今回は、日本にアメリカとの戦争を決断させた外交文書『ハルノート』について、わかりやすく丁寧に解説するよ!
ハルノートとは
ハルノートとは、戦争を避けるために日本とアメリカが1941年4月から始めていた交渉(日米交渉)が、決裂するきっかけになったアメリカの外交文書のことを言います。
1941年11月に、アメリカの国務長官(※)であるコーデル=ハルから渡された外交文書だったので、この文書のことをハルノートと言われています。
※国務長官は、日本でいう外務大臣的なポジションです。
ハルノートには、「アメリカと争いたくないなら、この条件に従え!」ってことで日本に対して厳しい条件が書かれていました。
ハルノートを見た日本は、これ以上の交渉は困難と判断し、1941年12月、アメリカとの戦争(太平洋戦争)に踏み切ることになります。
日米交渉のおさらい
日本は1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争を開始します。
日本は序盤こそ中国を圧倒したものの、その後は苦戦を強いられました。
軍事力では私の方が上のはず。なぜ中国を倒せないんだ・・・!
その理由は、イギリスやアメリカなどが中国に支援をしていたからでした。
イギリスやアメリカは、日本が中国に勝って超大国になってしまうことを嫌って、中国に味方したんだ。
アメリカ・イギリスは、東南アジアの植民地から軍事物資を支援するための搬送ルート(通称:援蒋ルート)を構築し、さらには日本の戦争遂行能力を奪うため、日本に対して経済制裁を加えました。
日本に経済制裁をするため、アメリカは1939年に日米通商航海条約の破棄を決めたぞ。
一方の日本も、援蒋ルートの遮断や経済制裁阻止に向けて、対応を迫られるようになりました。
中国に勝つには、中国の背後にいるアメリカ・イギリスらをなんとかしないとダメだ・・・!
1940年6月、ドイツがフランスに侵攻してフランスを敗北させると、日本はこれを援蒋ルートの1つになっているフランス領インドシナ(仏印)経由ルートを潰せるチャンスと考えました。
1940年9月、日本は弱ったフランス政府に圧力をかけ、フランス領インドシナの北部(北部仏印)に軍を駐屯させて援蒋ルートの1つを潰すことに成功。(北部仏印進駐)
さらに同年9月、ヨーロッパで無双状態だったドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結び、アメリカに対して外交圧力をかけようとしました。
アメリカに『日本を追い込んだら仲間のドイツ・イタリアも黙ってねーからな!』って圧力をかけながら、中国への支援をやめるようアメリカと交渉しようとしたわけさ!
1940年後半からアメリカと日本の間で、交渉の場を設ける準備が進められ、1941年4月についに日本とアメリカによる公式の外交交渉(日米交渉)がスタートしました。
ハルノートの話は、日米交渉の延長線上のお話になります。「日米交渉ってなに?」って方は、まずは日米交渉の記事を読んでいてくださいね!
日米交渉の経過〜ハルノートができるまで〜
最初の交渉では、ハル国務長官から次のような提案が出されました。
そして、この提案をアメリカが受け入れる代わりに、日本に対して次の4つのことを要求しました。(この4つの条件のことを世間ではハル4原則と呼んでいます)
要するに『アメリカが日本の要求をある程度受け入れてやるから、日本はこれ以上侵略行為をすんな!』っていう提案だね。
ハルの提案は、当時の日本にとってかなりの好条件だったので、このまますんなりと日米交渉は成立する・・・かと思われましたが、そうはなりませんでした。
というのも、日本では、外務大臣の松岡洋右がこの提案に反対したからです。
日独伊三国同盟に加えて、日本は日米交渉と同時(1941年4月)にソ連と日ソ中立条を結んだ。
今なら、ドイツ・ソ連との良好な関係を外交カードにして、アメリカからさらなる好条件を引き出せるはずだ!もっと強気に交渉しろ!
こうして日本が強気にでると、日米交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
さらに1941年7月、日本は資源確保のため、フランスを脅してフランス領インドシナ南部(南部仏印)にまで軍を進駐。(南部仏印進駐)
交渉中の侵略行為にアメリカはブチギレます。
はっ?侵略行為をやめれば経済制裁やめるって言ってんのに、その交渉の真っ最中に進軍するとかありえなくね!?
怒ったアメリカは1941年8月、日本への石油輸出の全面禁止を決定。
石油の多くをアメリカに依存していた日本は、約1年半で石油が枯渇してしまう状況に追い込まれました。
つまり、日本はあと1年半で日中戦争を終わらさないと、戦争遂行能力を失って自動的に敗北が確定するってことです。
帝国国策遂行要領
このまま日米交渉が失敗に終わったら日本は完全に詰むことになる。
日米交渉がダメだった時のことをしっかり想定しておかねば・・・!
1941年9月、危機感を持った日本は、今後の外交方針を定めた帝国国策遂行要領なるものを作成します。
その内容は「10月上旬までに日米交渉が成功しなかったら、アメリカとの開戦に踏み切る!」というもの。
日本も内心はアメリカと戦争はしたくありませんでした。
しかし、もし日米交渉が決裂すれば、日本が生き残るには、東南アジアにある豊富な資源を武力で奪い取るしかなく、そうなると東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリスとの戦争は必須です。
そして、東南アジアに侵攻するのなら、石油が枯渇する前に迅速に実施する必要があります。
つまり、日本は「日米交渉で平和的に事態を解決したいけど、もし戦争になるのなら早期に開戦したい!」というとても難しい状況に置かれていたのです・・・。
ハルノート登場までの外交駆け引き
日本は、アメリカとの戦争を避けるため日米交渉に全力を注ぎますが、逆にアメリカは次第に日本との交渉を渋るようになります。
結局、10月上旬になっても日米交渉は進展せず、10月16日、その責任を取る形で首相だった近衛文麿が辞任。
新たに陸軍大臣だった東條英機が首相となると、交渉期限を11月下旬に延期して、アメリカとの最後の交渉に臨みます。
日本は最終交渉案として、2つの案を用意します。
甲案は、交渉のベースとなる案として作られました。
そして、甲案がアメリカに拒否された時に、甲案以上に日本が譲歩した案としてアメリカに見せる予定だったのが次の乙案です。
乙案は、日本政府の重鎮たちが議論に議論を重ねた結果、日本ができる最大限の譲歩を盛り込んだ内容です。
もし乙案まで拒否されたら、日本はこれ以上の交渉は不可能と判断して、アメリカと開戦する覚悟でした。
高校日本史では、甲案、乙案のことまで覚えなくてOKです。
ただ、『甲案がダメなら乙案、そして乙案がダメならアメリカと戦争!』という当時の日本の計画を理解しておくと、ハルノートや太平洋戦争の理解が深まるので、この記事ではあえて甲乙案に触れています!
11月5日、日本政府は、アメリカにいる駐米大使の野村吉三郎に電報で計画を伝え、いよいよアメリカとの最終交渉が始まります。
野村吉三郎はアメリカ大統領ルーズベルトからの信頼が厚かったので、交渉役を任されていました。
11月7日、野村は甲案をハル国務長官に伝えます。
・・・が、実はハルは野村から話を受ける前に、すでに日本の計画を知っていました。
というのも、11月5日に日本政府から野村に送られた電報がアメリカ政府に傍受され、暗号文も解読されてしまったからです。
なるほど。日本は甲案と乙案の2つを用意していて、乙案がダメなら交渉決裂・・・つまり、アメリカとの開戦に持ち込むってわけね。
乙案の存在を知っていたハルは、当然、甲案での交渉を渋ります。なんせ渋っていれば、日本は甲案よりもアメリカに有利な乙案を提案してくるのですからね。
甲案を渋られると、11月20日、野村は秘密兵器である乙案をハルに提示。
しかし、ハルはこの最終案にも否定的でした。
乙案は、私が最初に示したハル4原則が満たされていない。特に日本が中国から手を引くことに触れていないのが問題だ。それにアメリカは、中国政府への支援をやめることはできない。
一応持ち帰って検討するが、野村よ、良い結果は期待しないでくれ。
そして、11月26日、日本の最終案に対するハルの回答が示されました。この回答文書こそが、ハルノートです。
ハルノートの内容
ハルノートは、冒頭で「この文書に拘束力はない(アメリカ議会で承認を得たものではない)」との前置きから始まります。
つまり、ハルノートはアメリカの決定事項ではなくて、あくまでハル自身の考えを反映させたものに過ぎない・・・ということです。
とはいえ国務長官の意見なので、拘束力がないと言ってもハルノートは大きな影響力を持っていたよ。
そのハルノートの主な内容は次のようなものでした。
要するにアメリカは「日本が満州事変以前の状況に戻るなら、経済制裁やめてやってもいいぞ!」と言っているのです。
言い換えると、日本がこれまで積み重ねてきた満州事変・華北分離工作・汪兆銘工作などの中国進出の努力を全て白紙しろってことです。
そしてアメリカは、ハルノートの内容をベースにして、また0から再交渉しようぜ!と提案してきました。
ハルノートを見た日本の反応
ハルノートを見た日本は、これを最後通牒に等しいものだと解釈しました。
※最後通牒とは:交渉相手に対する最後の要求のこと。相手が要求を受け入れない場合は交渉を打ち切りとなります。
その理由は2つあります。
1つは、ハルノートの条件が厳しすぎること。
実はアメリカにはもう交渉を成立させる気はなくて、無理難題を日本に要求して交渉が決裂するのを待っているのでは?
2つ目は、アメリカが交渉を長期化させようとしたことです。
石油が枯渇しそうな日本に時間がないのはアメリカが一番よく知ってるはず。それなのに0から再交渉なんて、ただの牛歩作戦じゃないか!
アメリカは交渉を長引かせて、日本が弱ったところでトドメを刺そうとしているに違いない!
もともと政府内では、アメリカとの戦争に乗り気だったのは陸軍だけで、ほかの多くの要人は戦争に否定的でした。
・・・が、ハルノートを見た日本政府は、12月1日、ついにアメリカとの開戦を決断します。
さらに日本は長期戦ができないため、アメリカ・イギリスに先制奇襲攻撃を仕掛ける短期決戦による勝利を目指しました。
奇襲攻撃の決行日は12月8日。この日、日本はアメリカ領ハワイ島と、イギリス領だったマレー半島に同時奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛け、アメリカ・イギリスに大損害を与えることに成功します。
この奇襲攻撃を受けてアメリカ・イギリスは日本に宣戦布告し、日本は太平洋戦争へと突入していくことになります。
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