

今回は日本初の女性天皇・推古天皇について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「ただ蘇我馬子に担がれた中継ぎでしょ?」と思っている人ほど、最後まで読んでほしい内容です。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「推古天皇って、蘇我馬子に担がれただけの”中継ぎ女帝”でしょ?」——そう思っていませんか?
実は推古天皇は、蘇我馬子という当時最強の権力者を巧みにコントロールしながら、聖徳太子とともに天皇主権への道を切り開いた、日本史上最初の女性政治家だったのです。在位は約36年、冠位十二階・十七条憲法・遣隋使派遣など、教科書で必ず学ぶ大改革のすべてが推古天皇の時代に行われました。
この記事では、推古天皇の生い立ちから即位の経緯、聖徳太子との関係、蘇我馬子との駆け引きまでをていねいに解き明かしていきます。
推古天皇とは?日本初の女性天皇をひと言で解説

推古天皇は、第33代天皇であり、日本史上はじめての女性天皇として知られています。生まれは554年、崩御は628年。父は欽明天皇(第29代)で、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛です。
「推古」という名前は、亡くなった後に贈られた諡号(おくり名)です。生前の本名(諱)は額田部皇女、別名で豊御食炊屋姫尊とも呼ばれていました。
即位したのは593年。崩御の628年まで、約36年間という長期にわたって在位しました。これは歴代天皇の中でもかなり長い在位記録で、推古天皇の存在感の大きさを物語っています。

推古天皇って「第何代」なの?読み方は「すいこ」でいいの?テストでよく出るやつだから確認したい!

読み方は「すいこ」で正解!第33代天皇で、本名(諱)は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)っていうんだ。「推古」は亡くなった後に贈られた名前(諡号)だから、生きてる間は誰も推古って呼んでなかったんだよ!
では、なぜ額田部皇女は天皇になることができたのでしょうか。それを理解するには、彼女の幼少期から皇后時代までの生い立ちを見ていく必要があります。
推古天皇の幼少期と生い立ち〜額田部皇女の青春時代〜

推古天皇は、554年に欽明天皇の第3皇女として誕生しました。幼名は額田部皇女。母の堅塩媛は、当時最大の豪族・蘇我氏の長である蘇我稲目の娘でした。
つまり推古天皇は、父方は天皇家・母方は蘇我氏という、ふたつの強大な血筋を引いて生まれた皇女だったのです。この出自が、のちの即位に大きな意味を持つことになります。

蘇我氏っていうのは、当時の日本で一番のお金持ち・一番の実力者の一族。今でいう超大企業のオーナー一家ってイメージに近いよ!その血を引いた皇女ってだけで、政治的にめちゃくちゃ重要な存在だったんだ。
『日本書紀』によれば、額田部皇女は幼いころから容姿端麗で、立ち居振る舞いも整っていたと伝えられています。聡明で気品のある少女として宮中で育ったのです。
■ 敏達天皇の皇后として
571年(欽明32年)、額田部皇女は異母兄の敏達天皇(第30代)の妃となり、576年に正式に皇后に立てられました。当時18歳前後と推定されます。
皇后時代の額田部皇女は、夫である敏達天皇とのあいだに2男5女の合計7人の子を産んだとされています。長男は将来を期待された竹田皇子で、推古天皇が深く愛した皇子と伝わります。

異母兄って、お兄さんと結婚したってこと?ちょっと現代の感覚だと驚いてしまうけど…?

当時の天皇家では、皇族の血を絶やさないために異母兄妹(母が違う兄妹)の結婚はOKとされていたんだ。同母兄妹(母が同じ)の結婚はタブーだけど、異母なら問題なし、というルールね。古代の世界ではよくある話なんだよ。
585年、敏達天皇が病で崩御すると、額田部皇女は皇太后のような立場になります。このとき31歳。すでに皇后として宮廷政治を間近で見てきた経験を持っていました。
敏達天皇の死後、皇位は弟の用明天皇(第31代)→崇峻天皇(第32代)と続きました。しかしこの時期、宮廷では仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が激しく対立し、ついには丁未の乱(587年)で物部氏が滅ぼされる大事件まで起こります。
そしてついに、額田部皇女自身が天皇の座に就くという、誰も予想しなかった出来事が起こるのです。
推古天皇はなぜ天皇(女帝)になったのか?4つの理由
592年、第32代崇峻天皇が暗殺されるという前代未聞の事件が起こります。実行犯は東漢駒でしたが、その背後には大臣の蘇我馬子がいたとされています。
崇峻天皇は仏教推進派でありながら蘇我馬子とは対立しており、「いつかこの猪のように馬子の首を切りたい」と漏らしたと『日本書紀』にあります。これが馬子の耳に入り、暗殺へとつながったのです。
天皇暗殺後、皇位はぽっかり空白になりました。誰を次の天皇にするか——この決断こそが、日本史を大きく動かすことになります。蘇我馬子が選んだのは、敏達天皇の元皇后、額田部皇女でした。
① 蘇我氏の血を引いている:母・堅塩媛は蘇我稲目の娘。馬子にとっては姪にあたるため、扱いやすいと考えた。
② 元皇后という経験:敏達天皇の皇后として宮廷政治を熟知。即位しても支障がないと判断された。
③ 聡明で人望があった:『日本書紀』にも容姿端麗・聡明と記され、豪族たちにも反対されなかった。
④ 男性候補が排除されていた:候補だった穴穂部皇子・宅部皇子は丁未の乱前後に排除済み。竹田皇子も592年頃にはすでに世を去っており、適任者が額田部皇女しかいなかった。
こうして593年(旧暦では592年12月)、額田部皇女は39歳で第33代天皇として即位することになりました。これが日本史上はじめての女性天皇の誕生です。

蘇我馬子が推古天皇を担いだということは、最初は”傀儡”として利用しようとしたってこと?

そういう側面はあったと言われているね。馬子からすれば「自分の姪なら言うことを聞いてくれるはず」って計算もあったはずなんだ。でも実際には、推古天皇は馬子の言いなりにはならなかった。むしろ後年、馬子のほうが「やりやすい相手じゃなかった」と思い知ることになるんだよ!

姪の額田部殿(推古天皇)を担いだのは、わしにとっても最善の一手だったんじゃ。…しかしまさか、これほど手強い御方とは思わなかったわい。
即位した推古天皇が最初に行った大きな決断が、自分の甥でもある聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に任命することでした。次のセクションで詳しく見ていきます。
推古天皇の政治〜聖徳太子を摂政に任命した理由〜

■ 聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に
593年、即位して間もない推古天皇は、甥の厩戸皇子(のちの聖徳太子)を摂政に任命しました。当時、厩戸皇子はまだ20歳。それでも推古天皇は、若き甥に国政の実務を任せる決断をします。
厩戸皇子は、用明天皇(推古天皇の弟)の皇子。つまり推古天皇にとっては実の甥にあたる存在でした。仏教への深い理解と聡明さで早くから評判が高く、推古天皇が最も信頼を寄せる人物だったのです。

摂政っていうのは、天皇に代わって政治を行う役職のこと。今でいう「内閣総理大臣(首相)」みたいなイメージに近いよ!ただし、聖徳太子の摂政就任を史実とみるかは諸説あって、最近は『日本書紀』の脚色という説も有力なんだ。

摂政として、推古天皇陛下の理想を実現するのが私の使命です。天皇を中心とする新しい国づくりのために、全力を尽くしましょう。
■ 三頭体制(推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子)の実態
推古天皇の朝廷は、ユニークな三頭体制で運営されていました。それぞれの役割は次のようになります。
推古天皇:最終決定権を持つ天皇/調停者。両者のバランスを保つ司令塔。
聖徳太子(摂政):実務担当。冠位十二階・十七条憲法など改革の立案者。仏教推進の中心。
蘇我馬子(大臣):豪族のまとめ役。経済・軍事の実力者。仏教の物質的支援者。
ポイントは、推古天皇が「調停者」として君臨したこと。摂政の聖徳太子と大臣の蘇我馬子がぶつかったとき、その対立を抑えて方向性を定めるのが推古天皇の役割でした。
このバランスが見事に機能した結果、推古朝は古代日本最大の改革期となります。次のセクションで、その代表的な5つの功績を見ていきましょう。
推古天皇の主な功績〜飛鳥時代を変えた5つの改革〜

■ 仏教振興と三宝興隆の詔(594年)
即位した翌年の594年、推古天皇は「三宝興隆の詔」を発布しました。これは「仏(ほとけ)・法(おしえ)・僧(そうりょ)の三宝を大切にせよ」という命令です。
これによって仏教は、それまでの「一豪族(蘇我氏)の信仰」から、国家公認の宗教へと格上げされました。これが日本における仏教国教化の出発点とも言えます。
588年に着工していた飛鳥寺(法興寺)は596年に完成。日本最初の本格的な伽藍を持つ仏教寺院です。崇仏論争に勝った蘇我馬子の私寺として始まりつつも、実際は推古朝の国家事業として完成したのです。

飛鳥寺には、現存する日本最古の仏像・飛鳥大仏(釈迦如来像)が今も安置されているよ!制作したのは法隆寺釈迦三尊像と同じ仏師・鞍作鳥(止利仏師)。推古天皇が仏教を「国家の精神的な柱」として根付かせようとした情熱の結晶といえるんだ。
■ 冠位十二階の制定(603年)
603年、推古天皇は聖徳太子とともに冠位十二階を制定しました。これは官僚を「徳・仁・礼・信・義・智」の6つの徳目に分け、それぞれ大小2段階で計12階に序列化する人材登用制度です。
画期的だったのは、家柄(氏族)ではなく能力・功績で人を取り立てる方針に踏み出したこと。これまで「どの家に生まれたか」で決まっていた朝廷の地位を、はじめて個人の能力で評価しようとした制度です。
■ 十七条憲法の制定(604年)
翌604年、推古天皇のもとで十七条憲法が制定されました。聖徳太子が起草したとされる、官僚の心得を17条にまとめた道徳規範です。
有名な第1条「和をもって貴しとなす」は、対立や派閥争いをせず話し合いで政治を行いなさい、という意味。第2条で仏教尊重、第3条で天皇への忠誠を求めるなど、仏教・儒教・天皇制を融合した理念が示されています。
■ 遣隋使の派遣(607年・小野妹子)
607年、推古天皇は小野妹子を隋(中国)に派遣しました。これが教科書に必ず登場する遣隋使です(厳密には『隋書』に記録される最初の派遣は600年で、607年は2回目とされます)。
このとき小野妹子が持参した国書には、有名な一文が記されていました。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
(日が昇る国の天子=倭国の王が、日が沈む国の天子=隋の皇帝にお手紙を差し上げます。お変わりありませんか)
この国書を読んだ隋の皇帝・煬帝は、激怒します。なぜなら「天子」は本来、中国皇帝にしか使えない称号。それを「倭国の王も天子だ」と対等に名乗ったからです。

「日出づる処の天子」って、テストで超よく出るやつだ!これって誰が書いたの?推古天皇本人?

起草したのは聖徳太子とされているよ。でも国書は推古天皇の名義で送られているから、推古天皇自身も「中国と対等にやり合う」という強気の方針に賛成していたと考えられているんだ。テストでは「派遣したのは推古天皇/使者は小野妹子/607年」と覚えるといいね!
■ 飛鳥文化の成立〜法隆寺と仏教文化〜

推古天皇の時代に花開いた仏教中心の文化を、飛鳥文化と呼びます。最大の特徴は、朝鮮半島(百済・高句麗)と中国(南北朝・隋)から伝わった国際色豊かな仏教文化であることです。
代表的な文化財は次の通りです。



玉虫厨子っていうのは、タマムシという昆虫の羽を数千枚びっしり敷き詰めた厨子(仏像を安置するケース)のこと!光の当たり具合で緑・金・赤と輝く、まさに生きた宝石のような工芸品だよ。現在も法隆寺大宝蔵院に所蔵されていて国宝に指定されているんだ。飛鳥時代の職人技術の粋を集めた傑作として、美術史でも必ず登場するよ!
テスト対策では「飛鳥文化=推古天皇の時代の仏教文化」とセットで覚えるのが鉄則です。法隆寺・釈迦三尊像・玉虫厨子の3点はとくに頻出ポイント。
こうして見ると、推古朝の改革は「仏教振興→人材登用→道徳規範→外交→文化」と、一国を作り直すフルセットでした。次のセクションでは、この大改革の裏で進んでいた、推古天皇と蘇我馬子のあいだの静かな駆け引きを見ていきます。
蘇我馬子との駆け引き〜推古天皇は傀儡ではなかった〜
「推古天皇は蘇我馬子の傀儡だった」——長らく日本史でそう語られてきました。しかし近年の研究では、この見方は大きく見直されています。その決定的な根拠が、624年の「葛城県事件」です。
624年、当時の最高実力者・蘇我馬子は、推古天皇に対してある要求を突きつけます。それは——
「葛城県(かずらきのあがた)はわが蘇我氏の本拠地。どうかこの土地を、わしに賜りたい」
葛城県は天皇直轄の屯倉(みやけ=直轄地)。それを臣下である蘇我馬子に与えてくれ、というのが要求の中身です。馬子は「わしの祖先が暮らした土地だから」と理屈をつけてきました。
これに対する推古天皇の返答が、彼女の本性を物語っています。

馬子よ、わたくしも蘇我の血を引く身です。あなたの言葉は理解できます。けれども——もしわたくしの代に天皇の土地を臣下に与えてしまえば、後の世の人々はきっとこう言うでしょう。「愚かな女の天皇が国を傾けた」と。それだけは、絶対に譲れないのです。
これは『日本書紀』に記された推古天皇の言葉を要約したものです。「天皇の土地を臣下に渡せば、後世から愚帝と呼ばれる」——この毅然とした拒絶に、馬子は引き下がるしかありませんでした。
この一件は、推古天皇が単なる傀儡ではなく、天皇主権を守るために身を張れる政治家だったことを示す決定的な証拠となっています。蘇我馬子全盛の時代にあって、推古天皇はしっかりと「ここから先は譲らない」という一線を引き続けたのです。

近年は「推古天皇能動説」が主流になってきていて、傀儡どころか馬子と聖徳太子をうまく使い分けて天皇主権を守った政治家として再評価されているんだ。「女性だから飾り物だった」というのは、もう古い見方なんだよ!
政治家としての推古天皇の凄みがわかったところで、次は少し角度を変えて——「推古天皇は美人だった」と語り継がれる、その意外なルーツに迫ってみましょう。
推古天皇はなぜ「美人」と言われたのか
「推古天皇 美人」という検索キーワードがあるほど、推古天皇には「美人女帝」のイメージが定着しています。しかし、その根拠はどこにあるのでしょうか?
主な根拠は『日本書紀』の記述です。額田部皇女について、「姿色端麗、進止軌制」(容姿はととのって美しく、立ち居振る舞いも整っていた)と書かれています。これが「推古天皇=美人」イメージの出発点です。

推古天皇が「美人だった」って、どこかにちゃんと書いてあるの?それともただのイメージ?

『日本書紀』に容姿を讃える表現があるのは事実なんだ。でも、具体的な顔立ちの描写というより「気品があって所作が美しい」っていうニュアンスに近いよ。「目が大きい」「鼻が高い」みたいな具体的な記述ではないんだ。
つまり「美人」というよりは、「品格と聡明さを備えた女性」という意味合いです。古代の「美しい」は、現代のような外見だけの評価ではなく、内面の気品や教養まで含んだ総合的な称賛でした。
📝 注:『日本書紀』は推古天皇の没後約100年(720年)に編纂された史書で、宮廷の正史としての性格上、人物を理想化する傾向があります。「容姿端麗」も、実際に美しかったかどうかというより女帝にふさわしい人物として描く伝承的な表現と考えるのが一般的です。
とはいえ、40歳手前で皇位を継ぎ、約36年もの長きにわたって朝廷を主導した推古天皇です。気品と知性を兼ね備えた女性だったことは、政治家としての実績からも推察できます。「美人」という評価の本質は、その内面の凛とした美しさにこそあったのかもしれません。
さて、ここまで推古天皇の前半生〜壮年期の活躍を見てきました。記事後半では、最大の協力者だった聖徳太子の死、推古天皇自身の崩御、そして残された皇位継承問題までを追っていきます。
推古天皇の晩年〜聖徳太子の死と皇位継承問題〜
ここまで、推古天皇が聖徳太子・蘇我馬子と築いた三頭政治と、その下で生まれた数々の改革を見てきました。しかし、晩年の推古天皇には次々と試練が訪れます。最大の理解者だった聖徳太子の死、自身の崩御、そして残された皇位継承問題——。ここからは、女帝の最後の日々を追っていきましょう。
■ 聖徳太子の死(622年)と推古天皇の苦悩
622年(推古30年)、最大の協力者であった聖徳太子が斑鳩宮で亡くなりました。享年は約49歳とされています。長年にわたって理想の国づくりを共に進めてきた甥の死は、推古天皇にとって最も大きな喪失でした。
聖徳太子は単なる摂政ではなく、推古天皇にとって「政治の片腕」であり、「思想の同志」でもありました。冠位十二階・十七条憲法・遣隋使と、ほとんどの大改革は二人の協働で実現したと言ってもよいでしょう。
太子の死後、推古天皇と蘇我馬子のあいだには、これまで聖徳太子が果たしていた「緩衝役」が消えてしまいました。残された後期の政治は、推古天皇と馬子の二人が直接向き合う緊張した関係へと変化していくのです。

聖徳太子が先に亡くなったの?推古天皇のほうがずっと年上だったんだよね?

そう、20歳近く年上の推古天皇のほうが先に見送る側になったんだ。一番頼りにしていた甥を先に失う——その喪失感は計り知れないものだったんだよ。
■ 崩御(628年)・御陵と竹田皇子との合葬
聖徳太子の死から6年後の628年(推古36年)3月、推古天皇は崩御しました。享年は75歳と伝えられています(諸説あり)。死因は明確には伝わっていませんが、長年の重責のなかでの老衰と考えられています。
推古天皇の御陵は、現在の大阪府南河内郡太子町にある磯長山田陵です。実は推古天皇には、生前から強く願っていたことがありました。それは——若くして亡くなった愛息竹田皇子と同じ墓に入ること。
竹田皇子は、敏達天皇との間に生まれた皇子で、本来であれば次の天皇候補にもなり得た存在でした。しかし若くして他界し、推古天皇の心には深い悲しみが残ったとされています。最初は別の墓に葬られていた竹田皇子は、後に推古天皇の遺志に沿って同じ陵に合葬されました。


女帝として国を背負い続けた36年。…最後はわが子・竹田と共に眠りたい。それだけが、母としての願いだったのです。
■ 崩御後の皇位継承混乱
推古天皇は、後継者を明確に指名しないまま崩御しました。これが、その後の朝廷を大きく揺るがす原因となります。後継候補は2人いました——聖徳太子の子山背大兄王と、推古天皇の甥田村皇子です。
聖徳太子の系統を継ぐ山背大兄王は、人望があり有力な候補でした。一方、田村皇子は敏達天皇の孫で、蘇我氏とも血縁が深い人物。どちらに皇位を譲るかで、朝廷は二分されることになります。

結果として、馬子の子である蘇我蝦夷が田村皇子を強く支持し、田村皇子が即位して第34代・舒明天皇となりました。山背大兄王はこの時は身を引きましたが、後の643年、蘇我入鹿(蝦夷の子)に襲われ、一族もろとも滅ぼされてしまいます。

推古天皇はなぜ後継者を決めなかったのかしら?決めておけば争いを防げたんじゃない?

『日本書紀』には、推古天皇が田村皇子と山背大兄王の両方に「重大なことは群臣と相談して決めよ」と遺言したとあるんだ。あえて指名しないことで、強引な世襲を避けようとしたとも言われているよ。ただ結果的には、蘇我氏の影響力が強まる原因にもなってしまったんだ。
推古天皇の評価〜日本史上最初の女帝をどう見るか〜
推古天皇の評価は、時代によって大きく揺れ動いてきました。古くは「蘇我馬子と聖徳太子に挟まれた中継ぎの女帝」「実権のない傀儡」として扱われることも多かったのです。しかし近年の研究では、その評価が大きく変わりつつあります。
① 傀儡説(旧来の評価):蘇我馬子に擁立された女帝で、実質的な政治は聖徳太子と馬子が行った。
② 能動的政治家説(近年の主流):聖徳太子と馬子の調整役を果たし、天皇主権を守り抜いた政治家。葛城県の譲渡拒否がその象徴。
能動説が主流になった大きな理由は、推古天皇が在位した約36年という期間の長さです。当時の平均寿命を考えれば異例の長期政権であり、単なる「お飾り」では成立しません。聖徳太子の死後も6年間、馬子の死(626年)後も2年間、推古天皇は単独で朝廷を率い続けました。
また、葛城県の譲渡拒否のように、蘇我馬子の最盛期にあっても天皇権を守り抜いた事実は、傀儡説では説明がつきません。日本初の女性天皇という制度的な意義に加え、推古天皇は「皇位は私物化されるものではない」という原則を行動で示した政治家だったといえます。

近年の歴史学では「能動説」が主流。傀儡どころか、推古天皇は日本の国家形成を根っこから支えた存在だったんだよ!
📖 現代とのつながり:日本の歴代天皇のうち、女性天皇は推古天皇を含めて8人(10代)のみ。現行の皇室典範では女性天皇は認められていませんが、推古天皇が示した「皇位は性別ではなく能力と人望で支える」という理念は、現代の女性天皇容認論議でもしばしば引き合いに出されます。
テストに出るポイント〜推古天皇と飛鳥時代〜
中学・高校の試験で頻出する推古天皇関連のポイントを整理します。年号と政策のセットで覚えるのが得点のコツです。
📚 頻出年号と人物
・推古天皇=第33代天皇(在位 593〜628年・約36年)
・摂政=聖徳太子(厩戸皇子)・593年任命
・大臣=蘇我馬子(推古天皇の叔父)
・諱(本名)=額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
📚 推古朝の主要な改革(年号順)
・594年:三宝興隆の詔(仏教振興)
・603年:冠位十二階の制定
・604年:十七条憲法の制定
・607年:遣隋使派遣(小野妹子)/法隆寺建立(607年ごろ)
・国書の有名な一節:「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

603年と604年って1年しか違わないから、どっちがどっちかいつもこんがらがる…

「先に役人の位を整えて(603年・冠位十二階)、その役人に守らせる規範を作った(604年・十七条憲法)」って流れで覚えると順番を間違えないよ!
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よくある質問(推古天皇について)
推古天皇は第33代天皇です。日本初の女性天皇として593年に即位し、628年に崩御するまで約36年間在位しました。
592年に崇峻天皇が暗殺されたことで皇位が空白になり、蘇我馬子が欽明天皇の皇女であり元皇后の額田部皇女(推古天皇)を擁立しました。蘇我氏の血を引く貴種でありながら、皇后としての経験と人望を持つ適任者と判断されたためです。
推古天皇の摂政は聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)です。593年に推古天皇の甥にあたる厩戸皇子が摂政に任命されました。冠位十二階・十七条憲法の制定、遣隋使の派遣など多くの改革を推古天皇とともに推進しました。
推古天皇の諱(本名)は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、または豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)とも呼ばれます。「推古」は死後に贈られた諡号(しごう)です。
『日本書紀』に推古天皇(額田部皇女)の聡明さと気品を称える記述があることが主な根拠です。ただし、具体的な外見の描写はなく、「才色兼備」というイメージは後世の解釈が含まれています。
推古天皇の時代は「飛鳥文化」が花開いた時代です。仏教を基盤とした文化で、代表的なものに法隆寺(世界最古の木造建築)・飛鳥寺・釈迦三尊像・玉虫厨子などがあります。朝鮮半島(百済・高句麗)や中国(隋)の影響を強く受けた国際色豊かな文化です。
推古天皇は後継者を指名せずに崩御しました。聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)と推古天皇の甥・田村皇子(たむらのおうじ)の継承争いが起こり、蘇我蝦夷が田村皇子を支持する形で第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)が即位しました。
まとめ〜推古天皇が日本史に残したもの〜
推古天皇の生涯を振り返ると、その36年間の在位がいかに濃密なものだったかがわかります。最後にこれまで見てきた出来事を年表で整理しておきましょう。
- 554年欽明天皇の第3皇女として誕生(額田部皇女)
- 576年頃敏達天皇の皇后に(異説あり)
- 585年敏達天皇が崩御
- 592年崇峻天皇が暗殺される(蘇我馬子による)
- 593年推古天皇として即位(第33代)・聖徳太子を摂政に任命
- 594年三宝興隆の詔を発布(仏教振興)
- 603年冠位十二階を制定
- 604年十七条憲法を制定(聖徳太子が起草)
- 607年遣隋使派遣(小野妹子)・法隆寺建立(607年ごろ)
- 622年聖徳太子が死去(享年49歳)
- 624年蘇我馬子の葛城県要求を拒否(天皇主権を守る)
- 628年崩御(享年75歳・諸説あり)。磯長山田陵に葬られる

以上、推古天皇の生涯と功績のまとめでした!聖徳太子の影に隠れがちだけど、実は日本の国家形成の礎を築いた偉大な女帝なんです。下の関連記事もぜひ読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「推古天皇」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「聖徳太子」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「竹田皇子」(2026年5月確認)
コトバンク「推古天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)
コトバンク「飛鳥寺」(デジタル大辞泉・コトバンク)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





