今回は、日本で初めて女帝として即位した推古(すいこ)天皇について紹介しようと思います。推古天皇は、絶世の美女としても有名です(上図参照。私はノーコメントです)。
推古天皇はなぜ日本初の女帝となったか
さて、まずは推古天皇が即位するまでの経緯を説明しましょう。日本初の女帝というだけあって、推古天皇即位の背景には複雑なものがありました。
崇峻天皇暗殺後の次期天皇候補
推古天皇が即位したそもそものきっかけは、592年頃に起こった崇峻天皇暗殺事件です。
この事件により崇峻天皇が亡くなったことで、急遽、朝廷は次期天皇を選定する必要に迫られることになります。
候補者は押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子
当時の天皇候補者は3名いました。押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子の3人です。
このうち、押坂彦人大兄皇子が年齢的に最有力候補でしたが、既に亡くなっていたか何らかの事情で候補者から外されていました。
押坂彦人大兄皇子は蘇我氏との血縁関係がないために候補から外されたとも言われています。(上の系図を見てみてください。)
反蘇我馬子勢力の存在
当時は丁未の乱で物部氏が滅んでからさほど時間が経過しておらず、朝廷内には権力を牛耳っている蘇我馬子をよく思わない人々が多くいました。反蘇我馬子勢力はまだまだ健在だったのです。
そのため、蘇我馬子が自分と血縁関係のある竹田皇子や厩戸皇子を露骨に即位させようとすれば、丁未の乱のような内乱のリスクを伴います。しかし、蘇我馬子は再び国が乱れることを嫌いました。
すると、竹田皇子や厩戸皇子も次期天皇候補からは外れてしまいます。それに竹田皇子も厩戸皇子もまだ若すぎました。こうして有力候補の3人が即位できなくなった時、白羽の矢が立ったのが推古天皇でした。
蘇我馬子と親密だった推古天皇
推古天皇は、蘇我馬子とは姪と叔父の関係にあり、この2人の関係は非常に良好でした。推古天皇が美人だったことから、プライベートでも一線を超えた関係だったのでは?なんて考える説もあるほど。
推古天皇は、非常に聡明な人物であり「女性だから政治ができない!」なんて言われるような雰囲気でもありませんでした。さらに推古天皇は、候補者の1人であった竹田皇子の母でもあります。
この4点が推古天皇が日本初の女帝に選ばれた理由となります。さらに、推古天皇は竹田皇子が成長するまでの繋ぎ役という役割も担っていました。
反対勢力を抑えつつ、自分に有利な天皇を即位させる蘇我馬子の政治手腕が垣間見えます。
推古天皇はどんな政治をしたのか
推古天皇は即位直後から1つの問題に直面します。それは竹田皇子が若くして亡くなってしまったことです。竹田皇子がいつ亡くなったか具体的な時期はわかっていませんが、推古天皇即位前後(592年前後)と言われています。
こうして、593年に厩戸皇子が皇太子になります。厩戸皇子は、聖徳太子の正式名です。ちょっとくどいかもしれませんが、この記事では厩戸皇子(聖徳太子)という表記で統一したいと思います。
厩戸皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)に!
推古天皇は、皇太子になった厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としました。摂政とは、簡単に言えば天皇の補佐役です。女帝や幼少天皇が即位した場合に登場する役職です。
推古天皇は聡明な人物だったので、摂政とは言っても将来天皇になる若き厩戸皇子(聖徳太子)に経験を積ませるような感じだったのだと私は考えています。同じ摂政でも平安時代に藤原氏が摂政として政治を牛耳ったのとは事情がかなり違います。
蘇我馬子と推古天皇の駆け引き
推古天皇が聡明だったと言われる所以は、権力を欲しいままにする蘇我馬子との政治的調整を完璧なまでに成功させたことにあります。
これはとても重要な問題で、崇峻天皇なんかは蘇我馬子との関係がうまく築けず命を奪われています。推古天皇は蘇我馬子の権力に屈することもなく、だからと言って蘇我馬子を無下にすることもせず、実に巧みな立ち回りで蘇我馬子との協力体制を実現します。
蘇我氏と共同で政治を行った天皇は推古天皇の他に、用明天皇・崇峻天皇・舒明天皇・皇極天皇などがいますが、蘇我氏の権力に屈せず最も中立の立場で政治を行えたのは推古天皇だったと言っても過言ではありません。
推古天皇のこの絶妙な政治感覚こそ、推古天皇が聡明である理由の1つになっています。推古天皇は美人だったらしいのでそんな美貌も政治に一役買っているかもしれません。まさに才色兼備という言葉がふさわしいのが推古天皇なのでした。
推古天皇の思惑 ー天皇主権を目指してー
推古天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に、蘇我馬子を側近とし3人での共同政治を実現します。推古天皇の政治の本質は、「アジアの隋のように天皇主権の国を造り、日本を他国に負けない国にする!」というものです。当時の日本の最優先課題は、朝鮮半島やアジア大陸の国々に負けない国に成長することでした。
推古天皇のこの政治目的を達成するには、実は蘇我馬子が邪魔になります。天皇主権を目指すのであれば、皇族以外で権力を牛耳る者は否定すべき存在なのです。
しかし、蘇我馬子と対立するのも上手くありません。そこで推古天皇は、蘇我馬子との関係を保ったまま巧妙に日本の政治の舵を天皇主権へと傾けようとしました。
こうして行われた政策が有名な17条の憲法の制定や冠位十二階制の導入です。この記事では具体的な内容には触れませんが、これらの制度は蘇我馬子を刺激せずに日本の政治を天皇主権へと向かわせるために制定された制度です。
また、推古天皇の時代は約100年ぶりに中国(当時は隋)への遣隋使派遣が再開された時代でもありました。500年代後半アジアでは大国の隋が建国され、日本は目まぐるしく変動する東アジアの国際事情に対応する必要に迫られていたのです。
推古天皇の悩み ー後継者問題ー
そんな推古天皇ですが、実は1つ悩みを抱えていました。それは次期天皇に関する皇位継承問題です。
竹田皇子が若くして亡くなり、593年、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしましたが、その厩戸皇子(聖徳太子)も622年に亡くなってしまいます。
繋ぎ役で即位したはずの推古天皇ですが、本命の人物たちが次々と亡くなり、622年に厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなった時点でもはや繋ぎ役としての役目は崩壊していました。
こうなると、次期天皇について一から考え直さないといけません。結局、推古天皇は幸か不幸か628年に没するまで在位し、繋ぎ役であるにも関わらず約35年という長期政権を築き上げてしまいました。
当時の天皇制は今と同じで終身制なので、つなぎ役とは言ってもスムーズに皇位継承を行うには運の要素も非常に強かったわけです。
まとめ
結局、628年に亡くなった推古天皇は、次期天皇について遺言などを残すこともなく、皇位継承問題を未解決ままにして亡くなってしまいます。
推古天皇は繋ぎ役として即位しながらも、才色兼備かつ政治感覚にも優れた人物であり、蘇我馬子と対立することなく巧妙に天皇主導の政治の礎を築き上げました。しかし、そんな優秀な推古天皇でも次期天皇の皇位継承問題だけは解決できませんでした。
推古天皇亡き後の朝廷では、もはや強大な蘇我氏をコントロールできる人物は存在せず、天皇即位や政治そのものが蘇我氏の思いのままになってしまいます。
推古天皇が亡くなった後、蘇我氏は強大な権力を振るうようになり、645年の乙巳の変まで蘇我氏の時代が到来することになりました。
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