

今回は、戦国時代の武将・斎藤利三について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!明智光秀の右腕として本能寺の変に深く関わり、のちに春日局の父にもなった、知られざる名将の生涯を一緒に追いかけていこう!
📚 この記事のレベル:高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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本能寺の変といえば、明智光秀が主君・織田信長を討った事件として知られています。「光秀が単独で決意した謀反」というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。
しかし、当時の公家・山科言経の日記『言経卿記』には、こんな衝撃的な記述があります——「今度謀反随一也(こんどのむほんのずいいちなり)」。現代語に訳すなら「今回の謀反のナンバー1(中心人物)」。この「随一」とはいったい誰のことを指しているのか。実は光秀本人ではなく、その筆頭家老だったのです。
その人物こそが、斎藤利三です。近年の研究では「本能寺の変の真の引き金を引いたのは、光秀の右腕・斎藤利三だった」とする見方が強まっています。利三に降りかかったある「政治的危機」が、光秀を謀反へと突き動かした原動力だったとも言われているのです。そして利三の処刑後に残された娘・お福は、のちに江戸幕府の中核を担う「春日局」になります。謀反人の娘が将軍の乳母に——これが斎藤利三という人物の、あまりに劇的な生涯です。
斎藤利三とは?
①斎藤利三は安土桃山時代の武将で、明智光秀の筆頭家老・丹波黒井城主(1万石)として活躍した。
②稲葉一鉄からの出奔が信長の激怒を招き、「四国問題」が本能寺の変の遠因となった中心人物とされる。
③処刑後、娘のお福(春日局)が徳川家光の乳母となり、謀反人の娘が江戸幕府の中枢を担うという皮肉な歴史を生んだ。

斎藤利三(生年不詳〜1582年)は、安土桃山時代に活躍した武将です。出身は美濃国(現在の岐阜県)とされ、斎藤氏の一族あるいは石谷氏の出身とも言われていますが、詳細な出自は諸説あります。
利三が歴史の表舞台に登場するのは、明智光秀の家臣として丹波国(現在の兵庫県・京都府の一部)の統治を担ってからです。光秀配下の武将の中でも筆頭格に位置する「筆頭家老」に就き、丹波黒井城主(1万石)として丹波統治の実権を握りました。後に史料に「今度謀反随一也」と記されるほど、当時から変の中心人物と認識されていた人物です。
そして利三には、もうひとつの顔があります。1582年に処刑された後、残された娘・お福が、のちに徳川家光の乳母として江戸幕府の中核を担う「春日局」になるのです。謀反人の父をもちながら幕府の頂点近くに立った娘の生き様は、斎藤利三という人物の物語のもうひとつの核心です。

斎藤利三って教科書にあんまり出てこないんだけど、本能寺の変や春日局とそんなに関係があるの?

教科書には直接出てきにくいけど、本能寺の変と春日局の両方をつなぐ超重要人物なんだよ!「なぜ光秀は謀反を起こしたのか?」を理解するのに、利三を知ることがカギになるんだ。
日本史の教科書では、本能寺の変は「明智光秀が起こした謀反」としてシンプルに記載されることが多いです。しかし実際の歴史はより複雑で、光秀ひとりの意思決定だけで実行できるような事件ではありませんでした。数万の軍勢を動かし、信長の動向を完璧に把握し、秘密裏に計画を進めるには、光秀の絶大な信頼を得た参謀——斎藤利三のような存在が不可欠だったのです。
明智光秀の家臣になるまでの道のり

■ 美濃国から始まった仕官の遍歴
斎藤利三の出自については諸説あります。美濃斎藤氏の一族(斎藤利賢の子とも)とされますが、石谷氏出身とする説もあり、確定していない部分が多くあります。若い頃の利三は、織田信長配下の武将・松山新介に仕えたのち、稲葉一鉄(稲葉良通)のもとへと移ります。
稲葉一鉄は、美濃三人衆の一人として知られた武将です。「いってつ(一徹)」という、頑固で意志が強いことを表す言葉の語源になったとも言われるほど、筋の通った生き方をした人物でした。利三はこの稲葉一鉄のもとで武将としての力量を磨いていきます。
■ 「転職トラブル」が歴史を動かす
ところが、ここで大きな事件が起きます。利三は何らかの理由で稲葉一鉄のもとを無断で去り、明智光秀のもとへと仕官したのです。この「出奔」——今でいう突然の無断転職——が、想像を絶する騒動に発展します。
激怒した稲葉一鉄は、主君・織田信長に「利三を返せ」と強く訴え出ます。信長もこれを無視できず、光秀を呼び出して厳しく叱責しました。史料によっては「信長が光秀の髻(まげの結び目)を掴んで地面に叩きつけた」とも伝えられています。武士にとって髻は名誉の象徴であり、それを掴まれるということは、公衆の面前で激しく辱められたことを意味しました。光秀にとって、これほど屈辱的な出来事はなかったはずです。

光秀様のもとで働きたかった……それだけのことだった。だが一鉄殿に無断で去ったことは、光秀様に多大な迷惑をかけてしまった。この恩は、命をかけて返さねばならぬ。

今でいう「引き抜き転職をしたら前の職場が大激怒して、転職先の上司まで怒られた」みたいな感じだね!しかもその「怒られた上司」が後に歴史的大事件を起こすんだから、本当に歴史はつながっているんだよなあ。

稲葉一鉄って「一徹」の語源の人なの?それはすごい!でも、なぜそんなに有名な武将のもとを利三は去ったの?

明確な理由は史料に残っていないんだけど、一鉄が頑固すぎて仕えにくかったのかも、という説もあるよ。それよりも、実力者・明智光秀のもとで活躍したいという強い意志があったのかもしれないね。利三にとって光秀は、自分の力を最大限に発揮できる主君だったんじゃないかな。
稲葉一鉄出奔の時期については1575年(天正3年)頃とする説が有力です。この出来事の後も利三は光秀のもとで着実に実力を発揮し続け、光秀の丹波平定の過程でその真価を示すことになります。信長に叱責された屈辱を光秀が忘れることはなかったでしょうが、利三もまた「自分が原因で主君に恥をかかせた」という重い負い目を抱えながら、忠義を尽くし続けていったのです。
明智光秀の筆頭家老として〜黒井城主の実力

■ 丹波黒井城主・1万石の重臣
稲葉一鉄出奔の騒動を乗り越えた利三は、光秀の筆頭家老として急速に頭角を現していきます。1579年(天正7年)頃、光秀が丹波国を平定すると、利三は丹波黒井城(くろいじょう)の城主に任じられます。知行(領地・禄)は1万石とされ、光秀の直臣団の中でも最上位に位置する厚遇でした。
光秀の「筆頭家老」とは、今でいう副社長のような役職です。光秀が出陣・外交・政務で多忙な中、利三はその片腕として実務を取り仕切りました。丹波統治においても、利三は光秀の意向を体現する実質的なリーダーとして機能していたと考えられます。
📍 黒井城(くろいじょう)とは?
現在の兵庫県丹波市春日町にある山城。標高356mの山頂に築かれた難攻不落の城で、「天嶮雄城(てんけんゆうじょう)」とも称された。戦国期には荻野直正が籠城した難攻不落の城として名高く、光秀がこの城を落とすのに苦労したことでも知られる。現在は城跡が整備されており、春には桜の名所としても人気が高い。

この丹波の山河を守り抜くこと、それが光秀様への忠義だ。1万石の知行をいただいた以上、この地を血一滴まで守る覚悟はできている。
■ 史料が証言する「謀反のナンバー1」
利三が光秀の変において単なる実行部隊ではなく、変の中心的な立案者・推進者だったことは、当時の史料からも読み取れます。公家・山科言経の日記『言経卿記』には、本能寺の変後に利三について「今度謀反随一也」(今回の謀反のナンバー1)と記されています。
これは当時の京都の人々が、本能寺の変を「明智光秀の謀反」であると同時に「斎藤利三が主導した謀反」として認識していたことを示す重要な史料です。光秀が公式な主君として処刑対象になった一方で、利三もまた「謀反の首謀者」として特別に名指しされていました。
利三が光秀の信頼を勝ち取った背景には、丹波平定における活躍があります。もともと丹波国は地侍や国人衆が入り乱れる難統治の地でした。利三は黒井城主として地域の武士たちをまとめ上げ、年貢の徴収・民政の安定・軍事拠点の整備を担いました。光秀が近畿各地を飛び回る中、丹波を安定させた利三の手腕は高く評価されていたとみられます。

「筆頭家老」って今でいうと何?光秀の部下の中でどのくらい偉いの?

光秀の部下の中で文句なしのナンバー2だよ。光秀が戦や外交で忙しいとき、利三が実務を仕切っていた。だから「謀反のナンバー1」と言われるほど、変の計画にも深く関わっていたんだね。
本能寺の変と斎藤利三

■ 四国問題——利三を窮地に追い込んだ政治的危機
なぜ利三が本能寺の変の「随一」と呼ばれたのか。その謎を解くカギが「四国問題」です。
利三の兄・石谷頼辰は石谷家に養子入りし、石谷光政の娘(長宗我部元親の妻の父にあたる石谷光政の一族)と縁戚関係を結んでいました。この縁から、利三は光秀とともに長宗我部氏への外交を担う窓口となっていたのです。長宗我部元親は、土佐(現在の高知県)から四国全土を統一しつつある大名で、当初は信長と友好関係にありました。
四国問題(しこくもんだい)とは、織田信長が四国の長宗我部元親に対する政策を「懐柔」から「武力征伐」に転換した問題です。もともと光秀と利三が仲介役となって元親と信長の関係を保ってきましたが、1582年頃に信長が方針を転換。元親への本格的な征伐軍を派遣する準備が進みます。
この転換によって、外交窓口だった利三の立場は完全に消滅しました。さらに利三自身も「元親の肩を持つ親族を抱える危険人物」として信長の目に映る可能性があり、信長の怒りの矛先が利三(ひいては光秀)に向く危険性がありました。利三にとって、これは「動かなければ自分も光秀も滅ぼされる」という絶体絶命の危機でした。

つまり、斎藤利三が窮地に陥ったせいで、光秀が謀反を起こす動機になった…ってこと?史料に「謀反随一」と書かれているのも納得だわ。

そう!「四国問題説」はまさにその視点だよ。利三の立場が危うくなる→利三が光秀に「今動かなければ我々は終わりだ」と訴える→光秀が決断する……という流れが成立するんだ。史料に「謀反随一也」と記されているのも、「利三こそが積極的に変を推し進めた」と当時の人が見ていた証拠かもしれないね。
■ 本能寺の変——先鋒として炎の中へ

もはや猶予はない。ここで動かなければ、光秀様も私も終わりだ。後悔はない。光秀様の覚悟が固まるまで、私が支え続けよう。
1582年(天正10年)6月2日未明——利三は光秀軍の先鋒として本能寺への急進を開始します。光秀が指揮する約1万3千の軍勢は、信長が京都・本能寺に宿泊しているという情報のもと、深夜に動き出しました。信長の周囲には護衛が少なく、気づいたときには四方を囲まれていたと伝わります。
利三は先鋒として本能寺への道を切り開き、その後の二条城攻めにも参加したとされています。信長の嫡男・信忠が立てこもる二条城を攻略し、本能寺の変は光秀軍の完全勝利で幕を閉じました。利三の軍事的な実力が、この夜存分に発揮された瞬間でもありました。
山崎の戦いと利三の最期
しかし、勝利の喜びは長くは続きませんでした。本能寺の変からわずか11日後——1582年6月13日、豊臣秀吉が中国地方から電光石火の速さで引き返し(「中国大返し」)、光秀軍と激突します。これが山崎の戦いです。
光秀は本能寺の変後、信長に仕えていた諸大名の支持を得ようとしますが、ほとんどの武将は秀吉側についてしまいます。山崎(現在の京都府大山崎町)の天王山を巡る攻防で、光秀軍は数的不利もあって壊滅的な敗北を喫しました。光秀は敗走中に農民に討たれ(落ち武者狩り)、その生涯を閉じます。
利三は一時逃亡を試みますが、まもなく近江国(現在の滋賀県)堅田で捕縛されます。京都へ護送された利三は、天正10年(1582年)6月17日(旧暦)、六条河原において斬首されました。享年については40代〜50代と諸説あります。
利三が処刑された六条河原には、後日、利三の娘・お福が父の首を引き取りに来たという逸話が伝わっています。謀反人の父の首を、幼い娘が自ら引き取りに来た——この場面は、後の春日局の強さと気概を象徴するエピソードとして語り継がれてきました。
「歴史のif」——もし利三が生き延びていたら?
山崎の戦いで光秀軍が勝利し、利三が生き延びていたら、江戸幕府は生まれなかったかもしれません。「謀反人の娘・春日局が将軍の乳母になる」という奇跡も起きなかったでしょう。利三の敗北と処刑こそが、その後の歴史の皮肉な連鎖を生んだのです。
利三の処刑は、本能寺の変からわずか数十日という短い期間のできごとでした。変の「謀反随一」と史料に記された人物が、これほど早く歴史の表舞台から退場したことは、戦国の世の無常を物語っています。一方で、利三が残したものはその死後も長く歴史に刻まれることになります。娘・お福の存在がそれです。

謀反人の首を娘が引き取りに来る……この場面だけでも胸が締め付けられるよね。そしてその娘・お福が、のちに徳川家光の乳母「春日局」として江戸幕府の中枢に立つ。歴史って本当に、予想もしない形でつながっていくんだよね。次の章では、利三の娘・春日局の生涯を見ていこう!
斎藤利三の子孫と春日局

■ 謀反人の娘として——父の処刑からの再起
利三の娘・お福は、天正7年(1579年)頃に生まれたとされています。父が六条河原で処刑された1582年(天正10年)、お福はまだ幼い少女でした。謀反人の娘というだけで肩身の狭い思いを強いられる時代に、お福は静かに、しかし確実に生き抜いていきます。
父の首を幼い娘が引き取りに来た——この逸話は、後世に春日局を語る者たちが繰り返し口にする場面です。処刑された謀反人の遺体を引き取ることは、それ自体が大きな危険を伴う行為でした。それでもお福は、父への義理を果たした。その一途な気概こそが、のちの春日局の原点だったのかもしれません。
その後、お福は武将・稲葉正成と結婚します。稲葉正成は、かつて父・利三が仕えた稲葉一鉄の親族にあたる人物でした。数奇な縁というほかありません。しかしこの結婚も後に破綻し(または別居となり)、お福は再び一人で人生を切り開くことを余儀なくされます。

謀反人の娘なのに、どうして将軍の乳母に取り立てられたの?普通ならそんな出自の人は遠ざけられそうだけど…。

江戸時代の初期って、実は能力主義の側面もあったんだよ!特に乳母の選定では、出自より人柄・教養・品格が重視された。お福の場合は、武家の礼法と高い教養を身につけていたことが評価されたんだ。「謀反人の娘」という過去より、「家光を支えられる人物かどうか」が判断基準だったんだね。
■ 春日局の大活躍——斎藤利三の「遺産」
お福が徳川家光の乳母に抜擢されたのは、慶長9年(1604年)頃のことです。当時、将軍・徳川秀忠の妻・江の方は、長男・家光よりも次男・国松(後の徳川忠長)を溺愛していました。家光はその影響から精神的に不安定な時期があったとも伝わります。
こうした逆境の中、お福は献身的に家光を支え続けました。その絆は深く、1629年(寛永6年)には後水尾天皇へ直接謁見し、朝廷から「春日局」の名号を賜りました。家光が三代将軍に就任したのは1623年(元和9年)のことですが、「春日局」の称号はその6年後、朝廷から授けられたものです。謀反人の娘から、将軍の乳母へ——この劇的な逆転が歴史に刻まれました。

春日局って乳母なのに、そんなに政治的な役割もあったの?どんなことをしたの?

すごく重要な役割を果たしたんだよ!乳母として家光を精神的に支えただけじゃなく、大御所・家康に直訴して家光を将軍の後継者に確定させた立役者でもあるんだ。さらに1629年には紫衣事件(天皇の紫衣授与に幕府が介入した問題)の渦中で後水尾天皇に直接謁見するなど、幕府と朝廷の間を縦横無尽に動いた人なんだよ。
春日局の活躍は乳母就任にとどまりません。1629年(寛永6年)には、将軍の意向を背景に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)へ直接謁見するという前例のない行動に出ました。これは紫衣事件——幕府が天皇の高僧への紫衣授与勅許に介入した問題——の複雑な政治状況の中で起きた出来事であり、春日局が幕府と朝廷の間でいかに大きな役割を担っていたかを物語っています。
春日局はさらに大奥の制度整備にも貢献し、江戸城の「大奥」という独特な空間の礎を築いた人物として評価されています。1643年(寛永20年)に没するまで、幕府の中枢で活躍し続けました。享年64歳(数え年では65歳)です。
利三の処刑(1582年)から春日局の死(1643年)まで——この約60年という時間の中で、斎藤家は「謀反人の一族」から「将軍家を支えた家族」へと、歴史の中での位置を塗り替えていきました。本能寺の変の「謀反随一」と記された男が残したものは、敗北と処刑だけではなかったのです。

お福……父の代わりにその重みを背負わせてしまった。だが、お前ならきっと生き抜ける。父の分まで、力強く生きてくれ。

本能寺の変の「謀反随一」と記された男の娘が、のちに幕府の中核を担う。斎藤利三の生涯は、歴史の皮肉と人間ドラマが凝縮されているね!謀反人・利三の娘が将軍後継者の命運を握った——この歴史のうねりを知ると、戦国〜江戸初期がグッと立体的に見えてくるんだよね。
春日局(お福)の最も劇的なエピソードが、将軍後継者問題への介入です。2代将軍・徳川秀忠の妻・江の方は、聡明で愛嬌のある次男・国松(後の徳川忠長)を溺愛し、「次の将軍は国松に」と推す声がありました。
危機感を抱いたお福は、秀忠の許しを得ずに大御所・徳川家康へ直訴するという前代未聞の行動に出ます。「家光こそが正嫡の将軍に相応しい」——この直訴が家康の心を動かし、長幼の序が守られて家光の世継ぎが確定しました。お福の行動がなければ、三代将軍・徳川家光は生まれなかったかもしれないのです。謀反人・利三の娘が、徳川の後継者を決定した——歴史の皮肉はここにも刻まれています。
斎藤利三についてもっと詳しく知りたい人へ
よくある質問(FAQ)
斎藤利三(さいとうとしみつ)は安土桃山時代の武将で、明智光秀の筆頭家老・丹波黒井城主(知行1万石)を務めた人物です。本能寺の変に先鋒として参加し、山崎の戦いの後に六条河原で処刑されました。当時の史料『言経卿記』に「今度謀反随一也(今回の謀反のナンバー1)」と記された人物であり、のちの春日局(お福)の父としても知られています。
主な要因は「四国問題」です。利三の一族(兄・石谷頼辰ら)は長宗我部元親と縁戚関係にあり、利三は光秀とともに長宗我部氏との外交窓口を担っていました。信長が四国政策を「懐柔」から「征伐」に転換すると、利三の立場は完全に失われ、さらに「元親の親族を持つ危険人物」として信長の怒りを買う危険性も生じました。この絶体絶命の窮地が本能寺の変の引き金の一つとなったと考えられています。史料から、利三が変を積極的に推し進めた人物と当時の人々に認識されていたことがわかります。
利三は光秀の筆頭家老(ナンバー2の側近)として、最も深い信任を受けた武将でした。利三が稲葉一鉄のもとを無断で去って光秀に仕えたことが信長の激怒を招き(光秀が髻を掴んで叱責されたとも伝わります)、それでも光秀は利三を側に置き続けました。丹波黒井城主として利三が示した実務能力と忠義が、光秀の信頼を勝ち取ったと考えられます。主従を超えた信頼関係があったとも言えるでしょう。
はい、本当です。利三の娘・お福(後の春日局)は、父の処刑後も生き延びました。稲葉正成と結婚した後、徳川家光の乳母として抜擢され、1629年(寛永6年)には後水尾天皇へ直接謁見し、朝廷から「春日局」の名号を賜りました。謀反人の娘が三代将軍の乳母となり幕府の中枢で活躍したという歴史の皮肉は、この時代の特徴を象徴するエピソードです。
詳細な理由は史料に残っていませんが、利三には実力者・明智光秀のもとで自らの能力を最大限に発揮したいという強い意志があったと考えられています。稲葉一鉄は「一徹(いってつ)」という言葉の語源になったほど頑固な人物で、仕えにくさがあったとも言われます。いずれにせよ、この出奔が信長の激怒を招き(光秀が叱責されたとも伝わります)、本能寺の変へとつながる遠因の一つになりました。
1582年(天正10年)6月13日の山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉軍に敗北した後、利三は一時逃亡を試みましたが、まもなく近江国(現在の滋賀県)堅田(かたた)で捕縛されました。その後、京都へ護送され、六条河原において斬首されました。享年については40代〜50代と諸説あります。処刑後、娘のお福(後の春日局)が父の首を引き取りに来たという逸話が語り継がれています。
「真の首謀者」とまで断言するのは難しいですが、当時の史料『言経卿記』に「今度謀反随一也(今回の謀反のナンバー1)」と記されているように、当時の人々が利三を変の中心人物と認識していたことは確かです。四国問題で窮地に立たされた利三が、光秀に謀反を積極的に働きかけた可能性は十分にあります。ただし、最終的な決断を下したのは光秀であり、利三の関与の程度については研究者の間でも諸説あります。「利三こそが変の実質的な推進者」という見方は、近年の研究でも注目されています。
まとめ
- 生年不詳(1534年頃とも)美濃国に生まれる(斎藤氏の一族)
- 1570年頃松山新介・稲葉一鉄(稲葉良通)に仕える
- 1575年頃稲葉一鉄を出奔し明智光秀に仕える(信長が激怒・光秀を叱責)
- 1579年頃丹波黒井城主に任じられる(知行1万石・筆頭家老として信任を得る)
- 1582年6月2日本能寺の変(先鋒として参加・二条城攻めにも関与)
- 1582年6月13日山崎の戦いで明智軍敗北
- 1582年6月17日(天正10年)近江堅田で捕縛・六条河原で斬首・娘お福(後の春日局)が父の首を引き取る

以上、斎藤利三のまとめでした!「光秀の右腕・本能寺の変の引き金・春日局の父」という三点セットを押さえると、戦国〜江戸初期の歴史がぐっと立体的に見えてくるよ。下の記事で明智光秀や春日局についてもあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「斎藤利三」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「春日局」(2026年7月確認)
コトバンク「斎藤利三」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
桐野作人『明智光秀と斎藤利三』宝島社新書(2020年)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




