本を読んでいたら奈良時代の税制度が面白かったので、飛鳥時代末期〜奈良時代にかけて実施された公地公民制について紹介してみようと思います。受験生向きかもしれない!
そもそも「公地公民」ってなんだ?
公地公民とはその言葉どおり、「土地も人も全て国(天皇)のもの」って意味です。
公地公民制とは「土地と人を国(天皇)が管理するための制度」ってことになります。
そもそも、なんでこんな制度が必要だったんでしょうかね?って話を少しだけ
日本の歴史を弥生時代まで遡って超ざっくりと箇条書きで解説してみると・・・
- 稲作始まる。みんな同じ土地に定住するようになる
- 稲作始めると人材確保・農具確保・治水・土地などなどいろんな問題が発生。これらを巡ってみんな争い始める。土地や治水、農具製作に必要な鉄などが主な争いのネタ。
- 弱者は破れ、強者はますます富む。次第に日本各地に強大な勢力ができる。(この強大な勢力を持つものが作ったのが古墳。)
- 泥沼の戦争にみんな嫌気がさして、みんなで協力し始める。これがヤマト朝廷。
- みんなで集まるだけじゃ意見がまとまらないので、1人みんなをまとめる偉い奴を選ぶ(これが後に世襲化し天皇と呼ばれるようになる。)
- 飛鳥時代へ
こんな感じ。
日本の政治システムの起源って、争いに疲れ果てた各地の有力者たちが「戦いじゃなくてみんなで話し合って平和理に物事を解決しない?」って思ったのが始まりなんです。こうして出来たのかヤマト朝廷っていう組織なんですけど、あくまで有力者同士の意見調整機関なので、そもそも有力者の土地や人民管理に介入する権限なんて持っていないんです。
ところが、飛鳥時代になると長い間続いたこの風習を変えようとする動きが出てきました。
なぜかというと、外交的な緊張感が高まったから!朝鮮半島や大陸では日本にとって危惧すべき話が次々と舞い込んできたんです。例えば・・・
- 581年に数百年の渡って分裂していた中国が「隋」という超巨大国家に統一。(隣にチート級の超強い国が現れた!)
- 500年代中期、日本が抑えていた朝鮮半島南部の利権を新羅という国に奪われた!
- 600年以降、隋の圧力を受けた朝鮮半島の情勢が不安定化した!
「利権を奪った新羅、絶対に許さない」
「隋が朝鮮半島に攻めてきてる。次は日本じゃないだろうな・・・」
などなど、外交的にかなり危険な状況になっていました。実際に660年ごろから日本は朝鮮半島と戦争してますから、この危機感はある意味正しかったと言える(結果論)。
これに対応するには、日本も軍隊を整備して備えるしかない。ところが、日本は土地も人民も各地の有力者が支配しているんで、そもそも軍隊をスムーズに動員できません。仮に軍隊を編成できたとしても、それを養う税金も賄える保証がありません。作物を実らせる土地は各有力者が持ってるから。それに、指揮系統もハッキリしません。人民は各地の有力者を長と崇めているので、誰か1人に求心力を集めるのは非常に困難でした。
ちなみに、そんな状態で新羅・唐に戦争を仕掛けるもんだから、日本は白村江の戦いで大敗を喫しています。
これらを一挙に解決する方法が公地公民制だったのです。これは、日本独自のアイデアではなくて隋や朝鮮半島の制度を参考にして採用されたものでした。
公地公民制は、各地の有力者が長年持っていた土地や人民をわけ渡すことを意味しているのですが、当然、有力者たちは簡単に自分たちの利権を明け渡すはずがありません。
公地公民制は、645年に当時の最有力者だった蘇我氏が滅んだ後から実施されますが、強い反発があり思うようには進まず、本格的に導入されるようになったのは600年代後半からだったと言われています。
- 663年の白村江の戦いで日本は敗北。その敗戦処理・国土防衛策のため、否が応でも人民を管理し兵を動員する必要性に迫られた
- 672年の壬申の乱で、ギャーギャーうるさかった有力豪族がみんな一掃された
この辺りが、公地公民制が始まった大きな理由なんじゃないかと思います。
公地公民制の2つの土台「戸籍」「班田収授」
そんな感じで始まった公地公民制には、その根幹を成す2つの制度がありました。
それが「戸籍」と「班田収授」です。
戸籍で人を管理し、班田収授によって戸籍で把握した人たちに土地を与える。これが公地公民制の大きな仕組み。
庚午年籍と庚寅年籍
受験勉強とかでよく登場する戸籍として庚午年籍(こうごねんじゃく)と庚寅年籍(こういんねんじゃく)が挙げられます。
670年、日本初の戸籍として有名なのが庚午年籍です。公地公民制が大きく前進した画期的な出来事なのですが、その実効性には疑問があるようです。
692年、次は庚寅年籍が作られます。壬申の乱で既得権益層が駆逐された後の戸籍であり、庚寅年籍によって本格的な戸籍の作成が始まったとされています。
庚寅年籍の後は、だいたい6年に一回、戸籍の更新が行われることになります。
班田収授
人民に土地を分け与える班田収授。この仕組みは実はいつ頃から始まったのかハッキリとわかっていません。
ただ、人の管理、つまり戸籍がないと誰にどれぐらい土地を分け与えて良いのかわからないので、だいたい戸籍ができた時期と同じぐらいかな?っていうのが定説のよう。
だとすれば、ガチンコの戸籍である庚寅年籍が作られた690年以降ぐらいから班田収授も本格実施されたのかなぁという感じですね。
班田収授と言っても実は、いろんなタイプの土地(田畑)がありました。大きく分けると班田収授には2つのタイプがあって、
1つは、人々に土地を与え、そこから税を徴収するタイプ。学校で習うのはこのタイプで口分田(くぶんでん)って言われたりします。
2つ目は、役人・官僚専用の土地。これらは非課税の土地で、「土地を分け与えるから、これで君たち上手くやりくりしてね」と国から与えられた土地でした。お役人のお給料や諸々の経費はここから支払われました。
奈良時代になると後者の方が先細りとなり、官稲混合(かんとうこんごう)と言って両者が一本化されたりもします。なんていうか、唐の制度が日本に合致するのかの壮大な社会実験をしている感じがします・・・。
班田収授と一言に言っても、実は複雑な制度なんです。もし学生の方がこの記事を読んでいるのなら、知っておいて欲しいんですけど、「公地公民制?班田収授?よくわからん!」っていうのは別に変なことじゃないです。そもそも難しい制度だし、今現在も詳細についてはわからないことも多いです。学校の教科書の内容だけじゃ丸暗記にならざるを得ないでしょう。
公地公民制の意義
公地公民制によって、中央朝廷は効率的に農民から税を搾取できるようになり、懐が超潤うようになりました。
公地公民制は奈良時代にも継続されますが、平城京造営や、大仏造立、各地に寺院を建てたり度重なる遷都をしたりと、奈良時代は超巨大公共事業が大量に行われます。これらは公地公民制によって得た各種税金によって行われており、中央政府が富んでいたことを明確に示しています。
公地公民制の意義(役割)はおおむね次の点にあります。
- 効率的な兵力の動員。九州の防人なんかが良い例。
- 土地に賦課する税金を創設。租(そ)と呼ばれる
- 人に賦課する税金を創設。調(ちょう)・庸(よう)と呼ばれる。
軍事と財政、国の存続に関わる根幹の部分を公地公民制が支えていたことになります。
すごく悪意のある言い方をすると、公地公民制によって農民からの搾取が捗った・・・とも言えます。もちろん学校の授業ではそんな言い方しませんけどね。
当時の農民の身分は著しく低く、非常に貧しい生活を送ることになりますが、次第に力を付けるようになり、後に大暴れするのがずーっと先に現れる武士になります。鎌倉時代以降、武士の登場によって朝廷は力を失いますので、まさに因果応報なんじゃないかと私は勝手に思っています。
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