遣隋使を簡単にわかりやすく解説するよ【目的は何?小野妹子に煬帝大激怒】

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もぐたろう
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今回は、飛鳥時代に行われた遣隋使の派遣について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 遣隋使ってそもそもなに?
  • 遣隋使ってなぜ派遣されたの?
  • 遣隋使派遣は倭国にどんな影響を与えたの?
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遣隋使とは

遣隋使とは、倭国がずい(今の中国)へ派遣した外交使節団のことを言います。

当時、隋は東アジアNo1の超大国であり、遣隋使の派遣に大きく2つの目的がありました。

隋の最新文化や制度を学んで、倭国に取り入れるため

隋と対等な外交を結ぶことで朝鮮3国(新羅しらぎ百済くだら高句麗こうくり)よりも上の立場に立つため

遣隋使の派遣は、600年と607年に2回行われ、テストなどによく出るのは607年の2回目の遣隋使派遣となります。

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遣隋使が派遣された時代背景

600年に派遣された遣隋使は、実は百十数年ぶりに中国へ送られた超久しぶりの外交使節団でした。

なぜ100年以上も派遣していなかった使節団を再開する決断をしたの?

100年以上も間があるんだから何か絶対理由があるよね。

もぐたろう
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その理由を理解するため、まずは当時の東アジアの国際情勢の話から始めていきます。

300年ぶりに中華統一を果たした超大国「隋」

200年代前半、中国はしょくによる三国時代を迎え、争いの結果、265年にしんが建国され、晋は中華統一を成し遂げました。

・・・が、316年に晋は滅び、その後中国は長きにわたる分裂時代に突入します。

この分裂の時代を終わらせ、再び中華統一を果たしたのが隋でした。隋は581年に建国され、約300年ぶりに登場した超大国に成長したのです。

大国の隋の登場によって、東アジアの国際情勢は大きく変化します。

朝鮮半島で三つ巴の対立を続けていた新羅・百済・高句麗は、隋が建国されると、すぐさま冊封さくほうを受けて隋と君臣くんしん関係を結びます。

冊封とは?

中国皇帝が他国の王に役職を与えて臣下とし、君主と臣下の関係を結ぶこと。

冊封を受けた後、百済・新羅が隋と友好的な関係を保ち続けた一方、

高句麗は隋からの侵攻を受けるようになり、598年、高句麗と隋は戦争状態に突入しました。

隋との外交が遅れた倭国

一方の倭国は、隋建国の581年から600年までの約20年間、外交政策を打ち出すことができず、何もできないまま月日を費やしてしまいます。

倭国では、592年に崇峻天皇が暗殺されルーム事件が起こっていて、朝廷の内部がメチャクチャだったので外交どころではなかったのです。

しかし、崇峻天皇の後に即位した推古天皇は、蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)の支えもあって、朝廷を安定化させることに成功。

そして600年になって、ようやく遣隋使を派遣する準備が整ったのです。

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ヤマト朝廷の外交方針

倭国は、新羅・百済・高句麗より国際的に優位な立場に立つため、隋から冊封を受けるのではなく、主従関係のない対等な外交関係を結ぼうと考えました。

倭国はなぜ新羅・百済・高句麗のことをそこまで気にしているの?

過去に何かあったのかしら?

朝鮮半島には昔、伽耶かや諸国と呼ばれる小国が集まっていたエリアがありました。

伽耶諸国は朝鮮半島の先っちょに位置し、鉄資源が豊富な地域で、倭国も鉄を求めて伽耶諸国とは深い交流を持っていました。

もぐたろう
もぐたろう

鉄は農具や武器の生産のため、喉から手が出るほど貴重なものだったんだ。

『鉄を制するものは天下を制す』なんて言葉あるのも、鉄が国の存亡を左右するほど重要な資源だからです。

伽耶の場所

ところが、伽耶諸国は新羅と百済の紛争に巻き込まれ、562年に新羅によって滅ぼされてしまいました。

そこで倭国は、百済と組んで、旧伽耶諸国から新羅勢力を一掃することを目論むようになります。

倭国(日本)
倭国(日本)

伽耶諸国の鉄を新羅に独占されてたまるものか!

百済と組んで新羅の勢力を排除し、伽耶を再興させるぞ!

そんなときに突如として現れた大国が隋でした。

倭国は、新羅・百済・高句麗が隋と朝貢関係を結んでいるのを見てひらめきます。

倭国(日本)
倭国(日本)

えっ!?ちょっと待って。

もし俺(倭国)が朝貢スタイルじゃなくて隋と対等の外交関係を結べば、俺って隋の部下である新羅より上の立場になれるんじゃね?

そしたらワンチャン、伽耶の再興も夢じゃないぞ・・・!

こうして遣隋使の目標の1つが『隋と朝貢関係ではなくて、対等な外交関係を結ぶこと』になったのです。

倭国には、隋との対等外交が成功する算段もありました。

600年当時、隋は高句麗への侵攻を続けていましたが、隋は苦戦を強いられていました。

そんなわけで隋は、余計な敵を増やしたくないと考えていたので、倭国が多少ムチャクチャな要求をしても飲んでくれるだろう・・・という思惑があったのです。

もぐたろう
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隋にとって最悪のパターンは、倭国からの遣隋使を無下に扱った結果、倭国が怒って高句麗に味方してしまうことでした。

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第1回遣隋使

そんな複雑な国際情勢のなか、600年にいよいよ第1回目の遣隋使が派遣されました。

・・・が、これは大失敗に終わりました。

100年以上ぶりの使節団派遣だったせいもあって、使節団の振る舞いやマナーが全然ダメダメ。

隋皇帝の煬帝ようだいはその様子を見て呆れてしまい、対等外交など夢のまた夢の散々な結果に終わりました。

もぐたろう
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ただ、もう1つの目標である『隋の最新の政治・文化を倭国に取り入れる』という部分は一定の成果をあげました。

隋から学んだ知見は倭国の政治にも活かされ、603年に制定された冠位十二階、604年に制定された憲法十七条に反映されることになります。

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第2回遣隋使派遣【リベンジ戦!小野妹子が行く!】

607年、1回目の大失敗の反省を活かして、第2回の遣隋使派遣が行われました。

使節団の代表に抜擢されたのは、小野妹子おののいもこ

使節団には、隋の政治・文化に対する知見をさらに広げるため、高向玄理たかむこのげんり南淵請安みなみぶちしょうあんみんなどの留学生や学問僧が同行しました。

小野妹子は、隋と倭国が対等な関係であることをアピールするため、こんなことが書かれた国書を煬帝に渡しました。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

【現代語訳】

この国書を、日が昇る東の倭国の天子から、日が沈む西の隋の天子へお渡しします。

煬帝
煬帝

はっ?隋が沈む国だと・・・?こいつ弱小国の分際で何様?

しかも、天子は世界で中国皇帝だけだ。倭国の王が天子だと?ふざけるな!!

側近たちよ、こんな無礼な国の国書、二度と私のところに持っていくるな!!

煬帝は、小野妹子が持ってきた国書を見てブチギレ。

小野妹子らはそのまま追い出されてしまい、2回目の遣隋使派遣は終了しました。

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【悲報】小野妹子、煬帝からの重要文書を紛失する

一見失敗したかに見える2回目の遣隋使派遣ですが、終わってみれば実はそうでもありませんでした。

というのも、煬帝がブチギレて小野妹子らを追い返してしまったわりには、帰路につく遣隋使たちに対してちゃんとした対応をしてくれたからです。

煬帝は、倭国に王に対して返書を書き、さらに裴世清はいせいせいという使者を遣隋使たちに同行させました。

もぐたろう
もぐたろう

煬帝がブチギレたくせに遣隋使を無下に扱わなかったのは、隋は高句麗と戦争中だったので、無駄な敵を増やしたくなかったから・・・と言われているよ。

小野妹子
小野妹子

煬帝を怒らせちゃったけど、返書ももらったし、決して高い官位の使者ではないけど裴世清も同行してくれた!

返書と裴世清を見せれば、天皇も大喜びに違いない!

・・・が、帰路の途中、大事件が起こります。

なんと、煬帝から渡された返書を紛失してしまったのです・・・!

帰国した小野妹子は、返書を紛失した罪で流罪となりましたが、すぐに朝廷に復帰し、しかも冠位十二階の最高ランクだった「大徳」の冠位を得て、大出世を遂げることになります。

なんか不自然な動きだね。

小野妹子は一体何をしたの?

もぐたろう
もぐたろう

その辺の話はよくわかっていないんだ。

・・・ただ、あまりに不自然な人事だから、返書紛失には実は裏があるんじゃないかって言われているよ。

小野妹子
小野妹子

煬帝からの返書をこっそり見てみたら、『倭国と対等な関係なんて無理。朝貢関係なら認めてやんよ!』的な内容が書かれていたんだ。

この返書を見せれば、隋と倭国との対等外交は不可能になってしまう。だから、私の独断で返書を紛失したことにしたんだ。

こうすれば、少なくとも倭国の中では『遣隋使のおかげで倭国は隋と対等な関係を結ぶことができた!』ってことになる。

2回目の失敗は絶対に許されない以上、今私にできる最善は国書を隠蔽することだ!

もぐたろう
もぐたろう

そして、小野妹子のナイス配慮を理解した朝廷は、一度はルールに従い小野妹子を流罪としますが、流罪が解かれた後は、遣隋使派遣を成功に導いた成果として高い冠位を与えた・・・というわけです。(諸説あり。正確な事実はわかりません。)

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遣隋使派遣は成功したのか?

『煬帝を怒らせたから遣隋使派遣は失敗した!』と言われることもありますが、一定の成果はしっかりと収めていました。

まず1つに『隋の政治・文化を学び、倭国に取り入れる』というのはかなりの成果を収めました。

というのも、遣隋使派遣に同行した高向玄理・南淵請安・旻らはその後、多くの知見を倭国に持ち帰って、国政に大きく活かされることになるからです。

南淵請安は、乙巳の変を起こした中臣鎌足・中大兄皇子に、さまざまな知識を与えたといわれています。

さらに高向玄理・旻は、乙巳の変の後、国博士くにはかせという役職に任じられ、その知識が国政に反映されるようになりました。

もう1つの『隋との対等外交』も、次の2つの理由で最低限の成果は収めることができました。

隋は高句麗と戦争中で、倭国に対して無下な対応をできなかったこと

隋から『倭国との対等外交は拒否する!』との公式回答がなかったこと(返書を紛失して回答を揉み消した説あり)

小野妹子が大出世を遂げていることからも、朝廷が遣隋使の成果を失敗とは考えていなかったことが予想できます。

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遣隋使から遣唐使へ

3回目の遣隋使派遣が行われることはありませんでした。

なぜなら、618年に隋は滅亡してしまうからです。

隋は、先ほど紹介した高句麗との戦いよって隋は国力を消耗したことで滅亡し、新たに唐が建国されまいs田。

そして新たに唐が建国されると、「遣隋使」→「遣唐使」と名前を変え、倭国は中国との外交を続けることになります。

もぐたろう
もぐたろう

遣隋使は、100年以上途切れていた中国との外交を再開させ、しかもその外交は894年の遣唐使廃止まで約300年続くことになったんだ。

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確認問題

答:誤り

日本は、新羅・百済・高句麗との外交を有利に進めるため、隋と対等な関係を結ぼうと考えて遣隋使を派遣しましたが、その結果、煬帝を怒らせてしまいました。

答:①高向玄理

玄昉げんぼうと③吉備真備は、奈良時代に遣唐使に同行し、活躍した人物です。

コメント

  1. サマセット より:

    はじめまして。
    私は塾で講師をしておるものです。このたび苦手な社会を指導することになり、必死に勉強していてこのサイトを見つけました。
    まだ古代の日本の箇所しか読んでいませんが、歴史の流れや外交関係そしてそれらの動機がとてもわかりやすく書かれており、大変ためになっています。生徒にもこのページを紹介して、見るように言おうとおもっているほどです。
    これからも楽しみにしております。

    また、ごあいさつついでに、一点誤字らしきものを見つけてのでご報告しておきます。

    「遣隋使の目的・内容は?」のページの「聖徳太子の巧みな外交術」の項で、「4段落の4行目」に「遣との対等外交を実現する!」とあります。
    これは「隋との」ではないかと思われます。
    お時間があればご確認ください。

    それでは失礼いたします。

    • もぐたろうmogutaro より:

      お返事遅くなりました。
      最初に、ご指摘ありがとうございます。修正させていただきました。

      日本の歴史を少しでも多くの方に知っていただきたいと思い、このブログを運営しておりますので、
      そう言っていただけるととても励みになります。

      お子さんに歴史を教えるのはとても難しそうですね。(私自身、学生の頃は日本史は嫌いでした)。
      本業がありますので即答できるかはわかりませんが、何かご相談等ございましたらコメントを頂けたらなと思います。
      古代〜室町時代に関することであれば、お力になれるかもしません。