今回は、6世紀初めに起こった磐井の乱という事件についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
日本と朝鮮半島の関係
磐井の乱の大事なポイントは、朝鮮半島の新羅が深く関与しているという点です。というわけで、まずは当時の日本と朝鮮の関係を整理しておきます。
はっきりした時期は不明ですが、5世紀(400年代)から日本は朝鮮半島南部の小国の集まり(加耶諸国)に強い影響力を持っていました。
しかし、6世紀に入ると隣国の百済・新羅が領土拡大のため、加耶諸国に進出してきます。
日本(倭国)は、武力と外交により百済・新羅の加耶諸国進出を阻止しようとするも失敗。加耶諸国の中には日本との関係を切って百済や新羅に接近する国も登場し、日本の朝鮮半島への影響力は急速に弱まっていきました。
鉄資源の産地として重要な加耶諸国との関係を消失することは、ヤマト政権にとっても大問題です。
そこで527年、ヤマト政権は侵略スピードを上げていた新羅に対抗するため、朝鮮出兵を決定しました。
新羅「ヤマト政権の朝鮮出兵を阻止するぞ」
日本から朝鮮へ向かう際の拠点となるのは、今でいう博多湾です。博多湾は筑紫国にあり、筑紫国は朝鮮と日本を結ぶ外交の重要拠点となっていました。
大和政権の当時の大王(天皇)は継体天皇。継体天皇は軍を筑紫に集め、出兵の準備を始めます。
・・・ここで新羅が動きます。
筑紫国の国造である磐井氏がヤマト政権に強い不満を持っていることを知っていた新羅が、密かに磐井氏に接近してきたのです。
新羅「磐井さん頼む!賄賂でも何でもあげるから、朝鮮出兵を阻止するのを手伝ってくれ!!」
もともとヤマト政権に不満を持っていた磐井氏は、この新羅の協力要請に応じることにしました。
筑紫国の人々は、ヤマト政権が朝鮮で軍事行動を起こすたびに、重要拠点になる関係上、大きな負担を強いられ続けており、これがヤマト政権に対する強い不満になったのだろう・・・と言われています。
磐井の乱、起こる
527年6月、近江毛野臣という人物が数万の軍を率いて筑紫に向かいます。
近江毛野臣が筑紫に到着して、磐井氏に朝鮮出兵に向けた命令を出すと、磐井氏はこれを無視しました。
磐井氏「近江毛野臣さぁ・・・、ちょっと前まで俺とお前は同じ釜の飯を食べた仲だったじゃん?なのに、なんで朝廷から役職をもらった途端そんな偉そうなわけ?お前の命令なんか聞くかよww」
磐井氏と近江毛野臣は知り合いだったのでしょうね。こう言って近江毛野臣を無視すると、近江毛野臣を筑紫国に封じ込めて、朝鮮出兵を阻止します。
近江毛野臣は磐井氏に抵抗しますが、磐井氏はこの日のために周辺地域にも勢力を拡大しており、磐井氏を倒すことができません。
「磐井氏の謀反あり!」との報告を受けたヤマト政権は急ぎ磐井氏討伐隊を送り込みます。
討伐隊の総大将に選ばれたのは物部麁鹿火という人物。
物部氏は、代々ヤマト政権の軍事に携わる一族です。この時代の重要な一族なので覚えておきましょう!
詳しくは以下の記事でも触れています。
翌年528年の11月、物部麁鹿火は磐井氏を討ち取ることに成功します。乱の鎮圧までにかなりの時間を要しており、磐井の乱がとても大規模な反乱だったことがわかります。
戦いが起こった場所ははっきりとはわかりませんが、今の福岡県小郡市付近だったと言われています。
屯倉の設置
磐井の乱によって、ヤマト政権は九州北部の統治を地方の有力豪族に任せるのは危険であることを、改めて認識します。
九州北部は朝鮮と近い故に、今回のような朝鮮の国々との共謀も可能だからです。そこで、ヤマト政権は屯倉を設置して九州北部を監視することにしました。
屯倉は、ヤマト政権が各地方に持っている直轄領のこと。屯倉には、ヤマト政権の人物が送り込まれ、各地の豪族たちに命令をしたり監視をしました。
ヤマト政権は、磐井の乱をきっかけに九州北部の支配を強め、次々と屯倉を設置していきます。
討ち取られた磐井氏の息子だった葛子は、ヤマト政権に屯倉を献上することと引き換えに、死罪を免れています。
もしかすると、九州北部には「磐井氏がいなくなったんだから、ヤマト政権に良い顔しておこう」と考えて、自分の土地を屯倉として献上する人たちが結構いたのかもしれませんね。
磐井の乱によって朝鮮出兵は頓挫したものの、ヤマト政権は九州北部を手中に収めることができたわけで、終わってみれば結果オーライだった・・・とも言えるかもしれません。
磐井の乱のその後
磐井の乱によって朝鮮出兵は延期され、軍が朝鮮に到着したのは529年となりました。
日本は、新羅・百済と外交交渉を行いますが、交渉は決裂。
「交渉がダメなら実力行使だ!」と次は新羅に奪われた加耶諸国を武力で奪い返そうとしますが、軍のリーダーだった近江毛野臣の高慢な態度が現地から反感を買ってしまい、これも失敗。
日本はことごとく朝鮮支配の政策に失敗し続け、6世紀後半には朝鮮南部はすべて百済・新羅の手に落ち、日本は朝鮮への支配力を完全に失うことになります。(ただし、その後も百済とは比較的友好な関係が続きました。)
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