

今回は四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「攘夷の急先鋒・長州藩」というと、ものすごく強そうなイメージがありますよね。でも実は——その長州藩が、たった4日間の戦いで壊滅的な大敗を喫したことがあるのです。
1864年8月、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が、軍艦17隻で長州藩の下関砲台を一斉に攻撃。長州藩はわずか数日で全砲台を失い、占領され、巨額の賠償金まで請求されてしまいました。
ところが、面白いのはここから。この大敗こそが、長州藩を「攘夷から倒幕へ」と決定的に方向転換させ、明治維新を引き寄せる起爆剤になったのです。この記事では、なぜ事件が起きたのか・どんな戦闘だったのか・その後の歴史にどうつながったのかを、テストに出るポイントもおさえながら、ゼロからわかりやすく解説します。
四国艦隊下関砲撃事件とは?
- 1864年8月5〜8日、英・米・仏・蘭の四国連合艦隊17隻が長州藩の下関砲台を攻撃した事件
- 長州藩は砲台を占領されて大敗。賠償金300万ドルを課せられた(最終的に幕府が肩代わり)
- この大敗が長州藩の「攘夷から倒幕へ」の路線転換を決定づけ、明治維新の引き金となった
四国艦隊下関砲撃事件は、1864年(元治元年)8月5日から8日にかけて起こった、幕末日本最大級の対外戦争です。関門海峡を挟んで本州の南端にある下関(現在の山口県下関市)で、長州藩と欧米4カ国の連合艦隊が激突しました。
事件には「下関戦争」「四国連合艦隊下関砲撃事件」「四カ国艦隊下関砲撃事件」などの別名・表記ゆれがありますが、いずれも同じ出来事を指しています。教科書(山川『詳説日本史』)では「四国艦隊下関砲撃事件」という名称で記載されることが多いので、テストではこの呼び方を覚えておけばOKです。
■ 「四国連合艦隊」の4カ国はどこ?
「四国艦隊」「四国連合艦隊」の「四国」は、日本の四国地方のことではありません。4つの「国」、つまり以下の4カ国の連合艦隊を意味します。
合計17隻、艦載砲288門、上陸部隊約2,000名という、当時の極東で考えられる最大級の軍事力です。これに対して長州藩の砲台は旧式の青銅砲が中心で、勝負になる戦力差ではありませんでした。

「四国」って聞くと愛媛・香川・徳島・高知の四国地方を思い浮かべるけど、ここでの「四国」は「4つの国(4カ国)」って意味なんだ。テストでも「四国連合艦隊の四国はどこ?」って聞かれることがあるから、「英・米・仏・蘭」のセットでしっかり覚えておいてね!
■ 事件の日付と場所
日時と場所をはっきり押さえておきましょう。
| 事件名 | 四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争・四国連合艦隊下関砲撃事件) |
| 日時 | 1864年8月5日〜8日(元治元年7月4〜7日) |
| 場所 | 下関海峡(関門海峡)/長州藩・下関砲台一帯(現・山口県下関市) |
| 戦った勢力 | 長州藩 vs 英・米・仏・蘭の四国連合艦隊 |
| 結果 | 長州藩の大敗。下関砲台占領・賠償金300万ドル請求 |
なお、事件の前年(1863年5〜7月)にも長州藩は外国船と戦っており、こちらは「第1次下関事件」と呼ばれます。1864年の四国艦隊下関砲撃事件は「第2次下関事件」に当たります。両者をあわせて「下関戦争」と総称することもあります。
なぜ下関砲撃事件は起きたのか?(原因)
事件のキーワードは、ずばり「攘夷」です。攘夷とは、ひと言でいうと「外国人を日本から追い払え!」という考え方のこと。なぜこの考えから、長州藩が外国船を砲撃するという過激な行動に出たのか、順番に見ていきます。

■ 背景①:開国への反発と「攘夷論」の高まり
事の発端は、1858年に幕府が結んだ安政の五カ国条約(日米修好通商条約など)にさかのぼります。この条約で日本は強制的に開国させられ、しかも関税自主権がない・領事裁判権を認めるといった不平等な内容を押しつけられました。
「天皇の許可なく結ばれた屈辱的な条約だ」「外国人をのさばらせるな」——こうした不満が爆発し、尊王攘夷(天皇を尊び、外国を追い払う)の思想が燃え上がります。特に長州藩は、吉田松陰の松下村塾を通じて若い志士たちに攘夷思想が浸透しており、藩を挙げて「攘夷の急先鋒」となっていきました。
■ 背景②:孝明天皇の攘夷勅命と「5月10日」の約束
ターニングポイントは1863年(文久3年)。京都の朝廷で、攘夷を強く望む孝明天皇が、14代将軍・徳川家茂に対して「いつまでに外国人を追い払うのか、期限を示せ」と迫ったのです。
本音では攘夷など不可能とわかっていた幕府でしたが、朝廷の圧力に押し切られ、ついに「1863年5月10日を攘夷決行の期限とする」と全国の諸藩に通達してしまいます。「とりあえずその場をしのげればいい」という幕府のごまかしでしたが——長州藩はこれを本気で受け取ったのです。

長州藩って、そんなに外国を追い払いたかったの?なんでそこまで本気だったの?

長州藩には吉田松陰の松下村塾出身の若い志士がいっぱいいて、みんな「攘夷こそ正義!」って燃えてたんだ。特に久坂玄瑞は松陰の一番弟子で、「幕府が動かないなら俺たちがやる」って先頭に立ったんだよ。

幕府が約束を破って攘夷をやらないなら、長州が代わりに「日本人の意地」を見せてやる!外国船を一隻でも沈めて、攘夷の口火を切るのだ!
■ 1863年5月10日:長州藩、外国船を砲撃(第1次下関事件)
そして約束の日、1863年5月10日——下関海峡を通過していたアメリカ商船ペンブローク号に向けて、長州藩は突如として砲台から砲撃を開始しました。これが下関戦争(第1次下関事件)の幕開けです。
続けて23日にはフランス通報艦キャンシャン号、26日にはオランダ軍艦メデューサ号も砲撃。長州藩は「攘夷期限を守ったのは長州だけ」と全国に誇示しました。ただ、当然ながら欧米諸国が黙っているはずもありません。
💡 エピソード:「前触れなき砲撃」に世界が震撼
ペンブローク号の船長は横浜のアメリカ領事館に「突然、陸から大砲が放たれた。なぜ撃たれたのかまったく分からなかった」と報告しました。この報告は瞬く間に欧米各国の外交官の間で共有され、「日本の一藩に欧米が一致して報復する」という機運を一気に高めることになります。

■ アメリカ・フランスの報復砲撃
長州藩の砲撃から約3週間後、アメリカ軍艦ワイオミング号が報復に来航し、下関沖で長州藩の軍艦3隻を撃沈・大破させました(1863年6月1日)。さらに4日後、フランス艦隊も下関砲台に上陸して大砲を破壊し、火薬庫を爆破します。

これだけ痛い目にあえば普通は懲りるものですが、長州藩は引き下がりませんでした。砲台を急いで修復し、下関海峡を通る外国船にひたすら砲撃を続けたのです。1年以上にわたって海峡が事実上「封鎖」されたことで、貿易ルートを断たれた欧米諸国の怒りはついに頂点に達します。
■ 四国連合艦隊の結成と「20日以内通告」
痺れを切らしたのが、当時の英国公使オールコックでした。彼は「長州藩を単独でなく、4カ国で一気に叩く」という大胆な作戦を立案します。これが四国連合艦隊の結成です。

長州藩には「外国の力」を骨身に思い知らせる必要がある。英・米・仏・蘭で連合艦隊を組み、20日以内に攘夷を中止しなければ、下関を一斉に攻撃する——そう幕府に通告せよ!
1864年7月22日、幕府には「20日以内に長州藩の攘夷をやめさせろ。できなければ我々4カ国で攻撃する」という最後通牒が突きつけられました。幕府は長州にどうにか自重するよう促しましたが、長州藩は耳を貸さず——8月5日、ついに四国連合艦隊が下関に姿を現します。
💡 「なぜ4カ国なのか」:英・米・仏・蘭は、いずれも長州藩から砲撃を受けた当事者です。それぞれ単独で報復するより、連合してまとめて叩いたほうが効率的で、しかもイギリス主導で「欧米列強の力」を見せつけることができる——これがオールコックの狙いでした。
四国艦隊下関砲撃事件の経過(1864年8月5〜8日)
1864年8月5日、いよいよ戦闘の火蓋が切られます。攻める四国連合艦隊は17隻・艦載砲288門・上陸部隊約2,000名。守る長州藩は下関沿岸に8つの砲台・約2,000名の藩兵。数字だけ見ると五分五分に思えますが、実態は「近代戦艦 vs 旧式砲台」という絶望的な戦力差でした。

■ 1日目(8月5日):艦砲射撃で前田・壇ノ浦砲台を制圧
8月5日午後4時すぎ、英・仏・蘭の戦艦が一斉に砲撃を開始しました。狙いは長州藩の主力砲台、前田砲台と壇ノ浦砲台。長州側もすぐに応戦しますが、艦砲射撃の威力と射程はまるで違います。
夕方には前田・壇ノ浦両砲台はほぼ沈黙。さらに連合軍は上陸部隊を送り、砲台を占領して大砲を破壊・接収しました。長州藩兵は刀や火縄銃で勇敢に抵抗しましたが、装備の差は埋めようがありませんでした。
■ 2〜3日目(8月6〜7日):残りの砲台も次々に陥落
6日・7日は天候の影響もあり戦闘は一時的に小休止しますが、8日には連合艦隊が最後の難敵彦島砲台に襲いかかります。彦島は下関海峡を見下ろす最強の要塞でしたが、ここも艦砲射撃で破壊され、上陸部隊が大砲を持ち去りました。

わずか4日間で長州藩は8つの砲台すべてを失い、奪われた大砲は実に60門以上。戦死者は長州側18名(諸説あり)、連合軍側12名。死傷者数こそ多くないものの、長州藩は完全に戦闘能力を失いました。

💡 戦力差メモ:四国連合艦隊は蒸気軍艦中心・艦載砲288門・上陸部隊約2,000名。一方の長州藩砲台は青銅製の旧式砲が中心で、射程・命中精度・破壊力すべてで連合艦隊に圧倒された。ヨーロッパでは産業革命を経て鉄製大砲・蒸気船が標準装備となっており、日本の砲台は実質「江戸時代の城壁」レベルだった。

長州藩ってそんなに弱かったの?武士の刀や鉄砲じゃ全然太刀打ちできなかったの?

そうなんだ。考えてみてほしいんだけど、船からどんどん大砲を撃ち込まれたら、武士の刀なんて全く意味ないでしょ?相手の射程外から一方的に砲弾を浴びせられる感じ。例えるなら「ボクシングのリングに、ボクサーじゃない一般人がライフルを持った狙撃手と一緒に上げられる」みたいなもの。技術差ってそれくらい残酷なんだよ。
下関砲台の占領と講和(高杉晋作・宍戸刑馬の交渉)
砲台を一つ残らず奪われた長州藩は、もはや戦闘継続不可能。8月8日、ついに講和(停戦交渉)を申し出ます。この交渉に長州藩の代表として乗り込んだのが、後に「奇兵隊の創設者」として有名になる高杉晋作です。

■ なぜ「宍戸刑馬」という偽名だったのか
このとき、高杉晋作は「宍戸刑馬(ししど ぎょうま)」という偽名を使って交渉に臨みました。宍戸家とは長州藩の家老(藩のNo.2クラスの重臣)の家柄。つまり高杉晋作は「長州藩の最高幹部・宍戸家の家老の養子」と自称して、4カ国の艦隊司令官たちと対面したのです。
偽名を使った理由には諸説ありますが、有力なのは次の2つです。
- 身分の格上げ:当時の高杉はまだ若い藩士で、欧米の艦隊司令官たちと対等に渡り合うには地位が低すぎた。家老の名代として登場することで「同格の交渉相手」と認めさせた
- 責任の分散:もし交渉が決裂したり、講和条件で藩が大損したりした場合、本物の高杉に責任が及ばないようにするため

確かに長州は負けた。しかし、土下座して詫びる気はない。下関海峡は長州藩のものであり、勝手な砲撃には今後も対抗する権利がある——堂々と、対等に交渉してやろうじゃないか。
■ 「傲然たる態度」で交渉した高杉の覚悟
負けた側の交渉とは思えないほど、高杉晋作の態度は「傲然(ごうぜん)たる」ものだったと記録されています。彼は艦上で連合艦隊側から賠償金や領土割譲(彦島の租借)を要求されても、領土の話には一切応じませんでした。
とくに有名なのが彦島租借(しゃくしゃく)拒否のエピソードです。連合艦隊は「下関海峡の安全確保のため彦島を貸せ」と迫りましたが、高杉は「日本は神功皇后の時代から続く神聖な土地で、一寸たりとも他国に貸す道理はない」と、神話まで持ち出して延々と演説。結局、連合艦隊側は租借要求を取り下げました。
この交渉のおかげで、後の「香港のような植民地化」を回避できたと評価する歴史家もいます。負け戦の中で、長州藩は最低限の主権を守りきったのです。
💡 エピソード:「神功皇后の時代から」演説
彦島租借を強く迫られた高杉晋作は、いきなり日本の古代史を語り始めたと伝わります。「我が国は神功皇后の御代より外国に一寸の土地も渡したことがない。彦島とてその例外ではない」——神話の時代から説き起こしたその演説は、英国側の通訳すら追いつけないほどの熱弁だったといいます。結果、連合艦隊側は租借要求を引き下げ、長州の「主権」は守られました。
■ 講和の内容(休戦条件)
最終的に合意された講和の主な内容は次の通りです。

戦に負けてからの交渉って、普通はもっと弱腰になるもの。それを高杉晋作は「神話の時代から日本の土地は神聖だ!」って熱弁して、彦島を取られずに済ませちゃった。これがなかったら下関は香港みたいに外国の植民地になってたかもしれない——って、けっこう大事件なんだよね。
下関砲撃事件の結果・影響(賠償金・改税約書)
講和後、長州藩には賠償金300万ドルという途方もない請求書が突きつけられました。当時の貨幣価値で幕府の年間収入の約4割に相当する超巨額です。長州藩単独ではとうてい払えるはずもなく、ここから問題は幕府を巻き込んだ国際交渉に発展していきます。
■ 賠償金300万ドルは誰が払ったのか
連合艦隊は「砲撃の責任は長州藩だけでなく、攘夷の期限を約束した幕府にもある」と主張し、賠償金の支払いを幕府に要求しました。財政難に苦しむ幕府はあらゆる手段で支払いを引き延ばそうとしますが、最終的には次の方法で決着します。
- 幕府が肩代わりして分割払い(150万ドルを支払った時点で明治維新を迎え、残り150万ドルは明治新政府が引き継いだ)
- 賠償金を減額する代わりに、別の譲歩(=改税約書)を引き出された
■ 改税約書(1866年)と関税自主権の喪失
賠償金問題を片付けるため、幕府は1866年に英・米・仏・蘭の4カ国と改税約書(江戸協約)を締結しました。この協定は表向き「賠償金の減額」と引き換えに結ばれましたが、その中身は日本にとって極めて不利なものでした。
- 輸入関税を一律「従価5%」に引き下げ(それまでは品目ごとに最大35%だった)
- 関税自主権をさらに失う形となり、安政の不平等条約を一段と悪化させた
- 結果として日本市場が外国製品で溢れ、国内産業に打撃。明治維新後の不平等条約改正運動の遠因となる

改税約書を今でいうと「関税の大バーゲンセール協定」みたいなもの。輸入関税を最大35%から一気に5%まで下げたから、外国製品が安く日本にどんどん入ってくるようになった。テストでは「改税約書=関税率5%への引き下げ=関税自主権の喪失をさらに進めた」のセットで覚えておくと点数につながるよ!
■ 幕府が肩代わりした「3つの理由」
そもそもなぜ、幕府は長州藩の尻拭いをする形で賠償金を肩代わりしたのでしょうか。背景には3つの事情があります。
- ① 攘夷期限を約束した責任:そもそも1863年5月10日の攘夷期限を朝廷と約束したのは幕府。「期限を約束した側に責任がある」と4カ国に追及された
- ② 全国統治者としての建前:「長州は私たちの管轄外」とは言えなかった。鎖国を解いて開国した責任主体としての立場上、幕府が表に出るしかなかった
- ③ 長州藩の反幕府感情を抑える狙い:これ以上長州を追い詰めれば、倒幕運動が激化する。賠償金を肩代わりすることで、長州藩を懐柔する意図もあった(が、結果的には失敗)
■ 1883年——アメリカが賠償金を返還した「後日談」
賠償金300万ドルには、実は意外な後日談があります。1883年(明治16年)、アメリカが受け取った賠償金の自国分(約78万5,000ドル)を、利息分も含めて日本に返還したのです。
これはアメリカ国内で「もともと損害を受けたわけでもないのに、こんな大金を受け取るのは不当だ」という良識ある議論が起こり、議会で返還法案が可決されたためでした。返還金は日本政府によって横浜港の整備など、開港地のインフラ建設に充てられたと伝えられています。
💡 豆知識:4カ国のうち、賠償金を返したのはアメリカだけ。英・仏・蘭は返還せず、明治政府は残額をきっちり完済しました。アメリカの返還は1883年(明治16年)のことで、すでに明治新政府の時代だったため「下関戦争のお金が明治政府の手に戻る」という、ちょっと不思議な巡り合わせとなりました。
長州藩への影響と倒幕への転換
たった4日間で壊滅的な大敗を喫した長州藩。しかし——この敗北こそが、その後の歴史を大きく動かす「攘夷から倒幕へ」という180度の路線転換を生み出します。負けたからこそ見えた現実、負けたからこそ生まれた新しい軍隊。長州藩は燃えカスの中から、まったく別の姿に生まれ変わっていきました。
■ 「攘夷は無理だ」——現実を突きつけられた長州
下関戦争の敗戦は、長州藩の指導者たちに残酷な現実を突きつけました。「気合と精神論で外国を追い払う」という攘夷思想は、四国連合艦隊の鉄製大砲の前で完全に粉砕されたのです。
この時、藩内で大きな影響力を発揮したのが、戦争の直前にイギリス留学から帰国した伊藤博文と井上馨でした。2人は1863年にロンドンに渡り、欧米列強の圧倒的な国力を肌で体感していました。砲撃事件の報を聞いて急ぎ帰国した伊藤・井上は、藩主・藩士たちを必死で説得します。

ロンドンで見たイギリスの軍艦は、こちらの想像をはるかに超える化け物だった……。欧米と戦っても絶対に勝てない。今すぐ攘夷をやめなければ、長州は本当に滅ぼされてしまう!
伊藤・井上の説得は、砲撃事件の前には急進派から「腰抜けだ」と一蹴されていました。しかし戦争が終わったとき——長州藩の指導者たちは、ようやく2人の言葉の重みを理解したのです。「敵を知らずに戦った結果がこれだ」という痛恨の自覚は、藩政の方向性を根本から変えていきます。
■ 奇兵隊の強化と高杉晋作の台頭

下関戦争の最中、高杉晋作はすでに奇兵隊という新しい部隊を組織していました(結成は1863年)。奇兵隊の最大の特徴は「武士だけでなく、農民・町人・力士など身分を問わずに志願者を募った」こと。これは260年以上続いた幕藩体制の身分制を真っ向から否定する革命的な軍制でした。
砲撃事件の敗戦後、奇兵隊は「欧米の近代軍に対抗できる新しい軍隊」として大幅に強化されます。装備は欧米から購入した最新ライフル銃に切り替えられ、訓練もフランス式・イギリス式の近代戦術が導入されました。

敗戦は悔しい。だが、悔しがって終わりじゃ意味がない。欧米に勝つには、欧米から学ぶしかない。武士だろうが農民だろうが、銃を撃てて敵を倒せる者が「兵」だ——これからの戦は、そういう時代になる。
1864年12月、高杉晋作は「功山寺挙兵(こうざんじきょへい)」というクーデターを起こし、藩内の保守派(俗論派)を打倒。長州藩の実権を奇兵隊・諸隊が中心となる倒幕派に握らせます。下関戦争の敗北からわずか4ヶ月後の出来事でした。
■ 薩長同盟への布石——「同じ痛みを知る者」同士の接近
もう一つ忘れてはいけないのが、薩英戦争(1863年8月)で敗北した薩摩藩との「敵同士の接近」です。薩摩も生麦事件の報復としてイギリス艦隊から鹿児島を砲撃され、近代兵器の前に手も足も出ませんでした。
長州と薩摩は、もともと京都の政局で激しく対立する仇敵同士。しかし——同じく欧米列強に大敗し、同じく「攘夷は無理」と悟った2藩には、共通の課題が生まれていました。「もはや幕府には日本を守る力がない。自分たちで新しい国を作るしかない」という認識です。
下関戦争の翌1865年、坂本龍馬らの仲介によって両藩は急速に接近。1866年1月には薩長同盟が成立し、倒幕への流れが一気に動き出します。そして1867年の大政奉還、1868年の戊辰戦争を経て、明治維新が実現していくのです。

つまり長州藩は、下関戦争で負けたから明治維新を起こせたってこと?

ザックリ言うとそのとおり!もし下関戦争で勝っていたら、長州はずっと「攘夷でなんとかなる」と信じ続けて、結局欧米に滅ぼされていたかも。「負けたからこそ、現実を見られた」っていう、すごく皮肉な転換点だったんだよ。歴史って勝った方が偉いとは限らないんだよね。
高杉晋作が拒否した「彦島の租借要求」がもし通っていたら——下関海峡はイギリスの軍事拠点となり、日本は香港のように「玄関口を外国に押さえられた国」になっていた可能性があります。中国がアヘン戦争(1840〜42年)後に香港島を割譲したのと同じ構図です。
そうなれば、日本の独立は大きく揺らぎ、明治維新後の近代化路線もまったく違うものになっていたでしょう。「神功皇后の時代から……」と神話を持ち出した高杉の演説は、ただの強がりではなく、日本の独立を救った歴史的な交渉だった——とも言えるのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「薩英戦争(1863年)→四国艦隊下関砲撃事件(1864年)→薩長同盟(1866年)→明治維新(1868年)」のセットで流れを押さえる。共通テスト・論述では「攘夷から倒幕への路線転換のきっかけになった理由」が頻出。改税約書は「関税率5%」「関税自主権の喪失をさらに進めた」のセットで覚えること。第1次下関事件(1863年)と第2次(1864年・四国艦隊)の混同に注意。
| 事件名 | 年 | 当事藩 | 相手 | 結果・影響 |
|---|---|---|---|---|
| 生麦事件 | 1862年 | 薩摩藩 | イギリス(民間人殺傷) | 薩英戦争の引き金 |
| 薩英戦争 | 1863年8月 | 薩摩藩 | イギリス艦隊 | 薩摩が近代化路線に転換 |
| 四国艦隊下関砲撃事件 | 1864年8月 | 長州藩 | 英・米・仏・蘭の4カ国 | 長州が倒幕路線に転換/改税約書 |

テスト直前なんだけど、絶対に外せないのはどのポイント?

最低限これだけは覚えて!「1864年・四国(英米仏蘭)・下関砲台占領・賠償金300万ドル・改税約書・奇兵隊・倒幕転換」の7つ。これを「いやむし(1864)よっつ(4カ国)で下関ぶっ飛ばす」みたいに語呂で覚えてもいいし、薩英戦争(1863年)とセットで「年号1個ずらすだけ」って覚えるのもおすすめだよ!
下関砲撃事件・幕末をもっと深く知りたい人へ

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よくある質問(FAQ)
A. 1864年8月5〜8日、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が、長州藩の下関砲台を攻撃して制圧した事件です。「下関戦争」「第2次下関事件」とも呼ばれます。長州藩は大敗を喫して賠償金300万ドルを課せられ、その後「攘夷から倒幕」へと路線を大きく転換しました。
A. 1863年3月に孝明天皇が幕府に「攘夷実行」を命じ、幕府が5月10日を攘夷期限として朝廷に約束したためです。当時、長州藩は攘夷急進派の中心で、「幕府が攘夷をやらないなら長州がやる」と独断で下関海峡を通過する外国船(米・仏・蘭)を砲撃しました。これが翌年の四国艦隊による報復攻撃を招くことになります。
A. 基本的に同じ出来事を指す別称です。「四国艦隊下関砲撃事件」が学術・教科書的な正式名称で、「下関戦争」はより一般的・通称的な呼び名です。広義には1863年の第1次下関事件と1864年の第2次(四国艦隊)をまとめて「下関戦争」と呼ぶこともあります。試験では「四国艦隊下関砲撃事件」と書く方が無難です。
A. 高杉晋作は「宍戸刑馬」という偽名(家老・宍戸家の名代という設定)で四国連合艦隊との講和交渉に臨みました。負け戦であるにもかかわらず傲然たる態度で交渉し、連合艦隊側の彦島租借(領土割譲)要求を「日本は神功皇后の時代から続く神聖な土地」と神話まで持ち出して拒絶。結果的に下関の植民地化を回避した功績で知られます。
A. 長州藩単独では支払い不可能なため、幕府が肩代わりして分割で支払いました。1866年には4カ国と改税約書(関税率を一律5%に引き下げる協定)を結び、賠償金問題を決着させています。なお、1883年(明治16年)にアメリカは自国分(約78万5,000ドル)を利息込みで日本に返還しました。英・仏・蘭は返還していません。
A. 長州藩を「攘夷」から「倒幕」へと路線転換させ、明治維新の起爆剤となりました。敗戦の教訓から欧米式の近代軍制(奇兵隊の強化)が導入され、薩英戦争で同じく敗北した薩摩藩との接近が進みました。これが1866年の薩長同盟、1867年の大政奉還、1868年の明治維新へとつながっていきます。
まとめ
最後に、四国艦隊下関砲撃事件の要点をまとめておきます。
- 1858年日米修好通商条約(安政の五カ国条約)締結
- 1863年3月孝明天皇が幕府に攘夷実行を命令(攘夷の勅命)
- 1863年5月10日長州藩が下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃(第1次下関事件の始まり)
- 1863年5〜7月米艦・仏艦が下関砲台を報復攻撃(第1次下関事件)
- 1863年8月薩英戦争(薩摩藩 vs イギリス艦隊)
- 1864年7月禁門の変。長州藩が京都で敗退し朝敵となる
- 1864年8月5〜8日四国艦隊下関砲撃事件(第2次下関事件)。四国連合艦隊17隻が下関砲台を砲撃・占領
- 1864年8月高杉晋作(宍戸刑馬名義)が講和交渉。彦島租借要求を拒否
- 1864年〜第1次長州征討。幕府軍が長州藩を屈服させる
- 1864年12月高杉晋作の功山寺挙兵。長州藩の実権が倒幕派に移る
- 1866年改税約書締結(輸入関税率を一律5%に引き下げ)
- 1866年1月薩長同盟成立(坂本龍馬らが仲介)
- 1868年明治維新・戊辰戦争
- 1883年アメリカが賠償金分(約78万5,000ドル)を利息込みで日本に返還

以上、四国艦隊下関砲撃事件のまとめでした!下の記事で幕末の他の出来事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「下関戦争」「四国艦隊下関砲撃事件」(2026年5月確認)
コトバンク「四国艦隊下関砲撃事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「改税約書」「奇兵隊」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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