ついに関東軍もブチギレます。
8月12日、関東軍の参謀だった石原莞爾は、陸軍省に怒りの報告を入れています。
※参謀:軍事の計画・作戦を立案する人のこと
謝罪を求める程度の軟弱なやり方では、満蒙の危機は全く解決しない。
満州では日本人の居住地が奪われるなど、想像を絶する状況に陥っていることを外務省は知らないのか!!
私はこれ以上満蒙の権益が失われるのを黙って見過ごすことはできない。1年後に満州を軍事制圧する計画だったが、もはや一年も待てん!!
その後、日本国内でも「幣原外交は軟弱だ!」と批判声が高まると、関東軍は満蒙の危機を打開するため、いよいよ満州の軍事制圧を決心します。
1931年9月18日、関東軍は軍事行動を開始。こうして、日本史上「満州事変」と呼ばれる歴史を大きく動かした大事件が起こることになるのです。
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