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南部仏印進駐を簡単にわかりやすく解説【アメリカ激おこで石油輸出全面禁止へ】

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もぐたろう
もぐたろう

今回は、1941年6月に起きた南部仏印進駐なんぶふついんしんちゅうについて、わかりやすく丁寧に解説するよ!

この記事を読んでわかること
  • 南部仏印進駐ってそもそもなに?
  • 南部仏印進駐はなぜ起きたの?
  • 南部仏印進駐の経過は?
  • 南部仏印進駐の結果、日本はどうなったの?
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南部仏印進駐とは

南部仏印進駐とは、1941年7月、日本がフランス領インドシナ(漢字で「仏印ふついん」)の南部に進軍し、駐屯させた出来事のことを言います。

仏印南部軍して軍を屯させた・・・ってことで、この出来事のことを南部仏印進駐と言います。

フランス領インドシナってそもそもどこ?

フランス領インドシナとは、今でいうベトナム・カンボジア・ラオスを合わせた地域のことを言います。当時は、フランスの植民地でした。

フランス領インドシナの場所

当時、日本は日中戦争に苦戦しており、その打開策として東南アジアへの進出を目指していました。

日本
日本

東南アジアから中国へ支援物資が送られているから、その支援ルート(援蒋ルート)を阻止する!

東南アジア(特にインドネシア)には油田がたくさんあるし、資源確保もできて一石二鳥いっせきにちょうだ!

この日本の東南アジア進出を良く思っていなかったのが、東南アジアに植民地を持つイギリス・アメリカです。

イギリスはビルマ(今のミャンマー)・インドアメリカはフィリピンを植民地にしていました。

アメリカは、1940年1月に日米通商航海条約を破棄し、日本に対して「これ以上東南アジアに進出したら、経済制裁を課して日本経済回らなくしてやんぞ!!」と脅しをかけていました。

・・・が、日本はこの脅しを無視して東南アジア進出を断行。1941年6月、フランス領インドシナの南部にまで軍を進めます。

これにブチギレたアメリカは、日本への経済制裁を強化し、日本への石油輸出を全面禁止します

すると、これに耐えかねた日本は、1941年12月、ハワイ州オアフ島にある真珠湾(パールハーバー)を奇襲攻撃し、アメリカとの戦争状態に突入していきます。

もぐたろう
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なにが言いたいかというと、南部仏印進駐は、日本とアメリカが戦争をするきっかけになった重要な出来事だよってことです!

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南部仏印進駐が起きた時代背景

援蒋ルート

1937年に起きた日中戦争は、アメリカなどが東南アジア経由で中国を後方支援したため、日本は中国を倒すことができず、泥沼の長期戦になっていました。

当時、中国へ軍事物資などを送っていた後方支援ルート(援蒋ルート)は、大きく3つありました。

ソ連ルート

イギリス領ビルマルート

仏印(フランス領インドシナ)ルート

の3つです。

援蒋ルート
もぐたろう
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ビルマルート・仏印ルートからはアメリカからの支援物資も多く輸送されていたよ。

もし日本が日中戦争に勝って超大国になってしまったら、隣国のソ連はもちろん、東南アジアに植民地を持つアメリカ・イギリス・フランスにとって相当な脅威になります。

だから、アメリカたちは、中国が日本に負けないよう後方支援をしていたんだ。

日本は、援蒋ルートへの対応に頭を悩ませます。

日本
日本

日中戦争に勝つには援蒋ルートを遮断するしかないが、遮断しようとすればフランス・イギリス、アメリカと敵対し、敵を増やすことになる。

どうしたものか・・・。

北部仏印進駐

そんな中、1940年6月に大きな出来事が起こりました。

ヨーロッパでドイツが快進撃を続け、6月にはなんとあのフランスがドイツに降伏したのです・・・!

日本
日本

・・・もしやフランスが力を失った今って、仏印ルートを潰す大チャンスなのでは!?

1940年6月19日、日本はフランス領インドシナに対して

・中国への後方支援の中止

・フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐

※進駐とは:軍を進めて、そこに軍を駐屯させること

の2つを要求しました。

日本のこの要求は受け入れられ、1940年9月には、フランス領インドシナ北部への日本軍の進駐が完了します。(北部仏印進駐

日本は、仏印ルートの拠点だったハノイ(ベトナムの首都!)を抑え、援蒋ルートの一つを潰すことに成功したわけです。

もぐたろう
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フランス軍と日本軍の間で武力衝突も起こったけど、大規模な戦いにはなりませんでした。

赤い部分の北半分に軍を進めたのが北部仏印進駐です。

同年9月、さらに日本は、アメリカ・イギリスを共通の敵としていたドイツ・イタリアを手を組み、日独伊三国同盟を結びます。

日本
日本

フランス領インドシナに進出したからには、アメリカ・イギリスが黙ってはいない。

これからアメリカ・イギリスからの圧力が強まるはずだから、ドイツ・イタリアと同盟を組んでしっかり対抗できるようにしておくぞ!

アメリカ
アメリカ

東南アジアに進出し、さらにドイツと同盟を組むとはいい度胸だ。

だが、日本よ忘れるな。日本が戦争に必要な石油や鉄資源をアメリカに依存しているということを。

俺が経済制裁を課したら日本がどうなるかわかってるな・・・?

こうしてアメリカは、日本への鉄屑てつくず・航空機用ガソリンの輸出を禁止し、経済制裁を本格化させました。

北進論と南進論

日本では明治時代以降、「強敵のソ連に対抗するため、日本は北方に進出しなければならない!」という北進論ほくしんろんの考え方が主流でした。

1910年に韓国併合、1918年のシベリア出兵、1931年の満州事変などは、この北進論に基づく行動でした。

・・・が、1939年5月、日本の北進論にストップをかける大事件が起こります。満州国とモンゴルの国境付近で、日本軍とソ連軍が軍事衝突したのです(ノモンハン事件)。

1939年9月、日本はノモンハン事件に敗北。ソ連は日本の想定よりもはるかに強く、政府内では「ソ連と戦うの無理ゲーすぎるし北進論をやめて、南に進出した方がいいんじゃね?」っていう南進論なんしんろんが叫ばれるようになりました。

そんな政府の外交判断も、日本のフランス領インドシナ進出を後押ししました。

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日本「インドネシアから石油をゲットするぞ」

アメリカとの関係が悪化する中、日本が新たな資源の確保先として注目していたのが、豊富な油田があるオランダ領東インド(今のインドネシア)でした。

緑の部分がオランダ領東インド

実はオランダもフランスと同じく、1940年5月にドイツに敗北しており、日本はこれを好機と捉えました。

日本
日本

・・・もしかして今なら、『石油を日本に輸入しろ!』ってオランダに圧力をかければ、フランスみたいに要求を呑んでくれるのでは!?

・・・ところが、オランダは日本が要求する量の石油輸入をかたくなに拒否します。

結局、1941年6月、オランダと日本の交渉は決裂し、オランダ領東インドから石油をゲットする作戦は失敗に終わりました。

日本
日本

オランダには日本に植民地を奪われるかもしれないと怯えているはず。それなのに、

この強硬な態度は何かおかしい。

おそらく、オランダの背後にイギリス・アメリカがついているな・・・・

もぐたろう
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日本の予想は当たっていて、力を失ったオランダは、日本よりもアメリカ・イギリスに接近することを選んで、アメリカ・イギリスの経済制裁に協調するようになったんだ。

ABCD包囲網

日本はこの状況を、中国と、経済制裁を行うアメリカ・イギリス・オランダの4国に包囲されている状況だとみなして、ABCD包囲網と名付けました。

日本
日本

日中戦争はもはや単なる中国との戦争ではない。

経済制裁を敷くアメリカ・イギリス・オランダとの戦争でもあるのだ!!

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南部仏印進駐をめぐる議論

オランダとの交渉が決裂すると、日本は武力による南進を検討するようになります。

そして、南進先の有力候補だったのが、フランス領インドシナ南部(南部仏印)でした。

日本
日本

南部仏印に軍を置くことができたら、オランダ領東インドはもちろん、東南アジア全体に睨みを効かすことができる!

同じ頃、オランダとの交渉決裂のほかに、外交面での大きな動きが3つありました。

1.アメリカと日本の外交交渉がスタートする

1941年4月、経済制裁を強めるアメリカとの外交交渉がスタートしました。(日米交渉

交渉が上手くまとまれば、アメリカとの対立を回避できる可能性が見えてきたのです。

2.ソ連と日ソ中立条約を結ぶ

同月(4月)、日本はソ連と日ソ中立条約を結びました。これでソ連から攻め込まれる心配がなくなり、日本が南進に注力できる条件が整いました。

3.ソ連とドイツが戦争を始める

1941年6月、ドイツとソ連が戦争を始めます。(独ソ戦

日本はドイツと日独伊三国同盟、ソ連と日ソ中立条約を結んでおり、独ソ戦への対応方針を定める必要に迫られました。

1941年7月2日、日本政府は石油問題に加えて上記1〜3も加味した上で、今後の日本の外交方針を決めるため、御前会議ごぜんかいぎを開きます。

御前会議とは

戦争・外交に関する重要な国策を決めるために開かれた天皇も参加した会議のこと。

御前会議の結果、大きく次の2つの方針が決まります。

アメリカ・イギリスとの戦争を覚悟で南方進出を実行に移すこと

もし独ソ戦でソ連が劣勢になるようなら、ソ連に攻め込むことも検討する

第三次近衞内閣の誕生

当時、外務大臣の松岡洋右まつおかようすけは「南部仏印への進軍は、アメリカの怒りの火に油を注ぐだけだから絶対にやめるべき!」と南進論に断固反対しました。

※松岡洋右は、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結んだ際の中心人物です。

アメリカとの戦争に断固反対した松岡洋右

首相だった近衛文麿このえふみまろは南進に反対する松岡をクビにするため内閣を解散。7月16日に第三次近衛内閣を結成しました。

もぐたろう
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当時の内閣制度では、大臣を選び直すためには一度内閣を解散する必要があったんだ。

近衛首相は邪魔者の松岡を排除し、南進に向けた本格的な準備に取り掛かります。

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南部仏印進駐

御前会議で南進の方針が決まると、日本政府はさっそく南部仏印に軍を置くためフランス政府との外交交渉をスタートします。

日本
日本

・・・あのさフランスさん、南部仏印に日本軍を置かせてもらっていいかな?

フランスは、この日本の要求をすんなりと受け入れました。

もぐたろう
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フランスは、もし日本と紛争を起こして敗北でもすればフランス領インドシナの領土そのものを日本に奪われると考えて、事態を穏便に済まそうと考えたんだ。

7月28日、日本は南部仏印進駐を実行に移し、主要都市のサイゴン(今のホーチミン)をはじめ、要所要所に軍を配置しました。

フランスが交渉に応じてくれたおかげで、南部仏印進駐は争いが起こることもなく、平和的に行われました・・・が、アメリカ・イギリスが黙っていませんでした。

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アメリカ「日本への石油輸出を全て禁止するわ」

アメリカは、日本の南部仏印進駐をアメリカへの挑発行為と受け止め、これにブチギレます。

もぐたろう
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アメリカ領フィリピンは南部仏印のすぐ横に位置しているため、日本がさらに南進した場合、そのターゲットにされる可能性があります。

アメリカが怒るのも無理はありません。

青色部分がアメリカ領フィリピン
アメリカ
アメリカ

俺と交渉中なのに喧嘩を売るとはいい度胸だ。

よろしい。更なる経済制裁で日本の息の根を止めてやろう。

アメリカは日本への石油輸出の全面禁止を決定し、イギリス・オランダもこれに続きました。

この経済制裁により日本は窮地に立たされます。当時、日本が備蓄していた石油の量は約1年半分。

つまり、石油を確保する術を失った日本は何もせずとも1年半後に戦争遂行能力を失って敗北するということです。

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南部仏印進駐が日本に与えた影響

タイムリミットを課せられた日本は、「ABCD包囲網を突破するにはもはや戦争しかない・・・!」と考えるようになります。

1941年9月6日、今後の方針を決めるため、再び御前会議が開かれました。

この会議で日本政府は次のような方針を決定して、帝国国策遂行要領ていこくこくさくすいこうようりょうというものにまとめました。

継続中の日米交渉の期限を10月上旬とし、もし交渉が失敗に終わった場合はアメリカ・イギリス・オランダに戦争を仕掛ける・・・!

日本は戦争を避けるため、日米交渉の結果に全てを託しますが、10月上旬までに交渉がまとまることはありませんでした。

10月16日、日米交渉が頓挫し希望を失った近衛文麿このえふみまろは、首相を辞任し、次の首相の座を陸軍大臣の東條英機とうじょうひできに託します。

東條英機は、日米交渉の期限を11月末に延長し、最後の最後まで日米交渉のため粘りましたが、交渉は決裂。

12月1日、日本はついにアメリカらとの開戦を決断し、12月8日、アメリカのハワイ島とイギリス領のマレー半島へ電撃攻撃を仕掛け、太平洋戦争へと突入していくことになりました。

もぐたろう
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南部仏印進駐をした結果、アメリカがブチギレて日本への石油輸出を禁止して、退路失った日本は一か八かの戦争で事態を解決しようとしました。

つまり、南部仏印進駐は、日本とアメリカが戦争をするきっかけになった重大なイベントだったってことです。

もし南部仏印進駐をしなければ、日本とアメリカの交渉はまた違った展開になっていたかもしれません・・・。

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