山背大兄王を年表・系図付でわかりやすく紹介するよ【蘇我入鹿による上宮王家襲撃事件から乙巳の変へ・・・】

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もぐたろう
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今回は、聖徳太子の息子である山背大兄王やましろのおおえのおうについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 山背大兄王ってどんな人なの?
  • なぜ蘇我蝦夷に滅ぼされてしまったの?
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山背大兄王ってどんな人?

山背大兄王は飛鳥時代の600年代前半(7世紀前半)に活躍した人物。聖徳太子の息子で、将来は次期天皇として期待される存在でした。

628年、推古天皇が亡くなると、次の天皇候補として山背大兄王の名前が挙がります。

当時、天皇候補になるための条件は大きく2つありました。

天皇候補になるための条件
  • 条件1:天皇家の血を引いていること
  • 条件2:権力者の支持を受けていること。(当時の権力者は蘇我蝦夷そがのえみし

この条件に当てはめていくと、実は天皇候補となる人物が2人いました。

それが山背大兄王と、田村皇子たむらのみこ(後の舒明天皇じょめいてんのう)と呼ばれる人物でした。

※聖徳太子ではなくその息子が候補になt他のは、聖徳太子が622年にすでに亡くなっていたからです。

下に系図を用意してみたので、この2人の天皇家との関係を確認しておきます。

系図を見てみると、

山背大兄王は用明天皇ようめいてんのう

田村皇子(舒明天皇)は敏達天皇びだつてんのう

の血筋を引いていることがわかります。これで2人とも条件1はクリア。

さらに、山背大兄王も田村皇子も蘇我蝦夷との関係は比較的良好でした。2人とも条件2もクリアしています。

しかし、最終的に蘇我蝦夷が支持を決めたのは、田村皇子でした。

蘇我蝦夷がなぜ田村皇子を選んだのかは、実ははっきりとわかっていません。

・人望厚かった山背大兄王よりも、田村皇子の方が蘇我氏の言うことを聞いてくれるから

・山背大兄王を支持していた勢力が危険だったから

・山背大兄王が年齢的に若くて未熟だったから

・蘇我氏の血を引く山背大兄王が即位すると、蘇我氏に反対する勢力と戦争になりそうだから

など理由には諸説あります。

いずれの理由であったとしても確実に言えるのは、山背大兄王は皇位継承争い敗れてしまったということです。

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終わらない皇位継承問題

舒明天皇の即位によって、皇位継承問題は終わったかに思えました。しかし、641年、再び皇位継承問題が浮上します。

なぜかと言うと、舒明天皇が崩御してしまったからです。

舒明天皇が崩御すると、ふたたび山背大兄王が次の天皇の有力候補に名を連ねました。

この時、候補に上がった人物は3人いたと言われています。

古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ

舒明天皇の長男。天皇家の血筋であり、蘇我氏の血も引いている。

中大兄皇子なかのおおえのみこ

舒明天皇の次男。蘇我氏の血は引いていないけど、父母ともに皇族で3人の中では最も高貴な血筋。ただ、当時はまだ若すぎたため天皇になれる期待は薄。

山背大兄王

聖徳太子の息子。天皇家の血筋であり、蘇我氏の血も引いている。

舒明天皇(田村皇子)に皇位継承争いで敗れた過去があるが、実力は未だに健在。

朝廷内では蘇我蝦夷を中心に、誰を次の天皇にするか様々な検討が行われました。

しかし、蘇我蝦夷は決断を下すことができません。そこで、642年、ひとまず舒明天皇の皇后が皇極天皇こうぎょくてんのうとして即位することになりました。

蘇我蝦夷
蘇我蝦夷

誰か1人を天皇に決めたら、皇位継承に敗れた2人を支援する人々が大暴れして、世が荒れそうだ。

とりあえず、つなぎ役として皇后こうごうに天皇になってもらって、次の天皇を誰にするかじっくりと考えよう・・・。

※皇后:天皇の正妻のこと

当時朝廷の権力者であった蘇我蝦夷は、政局を正確に見極める冷静さを持っていました。

悪く言えば優柔不断とも言えるかもしれませんが、いずれにしても、蘇我蝦夷が決断できないほどには、3者の争いが深刻化していたことがうかがえます。

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山背大兄王VS蘇我入鹿

しかし、643年、その蘇我蝦夷が政界から引退。政治を息子である蘇我入鹿に託してしまいます。

朝廷の実力者が蝦夷から入鹿へシフトすると、皇位継承のスタンスにも大きな変化が起こりました。

蘇我蝦夷が、『今天皇を決めると政局が不安定になるから、ひとまず皇極天皇を即位させて時間稼ぎをしよう!』という安全策を用いたのに対して、蘇我入鹿は『次の天皇は古人大兄皇子で決まり!対抗馬になりそうな山背大兄王は物理的に消し去る!』という、過激なゴリ押し戦法を採用することにしたのです。

そして、643年11月、蘇我入鹿は山背大兄王が住んでいた斑鳩宮いかるがみのや(今の法隆寺)に派兵。山背大兄王へ奇襲を仕掛けます。

聖徳太子の血を引く一族のことを上宮王家じょうぐうおうけと言うため、この記事ではこの事件のことを上宮王家襲撃事件と呼ぶことにします。

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上宮王家襲撃事件

奇襲を受けた山背大兄王はこれに応戦しますが、斑鳩宮はあくまで宮殿。城や砦のように、敵からの攻撃されても大丈夫なようにはできていません。

蘇我入鹿の兵に敵わない山背大兄王は、わずかな側近と家族とともに生駒山に逃げ込んで、体制の立て直しを図ります。

山背大兄王には、この苦境を挽回する方法が1つ、残されていました。その方法とは、『一度、奈良を離れて東国に向かい、そこで兵を集めて蘇我蝦夷に逆襲する!』という方法です。

側近の1人が、この案を山背大兄王に提案しましたが、山背大兄王は、こう言って東国に逃げる案を拒否したと言われています。

山背大兄王「確かに東国で体制を立て直せば、蘇我入鹿を倒せるだろう。しかし、それだと無関係な民たちを戦乱に巻き込むことになる。」

こうして抵抗を諦めた山背大兄王は、家族ととも自害。その生涯に幕を閉じました・・・。

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乙巳の変へ

蘇我入鹿による山背大兄王の襲撃は、多くの人々を恐怖に陥れます。と言うのも、この事件によって「蘇我入鹿に睨まれたら、何もしていなくても理不尽に殺されしまうかもしれない・・・」と多くの人たちが考えたからです。

特に危険を感じていたのは、中大兄皇子でした。蘇我入鹿が古人大兄皇子を即位させようとすれば、次に邪魔になるのは中大兄皇子です。

中大兄皇子
中大兄皇子

山背大兄王がやられたってことは、次に邪魔者として消されるのは私だろうな。

何もしないままやられるぐらいなら、いっそのこと蘇我入鹿に一矢報いてやろうか・・・。

入鹿が山背大兄王を討ったことを知った蝦夷は、蘇我氏とその反対勢力の対立が決定的なものになることを危惧し、息子を叱責したと言われています。

蘇我蝦夷
蘇我蝦夷

私は、慎重に慎重を重ね苦心の末に平和的に蘇我一族の支配を強めてきた。

それなのに、お前はそれを全てぶち壊し、無意味に敵を増やしてしまった。

これからは、お前の命も危うくなるぞ。

しかし、その後も蘇我入鹿は、豪華絢爛ごうかけんらんな家に住んだり、他の豪族を無視した独裁政治を行うなど、とにかく敵を増やすような行為を続けました。

そして645年、身の危険を感じていた中大兄皇子が、蘇我蝦夷・入鹿親子を討ち取るクーデターを決行。(乙巳の変

これが見事に成功し、蘇我蝦夷・入鹿は命を落とすことになりました。

山背大兄王は、皇位継承争いで2度も蘇我氏に敗れ、命を落としました。しかし、皮肉・・・なのかはわかりませんが、山背大兄王が討たれたことがきっかけとなり、蘇我氏の朝廷支配は終焉を迎えることになったのです。

もぐたろう
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見方によっては、死してなお、山背大兄王は蘇我入鹿に一矢を報いた・・・とも言えるかもしれないね。

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山背大兄王まとめ【年表・系図】

以上、山背大兄王についての紹介でした。

山背大兄王の生涯は、実は飛鳥時代の一大イベントである乙巳の変と深く関わっています。

教科書などでは、山背大兄王はわずかにしか登場しませんが、乙巳の変や飛鳥時代そのものをしっかり理解するためにも、山背大兄王がどんな人物なのか知っておくのがオススメだと個人的に思っています。

最後に、この記事の内容を時系列で簡単にまとめておきます↓

山背大兄王の生涯まとめ
  • 600年代初め
    山背大兄王、聖徳太子の息子として生まれる
  • 628年
    推古天皇が崩御して、皇位継承争いが起こる

    有力候補は、山背大兄王と田村皇子

  • 629年
    田村皇子が舒明天皇として即位。山背大兄王は皇位継承争いに敗れる
  • 641年
    舒明天皇が崩御して、再び皇位継承争いが起こる

    有力候補は、古人大兄皇子・中大兄皇子・山背大兄王

  • 642年
    女帝の皇極天皇が即位

    権力者だった蘇我蝦夷は、皇位をめぐる争いが激化していることを危惧。争いを落ち着かせるため、ひとまず、舒明天皇の皇后だった皇極天皇を即位させて時間を稼ぐことに・・・。

  • 643年
    山背大兄王、蘇我入鹿に討ち取られる。

    蘇我蝦夷が政界を引退し、息子の入鹿に跡を託す。

    すると入鹿は、古人大兄皇子を支援することを表明。入鹿は父のような平和的な解決は望まず、邪魔者となる山背大兄王の邸宅(斑鳩宮)に攻め込み、これを亡き者にしてしまった・・・。

系図も再掲しておきます。
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もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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