今回は、1943年に開かれた大東亜会議について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
大東亜会議とは
大東亜会議とは、大東亜共栄圏の確立のために1943年11月に日本で開かれた国際会議のことです。
参加国はこんな感じでした。
インド以外の6カ国は大東亜共栄圏の独立国で、インドはその協力者として大東亜会議に参加しました。
大東亜会議がどんな会議だったのか、さっそく見ていくことにしよう!
大東亜会議が開催された時代背景【大東亜共栄圏のおさらい】
本題に入る前に、大東亜会議のテーマだった「大東亜共栄圏」についておさらいをしておきます。
大東亜共栄圏とは、「東アジア・東南アジアを西洋の植民地支配から解放して、日本が新たなアジアのリーダーになる!」という思想のことを言います。
1939年に日本が中国と戦争を始めると(日中戦争)、日本に勝ってほしくないアメリカ・イギリスら連合国は、日本への経済制裁を行いました。
アメリカたちは、日本が日中戦争に勝利して日本が強くなりすぎることを嫌ったのです。
この経済制裁によって石油・ゴム・ボーキサイト(※)などの重要資源が深刻な不足状態に陥ると、日本は自力で資源を確保するため、資源が豊富なオランダ領東インド(今のインドネシア)への侵攻を考え始めます。
※ボーキサイト:アルミニウムの原材料となる岩石
オランダ領東インドを制圧するには、連合国の軍事拠点があるアメリカ領フィリピン・イギリス領ビルマを制圧しておく必要があります。
つまり、東南アジアを植民地化しているアメリカ・イギリス・オランダを駆逐して大東亜共栄圏を築かなければ、資源の安定確保はできないわけです。
1941年11月、和平に向けたアメリカとの外交交渉が決裂(ハルノート)
経済制裁解除の見込みがなくなると、日本はアメリカ・イギリスとの海戦を決意し、1941年12月8日、日本はアメリカの真珠湾と、イギリス領のマレー半島へ侵攻を開始しました。(太平洋戦争)
開戦当初、日本は「アメリカたちが日本を追い詰めるから仕方なく戦争をしただけ!俺は悪くない!」というスタンスでした。
・・・が、快進撃によりあっという間に東南アジア一帯を手中に収めると、日本は戦争の目的を「大東亜共栄圏を築き上げるため!」として、大東亜共栄圏を戦争のスローガンとして掲げるようになりましす。
今でこそ、この戦争は太平洋戦争って呼ばれているけど、当時は「大東亜共栄圏を築くための戦争!」ってことで大東亜戦争と呼んでいたよ。
東南アジアの反応
東南アジアの人たちは、日本の大東亜共栄圏のことを好意的に受け止めます。
・・・というのも、東南アジアの人たちから見れば、日本は長年苦しんでいた植民地支配からの解放者だったからです。
日本神!!俺たちを植民地支配から解放してくれる救世主だ!!
大東亜共栄圏の樹立に合わせて、俺たちは独立するぞ!!
・・・が、日本にはその気はありませんでした。
うーん、俺は戦争に勝つために列強国を追い出しただけで、別に東南アジアを独立させるつもりはないんだけどなぁ・・・。
とはいえ、東南アジアの独立の意思を完全に無視することはできません。
もし独立を邪魔して現地で暴動でも起きようものなら、戦争で勝ち取った大東亜共栄圏はあっという間に自然崩壊してしまいます。
そこで日本は、各地域の事情も加味しながら、独立させた方が良さそうな地域では独立を認めることにしました。
フィリピン
フィリピンは、もともとアメリカから独立する予定が決まっていたから、そのまま独立してヨシ!
ビルマ
ビルマは悩んだけど、独立運動が激しいし、お隣のインドを刺激したくないから、独立してヨシ!
タイ
タイはもともと独立してたから、そのままでヨシ!
一方で、
・日本が軍を置くことをフランスと交渉済だったフランス領インドシナ
・資源が豊富なオランダ領東インド(今のインドネシア)
などは独立を認めず、日本の支配下に置くことにしました。
大東亜会議
快勝続きであっという間に大東亜共栄圏を築き上げた日本ですが、その勢いは最初だけでした。
アメリカが本気を出すようになると、1942年6月にミッドウェー海戦でアメリカに大敗。1943年2月にはガダルカナル島の戦いでも大敗を喫し、日本は劣勢に立たされます。
ヤバい・・・、東南アジアとガチで団結しないとアメリカに勝てなさそう・・・。
そこで日本は、大東亜共栄圏を確固たるものにするため、1943年11月に独立を認めたタイ・ビルマ・フィリピンに加え、満州国・中国(汪兆銘政権)を日本に招いて、国際会議を開くことを決めました。こうして開かれたのが大東亜会議です。
さらに、大東亜共栄圏の外からはインドがオブサーバーとして会議に加わります。
※オブサーバー:会議の傍聴者のこと
インドは、大東亜共栄圏に含まれていないのになぜ大東亜会議に参加したの?
インドは植民地支配から独立するため、もともとイギリスと敵対していました。そして、大東亜共栄圏にとってもイギリスは排除すべき存在です。
つまり、インドと大東亜共栄圏はイギリスという共通の敵を持ち、利害が一致していたのです。
大東亜会議の内容
大東亜会議の結果、大東亜共同宣言という声明が発表されました。
内容ばザックリと次のようなものでした。(内容を覚える必要はありません。)
新しい方針を打ち出す・・・というよりも、これまで大東亜共栄圏の理念を再確認する内容になっているよ!
高らかに宣言された大東亜共同宣言でしたが、実態は宣言とはかけ離れたものでした。
まず宣言内容は全て日本が決めたもので、他の参加国には修正権はありません。
つまり、宣言の内容には東南アジアの意向は含まれておらず、日本の理念を東南アジアに強制するものだったというとこです。
一方の参加国も、国の独立が最優先であり、独立に利する場合は日本に協力するけれども、必ずしも大東亜共栄圏の理念に共感はしていませんでした。
特にタイは、日本が敗北した時のことも想定して日本に協力姿勢を見せつつも、一定の距離を置こうとしていた・・・とも言われているよ。
タイは、長年イギリスとフランスに挟まれながら独立を保ってきた国だから外交関係にはかなりシビアだったんだ。
大東亜会議の成果
結論から先に言ってしまうと、大東亜会議は、太平洋戦争の戦局を変えるような成果を挙げることはできませんでした。
大東亜会議が開かれた1943年11月以降も、日本は敗戦が続きます。
アメリカに攻め込まれると2回目の大東亜会議を開くこともできなくなり、1945年9月、日本はそのまま連合軍に降伏。
日本の敗北によって大東亜共栄圏は消滅し、大東亜会議もセットで消滅することになります。
太平洋戦争が始まるまで、世界は基本的に白人によって支配されていました。
だから、国のトップたちを集めた国際会議を開くと必ず参加者には白人がいるわけです。
・・・ところが、大東亜会議には白人の姿はありません。参加者の全てがアジア人です。
実は、国のトップが集まる国際会議で白人が1人がいない会議は、大東亜会議が初めてでした。
大東亜会議は、『世界が全て白人に支配されているわけではない!』ということを世の知らしめたという意味では、歴史的にも意義のある会議でした。
日本は戦争に勝つこと、東南アジアは独立することで頭がいっぱいで、会議の成果はイマイチだったんだけど、歴史の上では『アジア人だけで国際会議が開かれた』という事実そのものが大きな意味を持ったんだ。
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