明徳の乱(1391年)とは?なぜ起きたか・山名氏清・足利義満をわかりやすく解説

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明徳の乱

もぐたろう
もぐたろう

今回は1391年に起きた明徳の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「山名氏の反乱」と思われがちだけど、実は裏には足利義満の巧妙な罠があったんだ。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 明徳の乱とは何か(1391年に起きた事件の概要)
  • 山名氏「六分の一殿」の実態(なぜ幕府の脅威になったのか)
  • 明徳の乱はなぜ起きたのか(足利義満の謀略と山名氏の内紛)
  • 明徳の乱の経過と結果(奉公衆の活躍・山名氏の激減)
  • 応永の乱・南北朝統一との関係(明徳の乱がその後の歴史に与えた影響)

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明徳の乱とは?(1391年)

実は、明徳の乱めいとくのらん山名氏清やまなうじきよが自発的に起こした反乱ではなく、足利義満あしかがよしみつが仕掛けた巧妙な罠だったといわれています。教科書では「山名氏の反乱を幕府が鎮圧した事件」と書かれることが多いのですが、実際は義満が山名一族の内紛をあえて煽り、開戦に追い込んだ陰謀劇でした。

この戦いに敗れた山名氏は、全国11カ国の守護職を3カ国にまで減らされ、室町幕府にとって最大の脅威が一気に取り除かれることになります。義満の中央集権化政策を理解するうえで欠かせない事件です。

3行でわかる明徳の乱
  • いつ・誰が:1391年(明徳2年)12月、足利義満が山名氏清・山名満幸を討伐した戦い
  • なぜ起きた:義満が山名一族の内紛を意図的に煽り、開戦に追い込んだ謀略劇
  • 結果:山名氏の守護国が11カ国から3カ国に激減し、幕府の権力が一気に強まった

明徳の乱は、1391年12月30日(明徳2年12月30日)足利義満あしかがよしみつ率いる幕府軍と山名氏清・山名満幸ら山名一族との間で京都市内を戦場として行われた合戦です。戦いはわずか1日で決着がつき、山名氏清は内野(現在の京都御所の西側)で奉公衆との激戦の末に討ち死にしました。

この戦いに勝利した義満は、山名氏の所領を大胆に削減し、山名宗全が応仁の乱で活躍するまで、山名氏は二度と全盛期の勢力を取り戻せませんでした。明徳の乱は単なる合戦ではなく、義満による守護大名の力を削ぐための「政治的事件」だったと位置づけられています。

あゆみ
あゆみ

山名氏清って、どんな人なんですか?名前だけは聞いたことあるんですけど…。

もぐたろう
もぐたろう

山名氏清は、室町時代の超大物の守護大名なんだ。山名一族の中心人物で、全国60カ国のうち11カ国の守護を山名一族で独占していて、「六分の一殿(六分一殿)」って呼ばれてたんだよ!今でいうと「全国の都道府県の6分の1を1つの一族が支配している」みたいなイメージかな。

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山名氏はなぜ「六分の一殿」と呼ばれたのか?

山名氏は、もともと上野国(現在の群馬県)を本拠とする清和源氏(新田氏)の流れをくむ一族でした。南北朝の動乱期に足利尊氏方として活躍し、各地の守護職を次々と獲得していきます。3代将軍・足利義満の時代には、但馬・因幡・伯耆・出雲・隠岐・丹波・丹後・美作・備後・和泉・紀伊11カ国の守護を山名一族で独占するまでに成長しました。

当時の日本は全国66カ国に分かれており、そのうち約6分の1にあたる11カ国を山名一族が押さえていたことから、人々は山名氏のことを六分の一殿(または「六分一殿」)と呼びました。これは「全国の6分の1を支配する大殿様」という意味で、山名氏のとてつもない勢力を端的に表す呼び名です。

山名氏清自身も、丹波・和泉・紀伊などの守護を兼ねる山名一族の中心人物でした。一族の総帥的存在として、義満にとっては「最も警戒すべき守護大名」だったのです。

📌 守護大名(しゅごだいみょう)とは:南北朝〜室町時代に、もとは将軍が任命する「守護」だった武家が、自分の領国を私領化していった存在のこと。鎌倉時代の守護は警察的役割が中心だったのに対し、室町時代の守護は「半済令」などで領内の年貢の半分を取る権利を得て、戦国大名の前身的な存在へと発展していきます。

山名氏清
山名氏清

六分の一殿と呼ばれた山名一族の威光、若造の義満ごときに屈するわけにはいかぬ。我ら山名は、足利幕府を支えてきた功臣ぞ。

ゆうき
ゆうき

全国66カ国の6分の1って…相当ヤバくない?幕府より強かったんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

そうそう、まさにそれが義満の悩みだったんだよ!将軍といっても、室町幕府はまだ全国を完全には掌握しきれていなくて、守護大名たちが大きな顔をしてた時代。山名氏みたいな大物が一族でガッツリ結束していたら、いつ反乱を起こされてもおかしくないからね。義満からすれば「目の上のたんこぶ」だったんだ。

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明徳の乱はなぜ起きたのか?

明徳の乱が起きた根本的な理由は、足利義満が進めていた中央集権化政策と、山名氏の巨大すぎる勢力がぶつかったからです。義満は3代将軍として、それまで守護大名たちに分散していた力を将軍家に集中させようとしていました。

そのために義満が用いた手法は実に巧妙で、いきなり山名氏を攻めるのではなく、山名一族の内紛をあえて煽って自滅させるという戦略を取ります。「敵を直接潰さず、敵同士を争わせる」——これは中国の兵法でいう「以夷制夷」に近い手法でした。

足利義満の肖像画
足利義満(室町幕府3代将軍)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 山名氏の内紛と足利義満の謀略

山名一族には、当時すでに大きな内部対立がありました。当主であった山名時義やまなときよしが1389年に亡くなると、その後継ぎを巡って一族内に不満がくすぶります。具体的には、時義の子・山名時熙やまなときひろ山名氏之やまなうじゆきが一族内の主導権を握ろうとしたのに対し、山名氏清と山名満幸やまなみつゆきがこれに反発するという構図でした。

義満はこの対立を見逃しませんでした。1390年、義満は山名時熙・氏之を「不忠の振る舞いがある」として将軍命令で討伐させます。討伐の実行役を任されたのが、ほかでもない山名氏清・満幸だったのです。義満は「お前たち(氏清・満幸)に時熙・氏之を討たせる」という形で一族の分断を進めました。

ここで注目したいのは、義満がわずか19歳で将軍に就任したにもかかわらず、こうした高度な謀略を駆使できていた点です。義満の師ともいわれる細川頼之ほそかわよりゆき(管領として幼少期の義満を支えた人物)から受け継いだ政治センスが、ここで存分に発揮されたとも考えられます。山名氏を「一族同士で争わせる」という手法は、正面衝突を避けながら最大勢力を弱体化させる巧妙な戦略でした。

足利義満
足利義満

山名一族を直接攻めれば、こちらの被害も大きい。だが一族同士で潰し合えば、こちらは漁夫の利を得られる。氏清・満幸よ、お前たちに時熙・氏之の討伐を命じる——ふふ、これで山名は弱る一方だ。

■ 義満の挑発と山名満幸の決断

時熙・氏之を討伐した山名氏清・満幸は、一族内の支配権を強めたかに見えました。ところがここで義満は手のひらを返します。1391年、義満は突如として時熙・氏之を赦免し、京都に呼び戻したのです。そのうえで、満幸が任されていた仙洞御料せんとうごりょう(後醍醐天皇の旧荘園)の年貢を横領したことを口実に、満幸の出雲・隠岐の守護職を取り上げると命じます。

これは明らかな挑発でした。「ついこの前まで自分にやらせていた討伐を、突然なかったことにする」「正当な理由なく所領を取り上げる」——満幸からすれば、義満への怒りが爆発するのも当然です。氏清もまた、義満の意図をはっきり読み取っていました。「次に潰されるのは自分たちだ」——そう悟った氏清と満幸は、ついに挙兵を決断します。

あゆみ
あゆみ

義満って、相当したたかな人だったんですね…。挑発して開戦させたってことは、最初から戦争するつもりだったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

うん、これが義満流の政治なんだ!義満は「相手に先に手を出させて、こちらは正義の鎮圧者として動く」というのが大得意。明徳の乱だけじゃなくて、後の応永の乱(1399年・大内義弘討伐)でも同じやり方をしてるんだよ。「優しい顔して、実は超こわい人」、それが義満なんだ!

明徳の乱の経過と結果(1391年12月)

いつ:1391年12月30日(明徳2年12月30日) どこ:京都市内(内野・二条大宮など)

1391年12月、ついに山名氏清・満幸は挙兵します。氏清は和泉国・堺から、満幸は丹波国からそれぞれ軍勢を率いて京都に進軍しました。氏清軍は5000騎、満幸軍は3000騎ともいわれ、合計で約8000騎の山名軍が京都に押し寄せたとされています(『明徳記』)。

これに対して幕府軍は、義満が自ら指揮し、細川頼之ほそかわよりゆき畠山基国はたけやまもとくに・大内義弘・山名時熙ら諸将を集めて迎え撃ちました。戦場となったのは京都市中心部の内野うちの(現在の京都御所の西側、平安京の大内裏跡地)と二条大宮周辺です。戦闘はわずか1日で決着し、山名氏清は内野で奉公衆に討ち取られて戦死、山名満幸は丹波へ逃走しました(後に京都で誅殺・1395年)。

明徳記』(この乱を記した当時の軍記物語)によると、氏清は内野での激戦の中、幕府の奉公衆に包囲されてもなお退かず、最後まで奮戦して討ち取られたと記されています。かつて「六分の一殿」として天下に名を轟かせた男が、たった1日の戦いで京都の地に散った——その壮絶な最期は、後の室町時代の物語においても何度も語り継がれることになります。

■ 奉公衆の活躍

📌 奉公衆(ほうこうしゅう)とは:足利将軍直属の軍事集団。今でいう「将軍の親衛隊」。義満が守護大名に対抗するために強化した直轄軍のことで、5番に編成され、有事には真っ先に出陣しました。

明徳の乱で特に大きな働きをしたのが、義満直属の奉公衆でした。奉公衆は、足利将軍家が直接抱える「親衛隊」のような存在で、守護大名たちの軍勢には属しません。義満はこの奉公衆を整備・強化することで、守護大名に頼らず将軍が独自に動かせる軍事力を手に入れていました。

明徳の乱では、奉公衆が内野で山名氏清軍と正面から激突し、氏清を討ち取る決定的な戦果を挙げます。「将軍家の軍隊は弱い」という常識を覆したこの戦いは、奉公衆の存在価値を全国に知らしめる出来事にもなりました。義満の中央集権化政策が、軍事面でも実を結んだ瞬間だったのです。

■ 大内義弘の参戦と応永の乱への伏線

明徳の乱で幕府軍に味方し、大きな戦功を挙げたのが周防の守護大名・大内義弘おおうちよしひろでした。義弘は山名氏清の軍勢と戦って功績を上げ、戦後には和泉・紀伊の守護職を新たに与えられます。これは山名氏清が持っていた所領を引き継ぐ形で、義弘は一気に6カ国の守護を兼ねる大守護大名へと成長しました。

しかし、ここに義満の恐ろしさが潜んでいました。「山名氏を潰すために大内氏を厚遇する」→「次は大きくなりすぎた大内氏を潰す」という、まさに使い捨ての論理です。実際、明徳の乱からわずか8年後の1399年、義満は今度は大内義弘を討伐します。これが応永の乱です。明徳の乱は、応永の乱への伏線でもあったのです。

ゆうき
ゆうき

結局、山名氏ってこの戦いでどれぐらいダメージ受けたの?

もぐたろう
もぐたろう

めちゃくちゃ激減したよ。それまで11カ国を支配していた山名氏は、たった3カ国(但馬・因幡・伯耆)だけに減らされちゃったんだ。所領が4分の1以下!「六分の一殿」と呼ばれた栄光は完全に失われてしまった。テストでも「山名氏が11カ国→3カ国に減った」はよく問われるポイントだから、しっかり覚えておこう!

明徳の乱の後:山名氏のその後

明徳の乱に敗れた山名氏清は内野で討ち死にし、山名満幸は丹波へ逃走した後に京都で殺害されました(1395年・応永2年)。山名一族の所領は大幅に削減され、残されたのは但馬・因幡・伯耆の3カ国のみ。義満の謀略によって、「六分の一殿」と呼ばれた一族は一気にその栄光を失います。

ただし、山名氏が完全に滅亡したわけではありません。義満は、自分側に味方した山名時熙(時義の子)に但馬の守護職を継がせ、山名家の名跡そのものは存続させました。これは義満らしい「やりすぎない」さじ加減で、完全に潰してしまうと別の不満が爆発しかねないため、「適度に弱らせて温存する」という政治判断だったといえます。

📌 余談:明徳の乱で大きく勢力を削られた山名氏ですが、その後ゆっくりと勢力を回復し、約75年後の1467年に始まる応仁の乱では山名宗全(持豊)が西軍の総大将となります。再び「天下を二分する大物」として歴史の表舞台に返り咲くのです。

明徳の乱の後、山名一族の本流を継いだのは但馬を本拠とする山名時熙の家系でした。時熙の三男にあたるのが、応仁の乱で東軍・細川勝元と並ぶ西軍の総大将となった山名宗全(持豊)です。義満に潰されかけた山名氏が、約75年の時を経て再び日本の歴史を動かす中心人物を生み出すという、まさに「ドラマのような家の物語」がここにあります。

あゆみ
あゆみ

山名氏って、明徳の乱で大打撃を受けたのに、また応仁の乱で復活するんですね。家を残しておくって、すごく重要なんだなあ…。

もぐたろう
もぐたろう

そう、まさにそこが面白いところ!中世の日本では「家を残す」ことが何よりも大切だったんだ。たとえ一族の力が大きく削がれても、家名さえ続けば子孫が再び台頭できる。山名氏のしぶとさは、まさに中世武家社会の縮図とも言えるんだよね。明徳の乱→応仁の乱という流れで覚えると、室町時代の権力闘争がぐっと立体的に見えてくるよ!

明徳の乱と応永の乱・南北朝統一の関係

明徳の乱を語るうえで欠かせないのが、続けて起こる南北朝統一(1392年)応永の乱(1399年)との関係です。この3つの出来事は、たった8年のあいだに連続して起こり、いずれも足利義満の中央集権化政策の総仕上げとして位置づけられます。「明徳の乱→南北朝統一→応永の乱」という流れを押さえると、室町幕府がどのように全国支配を完成させていったかが一気に見えてきます。

まず、明徳の乱で最大勢力の山名氏を抑え込んだことで、義満は京都の周辺(畿内・山陰)を完全に幕府の支配下に置くことに成功しました。これによって翌1392年、南朝の後亀山天皇ごかめやまてんのうが北朝の後小松天皇ごこまつてんのうに三種の神器を譲り渡し、約60年続いた南北朝の動乱がついに終結します。山名氏を含む有力守護大名は南朝の残党と結びついて反幕府活動を続けていたため、山名氏討伐は南北朝統一への大きな布石となったのです。

明徳の乱(1391年):山名氏清(11カ国→3カ国)を討伐。畿内・山陰の幕府支配を強化

応永の乱(1399年):大内義弘(6カ国)を討伐。義満が最後の最大守護大名をも制圧

そして明徳の乱から8年後の1399年、義満は今度は明徳の乱で味方だった大内義弘を討伐します。これが応永の乱です。明徳の乱で山名氏を、応永の乱で大内氏を—つまり義満は「強くなりすぎた守護大名を順番に潰す」というやり方で、室町幕府の中央集権化を完成させていきました。明徳の乱は、その第一歩だったのです。

ゆうき
ゆうき

明徳の乱と応永の乱って、テストで一緒に出ることある?違いがごちゃごちゃになりそう…。

もぐたろう
もぐたろう

めっちゃテストに出るよ!覚え方はシンプルで「明徳=山名・応永=大内」だけ押さえればOK。さらに「どちらも義満が仕掛けて勝った戦い」と覚えれば、義満の中央集権化政策とセットでまとめて答えられる。「明徳の乱(1391)→南北朝統一(1392)→応永の乱(1399)」の流れは、年表問題でもよく出るから、3つセットで覚えておこう!

テストに出るポイント&覚え方

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 1391年:明徳の乱が起きた年。「明徳」は北朝の年号
  • 山名氏清:乱を起こした側の中心人物。山名氏の当主で「六分の一殿」と呼ばれた
  • 六分の一殿(六分の一衆):全国66カ国のうち11カ国を山名氏が支配したことから付いた異名
  • 足利義満:乱を仕掛けた将軍。中央集権化政策の一環として山名氏を討伐
  • 奉公衆:将軍直属の軍事集団。明徳の乱で活躍し、その存在感を示した
  • 結果:山名氏は11カ国→3カ国に激減(但馬・因幡・伯耆のみ残る)
  • 1392年の南北朝統一への布石となった事件

📌 比較問題対策:明徳の乱と応永の乱の違い
・明徳の乱(1391年)=義満 vs 山名氏清(11カ国の守護大名)
・応永の乱(1399年)=義満 vs 大内義弘(6カ国の守護大名)
👉 どちらも義満が「強すぎる守護大名」を順番に潰した事件。セットで覚えると年表問題に強くなります。

📌 1391年の覚え方(定番語呂)
一味悔い(1391)なし明徳の乱
👉 「一味(=山名一族)が悔いを残さず挙兵した明徳の乱」とイメージすると覚えやすいです。あわせて1392年(南北朝統一)もセットで覚えておきましょう。

ゆうき
ゆうき

テスト前に確認したい!明徳の乱で一番出やすいポイントってどこ?

もぐたろう
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大事なのは「1391年・山名氏清・六分の一殿・足利義満」の4点セット!ここを答えられれば基礎はOK。さらにレベルアップしたいなら「奉公衆の活躍」「11カ国→3カ国に激減」「翌1392年に南北朝統一」まで押さえよう。記述問題では「義満の中央集権化政策の一環として山名氏を討伐した」とまとめられれば満点だよ!

明徳の乱・室町幕府をもっと深く知りたい方へ

もぐたろう
もぐたろう

明徳の乱や足利義満についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①室町幕府と義満の全体像をつかみたいなら

②義満の人物像を一次史料から深掘りしたいなら

足利義満 公武に君臨した室町将軍

小川剛生 著|中央公論新社(中公新書)

よくある質問(FAQ)

1391年(明徳2年)12月に起きた、室町幕府3代将軍・足利義満と、有力守護大名・山名氏清との間の合戦です。山名氏が敗れ、11カ国あった所領が3カ国に激減し、室町幕府の中央集権化を大きく前進させた事件として知られます。

表向きは山名氏清・満幸の反乱ですが、実際は足利義満が山名氏の内紛を意図的に煽り、開戦に追い込んだ事件と考えられています。義満は将軍権力を強化するため、最大勢力だった山名氏を弱体化させる必要があり、内紛への介入と挑発によって意図的に乱を引き起こしたとされています。

1391年12月30日(明徳2年12月30日)に起きました。戦場は京都市中心部で、内野(現在の京都御所西側・平安京の大内裏跡)や二条大宮周辺が主戦場となりました。戦闘はわずか1日で決着しています。

明徳の乱の戦場である京都・内野で奉公衆に討ち取られ、戦死しました。共に挙兵した山名満幸は丹波へ逃走したものの、後に京都で誅殺されています(1395年・応永2年)。山名一族の所領は11カ国から3カ国(但馬・因幡・伯耆)に削減され、義満側に味方した山名時熙が但馬の守護として家名を継ぎました。

明徳の乱(1391年)は足利義満と山名氏清の合戦、応永の乱(1399年)は足利義満と大内義弘の合戦です。どちらも義満が強大化した守護大名を順番に討伐した事件で、目的は将軍権力の強化(中央集権化)です。明徳の乱で味方だった大内義弘が、応永の乱では討たれる側になる点も覚えておきましょう。

年号は「一味悔い(1391)なし明徳の乱」という語呂合わせが定番です。キーワードは「1391年・山名氏清・六分の一殿・足利義満」の4点セット。さらに翌1392年の南北朝統一とセットで覚えると、室町幕府の中央集権化の流れがまとめて押さえられます。

まとめ:明徳の乱(1391年)

明徳の乱のポイントまとめ
  • いつ:1391年(明徳2年)12月30日
  • 誰が:足利義満(幕府軍)vs 山名氏清・満幸(山名軍)
  • どこで:京都市中心部(内野・二条大宮周辺)
  • なぜ:足利義満が中央集権化のため、最大勢力の山名氏を意図的に挑発して討伐
  • 結果:山名氏は11カ国→3カ国に激減。氏清は戦死、満幸は後に誅殺
  • 意義:1392年南北朝統一の布石となり、1399年応永の乱へとつながる中央集権化政策の第一歩

明徳の乱 関連年表
  • 1368年
    足利義満、征夷大将軍となる
  • 1378年
    花の御所(室町幕府新邸)完成
  • 1391年12月
    明徳の乱勃発・山名氏清が敗死
  • 1392年
    南北朝統一(北朝・南朝が合一)

もぐたろう
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以上、明徳の乱のまとめでした!義満の天才的な謀略が光る事件だよね。下の記事で応永の乱・足利義満・山名宗全についてもあわせて読んでみてください!「明徳の乱→南北朝統一→応永の乱」の流れをセットで押さえると、室町幕府の中央集権化が一気に立体的に見えてくるよ!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia「明徳の乱」(2026年5月確認)
Wikipedia「山名氏清」「山名満幸」「足利義満」(2026年5月確認)
コトバンク「明徳の乱」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
ヒストリスト「明徳の乱」「山名氏清」(山川出版社オンライン辞典・2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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